【短編】青春の幻影
「花びらを追いかけてみない?」
少し前を歩いていた女の子がクルリと振り返り、制服のスカートをフワリと膨らませてそう言った。
「?」
それは具体的にどういう……と言う前に、彼女は僕の目の前に来て左手を取り、
「ね!」
と告げて歩き出した。
こちらが思いもしない瞬間に、距離が近い。
いつもそうだ。演奏会後の打上げで、向かい合って座るのだと思っていたら不意に隣に座り、朗らかに笑っている。
彼女が殺し屋だったら、僕は呆気なく殺られている。殺し屋ではないけれど、やっぱり何度もやられている。
今もそうだ。
川沿いに続く桜はこれから満開に向かうところだから、川上に向かって吹く柔らかな風に舞う花びらはまだ多くない。
それに、桜色した蝶のように、いつまでも風に乗ってヒラヒラと飛んではいない。
「すぐに地面か川面に落ちてしまうよ?」
「そうしたら、また新しい花びら、桜の花びらを見つけて追いかけるの」
「ふうん」
こんな不思議ちゃんだったかな?
普段の彼女は、夏休みの課題の読書感想文で特賞を獲って、文集の巻頭を飾るような文学少女だ。
僕の左手は、まだ彼女の右手に取られたまま。
ま、いいさ。
不思議な遊びも、駅に向かうために川沿いの路を離れるまで、あと10分くらいだから。
花びらを、桜の花びらを追いかけてみない?か……
この子は、後輩たちから自身のイメージを“桜”に喩えられているのを知ってるのかな?
少し古風な、そして凛とした佇まいで楽器を奏でるコンサート・ミストレスで、先輩女子を花に例える後輩女子から満場一致で「桜一弦の明子先輩」と憧れられてることを。
それを後輩から聴かされた時は「その二つ名、何だよ?」と思ったし、“一弦”というのは、彼女が演奏に感情移入するあまり、その弦を切りやすく、一曲の間に2度、予備楽器に交換した“伝説”を指しているから、それも如何なものか、だ。
彼女が弦を切るのは、マンドリンという楽器の限界を超えて、感情を楽器に乗せて表現しようとするからだ。
だから美しく、時に儚い。それが“伝説”の真実なのに。
けれど、彼女を花に喩えるなら、やっぱりそれは“桜”だと、僕も思う。
花びらを追いかけていた僕の視線はいつの間にか、隣の彼女の笑顔を追っている。
練習場で後輩たちに見せる穏やかな笑顔とは少し違う、ふうわりと柔らかな笑顔。
春の夕陽を浴びて輝く表情。
今日は佳い日だな・・
花びらがひらり、ふうわりと舞い、それを追う彼女を見つめながら、
あぁ、これは夢だな……
と気づいていたが、覚醒に向かうことに抵抗し、目を閉じたままでいた。
あれは高三になる春休み、これが終われば部活は引退という定期演奏会の直前の練習の帰り道だった。
演奏会の後、僕らは受験生になり、違う大学で大学生になり、大人になった。
同級生で、同じ部活の友人であることを超えて近づいたこともあれば、彼女から、あるいは私からふっつりと連絡しなくなった時期もあった。
彼女が、私も知る同級生と婚約したと人づてに聞き、実際、その二人と向かい合わせで味も薫りもしないコーヒーを飲んだこともあったし、私が彼女とはまるで異なる女性に惹かれ、結婚を意識して長く付き合っていたこともあった。
結局、私は結婚へのあと一歩を踏み出すことができず、酷く苦い、そして無様な別れを経験した。
もう二度と他者を、しかも愛しいと感じることができた他者を巻き込み、苦しませることはしない、と決めて、音楽修行と車、それにバイク趣味で気ままに生きてきた。その中のいくつかは、本業の仕事に代わるビジネスにもなりつつある。
そんな生き方を羨ましいという友人も多いが、彼らは「嫁さんにも子供にも邪魔にされて、家に居場所がないよ」と愚痴りながら、家族を愛し、家族の待つ暖かな場所に帰る彼らこそ、私が望んで生きられなかった未来を生きていることを知らない。
目を閉じていても、自身の周囲が夜の静謐ではなく、朝の光と空気に包まれていくのを感じる。
「もう目覚めているの?」
間近に、その声を聴いた。
「佳い夢を観ていたんだ」
目を閉じたまま応えた。
「けど、その夢を観続けていたいと願っていたら、だんだん佳い夢から遠くなった」
そう告げて眼を開くと、望んでいた桜が柔らかに咲いていた。
「だったら、もう起きなさいな。貴方の寝顔を見ているのも、悪くはないけれど」
ベッドに腰かけ、片手をついて私に笑顔を向けながら、彼女はそう言った。
「花びらを追いかけていたんだ。桜の。君と二人で」
「それは夢なの?」
「今となっては夢みたいなものだと思う、けど……」
「けど?」
「結局、あれからずっと、僕は桜の花びらを追いかけていたような気がする。それで、ひどく人を傷つけてしまったこともあった」
「私も、そうね」
あの春からすれ違い続けた“時の環”が、今度は不思議な偶然が重なることで巡り逢い、二人とも、もう二度とすれ違いたくはないと願った。
同級生や先輩、後輩からは「永過ぎるにもほどがある春」「青春の幻影婚」と呆れられ、それでも祝福されて、新しい暮らし、新しい生き方が始まった。
私の額に置かれた手を取り、そうっと握った。
「憶えてる?あの日、桜の花びらを追いかけて、最初に貴方の左手を取ったのは私の方よ」
今度は私が彼女の右手を取り、追いかけ続けた桜を見つめた。
(了)
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