仏教:生まれ変わりに2種類ある
輪廻転生には2種類あります。
分段生死と変易生死です。
このことについてお釈迦様が語った内容が阿含経に残されているものの、現代日本では、輪廻転生に2種類あるという事自体が知られていません。
なぜ大事な事柄なのに日本で知られていないかというと、
大乗仏教が、阿含経で伝えられている大事な事柄のほとんどをスルーして自分勝手な新理論を展開するために創作されたものであるので、阿含経にかかれている輪廻転生の種類も一緒にスルーしたからです。
このnoteでは、理由とか経緯の話は脇において、
分段生死と変易生死の違いを、阿含宗開祖の解説を交えて説明します。
分断生死:普通の人の輪廻転生
普通の人、凡夫は六道輪廻の世界で生まれ変わりを繰り返しています。
悪因悪業・カルマが残った状態で死を迎えると、阿含宗開祖の言葉で言えば「斉の広場」、いわゆる三途の河原にたどり着き、残念ながら例外なく地獄経由で冥界へたどり着く。
そして、まだ残っている悪因悪業・カルマに適合する家庭の子供として再び生を受ける。阿含経では「複た胎を受ける」という表現がされていたりします。
この六道輪廻の世界で生死輪廻を繰り返すことを「分断生死」という。
つまり読者であるあなたの輪廻転生です。
変易生死:四沙門果の生まれ変わり
四沙門果というのは、正しく仏道修行をして悪因悪業・カルマの多くを断ち切り、さらに積徳を相当高いレベルまで行い、魂そのものが変質・進化して、六道輪廻の境界から脱出することが出来た人が到達する境界です。
自分は色々やったから、そういう境界に到達したと「思う」で辿り着く境界ではなく、神仏側からの査定が入って認められる境界です。
シュダオン→シダゴン→アナゴンという過程を経て、最終的にブッダになる。シュダオンにたどり着いたならば阿含経典では聖者の部類に入る。
そして、この四沙門果に到達した人の生まれ変わりは、六道輪廻の「輪廻」とは違う種類の生まれ変わりをする。「輪廻」という単語そのものが不正確で不適切な表現になります。
この四沙門果の聖者に到達した人の特殊な生まれ変わりのことを変易生死という。
高い霊眼を持って初めて理解できる変易生死
阿含宗開祖の言葉で変易生死を説明してもらいます。
変易生死という聖者の霊界における生死は、ひとつの段階を踏んでいく状態であるから、わたくしたちの概念でいえば、ひとつの修行をしているような状態である。しかし聖者の修行状態であるから、凡夫にはよくわからない。あなたも、聖者になって霊界に行けばわかるであろう。
辞書などで調べても、変易生死は聖者の生死であると書いてあるだけである。なかには、くわしいことはわからない、とさえ書いてあるものもある。分段生死は自分たちのことであるから、よくわかるわけであるが、変易生死はくわしく説かれていない。ずっと昔からそうなのである。
-- 略 --
聖者と凡夫では次元が違うのであるから、凡夫の世界には聖者の生死をはっきりと表現する言葉がない。それでも強いて、凡夫が理解できる言葉にあてはめるならば、修業によって霊的に上昇していく状態(生死)というしかないのである。シュダオンは人間界と霊界を往来するのであるから、あえて生死という言葉であらわしているのである。
なんらかの力が働いて、霊界の上の方に向かっていくような状態なのだそうです。
これは、ずっと昔から今に至るまでわからない、ということなので現代の仏教学者も当然わからない。ということは現代仏教学者も書籍に書けないということでしょう。
わたくしも変易生死、分段生死という言葉は阿含経で読んで、頭では理解していたのであるが、現実的なところは霊視能力を持って初めてわかった。それまでは阿含経を読んでもわからなかったのである。分段生死はわかっても、変易生死は理解できなかった。聖者の生死ということ以外は、まったくわからなかったのである。
わたくしは、
「聖者にも生死があるのだろうか?では、どのように生死を繰り返すのだろう?」
と考えて、どこまでも突き詰めていった。けっきょく、その解答は、霊視能力を持って初めて得ることができたのである。
人間の魂、霊体というのは、どこから来て、どこへ行くのか?
凡夫だけでなく四沙門果の聖者も含めて、それを見ることができる、そういう霊視能力を持たなければ理解できない世界。
だから、
輪廻転生には2種類あるということが、昔からわからない。
そして大乗仏教は四沙門果という概念そのものを捨てたので、四沙門果の生死を語る変易生死の存在すら知らない。
そういうことです。
関連する過去のnoteなど
シリーズものなので目を通してくれると嬉しいです
