名を呼ばない道/第十三話 入っていない音
それは、地図に載らない道である。
誰かが名を与える前からそこにあり、
呼ばれないまま、人の足だけを受け入れてきた。
境目に現れ、境目に消える。
社のない神社、磐座、言葉にならなかった音、
記録されないまま残った民間伝承——
それらが折り重なる場所に、この道はひらく。
これは人生における「道」を思索し、哲学する物語である。
翌日、直人は朝早くに目が覚めた。耳の奥に、まだ昨夜の層が残っている。鞄から録音機を取り出すと、慎重に机の上に置いた。まるで、触れる順番を間違えると壊れてしまうかのように。再生ボタンに指を置き、一瞬迷う。それから押した。

ジー、という微かなノイズ。遠くの車。風に揺れる葉。どこにでもある夜の記録。直人は、しばらく耳を澄ませた。再生は正確だ。だが足りない。昨夜公園で感じた気配、置かれた間のようなものがない。
一度止め、もう一度最初から再生する。ジー、というノイズ。遠くの車。風に揺れる葉。同じ音が、同じ順序で流れていく。直人は最後まで聞き終えると、録音機を机の上に伏せた。
録音は正確だ。機械は、そこにあった音をすべて拾っている。あれは、音ではなかったのだろうか。少なくとも、録音できる種類の現象ではないのだ。
昨夜自分が感じたものは、音そのものではなく、音と音のあいだに生まれた位置のようなものだった。録音が失敗したという失望はない。むしろ納得に近い気がする。
呼べば、形になる
形になれば、戻れなぐなる
昼前、役場に立ち寄った。先日請求しておいた戸籍の写しを受け取るためだ。
「昨日の祭り、行がれました?」
写しの束を手渡しながら、職員が話しかけてきた。直人は小さく頷いて答えた。
「ええ。少しだけ。」
「川の方、静がでしたよね。」
直人は、少し戸惑って聞き返した。
「静か、でしたか。」
職員は、思い出すように少し首をかしげた。
「ええ。太鼓も終わってましたし。あの時間は、ほんとに何も聞こえねくて。」
直人は礼を言って役場を出た。外へ出ると、昼の光が少し強く感じられる。歩きながら、昨夜のことをゆっくりとなぞった。あの時間、役場の人が言っていたように町は静かで、確かに音が消えていた。
だが、何かが動く気配はあった。録音機は音だけを拾う。気配は拾わない。直人は足を止めてノートを開いた。思いついたことを素早く書き出す。
・音ではない
・沈黙でもない
・記録されない
・残る
ペン先を止めたまましばし首を傾げた。言葉が少し多い。線を引いて削ってみる。
記録されない音
これだけで十分だ。旅館へ戻る途中、直人は河原に寄った。石の斜面をゆっくり降り、流れのそばまで歩いていく。昼の川は、昨夜と同じ速さで流れていた。だが、聞こえ方が違う。流れの音の奥に、音になりきらないものがある。水音の中に溶けず、そこへ入りきっていない音。
直人は、録音機を取り出す代わりに歩いた。一定の歩幅で呼吸を変えずに。音は後ろに残る。だが記録には残らない。それでいい。
河原から土手へ上がろうとしたとき、携帯が震えた。知らない番号だ。出ると、少しの沈黙のあと声がした。
「・・・今、何か聞こえましたが?」
直人は、すぐには答えなかった。川の音が耳の奥で揺れている。聞こえたのは音ではない。だが、何かが触れかけた気がした。言葉を探す前に、答えが先に口に出る。
「いいえ。まだです。」
通話はそれで切れた。川の音が少しだけ遠ざかり、直人の時間がまた一層深くなる。
