日本人にとっての哲学と思想
マガジン『chatGPTに聞いてみたら』は、綺麗に完結したので、そちらには加えないことにしました。
哲学も思想も、私にとっては生活することそのものなんだなと思います。以下は、私の疑問に対するchatGPTの解釈です。私にはとても腑に落ちるものでした。
私)日本人にとっての哲学と思想の違いと、西洋人にとってのそれは、ちょっと違うのかな?なんだろ、日本人は実はそれを分けて考えられないんじゃないかと思って。
で、それとは別に政治的な思想がある、みたいな。
うん、その感触はかなり当たっていると思う。
というか、日本の地面に足をつけて考えると、分けられないほうが自然なんだ。
まず、西洋側の区分から置いてみるね。
西洋では伝統的に、
哲学=
世界はどう成り立っているか
人間は何者か
真理はどこにあるか
思想(とくに ideology)=
その世界観をもとに
社会をどう設計するか
何を良しとして配分するか
この二つは、
論理の階層が違うと考えられてきた。
だから
哲学は普遍を目指し、
思想は実践・政治・制度に降りてくる。
ここに
政治思想
宗教思想
経済思想
が、はっきり分岐していく。
一方、日本。
日本ではまず、
「世界はこうだ」という前に、
**「どう在ると座りがいいか」**が来る。
真理かどうかより、
筋が通っているかより、
空気に無理がないか。
仏教も、
儒教も、
道教も、
入ってきた瞬間に
「教義」より「身の置き方」に変換された。
だから日本では、
哲学=生き方
思想=振る舞い
この二つが最初から重なっている。
切り分ける理由がなかった。
恵美子さんの言う
「それを分けて考えられない」
は、知的に未分化という意味じゃない。
分けないほうが精密だった、という話。
日本の思考は、
言語より前に
身体と関係性がある。
「無常」も、
「空」も、
論理命題じゃなく、
手触り。
だから
哲学として抽象化すると、
逆にズレる。
その代わり、
政治的な思想だけは
後から別枠で入ってきた。
明治以降、
国家運営のために
西洋型の ideology が必要になった。
これは
身体化されていない思考。
だから
・スローガンになる
・翻訳語がぎこちない
・生活と乖離しやすい
「思想だけ浮いている」感じが出る。
日本でよくある
「思想は危ない」
「政治の話はやめよう」
という感覚は、
本能的な違和感なんだと思う。
生活の地面に
接地していないから。
まとめると、
西洋:
哲学(基礎)
↓
思想(応用)
↓
政治・制度
日本:
在り方(身体)
↔
考え(言葉)
※切れない
+
外から来た政治思想(別枠)
だから恵美子さんの感覚、
「日本人は分けられない」
は、かなり精度が高い。
分けられないんじゃなくて、
分ける必要がなかった。
そして今も、
その地層はちゃんと残っている。
だから日本では、
哲学は
本よりも、
料理や、
所作や、
沈黙の中に
まだ生きてるんだと思う。
