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観劇メモ ウルトラソウルメイト

 20日はロロ「ウルトラソウルメイト」。アラフォーの自分にぶっ刺さる、平成レトロとノルタルジーとを詰め込んだような舞台だなと思っていたら、作った人が同い年だった。日本のスポーツ業界でたびたび露呈する「人権侵害」と、異国の紛争とがオーバーラップする。何かを求めて生きる時、多くの人は「奪われること」と無縁でいられない。それとどう向き合うのかを、そっと問いかけているようだった。
 物語の主眼は、主人公の苺辺祝祭(亀島一徳)と立町リリイ(篠崎大悟)、そして人によって見えたり見えなかったりする謎の存在「時計台」(大場みなみ)の成長や別れ。そしてそれを通じた、平成史のエキシビションだ。
 ユーゴスラビア紛争は、10代の頃にドキュメンタリーをたまたま見て、何となく知っていた。紛争というと、何となくアフリカや中東、南米辺りで起こっているイメージだったの。ヨーロッパで、しかも(当時の感覚で)ほぼ同時代にこんな残虐なことが行われていたのかと、ショックを受けたのを覚えている。
 物語の中では、リリイが進学した寮制の高校のサッカー部での「後輩指導」という人権侵害が、ユーゴスラビアで行われた「民族浄化」などと何となく重なってしまう。
 後輩をいびる遊愛(野口詩央)が、いびられる側のリリイや泡鍋花冠(門田宗大)に比べ小柄だ。最初は穏やかでどこか弱腰だった遊愛が徐々に横暴になっていく様子は、人が「上下関係」といった人間的で観念的な役割分担ヒエラルキーに縛られやすい生き物であることを強調しているようも思えた。(現実的な配役上の事情かもしれないが)
 それを受け入れ夢を叶えた泡鍋花冠(門田宗大)と、拒絶して夢を絶たれたリリイの対比は分かりやすく、それぞれの葛藤を追う眼差しは優しい。花冠が先輩になった時、彼がどう振る舞ったのかは描かれない。
 もっと幼い頃の、同級生の染川虹緒(新名基浩)との交流も印象的だ。
 ヒーローとその仲間は暗い過去を背負っていなければならない――。「厨二病」なんて言葉はなかったが、漫画やアニメを好きな子どもの間では、暗黙の共通感覚だった。自分の周りのアニメや漫画(特に少年漫画)好きな子は、自称含め、家庭に何かしら問題を抱えた子が多かった。
 ただ、アニメ・マンガ好きと言っても「ダークサイド」と「健全路線」のグループがあって、両者の間には何となく壁があった。
 そういった、一部の人にとっては恐らく「黒歴史」のど真ん中を、虹緒が無邪気にえぐってくる。
 物語の冒頭で、リリイが星座をサッカーに例えるシーンがある。これは祝祭にとっての灯台だ。夢破れたリリイの代わりのように、トラウマを克服して世界の灯台の写真を撮り集めた祝祭。写真家になることは叶わなかったが、「世界の灯台の写真を撮る」という夢は叶えた。
 物語でははっきりと語られないが、思い返せば「ゆとり世代」ど真ん中の我々は、「夢や理想を持ち、それを叶えなければならない」といった暗黙のプレッシャーを感じていたような気もする。
 同年代の恐らく女の子が少年漫画家デビューしたり、芥川賞を受賞したり、オリンピックなどスポーツかいわいでも同年代が活躍。アイドル系ダンスグループのSPEEDメンバーや、モーニング娘。の辻&加護も同年代だ。とにかく同年代が表舞台に続々登場し、「ドリームラッシュ」とでもいうような空気感があった。
 バブルがはじけ、資本主義的な価値観だけではうまく行かない、つまり「人はパンのみに生きるにあらず」ということに気付き始めた時代だったのだろう。子どもの権利が世界的に叫ばれ始めた年代でもある。
 しかし、染み付いた資本主義からは抜け出せず、それどころか今、市場原理の外にあったはずの領域すら、それにがんじがらめになっている。
 夢破れ、自分を見失い、時計台が見えなくなったリリイだが、それでも時計台の存在を否定せず、周りの人々を頼りに捉えようとする姿はほほえましい。時計台は、そうした「夢・理想主義」と「資本(現物)主義」の間で揺れる人の心が生み出した存在なのかもしれない。
 祝祭もリリイも、互いに互いを失ったが、最後には取り戻した。
 そんな平成ノスタルジーを、パフィーの意味があるのかないのか分からない歌詞、ゆるーい歌声とメロディーが、そっと包み込んでくれる。この作品そのものが、この時代に生きた我々世代にとってのレクイエムだ。

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