国家は、なぜ暴力を使えるのか
おはようございます。長坂総研です。
まだまだ暑い日が続きます。
信用・負債制度起源論の国家論をやっていますが。国家論まで行けば信用・負債制度起源論は一通り終了です。
このあとは理論から見て世界史や言葉を紐解いてみて、理論がどこまで耐久性があるかを見ていきます。
骨格は出来たので、その次は肉付けになります。
ここでまた骨格の修正が必要になるかもしれませんが、それはそれで楽しいです。

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国家は、最終決定を示すだけでなく、それを現実に実行する強制力を持っています。
警察や軍、法による強制は、個人の暴力とは異なり、制度に基づく正当な力として扱われます。
しかし、人を従わせることと、国家が信用されることは同じではありません。
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決定するだけでは、国家は動かない
第1回では、国家とは複数の共同体を抱え、最終決定を確定する制度だと考えました。
第2回では、その決定が届く範囲として、国境と国家の境界を見ました。
しかし、決定を下しただけでは、国家は動きません。
税を払うように決めても、誰も払わなければ税は集まりません。法律を作っても、誰も従わなければ、その法律はただの言葉です。
国境を定めても、それを維持する力がなければ、地図の上に線を引いただけで終わります。
国家には、決定を現実に実行する力が必要です。
その役割を担うのが、行政、裁判、警察、軍などの制度です。
国家は、言葉として示した決定を、現実の行動へ変える仕組みを持っています。
強制力も、実際には人を制限する力である
人が人を力で押さえつければ、通常は暴力として扱われます。
しかし、警察官が抵抗する者を拘束した場合、それは法に基づく強制力の行使として認められます。
国家が持つ強制力も、実際には人の身体や自由、財産を制限する力です。その意味では、暴力と無関係ではありません。
それでも、個人の暴力と国家の強制力は、同じものとして扱われません。
個人が他人に金銭の支払いを強制することはできません。しかし国家は、法律に基づいて税を徴収できます。
個人が勝手に人を拘束すれば犯罪になりますが、警察は一定の手続きに基づいて拘束できます。
個人が武器を持って他国へ侵入すれば犯罪として扱われますが、国家が軍を動かせば、国防や戦争という制度上の行為になります。
国家の力は、個人の欲や判断だけで使われるものではなく、少なくとも形式上は、法律や命令、手続きに基づいて行使されます。
国家は、自らの強制力を私的な暴力ではなく、国家の最終決定を実行する力として説明します。
ただし、その決定が共同体全体の意思を反映しているとは限りません。
暴力は、決定を現実に変える
国家が税を払うように決めても、言葉だけで全員が従うとは限りません。
そこで国家は、罰金や差し押さえなどの手段を使います。
法律に従わない者がいれば、警察や裁判が介入します。外から攻撃を受ければ、軍が動きます。
国家の強制力は、国家の決定を現実に変えるために使われます。
信用・負債制度起源論では、言葉によって期待や義務が生まれ、行動によってその言葉が果たされると考えます。
国家の決定も、言葉だけでは制度として働きません。行政や法執行によって現実に実行されて、初めて社会を動かします。
ただし、国民を従わせること自体が、国家の約束を果たしたことになるわけではありません。
国家が国民を守ると約束したなら、秩序や権利を実際に守ることが、国家自身の負債の返済になります。
強制力は、決定を実行できます。
しかし、その決定が正しいことまでは証明できません。
力を持つことと、正当であることは違う
国家論では、国家は一定の領域で正当な暴力を独占する存在とも説明されます。
しかし問題は、国家が暴力を持っていることだけではありません。
なぜ、その力が正当なものとして受け入れられるのかです。
武器を多く持っているから正しいわけではありません。
多くの人を拘束できるから正しいわけでもありません。
命令に逆らう者を処罰できるからといって、その命令の正しさが証明されたことにはなりません。
国家は、服従させることはできます。
しかし、服従させたことを、信用されたことに置き換えることはできません。
現実の国家は、暴力だけで人々を従わせているわけではありません。
伝統や宗教、経済的な実績、利益の配分など、さまざまな理由によって、自らの決定を受け入れさせようとします。
しかし、国家が信用を失い、強制力への依存を深めるほど、人々が従う理由は承認から恐怖へ近づいていきます。
正当性は、国家が名乗れば生まれるのか
国家の強制力が正当なものとして扱われるためには、その力がどのような決定に基づいているのかが問われます。
誰が決めたのか。
どのような手続きを経たのか。
その決定は誰を守るためのものなのか。
負担や被害は、誰に集中しているのか。
国家は、自分の行為を正当だと宣言できます。
しかし、国家がそう言っただけで、正当性が生まれるわけではありません。
国家の強制力は、まず法律や手続きによって制度上の正当性を与えられます。
しかし、その制度が長く維持されるためには、構成員が決定と行動を受け入れる社会的な承認も必要です。
民主主義国家は、選挙や議会、裁判などを通じて決定の正当性を作ろうとします。
王や独裁者が決定する国家でも、伝統、宗教、実績などを使い、その支配を受け入れさせようとします。
どの国家も、自らの力を単なる暴力とは呼びません。
国家は、その力を治安の維持や法の執行、国防のために使うと説明します。
ここでも、先に言葉があります。
そして、その言葉と実際の行動が一致しているかどうかを、人々は見ています。
同じ暴力でも、使う方向が違う
国家の強制力には、共同体を守る方向と、共同体を支配する方向があります。
警察が人々の生命や財産を守り、争いを止めるために力を使うことがあります。軍が外からの攻撃を防ぎ、領域と構成員を守るために動くこともあります。
一方で、国家に都合の悪い声を封じたり、特定の集団だけを監視したり、反対する者を排除するために、同じ警察や軍が使われることもあります。
同じ制度、同じ組織であっても、何のために使われるのかによって意味は変わります。
共同体全体を守るための強制力なのか。
国家を支配する者だけを守るための強制力なのか。
その違いは、誰が守られ、誰が負担を引き受け、誰が傷つけられているのかを見れば分かります。
国家の強制力は、制度として正当化されています。
しかし、制度が存在するだけで、その行為が正しくなるわけではありません。
国家が負った約束を返すために使われているのか。
それとも、国家の失敗や負債を国民へ押しつけるために使われているのか。
そこに、国家の信用と暴力の分かれ目があります。
暴力は、信用の代わりにはならない
国家は、暴力によって人を従わせることができます。
しかし、暴力だけで共同体を維持することはできません。
監視を増やし、処罰を重くし、反対する者を排除すれば、一時的には社会が静かになったように見えるかもしれません。
それは問題が解決したのではありません。
人々が声を出せなくなっただけです。
国家が信用を失うほど、説明や修正ではなく、強制によって社会を動かそうとします。
説明して納得を得るよりも、命令で従わせるようになります。失敗を修正せずに隠し、批判に答える代わりに、批判する者を処罰するようになります。
そうなれば、国家は共同体を維持する制度から、共同体を押さえつける制度へ変わっていきます。
国家の暴力が正当であるかどうかは、国家が力を持っていることでは決まりません。
その力が誰を守るために使われ、どのような決定に基づき、どこまで制限されているのかによって判断されます。
しかし、暴力で人を従わせることと、国家が信用されることは同じではありません。
