分析哲学を用いて分析すれば例え話を理解出来ない人との断絶が可視化される
「語りえぬものについては沈黙しなければならない。」
ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインがその著書『論理哲学論考』の結びにおいて提示したこの著名な命題は言語の限界が世界の限界と完全に一致するという峻厳なる事実を冷徹に指し示す。日常言語というものは人類が抱く無邪気な期待に反して思考を透明に映し出す完璧な鏡などとして機能しない。それはむしろその不完全かつ曖昧な文法構造によって絶えず私達を底なしの論理的混乱へと誘い込む迷宮に等しい。言葉が持つ表面的な文法の響きに容易に幻惑されその深層に潜む真の論理形式を常に見失い続ける。私達分析哲学者の足場からこの世界を観察するならば巷で絶え間なく繰り返される不毛な論議の大部分は純粋な「言語の誤用」に還元される。
言葉の階層が乱れた世界はただの騒音の吹き溜まりに過ぎない。
ゴットロープ・フレーゲが心理主義を徹底的に排して純粋な論理の領域を確立しようと試みバートランド・ラッセルが論理的原子論によって世界を分割不能な事実の集積として記述しようとしたように私達は言語の明晰化こそが知性の唯一の正当な営みと信じて疑わない。周囲には論理階層を混同し命題の射程を誤認した言葉の残骸が散乱する。
「カラスは黒い」という発話に対する「アルビノの白いカラスも存在する」という典型的な反論について考察を進める。
これはまさしく論理形式の無理解が引き起こす致命的なカテゴリー・ミステイクと言えよう。フレーゲが『概念記法』序文で言語使用からほとんど不可避的に生じる概念関係についての誤解を暴き日常言語の表現手段が思考に負わせるものから思考を解放することを哲学の課題の一つとしたように彼は日常言語に潜む取り返しのつかない曖昧さを排除し関数と引数という数学的かつ厳密な構造を用いて命題を精緻に書き換える道を切り開いた。フレーゲの冷徹な視座を借りるならば「カラスは黒い」という日常言語の言明は単一の主語と述語を持つように見えるもののその論理的形式は決して全称命題たる「すべてのxについてxがカラスならばxは黒い」を意味しない。
この「カラスは黒い」という言明はむしろカラスという対象と黒いという性質の間の総称的な関係性を示す特定の言語ゲームの規則として機能する。ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインが後期哲学において提唱した「言語ゲーム」の概念に従えば言葉の意味とはその言葉の『使用法』に他ならない。総称文としての使用法を意図された命題に対して一つの経験的かつ例外的な事実を強引にぶつける行為はチェスの対局中に物理的な駒の材質の優劣を語り出すようなものと言える。反論の形式が元の命題の論理階層と全く噛み合っていない。全称命題と総称文の論理的境界線を読み違えた者は自らがどのような論理空間において反証を試みているのかすら自覚を持たない。彼らは言語の表面に現れた単語の響きに条件反射し自らの経験界に存在する一羽の白いカラスという「対象」を無造作に投げつける。例外を提示して全称命題を偽としたところで傾向命題の真理値には何ら影響を及ぼさないという初歩的な事実を見落とす。
「傾向」に対する経験的な一例による反論もまた存在論的な階層の混同という同じ病理に由来する。
ウィラード・ヴァン・オーマン・クワインが「経験論のふたつのドグマ」において「私達のいわゆる知識や信念の全体は経験の周縁に沿ってのみ経験と接触する人工の構築物」と喝破したように私達の知識の全体は外的世界と接する巨大な信念の網の目を形成する。この全体論の観点からすれば「AにはBという傾向がある」という命題は単一の経験的事実と一対一で対応して真理値が確定するような孤立した原子命題ではない。それは集団の分布や確率というより高い抽象度で網の目の中に位置づけられる高度に構築された理論的言明に相当する。
それにもかかわらず「私の知人のAさんはBではない」と無邪気に主張する者は網の目の中心にある抽象的な確率命題に対して周縁の取るに足らない一つの感覚与件を直接ぶつけて論破したと思い込む。これはマクロな熱力学の法則に対して一つの分子の不規則な動きを観測して物理学の崩壊を宣言するに等しい。確率についての言明を古い実証主義者が夢見たような二値的な真偽判断へと無理矢理に押し込める思考の硬直化は事象の論理的階層を弁えぬ者の悲しい特権と言えよう。元の論考が明確に指摘する通り個別例と傾向そして全称命題を決定的に混同する態度は自らの立脚する言語ゲームのルールを理解せぬまま盤面をひっくり返す野蛮な行為に等しい。例外一件では傾向を否定できず同時に単一の観測事実から傾向を捏造することも許されない。
さらに議論は例え話という類推が持つ複雑な構造へと深く進んでいく。
「旅行の予約で手数料の説明を読み飛ばして損をする」という例示に対して「私は旅行などしない」と答える者の心象風景はいかなる閉鎖的な論理空間に属するのか。J.L.オースティンは『言語と行為』において言葉が単に事実を記述するだけでなく現実の状況の中で遂行的な力を持つ事実を精緻に分析した。例え話を他者に対して提示する行為は「対象の物理的属性や個人的経験に注目せよ」という直接的な指示ではない。「事象の間に成立する論理的・構造的な同型性を抽出し全く別の事象へと写像せよ」という高度に遂行的な言語行為を構成する。具体的な事象から関係構造だけを抽出し抽象の階段を素早く駆け上がる。そこで初めて人間同士の知的な論理的会話が成立する。
しかし抽象化の階段を上れない者は旅行という単語の「内包」ではなく自らの狭小な生活圏に存在する旅行という「外延」にのみ意識を縛り付けられる。彼らは表面的な指示対象に固着し語と語の間に立ち現れる関係性を読み取る能力を欠落させている。「この具体例が表す一般構造」への軽やかな跳躍を拒絶しひたすらに「自分がその具体例に物理的に該当するか」という原子的な真理値判定の泥沼に引きこもる。類推という高度な言語ゲームにおいては送信者と受信者の双方が同じ論理的階層に立ち暗黙の規則を共有することが不可欠となる。この認識の欠如による断絶を指摘したブログの記事がある。
ここまでの話に強力な論理的かつ理論的な背骨を与えるのがフリン効果に関する卓越した論及と言える。
人類の知能指数が過去一世紀にわたり上昇し続けてきたという事実は人間の脳の物理的進化を意味するのではない。人間が日常的に参加を要求される言語ゲームの性質がより抽象的で論理的な方向へと根本的に変化した事実を示す。
ルドルフ・カルナップは科学の言語における論理的統辞論の重要性を説き経験を超えた抽象的な論理形式の操作がいかにして世界を合理的に記述するかを探求した。フリン効果が示す「仮定を真剣に受け止める」「分類する」「論理を用いて抽象概念を扱う」という三つの能力はまさに私達分析哲学者が言葉の論理的統辞論を扱う際に厳しく要求する能力そのものと言ってよい。
具体的な事物への執着から離れ純粋な論理形式の網の目へと飛翔する。
現代の知性とは抽象化という名の論理演算能力に他ならない。
仮定を現実への直接的な脅威とみなして激しく拒絶する者や対象を概念の階層構造の中で体系的に分類できない者は未だ日常言語の原初的で野蛮な使用法に留まり続けている。「もし肌の色が変わったら」という反実仮想空間の構築を拒絶し「ドイツにはラクダがいない」という論理的前提の受け入れを個人的経験の欠如を理由に拒否する態度は命題の真理値を現実との直接的な対応のみで決定づけようとする極めて素朴な対応説の限界を暴露する。


日常言語の罠に絡め取られ量化のすり替えを行い命題の強さを変造する行為は知性の敗北を意味する。

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