朝霧結びて、藍に染む
駅通りへ抜ける路地では、野良猫が一匹、北風と一緒に紙片を追い立てていた。煤けた庇のはずれに古びた看板がぶら下がり、掠れた二字の「藍染」だけが辛うじて読める。
格子戸を引くと、土と草に灰の湿りをまぜた匂いが胸へ降り、薄明りの行灯の下、奥の黒い甕がふうっと低く息をしていた。
帳場には、年の数えをやめて久しい、という顔の女店主。待ち合わせまでの時間、そのひと切れ使い、私は白い襟巻を差し出す。
「先日、色を落としてしまいまして」
店主は表情を変えずに、襟巻を指先で確かめる。
「どなたかに会いに向かわれる途上にございましょう。ならば浅き青より始めるがよろしい。藍は一度に成りません」
甕の縁に店主の指がかかる。藍は生きものですので、と前置きして、わたしにも息を合わせるようにと言う。
「吸うて、吐いて、三つ数えしのち上げる。空気に触れさせ、また潜らせる。重ねねば色は定まりません」
襟巻は木箸に巻かれ、藍へ沈む。水面の波紋が収まり、甕の中の暗さが、時間の流れを少し遅らせる。
静かに数え、上げる。空気に触れる。薄い灰白が青へ変わる。
「模様はいかが致しましょう」
頷くと、店主はわたしの指に細い糸をひと結びした。
「結び目をわずかにずらしております。朝の霧が猫に路を譲るように」
言われるまま、指先で小さな輪をいくつか作る。ひとつ増やすたび、藍の匂いが近づく。
「お代は、ため息にて頂戴します」
冗談のように聞こえたので、苦笑しながら胸の底からひと息落とす。すぐに胸のあたりから重さがすっと抜け、甕の口へ移った気がした。女は白い紙片に朱の小さな印を押して手渡す。
——受領 ため息 二つ。
礼を言って戸口へ向かう背を、店主の声が追う。
「藍は染みにございます。染みは汚れの別名にして、また生活の別名でもございましょう。落とさんとすれば大抵は落ちませんが、重ね重ねれば、ときに美しく育つものにございます」
***
夕刻を過ぎ、駅前のガス燈は火屋の中でほそく揺れていた。彼は大時計の下に立ち、白い息をこぼしている。
「この前は、本当に——」
冬気に触れた声は、灯の縁でそっと萎んだ。返事の手前で、いつもの癖に胸の底を探るが、ため息は見当たらない。さきほど支払いに充てたぶんだけ、胸はただ軽くなっていた。
数拍の沈黙が、きれいにそろう。ふいに彼がくしゃみをして、白い吐息が宙にひろがった。
その縁に、青が淡く浮く。襟巻に捺した模様と同じ、朝霧の道をなぞるような遅い光の輪郭。
「よく、似合ってる」
思わず口にすると、彼は一瞬目を見張り、怪訝とも安堵ともつかない顔つきで、こちらを見た。
わたしは襟巻を解き、彼の首に巻き替える。藍は空気に触れるたび色を深め、触れる場所で濃さを変える。
指先で布を撫でると、輪のひとつがわたしの脈に合わせてゆっくり揺れる。
「藍染めの襟巻きはなかなか珍しい」
彼の声は少しだけ明るさを取り戻していた。
「なぜこの色を」
「濃くなるまで待てる色だから」
自分でも驚くくらい、まっすぐに答えていた。
彼は頷くでも否定するでもなく、また息を吹く。冬空の白がふくらみ、藍の輪がひとつ増える。わたしはその輪を見て、しばらく何も言わなかった。
***
一週間経っても、藍の匂いは指に残った。
藍は落ちにくい。けれど、落ちないことと、残りつづけることは、少し違う。店主は「重ねなければ定まらない」と言った。それは布の話で、きっと生きることの話でもある。
開店前の藍染屋を覗くと、店主は甕の表面を撫でていた。藍はその指を舐めるように、薄い泡を寄せる。
あい、と小さくつぶやく。青い音が口の内で広がる。藍は一度でできあがらない色だ。
息を合わせ、空気に触れさせ、解けにくい結びを増やしていく。まだ甕の藍は遠く、胸の青だけが近い。その間に伸びた駅通りへ抜ける路地では、野良猫が一匹、朝霧に敷かれた淡い光を横切っている。
「 #あい 」というテーマで書きました。
