止まった時間と湯気の一秒
秒針がちょうど十二のところで凍りつき、音が消えた瞬間、部屋が一歩ぶん広がったように感じた。
ただの電池切れ。替えてしまえばまた動き始める。なのにわたしは、止まった時間に取り残されるのが怖くなってしまった。
窓の外で、色の配列がゆっくり変わる。アスファルトの灰から、田の褐色へ。畦に残る薄い霜、遠くの山に早い雪。
季節の境目が、そのまま車窓に貼りついて流れていく。バスに乗り換えると、道は川に寄り添い、崖の肩にしがみつくように細く続いた。
斜面のあちこちから上がる白い息。山そのものが沸騰しているみたいで、見ているうちに、自分の体の中にもうっすら湯気が立った気がした。
肘折温泉に着くと、夕方の光はもう薄く、町全体が湯けむりの膜に沈んでいた。石の欄干に霜が降り、街灯は金色に滲んでいる。
旅館の玄関をくぐると、「冷えたでしょう」と声をかけられる。靴を脱ぐと、廊下の隅で薪ストーブが小さく弾けて、やかんが喉を鳴らしていた。
部屋には低いテーブルと、窓際に小さな置き時計。針は止まったまま、文字盤の上を薄い埃が渡っている。
「壊れてるんですか」と尋ねると、女将さんは笑って首を振った。
「うちのはね、湯気を食べて動くんですよ。だからそのうちまた動き出します」
湯気で動く時計。冗談みたいな言葉が、この町ではそれほど嘘にも聞こえない。それが不思議と嬉しかった。
***
「今日は山形の名物なんですよ」
そう言って、女将さんが土鍋の蓋を開ける。
「芋煮です」と告げる声が、まるで「おかえり」と言うみたいに穏やかだった。
鍋の中では牛肉と里芋が静かに踊り、こんにゃくの弾力が箸に返ってくる。
味噌の香りの奥に、野菜の甘い匂い。湯気の中で味の輪郭がやわらぎ、境目がほどけていく。
窓を少し開けると、すぐ下を流れる川の音が入ってきた。ごうごうでも、さらさらでもない、食べる動きにちょうど合う速度。
ひと口噛むたびに、体の内側で湯がわくようだった。里芋は箸先で崩れるほどやわらかく、噛むと微かな土の香りがする。
東京で食べる芋煮には「再現」の感があったけれど、ここは「そのまま」の味がする。
たぶん、空気のせいだ。ここの空気は透明で、どんな味でも真っ直ぐ届く。
土鍋の縁から立ち昇る湯気が部屋に満ちはじめたころ、置き時計が、ほんのわずかに、こくっと鳴って、秒針が一目盛りだけ進んだ。
女将さんが竹籠を引き上げる。
「温泉たまごもどうぞ」
白い殻が湯気に包まれて、月の欠片のように輝く。割ると黄身がゆっくりこぼれ落ち、甘い。湯気そのものの甘さなのだと思う。殻の内側に、薄い硫黄の香りが残る。
わたしは殻を指で撫で、指先に移った温度を確かめながら、もうひとつ齧った。
***
浴場の扉を開けると、湯気が一斉に身体を包み、木桶の匂いが胸の奥まで届く。
湯に沈むと、底からぽこぽこと泡が上がり、耳の中で世界が鈍く鳴る。
目を閉じれば、音が時間の代わりになる。湯の中の鼓動と、頭上のどこかで鳴る置き時計の音が、わたしをやわらかい場所へ連れていく。
長く潜っていたいのに、体が自然に浮上してしまう、その無力ささえ心地よくて、一人で笑ってしまう。
息を吐くと、白が湯気に紛れてどこかへ消える。「また来たいな」と声に出すと、言葉だけが寒さで少し固くなった。
部屋に戻ると、やっぱり時計は止まっていた。秒針が小さな跳躍を忘れ、眠るように静かだ。
けれど、止まった時間のかわりに、湯気の粒が目に見えない針となって、部屋の中を静かに走っている。
窓の外で川が振り子のように揺れ、町全体の時間を保っている。
そんな妄想をしながら、わたしは眠りおちていった。
***
旅館を出るときも置き時計は静かに眠っていた。指で文字盤を撫で、針の影をたどる。
「昨日は湯気を食べすぎたから眠いんでしょうね」
女将さんはそう言って笑っていた。
バス停までの坂道は霜が解けかけて、土が柔らかい。指先にはまだ温泉の匂いが残っていた。
坂の途中、鞄の中でスマートフォンが震え、東京の時間が戻ってくる。画面の時刻に、わたしはなぜか、ふっと笑ってしまった。わたしの中ではもう別の時計が動いているからだ。
湯気で巻き直されたゼンマイ、川の振り子、湯がぷつぷつとわく音。どれも正解な時間ではないし、針もすぐに止まってすぐに静かになってしまう。
けれど、消えたあとにわずかに残る温度が、わたしの時間になる。
家に帰ったら、止まった時計をもう一度見てみよう。もし針が動かないなら、湯気を吸わせてみる。やかんを鳴らし、味噌汁を温め、鍋の里芋を煮る。
バスは山を降り、川と別れ、線路に近づく。止まった時計が部屋を広げたあの日の怖さは、もう薄い。
広くなった分だけ、湯気で埋めればいいと知ったからだ。
湯の音が、身体の奥でひとつ鳴る。
それが合図のように、まぶたが静かに沈み、わたしは、湯気のむこうの芋煮のつづきを、夢のなかで食べていた。
よしまるさんの企画「 #あなたの旅ショートストーリー 」に参加しました。
