猫は明太マヨ醤油を信用しない(『ゴウスツ』)
これまでの回は、こちらにまとめています。
10. 猫は明太マヨ醤油を信用しない
わたしは猫なので、町のことはだいたい鼻で決めている。
だから、町は秋である。
人間はカレンダーを見る。長袖を出すか迷う。コンビニでおでんを見て、「まだ早いか」と言う。
早いかどうかは鼻で決めればいい。
朝の空気に乾いた葉っぱの匂いが混じり、魚屋の前では秋刀魚が細長い顔で光っている。
日なたはまだ少しあたたかいけど、石段の影はもう冷たい。
つまり、町は秋である。
町は、においでできている。
パン屋は朝からふくらんでいる。花屋は水の奥に光を隠している。コンビニは冷たい棚と油と、あきらめのにおいがする。秋になると、そこへ少しだけ肉まんの気配が混じる。
たこ焼き屋は強い。あそこは鉄板の上に小さい太陽を並べて売っている。近づくと、ひげが少し熱くなる。
しらたま屋は白い。
牛乳じゃない。洗濯物でもない。もっと冷たくて、丸くて、すぐには食べられない白だ。
瓶の中で眠っている音は、白に近いにおいがする。
秋のしらたま屋は、奥のほうが少し静かになる。
夏に集めたうるささが、瓶の中で黙りはじめるからだ。
音も、ちゃんと眠る。猫ほどではないが、よく眠る。
わたしはしらたま屋の裏口によくいる。
夏は氷室の冷たさが漏れてくる。
冬は店主が勝手口の横に置いた古い座布団が、日なたを少しだけ覚えている。
秋はそのあいだだ。冷たくなりきれない石段と、あたたかいふりをする座布団の境目で、猫はだいたい正しい場所を見つける。
その日、座布団の上には落ち葉が一枚ついていた。
わたしは前足で少しだけ押した。乾いた葉っぱが、かさ、と鳴った。
小さい音だった。けれど、ちゃんと鳴った。
わたしはその上に座った。
かさ。
もう一度、音がした。
こういう音は、生きている。
踏まれたり、乗られたり、少しずれたりした時に、自分のぶんだけ鳴る。
音は、自分が鳴るべき時に鳴ればいい。落ち葉はそれを知っている。
座布団も少し知っている。猫は当然知っている。
なのに、人間は、そのことをあまり知らない。
夏から、町は少し静かになった。
黙ったわけじゃない。コンビニの自動ドアはまだ間の抜けた声を出す。こどもは道路で走り、走ったあとに怒られ、怒られたことを忘れてまた走る。
でも、風鈴は鳴らない。
揺れる。光る。短冊も動く。そこまでやって、鳴らない。
だから、人間は忘れている。秋になっても、軒先にぶら下げたままにしている。
鳴らない風鈴を、しまい忘れている。しまい忘れていることにも、たぶん気づいていない。
人間はそういうことをする。なくしたものより、残ったまま黙っているもののほうを先に忘れる。
サエも、夏からしらたま屋に来なくなった。
前はいた。ハルの少しうしろにいた。近いようで遠く、遠いようで近い、ややこしい距離だった。
猫なら一度で決める。近づく。離れる。膝に乗る。ひっかく。それだけだ。
人間は、そのあいだに変な巣を作る。入らないくせに、出られない顔をする。
サエのにおいは、紙と、少し湿った布と、言いかけた言葉のにおいがした。
雨の日は濃くなり、晴れの日は薄くなる。
わたしは覚えていた。覚えてやっていた、と言ってもいい。
猫が覚えてやっているのに、サエは夏から来ない。
来ない人間のにおいは、鼻から少しずつ抜ける。
でも、完全には消えない。石段の角、椅子の脚、店主がときどき何もない場所を見る時の目の中。
そういうところに薄く残る。
でも、薄くなる。猫でも、鼻を近づけなければわからなくなる。
そのかわり、ハルはよく裏口に来るようになった。
よく来る。来すぎる日もある。
ハルは背があるのに薄い。歩く音が浅い。耳の後ろに棒を挟んでいる。ペンというらしい。
人間は紙に黒をつけて、忘れないようにする。あれくらいは爪で十分だと思うが、人間の爪は弱いので、しかたない。
ハルのにおいは日によって違う。
木曜の朝みたいな日。雨に濡れたランドセルみたいな日。言うのをやめた言葉が、口の中で丸くなっている日。
それから、明太マヨ醤油の日。これはよくない。
明太子。マヨネーズ。醤油。
全部が強い。赤い。白い。黒い。しょっぱい。うるさい。
わたしは魚が好きだけど、明太マヨ醤油は信用しない。
あれは海から来た静かなものを、人間が寄ってたかって大声にした食べものだと思う。
今日は、路地の向こうから、そのにおいが来た。
赤くて、白くて、黒くて、しょっぱくて、うるさいにおい。
その奥に、ハルの薄い足音があった。
右。左。右。左。
まだある。まだあるが、少し軽い。
わたしは座布団の上で目を細めた。落ち葉がまた小さく、かさ、と鳴った。
それを確かめてから、路地のほうを見る。
ハルが、紙舟を持って立っていた。
平気な顔をしている。
平気な顔をしている人間ほど平気ではないのは、猫の古い決まりごとである。
ハルは裏口の石段にすわった。
わたしは少し離れて座る。においが強いからだ。強いにおいに近づくと、毛並みがだめになる。
「あげないよ」
ハルが言った。
わたしは何も言っていない。ただ見ただけだ。しかも、いらない。
今日のハルは、においが薄い。
明太マヨ醤油はうるさいのに、その奥のハルが薄い。
人間は薄くなっても自分では気づかない。猫は床に近いので、消えかけたにおいや足音に早く気づく。
「あ、ひげ、そこにいたの」
店主が顔を出した。白い手袋をしている。
店主はわたしを見て、座布団を見て、ハルを見た。何も言わなかった。白玉の人間は、黙るのが上手い。
「今日はまたプールかな」
ハルは答えない。
答えない時のハルは、だいたい当たりである。
それから店主はわたしの座布団を見た。
「落ち葉、ついてるよ」
知っている、という意味の顔をした。
「取ろうか」
余計なことをするな、という顔をした。
「そう。いるんだね」
いる。落ち葉はまた、かさ、と鳴った。
店主もその音を聞いたらしく、目を細めた。
「今日は、ちゃんと鳴るものがあるね」
ちゃんと鳴るもの。それは、たぶん大事なことだった。
風鈴は鳴らない。サエは来ない。ハルの足音は薄くなる。
でも、落ち葉は鳴る。猫が乗れば、小さく鳴る。
わたしは座布団の上で、もう一度、体重をかけた。落ち葉が鳴った。
その音のすぐ横に、ハルの音があった。とても小さい。息をする音、服がこすれる音、紙舟を持つ指の音。
どれもある。けれど、少し遠い。聞こえる場所から、じりじり離れている。
わたしは右のいちばん長いひげを、ほんの少し震わせた。
猫のひげは大事だ。狭い場所を知る。風を読む。暗がりの端を見る。
人間はひげをわかっていない。わかっていないものほど大事なことも、たぶんちゃんとわかっていない。
わたしは、ハルの音のいちばん小さいところを、ひげの先に引っかけた。
ほんの少しでいい。
靴底が石を押す音でも、心臓が急いでいる音でもない。
もっと手前の音を引っかかる。
誰かがここにいる、という、めったに聞こえない小さい音。
わたしはそれを、ひげの先に隠した。
くすぐったい。かなりくすぐったくて、わたしは毛繕いでがまんした。
「ひげは、ハルのこと好きなんだね」
違う。好きとかではない。
わたしは、ハルを完全には見捨てないだけだ。
明太マヨ醤油は嫌いだけど、それを持ってくる人間が急にいなくなると、裏口の夕方が少し困る。
それだけだ。それだけのことを、人間はもっと大事にしたほうがいい。
ハルは紙舟の端を折った。
かさ、と音がした。
落ち葉とは違う音だった。少し油が混じって、少し湿って、少し投げやりだった。
店主がそれを聞く。わたしも聞く。ハルだけが、少し遅れていた。
「もう、これ以上ひとりで持って帰らないこと」
店主が言った。
「最近は採ってないです」
「持って帰ってきてる」
「勝手に入っただけ」
「それも、持って帰ってきたって言うんだよ」
ハルは黙った。やはり当たりである。
石段には、二種類のにおいがあった。
ひとつは、うるさいにおい。赤くて、白くて、黒くて、しょっぱくて、舌の奥まで勝手に来る。
もうひとつは、静かなにおい。薄くて、冷たくて、布の裏側みたいで、近づくと逃げる。
わたしは、どちらも信用しない。
うるさいにおいは、自分が正しいと思っている。
静かなにおいは、傷ついていないふりをする。
猫にはどちらも強すぎる。
「帰るの」
店主が聞いた。
「はい」
「寄り道はほどほどにね」
「大丈夫です」
嘘のにおいがした。薄く焦げた紙の端みたいなにおい。
ハルが路地へ出る。
わたしはついていかない。猫には猫の仕事がある。
裏口を見張る。座布団の温度を管理する。知らない虫が来たら見つめる。大変である。
だから、ここで見送る。
右。左。右。左。
ハルの足音は、小さい。薄い。でも、まだある。
たこ焼き屋の角を曲がる手前で、その音が一瞬だけ細くなった。
消えたのではない。まだ消えてはいない。
でも、軽くて、風に持っていかれそうだった。
「ひげ」
店主が言った。その呼び方は許可していない。
「今の子、見えてた?」
わたしは店主を見る。店主はすぐに首を振った。
「……いや、違う。見えてた。見えてたよ」
わたしは、ふな、と短く鼻を鳴らした。
ハルの姿は路地の向こうへ消えた。
石段には、明太マヨ醤油のにおいが残っている。赤くて、白くて、黒くて、しょっぱくて、うるさい。
けれど、その奥には、ハルの声がひっそりと残っている。誰かと笑うハルの声、空が高い日、ここで一人、うずくまっていた時のひとりごと。
ぜんぶは覚えられない。でも、ひとつくらいなら隠せる。
わたしは座布団の上で丸くなった。尾を鼻の下に置く。座布団はもう、夏の熱をほとんど忘れていた。かわりに、秋の冷たさを少しずつ覚えはじめている。
しらたま屋の軒先で、風鈴が揺れた。揺れた。光った。短冊が動いた。
でも、鳴らない。
そのかわり、わたしの右のひげの先が、ほんの少し震えた。
冒頭の一行は、アタマのお菓子な人さんのこちらの記事にあまりにハマってしまって、、、
ご連絡を取り、お借りすることを許可していただきました。
みなまさもぜひ。
