13親鸞聖人・一遍上人・蓮如上人 霊示集 他力信仰の真髄(125,570字)
親鸞聖人 霊示集 他力信仰の真髄 土屋書店
まえがき
本書は、日本仏教の流れのなかで、宗祖、あるいは、中興の祖にあたる方たちの霊示集です。 今回は思想的にも距離の近い、浄土真宗の親鸞、唯円、鎌倉期の踊り念仏で有名な時宗の一遍の御言葉、室町時代の浄土真宗中興の祖・蓮如の御言葉を収録しました。
名人各様に、他力門の現代的意義を明確に解説しているのはもちろんですが、予期しなかった収穫は、彼らが中世の日本に仏教者として生まれる以前は、イエスの弟子として、イスラエルの地で伝道に励んだ使徒たちであることが判明したことです。
すなわち、親鸞の過去世が伝道の人・聖パウロであり、唯円の過去世がマタイ伝のマタイであり、一遍の過去世が十二使徒の一人ヤコブであり、また、蓮如の過去世が同じく十二使徒の一人アンデレであることがわかったのです。
この事実は、すでに刊行された『谷口雅春御言葉集』(土屋書店刊)などで述べてきたとおり、神理というものは、唯一の神から流れ出て、たとえ時代や地域が変わっても、その本質は同じであるということを証明していると思います。
なお本書中、高級諸霊からの霊示は、私が代わってお伝えし、質問役はK会(注:2026年現在は廃業状態です)顧問のYS氏にお願いいたしました。この場を借りて感謝いたします。
一九八七年一月 OR
目次
●第1章 親鸞聖人(しんらんしょうにん)の霊訓
1 なぜ「悪人正機(あくにんしょうき)」を信じたか
2 弥陀(みだ)の誓願(せいがん)の意味
3 イエス様の救いの喩(たと)え話
4 釈尊(しゃくそん)の「毒矢の喩え」の教え
5 自力論者は泳ぎの達人
6 罪と罰について
7 この世で失敗を反省できる者は神の愛を受ける
8 総理経験者が地獄で苦しんでいる理由(わけ)
9 失敗したあなた方のために「神仏」の慈悲はある
10 成功者「松下幸之助」は、なぜ天上界へ昇れるのか
11 マイナスの人間は零(ゼロ)になっただけで幸せだ
12 悪人が救われない理由(わけ)
13 「悪人正機説」の間違いやすいところ
14 現代のバベルの塔「唯物科学至上主義」は、邪神バールの化身
15 仏法者の肉食妻帯(にくじきさいたい)是非論について
16 「他力本願(たりきほんがん)」の本当の意味
17 親鸞は前世でイエスの弟子パウロとして生まれ、信仰の大切さを説いた・・・・・・・・・
第2章 唯円上人(ゆいえんしょうにん)の霊訓
1 「歎異抄(たんにしょう)」は親鸞聖人のすべての教えではなかった
2 唯円上人たちは悪のどん底から「回心(えしん)」して救われる道を説いた・・・・・・
3 大強盗スター・デリーの回心(えしん)
4 死刑囚が天国へ、政府高官が地獄へ、ということもある .............
5 「念仏」は免罪符(めんざいふ)ではない、要は、回心の深さによる
6 唯円上人の過去世は、十二弟子の一人マタイだった
7 現代の「悪人」病患者はインテリ層
8 純粋な信仰論に立ち返れば、各教、各宗派の小さな垣根は取り外すべきだ・・・・……
9 今後の信仰の対象は、人格神ではなく、宇宙の「英知」への信仰となる・・・
10 現代の「歎異抄」の『悪人』はインテリ層
11 現代の「異端(いたん)」物質至上主義、霊は物質を生み、また消せる
12 他力門はキリスト教系の人びとの転生、阿弥陀仏はイエスの過去名…
13 天上界の「総御言葉」は二度とでない
第3章 一遍上人(いっぺんしょうにん)の霊訓
1 一遍上人の前世はイエスの弟子ヤコブ
2 踊り念仏は浄土を地上で表現したもの
3 近い将来、一時期地上が暗くなるので、心の対処が必要
4 余暇を有効に使う生涯学習としての宗教活動
5 心の広場、愛の広場をつくろう
6 明るい出合いの場をつくるのは宗教の任務
7 一遍上人の「時宗(じしゅう)」は一瞬、一刻の信仰の教え
8 新しい宗教は「空間」と「時間」を制する哲学であるべきだ
9 この世で偉くなりたいと思ってはいけない
10 九次元の人は秀才、しかし、七次元、六次元にはもっと専門家がいる
11 権威主義はやめるべきである
第4章 蓮如上人(れんにょしょうにん)の霊訓
1 蓮如上人の「親鸞観」について
2 現代の葬式僧侶は『詐欺罪』を犯している
3 迷える先祖、家族霊を救うのは家族の『正信法語(しょうしんほうご)』の諭(さと)し
4 因果は戒名や経でくらますことができない
5 高額の「お守り」だけを説くのはまゆつば(眉唾もの)
6 この世での阿弥陀(他力)の信仰は、超能力の肯定への観念の転換
7 潜在意識、阿弥陀様、守護霊、今は指導霊へ
8 昔の偉大な成功者、政治家こそ「他力」思想を植えつけ
9 宗教の理想(幸福)の実現には向上心、経済基準があるべき
10 なぜ現代に「ラブホテル」が流行るのか、自己実現の元凶
11 簡素な価値基準を唱道し、経済政策、貧困を正せ
12 現代の性の乱れは、自己社会的な制約がなくなったようである
13 昔の「招婿婚(しょうせいこん)」という長寿社会の制度を
14 大意識、性倫理の変革というべきか
15 性的交際は、お互いの人格がなかった
16 『他力』の理想、一夫多婦でも
17 「ラブホテル」林立の前に、男女交際はどう考えるべきか
18 宗教的な価値基準を全生活、社会的改革でする・・・・・・
19 「即身成仏(そくしんじょうぶつ)」などはあり得ない
20 親鸞や蓮如の意見を聴いたなら、浄土宗各派は時代遅れしないよう学べ
21 墓相(とな)を唱える者への警告
22 大安、仏滅、友引は何ら関係なし
23 占星術、姓名判断では人は縛れない
24 御祓(おはらい)で悪霊は払えない
25 滝行、千日回峯行(せんにちかいほうぎょう)は、皮膚と体を丈夫にするだけ
26 夫婦の正しい心の結び方について
27 「経済理念」のあるべき方向について
あとがき
第1章 親鸞聖人の霊訓
1 なぜ「悪人正機」を信じたか
親鸞: 親鸞でございます。 過般はおでましを願って、いろいろとお話をうけたまわったのでございますが、あれからもう四、五年にもなりましょうか。
その当時は、私どもの「正法」伝道に対する心がまえと申しましょうか、取り組み方において、いまだ定かなものを持ちあわせておらず、また、未熟でございまして、しばしば御意に反するようなことをお尋ねし、大変失礼をいたしました。
さて、すでにご承知かともぞんじますが、この霊天上界よりの御言葉集も何巻もの発行をみるに至りました。そういうわけで、諸聖賢よりの神理のお言葉を聴こうとする読者の数が日本国中に大きく拡がりまして、この際、親鸞聖人のお教えをぜひうけたまわりたいという声が多々でてまいりました。
そこで今回は、私どもといたしましても、親鸞様から、人の生きるべき道について、とりわけ、親鸞様の時代から七百年たった現代における今日的凡愚(ぼんぐ)への救いについて、さらには、その悟りの境地について、往時のお考えをも交えてお教え願えれば幸いとぞんじております。この辺を、お願いできましょうか。
親鸞: 親鸞は、一向に進歩はしておりません。 親鸞は親鸞、あなた方が思っているように、著しい進歩をしている人間ではありません。 七百年前も親鸞は親鸞、その前も、その後も、親鸞は親鸞でござる。わが心性は変わっておりません。
したがって、世の人びとが、親鸞らしき言葉をほしがるというのももっともであります。 私は、進歩がない人間です。私は私として、ただ一筋に、自分の念いのままに、想うがままの道を生きるまででござる。 親鸞はあくまでも親鸞、にわかに、親鸞以上の親鸞にはなりません。親鸞はあくまでも愚禿(ぐとく)親鸞でござる。賢くなってもおりません。悟ってもおりません。
このような親鸞の考えでよいのであるならば、いくらでもご披露いたしましょう。 ただ、それがあなた方の満足のいくものかどうか、地上の世の人びとの満足のいくものであるかどうかは、私にはわかりかねます。 しかし、世の人びとが、今、親鸞を懐(おも)う気持ちがあるならば、親鸞の思想どこにありやと思う気持ちがあるならば、それに応えることを惜しむような私ではござらぬ。
私は生きていたうちにも、それほど熱心に布教したわけではござらんし、それほど弟子の養成をしたわけでもござらぬ。親鸞は親鸞としての信念のうちにただ生きたのみ。 それを他の人びとが、世の人びとが如何に見たかは、彼らの側の問題でござる。 ただ、その親鸞のものの考え方が、現代のあなた方から見て不可解であるならば、私は私のわかる範囲で語りつくそうと思います。すべてを語ろうと思います。
私自身も、親鸞聖人様の真宗のご教義そのものの真髄というものは、いまだ把握いたしかねているものであります。まったく不勉強の至りと申さねばなりません。 しかるにもかかわりませず、世の人びとが、私どもを介して、親鸞聖人様が本当の教えをお説きくださることを直(じか)にお聴かせ願いたいとの声が強くありますために、不肖にもかかわりませず、現代の世に道を探ねて生きる方たちになり代わりましてあえてお尋ね申し上げたいとぞんずる次第です。
そこで、これからお話中、このことについて、すなわち、この問題についてどのようにお考えでしょうかということをお尋ね申し上げることがあるかとも思いますが、これはご法についての私個人の質問ではありませず、ご法論をうけたまわり、その理を解しようとする人びとのお願いであるということをご賢察(けんさつ)賜わりたいのです。お訓(おし)えのほど、よろしくお願い申し上げます。
親鸞: わかり申した。まず、何からお話しいたしましょうか。
2 弥陀の誓願の意味
(聞き手): 親鸞様のご書には、「教行信証(きょうぎょうしんしょう)」などがございますが、なかでも多くの人びとに読み親しまれている、お弟子様の唯円上人が書かれている、「歎異抄(たんにしょう)」のなかから、いささかおうかがいいたしたいとぞんじます。
あの「歎異抄」のなかにはいろいろ書かれております。 聖人様ご他界後において、同信の方がたにおいても、聖人様のご意思に離れた信心を称(とな)えるものがでたとのことで、これが嘆かわしく、唯円上人が直々に、聖人様とのお物語りなどのなかから、信心の本当の姿を説きあかしたものでございますね。
この「歎異抄」は、七百年の歳月を経ました今日におきましても、高校、大学生を始めとする多くの人びとに愛読されております。 これが人生の教えとして受けとめられる以前に、ともすれば教養の書、知識の書として受け入れられているということもまた、事実であります。 すなわち、今日におきましては、人の生き態(ざま)の導きの書とはなりかねているように思いますので、この際、今一度、「人の生き態とは何たるか」を聖人様のお言葉を通して示し願えればありがたいとぞんじます。
まず一つには、念仏を唱えさえすれば成仏(じょうぶつ)間違いないとのこと、それとその教えのもととなるものは、いわゆる「悪人正機説(あくにんにんしょうきせつ)」でございます。 『善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや』の一節でありますが、キリスト教にもこれに似たイエス様のお教えがあります。『富める者の神の国に入るよりは、駱駝(らくだ)の針の孔(あな)を通るかた、かえって易し』と。これらのお教えには、相通じるものがありましょうか。
親鸞: ある意味においては、同じくするものであります。 とかく仏法を求めている人というのは、偉くなりたい、悟りたいと希(ねが)うものであります。 そして、仏の教えを理解すればするだけ、自らが偉くなったがごとく、宗教天狗となっていくのです。
そこで、私は警告を発したのです。 鎌倉時代においては、もはや仏教は形骸化し、当初の釈迦の教えは、末法の世となり、正しく伝わっておらず、諸宗派相競って釈迦の何経が正しいとか、こういうことばかりをやっておったのです。 この教えこそ真の教え、こちらは違うと、こうしたことばかりをやって、学者が議論をしておったのです。
しかし、考えてもみなさい。仏の教えというものは、いわば総合的な人間学でござる。 すべての学びの本でござる。今の世でいうならば、学問にもいろいろござろう。英語であるとか、国語であるとか、社会であるとか、理科であるとか、さまざまな学問がある。 そのうちの英語だけをすれば、人間は完成しますか。数学だけを学べば、人間はそれでいいのですか。国語だけをやっておれば、世の中のことがわかりますか。理科の実験だけをやっていて、世界の仕組みがわかりますか。そうしたものではないはずです。 人間が学ぶべきこととは、学びの根本の精神を酌みとって、さまざまな角度から考えていくことです。
ところが、当時の教学は、仏説の真理を判断し、これこそは真説、経文のこの意味はこういうこと、こうしたことが悟りであるかのごとく誤解されていたのであります。 しかし、今から二千五百有余年前に、釈尊(しゃくそん)が説いた教えは、そのような学者相手に説いたのではござらぬ。
釈尊の時代は、インドもまた、戦乱の世でありました。 戦乱の世であったからこそ、人びとは真なるものを求め、本当の「ブッダ」(悟れる者)の教えを求めておったのであります。 そうした世が乱れ、仏法が衰えた、本当の神理、神の教えが衰えたときであったのです。 したがってまた、釈尊の時代も当時としてみれば、末法の世であったわけです。 末法の世だからこそ、末法の世を建て直すがために、釈尊がでられ、人びとを導かれたのではないでしょうか。
また、われらが時代、鎌倉時代においても、仏の教えの真髄は失われ、世は戦乱の時代となり、人びとは慟哭(どうこく)し、動乱の時代であったのでありますが、そうしたときに、かつての仏教が、かつての仏典が、釈尊の時代のバラモンの教典のようには知識化し、学問の対象となっていなかったのです。
ですから、あなた方から見れば、私がやったことは、あまりにも簡単すぎる。 どんな人間でも救われる、弥陀の本願を信じて疑うなというような教えは、現代のあなた方から見れば、ずいぶん幼稚な理論だと思えるでありましょう。 しかしこれは、一つの悟りに至るための精神棒であったということであります。
はたして、釈尊は二千五百有余年前にインドの衆生(しゅじょう)に対し、そんなむずかしいことを説かれましたか。 そんなむずかしい、専門的なことを説かれたでしょうか。 鎌倉時代には、もはや仏教は、専門の学問と堕(だ)しておりました。むずかしい漢文を読めなければ、人びとは救われないのですか。釈尊の時代には、そんなむずかしい古語を読めたような人を相手に教えておりましたか。
釈尊が教えていた相手は、当時のインドの民衆でありました。そうした方がた、戦乱のなかで救いを求めていた方がたでありました。 そうした方がたに説いた教えであるならば、なぜそんなむずかしいことがありましょうか。 釈尊は、そんな知識を得なければ、救われないというようなことを言ったのでしょうか。
当時のバラモン階級、貴族階級は、余裕があったために、さまざまの学問を学び、古(いにしえ)の教えに接したでありましょう。しかし、下層階級の人たちはどうですか。奴隷階級の人たちはどうですか。商工人たちはどうですか。 彼らには、古のむずかしい教典を学ぶような、そういう余裕がありましたか。そういう時間がありましたか。そういう機会がありましたか。ありはしないです。
ですから、釈尊は、そういうバラモンの僧を相手に法を説いたのではありません。 釈尊が説いたのは、一般民衆に対してであります。であるならば、釈尊の本意はどこにあったか。 貧しい人びと、迷える一般の大衆たちをも救えるような教えにあったはずです。 ところが、それが漢訳され、中国に伝わり、またその漢籍(かんせき)が、日本に伝わるにあたって、そのようなむずかしいものとなり、何経が正しいとか、そのようなことを言っておったのであります。
日蓮聖人から見れば、念仏で救われるなどということは、堕地獄(だじごく)の業(わざ)かもしれない。教学をやった人間から見れば、確かにそうであろう。釈迦の本説を読みもしないで、なぜ救われるかと、そう思う人もいるであろう。 しかしそれは、当時のインドでいえば、バラモンの悟りなのです。 仏説を知力で学んで、そして悟るというのは、バラモン階級、貴族階級の悟りなのであります。 しかし、釈迦の本意はそこにはなく、釈迦にとっては、庶民を悟らしめることが、本当の気持ちであった。真のお気持ちであられたはずです。
では、釈尊は如何にして、人びとを導かれたのであろうか。 釈尊は、おおいなる慈悲を説かれた方であります。 慈悲とは何でありましょうか。慈悲というのは、父母が幼児(おさなご)を見守るような眼で人びとを見る、それが慈悲ではないのですか。 幼い者を護(まも)る、幼い者を愛する、幼いものを導くということが慈悲ではないのですか。
釈尊の教えは、百万言費そうとしてもわかりません。その仏門にはさまざまな道があります。何百何千の入口があります。それを究めつくすことはできません。 ただし、釈尊の教えを一言で言い切るとするならば、「慈悲」であります。 つまり、釈尊は、慈悲を説かれたのであります。 慈悲は、何人(なんびと)に向けられたのですか。迷える衆生であります。迷える人びとであります。悟ろうとしても悟れない、そういう人びとに対して慈悲が向けられたのではないですか。釈尊は、その慈悲を説いたのではないですか。
では、鎌倉時代に、慈悲を説いた方がおりますか。 日蓮聖人は慈悲を説きましたか。日蓮は、知力による悟り、その悟りにもとづいた生き方、これを主張しました。 道元禅師は、どうですか。道元は、坐禅を説きました。そして、むずかしい哲学を説きました。その道で満足できる方もいらしたでありましょう。しかし、それは慈悲ではないはずです。
他の方がたはどうですか。天台の教学をやった方がたはどうですか。彼らは、本当に慈悲を知っていましたか。 天台智顗(てんだいちぎ)は偉い方でありましたでしょう。しかし、天台智顗のいうむずかしい学問的仏教を、一般の人たちは理解できたでしょうか。 そうしたものを学んだ比叡山の延暦寺ですね、彼らの教えをどうして民衆がわかりましょうか。釈尊はただ「慈悲」を説かれたのです。しかし、だれもその慈悲を説こうとはしないのです。私は、これは一つの問題点であろうと思いました。
慈悲さえ説けば、釈尊の本意は伝わるのであります。そうであるならば、私はその慈悲を説こうと考えた。 では、鎌倉時代において、慈悲とは一体何でありましょうか。 世は乱れ戦乱であります。宗教は末法であります。人びとは、何がどうなっているのかわかりません。 人びとはいつも、死後の恐怖に戦(おのの)いていたのであります。当時は、今の人たちよりは、死後の存在というものを信じておったのです。
今の世の人びとは、死後の世界はないのだ、魂の世界はないのだ、と。とくに知識人といわれる人は、そんな愚かなことを、したり顔をして言っておるのです。 しかし、当時の民衆は、死後の世界を信じておりました。現在のように唯物的なものの見方をする人などおりませんでした。 みんな、死後を知っておりました。そして、死後の世界には、天国と地獄があるということも知っておりました。これは、当時の民間信仰においては、常識であったのです。
天台の教学を学ばなければ天国へ行けないのであるならば、下層の庶民は、地獄へ堕ちることはもう決まっているはずです。彼らはそれで、戦々兢々(せんせんきょうきょう)とした毎日を送っておったのです。 善行をすれば救われるといっても、このように世が乱れた時代に、如何ほどの善行ができましょうや。善行をするどころか、悪行を犯そうと思わずしても、犯してしまうような世であったのであります。罪を犯そうと思わなくとも、犯すような世であったのです。
では、そうしたときに、庶民大衆を救う教えとは何でしょうか。 何百万もの人が、それを聴いてわかるようなやさしい教えでなければいけないのです。 今のように、学問が進み、大学をでている人が多い世の中ではないのです。学問などないのです。読み書きができれば、よいほうであります。 大部分の人たちは、つまり、人口の七割、八割の人は、読み書きすらできなかったのです。自分の名前さえ書けない人も多かったのです。
こういう人びとを導くには、ただ一転語をもって、その人を悟らしめる以外にはないではないですか。 釈尊が慈悲を説かれたのであるならば、鎌倉の時代に慈悲を説けばどうなのか。私は日夜学びました。釈尊が鎌倉の時代にでておられて、この衆生の迷いを見たら、一体何を説かれるだろうか。 釈尊は、仏の救いということをやはりお教えになるに違いない。あなた方はみんな救われるとお教えになるに違いない、と。
なぜならば、慈悲とは、父や母が幼児(おさなご)を見るようなやさしい眼で見守ることをいうからです。 あなた方は、自分の子供が、たとえば二つ三つの幼児が、悪いことをしたからといって、それを罰しようと思いますか。幼児は、まだ善悪がわからない。ものごとの判断がわからないのです。 言葉を発することも困難なのです。ただひとこと、乳がほしいとか、ご飯がほしいとか、喉(のど)が乾いたとか、そうしたことを言えるだけの幼児であります。 そのような幼児に、これを学ばなければお前は一人前ではないと、あなた方は鞭(むち)打てますか。父母の心をもってすれば、鞭打てないはずであります。これが神仏のお心であります。
私の時代には阿弥陀信仰というものがありました。 すなわち、「阿弥陀経」というものがあって、阿弥陀仏が人びとを救うために、四十八の発願(ほつがん)をされたのであります。 阿弥陀仏は、人びとを、衆生を救うために、修行に修行を重ねて、「この四十八願がかなわないならば、わが命を奪い給え」と、そこまで覚悟されて修行に打ち込まれた。それだけの願いがありました。 そのなかにおいて、阿弥陀如来は「衆生を救う」ということをはっきりと言っておられます。「どんな人であろうとも救う」と言っておられる。
あなた方人間であるならば、よい人を救い、よくない人を救わないのは簡単です。 しかし、神仏のおおいなる眼から見たら、人間は平等であります。神仏というものは、ある意味では、泳ぎの達人であります。
もしあなたが泳ぎの達人だとして、川で人が溺(お)れているときに、あなたはその人が善人だから、悪人だからといって、救うか救わないかを決めますか。あなたは泳ぎの達人なのです。あなたは、よいですか、日本一の泳ぎの達人であります。日本一の泳ぎの達人がいて、そこに子供が溺れておるのです、川に。
川に流れはあるでしょう。普通の人であるならば、自分が溺れることもあるでしょう。 しかし、あなたは日本を代表するような泳ぎの達人であります。そして、その眼の前で、子供が溺れておるのです。助けられないわけはないではありませんか。 あなたは、その子が品行方正な子供か、それともおいたをしている子供かによって、救うか、救わないかを決めますか。決めないはずです。その子の通信簿を見て、オール「5」だから救うのですか、オール「1」だから救わないのですか。そうではないはずです。
神と人間とは、それだけの差があるのです。 神が、私たち人間のような差別知でもってものごとを見ているならば、神は好き嫌いでもって人間を救う、救わないを決められるでしょう。しかし、そうではないのです。 泳ぎの達人で、神仏が現われるならば、必ず救ってくださるはずです。
親鸞は川のなかにあって、溺れる者たちのなかにあって、私もまた、川に流されていた一人の人間でありました。私は川のなかで流されておりました。自らを救うこともできずに、流れておった人間であります。 そのとき、同じく浮きつ沈みつ流れていた多くの人びとおったのです。しかし、親鸞には救うことはできません。 けれども、よいですか、「神は、神仏は、阿弥陀如来は、必ずあなた方を救ってくださるよ」と、親鸞は、泳ぎつつ人びとを励ましたのです。 この教えに、何の誤りがありましょう。必ず救ってくださるはずです。人びとよ、その教えを信じなさい。私は、こう説いたのです。
私もまた、むずかしい教学を学びました。 むずかしいことを言って、それで人びとが救われるものであるならば、私はそれも言いましょう。しかし、慈悲はそうではないのです。 人びとは、何百万、何千万という人びとは、川のなかを、浮きつ沈みつして流れておったのです。今にも溺れかからんとして、息も絶えだえに、流れておったのです。
そこで、親鸞は声をだし、「皆様、私はお助けはできませんが、きっと神、神仏は、阿弥陀如来は、皆様をお助けくださると思います。なぜなら、阿弥陀如来は、泳ぎの達人でいらっしゃるからです。ですから、そのお力も並はずれたものであります。きっと救ってくださるに違いありません」と説いたのです。
現に、阿弥陀如来は、人びとをお救いになられるからです。 これが釈迦の慈悲でなくて、何でありましょう。もし釈迦が鎌倉の時代に生まれたならば、きっと私と同じ教えを説かれたでありましょう。 浮きつ沈みつしている子供に、「お前が善人なら救ってやろう」と釈迦が言われたでしょうか。お前の通信簿がオール「5」であったら、救ってやろうと言ったでしょうか。
日頃の学びにおいて、オール「5」を目指しなさい、品行方正な子供になりなさい、と教えるのは簡単です。それは、そのとおりです。学校でも、そう教えます。 しかし、事態を見極めなさい。激流のなかで浮きつ沈みつしているときに、そんな道徳論を言っておれますか。まず、救うことです。それが先決です。
3 イエス様の救いの喩え話
親鸞: イエス様の教えにも、同じようなものがあります。これから話すのは、イエス様の教えのなかの喩(たと)え話です。
ある愚かな人が、道に倒れておりました。そこに、ある人が通りかかって、その者に語りかけました。 そうするとその者は、「私は脇腹に傷があって、血がでています。歩けません」と、そう言いました。 すると、そのある人は、「ああ、私の手には負えないな。そのうち向こうから医者がくるだろうから、その医者が救ってくれるであろう」と、見て見ぬふりをして、先へ行きました。
そこへまた、次の人が来ました。愚か者は、まだ血を流して苦しんでいます。 次の人は、病んでいる者から、「助けてください」と言われたのですが、「いや、君は病院へ行けば治るよ」と言って、そのまま通り過ぎてしまいました。
三番目の人が来ました。三番目の人も、その病んでいる人を見ました。この人は、宗教家でありました。その人は尋ねました。 「あなたは、怪我をしているのですか」 「しています。血が流れています」 「あなたは、何教を勉強されていますか」 「私は異教徒です」 「あなたは、キリスト教に改宗しなければ救われません。まず教会に行って、キリスト教徒になりなさい。そうしたらお助けいたしましょう」
その宗教家は、そう言って、通り過ぎて行きました。異教徒は救ってはいけないと思っていたからです。 そこに、たとえばイエス様が通りかかったとしましょう。イエス様はどうされるでありましょう。 イエス様は、まず何も言わないで、すぐに傷の手当をされるはずです。その病の人を救おうとして、その病の者を担いで、次の宿まで、宿場まで運んで行かれるはずです。
そのような重病人に対しては、まず何を言うではなくて、命を救うことが先決なのです。 血を流して苦しんでいる人に対しては、まずその傷の血を止めることが大事なのであります。 そうではなくて、その人を救う専門家がいるだろうとか、あるいは、その人の教えが、考えが間違っているとか、そんなことを言ってはいけないのです。それは神の御意(みこころ)ではないのです。
よいですか、私の今の喩え話を、これはキリスト教で言われている喩え話でありますが、よく覚えてほしいのです。
4 釈尊の「毒矢の喩え」の教え
親鸞: 鎌倉時代において、何教でなければ救われないと言っている人は、お前はクリスチャンでなければ、教会に登録しなければ救ってあげられないと言っている宗教家と同じなのです。そのようになってはいけません。 どのようなものであっても、救われねばいけません。それが神の御意です。神様がでられたら、必ずお救いになります。その人の品行方正、そんなことは何も言いません。きっとそのはずです。
釈尊にもまた、同じ考えがあります。釈尊には、「毒矢の喩え」という教えがあります。
ある理論好きの人がおりました。その人が、釈迦に、問いかけました。 「ここに毒矢に射たれた人がいる。そして、毒がまわって死にそうです。このとき、あなたはどうされますか」と。 そこで、釈迦は、「まず、命をとり止めることが先決である」とそういうことを言いました。 ところが、その理論家は、嘲笑(あざわら)って、こう言ったのです。 「あなたは間違っている。まず、その矢がどこから飛んできたのか、そして、何の毒が塗ってあるかがわからなければ治療はできないではありませんか。ですから、どこから飛んで来て、何の毒が塗ってあるかを知ることが先決で、それからでなければ、救うことはできないはずです」
釈尊は、そのときに、言葉に窮したかのように黙しておられた。黙っておられたとのことです。 しかし、釈尊の真意は、そんなところにあったのではないのです。 まず、生命をとり止めねばいけない。矢がどこから飛んできたか、毒が何であるか、そんなことはあとのことだ。まず、傷口をふさいで、包帯をして、命をとり止めることが大事だ。釈尊はそういうことを言ったのです。
これから、あなた方に対しても、いろいろな人がいろいろのことを言うでしょう。 この矢の喩えのごとく、あなた方に「悟りとは何か」と言って、あなた方が高邁(こうまい)な理論で答えないのを嘲笑う人がいるでしょう。 あるいは、あなた方が親鸞の説教を説いているならば、「浄土真宗のこういう本を読んでいるか」「こういう教義の本質を理解しているのか」と、こういうことを言う人がいるでしょう。
「親鸞は慈悲こそすべてだと言っています」と、あなた方が答えます。 すると、理論家は嘲笑うでしょう。この彼は、仏教大学で、『浄土真宗』を専攻している人なのです。 「そんなものではない。親鸞の教えとは、そんなもんじゃない。親鸞は、こんなことを言っている。あんなことを言っている。歎異抄で唯円が書いているが、ここは親鸞の考えを理解していない」
このようなことを、彼は、ああでもない、こうでもないと言うでしょう。 ただ、よいですか、本当は、人が救われればそれでよいのです。学問的に、その理論の正否ではないのです。毒矢のごとく、まず、毒矢に当たっている人を救わなければならないのです。 その人が何の階層に属しているか、矢がどこから飛んできたか、どんな毒か、こんなことは、関係ないのです。
釈尊は、当時において、ある人から、「悟りとは何か」、あるいは、「宇宙とは何か」というような質問をされたことがあります。しかし、釈尊は、答えなかった。 そこで、それを、後世の人たちは、釈尊は宇宙は何かがわからなかった、悟りとは何かが一言で言えなかった。だから、まだまだ勉強が未熟だったのだと、評したりしました。
しかし、それは、違っているのです。毒矢です。まず、命をとり止める必要があったのです。 私たちの時代においても、毒矢に当たって苦しんでいる人がいっぱいいたのです。 ところが、そのときに、矢がどこから飛んできたかがわからなければ人は救えないとか、毒の種類がわからなければ救えないとか言っている人がいっぱいいたのです。他の宗教家たちです。
矢がどこから飛んできたかがわからなければ救えないとは、どういうことか。 これは、ある人が悩んでいても、その原因がどこにあるのかわからなければ、その人は救えない。あるいは、毒の種類がわからなければ救えない。まず、それを知ってから手当をしたらいいだろう、とこういうことを言っているのと同じです。 矢が当たって、血が流れているなら、まず、止血(しけつ)をしなければいけない。血を止めるのです。腕に矢が当たったなら、矢が当たった腕の心臓に近いところの上を縛りあげて、止血し、そして、矢を抜かなければなりません。それが第一であります。
親鸞が教えとは、かくのごときものです。 私は、矢がどこから飛んできたかは知りません。敵の矢か、味方の矢かどうかもぞんじません。その毒が何の毒か、ハブの毒か、あるいは、他の鉛の毒か、私は、そのようなことは知りません。ただ、矢に当たった人がそこにいるのであるならば、一秒でも早く止血し、手当をせねばならぬ。ただそれだけです。
親鸞が教え、親鸞が弥陀の本願、念仏と申したのも、ただ、矢が当たったら、まず応急処置をしなさいということです。 その教えは、すべてではありません。まず応急処置をして、命をくい止める。それが先決です。 そして、そのあとにおいて、さまざまな研究をすればよろしいでしょう。毒の性質を研究すればよいでしょう。そうした人もいるでしょう。それはそれでよろしい。
ですから、私が今から数百年前に説いた教えというのは、人びとに本当の信仰とは何かということを教えることでした。 阿弥陀如来という神仏の偉大なる化身がおられて、日夜あなた方を救うために努力しておられるのですよ、と。そういうことを私は言いたかったのです。そのことを知りなさい。そのことを悟りなさい。それだけであなた方は、一命をとり止めることができるのです。
これは専門的な治療ではないかもしれません。 しかし、あなた方は毒矢に当たって苦しんでいるのですから、まず命、これを救わねばなりません。それは、仏のおおいなる慈悲を知ることです。 あなた方にとっても、そうです。現代人にとって、悩みの種はつきません。しかも、自分だけで解決しようとして、迷路に入っていってしまうのです。
5 自力論者は泳ぎの達人
親鸞: なぜあなた方は、この世界が、神仏のつくられた世界だということを理解しようとしないのですか。 この三次元、すなわち、現象世界だけがすべての世界ではないのです。神仏はあなた方のすべてをしっかりと見ておられる。 そうであるならば、なぜ彼らにおまかせしようとしないのですか。なぜ人間心で、いろいろとああでもない、こうでもないと出口を求めて狼狽(ろうばい)するのですか。なぜ神仏のご慈悲というものにおまかせしないのですか。
もちろん、自力で救われる人はおります。しかし、自力で救われるということは、もう信仰は必要ないのです。 自力信仰であるならば、これは自分を信じるということであり、自己確信と同じであります。どんな難局があっても、自分で切り拓いていける人であるならば、そういう人はよろしい。そういう人は泳ぎの達人です。
泳ぎの達人は、いくら水泳の名選手が岸辺にいたとしても、その人に救われようとはしません。彼は自分で泳いで岸に上がって来れるのです。 水泳の選手が、水泳の選手を助けはしないのです。泳げない人だからこそ助ける必要があるのです。自力論者は、すなわち、優れた人びとにとっては、まさにそのとおりでありましょう。優れた人びとは、神仏が手を下すまでもなく、自らを救っていくのです。そうした方がいることを親鸞は知っております。
彼らが自分自身で救えるならば、弥陀は力を発揮する必要はありません。自分自身のなかなる仏性を信じて、立ち直っていける方は、強い方であります。 そうした方は、自分で救っていきなさい。弥陀もそれを喜ばれるでありましょう。けれども、自らが溺れている人には、それは無理であります。
あなたは、水を飲んで流されている子供に、自力で自らを救いなさいと言えますか。自力で泳いで岸まで来いと言えますか。それは一見正論であります。 しかし、自力で岸まで泳げる人であるならば、助けなどいりません。そうでないからこそ、助けが必要なのです。
私が救おうと思った人びととは、庶民の方がた、迷える人びとです。 迷える人びとだからこそ、救いの手を差しのべる必要があるのです。だからこそ神仏のお心を教える必要があったのです。 神仏は溺れている子供に、沈めとは言っていないのです。助けようと思っておられるのです。ただ、間にあわなくて、助けられないままに沈んでしまう方もいます。
けれども、そのお心を疑ってはいけない。神仏は溺れているあなた方を救おうとしておられた。そのことだけは忘れてはいけない。 順番に溺れる者を拾っていかれる間に、沈んでしまう人もいます。すなわち、これが地獄に堕ちる人です。だから、とりあえず地獄に堕ちた人もいます。
しかし、そうした人たちを、必ず救ってくださるのです。 水に沈んだ子を神仏は助け起こして、岸辺まで拾い上げて、水を吐かせ、人工呼吸をしてでも救おうとされるのです。 沈む前に救いたいのはやまやまです。しかし、沈む前に救えないこともあります。 そのようなときには、沈んで、顔が土色になっている子供であっても、神仏というものは、水を吐かせ、人工呼吸をし、心臓のマッサージをして、お救いになろうとしておられるのです。
このおおいなる慈悲に気がつきなさいと、私は、これを教えたのです。私は、この教えに間違いはないと思います。 自力の人は自分で救っていきなさい。それはそれでけっこうです。 私たちのような煩悩多き迷える衆生(しゅじょう)は、水を飲みながら泳いでいる衆生は、それで救えないからこそ、神仏にすがっておるのです。
ですからあなたも、あなたの足にまとわりついてくる幼児を足蹴にはできないはずです。親もまた、同じです。 私が衆生に教えたのは、神仏は父であり、母であるということです。ですから、その足に縋(すが)りつきなさい。ひとえに縋りつきなさい。そう訓(おし)えたのです。 あなたは、あなたの可愛い子が足に縋りついたとして、それを蹴飛ばせますか。両手で抱き起こすでしょう。 人間は、神仏がつくられた子供なのです。神仏の分けみ魂なのです。なぜそのようにつれなく突き放しましょうや。
その子のお行儀がいいから、その子の這い方がいいから、その顔つきがいいから、あるいは、その子の顔つきが悪ければ、蹴飛ばす。そのようなことを神仏がなされるはずがありません。平等の“愛”というものを信ずること、これが信仰の根本なのです。
これを邪説という人もおりましょう。それならば邪説といっていただいてけっこうです。その方は、信仰の何たるかを知らない人であります。また、神の御意(みこころ)を知らない人です。その御意がどれだけ大きいか。それは、大人と子供以上の差があるのです。 この世界をおつくりになり、この世界に生きとし生けるものをすべて送り込んだ方なのです。そのような偉大な方であるならば、助けを求めれば救ってくださるのは当然であります。それを単純だと言い、それを仏説を知らないというのならば、それでもけっこうです。
しかし、それを知らないで、知識をいくら学んでも意味がありません。 信仰とは、弱き者を救うことです。強き人は、自ら救っていきなさい。自ら自分を救っていける人は、自らが教祖のような人です。自分教で自分を救えるのですから、そういう人は、自分を救っていきなさい。それでけっこうです。私の教えに何か疑問があれば、質問を続けてください。
6 罪と罰について
(聞き手): 当時の社会情勢は、察するに余りあるものであったと思います。したがいまして、お話いただきましたような、真の悟りには達しないというようなことをお説きになられた方たちもおられましたでしょう。 確かに、現在の時代から考えましても、聖道門(しょうどうもん)をくぐられた方たちは、それだけの教義を理解するだけの知力があり、また、その知力、学問を身につけるだけの家柄でもあり、さらには、財力にも恵まれた商人、あるいは、武士階級、貴族など、いわゆる上流社会の方たちであったと思います。
しかし、当時のあの世で、さきほど聖人様もおっしゃいましたように、社会の大半の人は、文盲の農奴のような貧民であって、にべもなしに飢え、ゆえもなく殺されていきました。 この多くの無力な人びとが、どうしてあの高度な学問、聖道門の教学を理解し得たでしょうか。そして、それを自己の悟りとし、成仏できたであろうか。 と考えるときに、親鸞聖人様のあの『南無阿弥陀仏』の念仏唱名によって救われるというお教えに、庶民はおそらく随喜の涙を流して死んでいったであろうと思うのです。
翻(ひるがえ)りまして、現世にこれを考えますと、まあ社会情勢もいろいろ変わってはおりますけれども、ここで一つ考えられることがあります。つまり、現在のいろんな社会悪のなかで、自らの意思に反し、その社会悪に染まらざるを得なくなって染まってしまう。極度な悪となっては、人殺しまでもしてしまわなければならないような苦境に堕ちて、ついには、罪を犯してしまう。したがいまして、こういう人は、司直の裁きに遇(あ)って、現在、牢獄に繋(つな)がれているのであります。こういう人のなかには、やがて死刑の宣告が下される人もおるでしょう。
しかし、救いというものについては、現在、仏教の僧侶、あるいは、キリスト教の牧師が受け持っている教誨師(きょうかいし)という方がおりますが、こういう方たちが、死刑の刑期を前にした人たちのために、神仏の助け、救いというものを説いておられるようでございます。
それによって、その死刑囚の人が、活然と悟りを拓いて、今までの自分の犯した罪に対する懺悔(ざんげ)と、これから先の救いというものを神仏の慈悲にすがり、あるいは、天国浄土への往生を信じ、しかるのち、従容(しょうよう)として絞首台へ登っていくことができたというような、いろいろな事例を聴いております。 そこに、魂の救い、神仏のおおいなる慈悲というものを感じるわけでございます。 こういう人たちにあっては、もはやこの世の法、つまり、法律的にはどうにも救いようのないものでありますけれども、それでも仏の救いの掌(て)というものが残されているということをありがたいと思うのであります。
とはいえ、これは臨終にあたっての、この時点での、この人たちへの救いの掌であろうと思います。 ただ思われることは、この事態に至るまでに、つまり、日常においてこれまでに至る間の、いろんな悩み苦しみというものに対する訓え、救いというものはないものかということであります。
これが言うなれば、宗教者の課題であろうと思うのですが、この人間生活の複雑化した現代社会においては、親鸞様がご存世になられたときはまた違う、いわゆるいろんな現代病というのがここにあるわけですが、どのようにお考えでございましょうか。
親鸞: まず、言っておかなければいけないことがあります。 それはすなわち、あなた方生きている人間には、何が善であり、何が悪であるかは、わからないということなのです。 もし親鸞が、何が善であり、何が悪であるかということを言い切れる人間であったなら、親鸞は、一人ひとりの人をつかまえて、「お前はここが悪いから、ここを正せよ」と言ったでありましょう。 しかし、何が善で何が悪かは、人間ではわからないのでござる。これは、神仏のみが知っておられることなのです。
ですから、この世には、悪を犯したと言われて命を奪われる者、悪を犯したといって死刑を宣告される者がいる。 そのような者は、悪を犯す前において、決して幸せであったはずがありません。 人を殺そうと思うような心になるということは、その者が幸せではあり得ないのです。 そこで、その者は、その事実そのものにおいて、すでに罰せられているのです。 人を殺そうという気持ちを起こすということ自体が、すでに罪なのです。そういう気持ちが起きたということは、その者はどれだけ不幸で、どれだけ苦しんでいるかを証するものであります。
あなた方は、幸いにして、人を殺したいとまでは、思ったことがないでしょう。人を憎んだことはあるでしょう。怒ったことはあるでしょう。ただし、人を殺したいとまでは思わなかったはずです。すなわち、あなた方は、それだけ幸福な、幸せな存在なのです。
しかし、人を殺そうと思って殺してしまった人は、その事実、もう消しがたい事実によって、すでに罰せられているのです。 その人がそこに至るまでにおいて、どれだけ多くの人が、その人に対して悪をなしたでありましょう。その人がそこまで至るまでに、一体どれだけの心の遍歴がありましたでしょうか。 その人のご両親、その人の兄妹、その人の親類、その人の先生、その人の友だち、あるいは、道行く人びと、そうした人びとは、その者に対し、慈悲深い行為をしてきたでありましょうか。情深く接したでありましょうか。そうではなかったはずであります。
その者は、すでに罰せられておるのです。死刑にされる前に、すでにもう罰せられているのです。 ですから、その者を、さらに刑務所に入れ、なお生きている命を奪う。これは悪を重ねているようなものであります。 すでに結果です。人を殺すということは、これはもう、死刑と同じです。生きている人間としては、仏性(ぶつしょう)の最悪のところまできているのです。仏性が最悪に曇っておるのです。これだけでも罪です。
殺したいとまでは思わない人は、恵まれた人たちであります。そう思うということだけでも、もう罰せられています。 その人は、人を殺す前において、その罪は、もう贖(あがな)われているのです。それだけ苦しんだ魂です。よくぞそこまで、苦しんだ。 それを赦(ゆる)さないで、責め続けるのは間違っています。魂が苦しんでいるのです。
あなた方は、同じ時代に生きていて、人を殺したいとまでは思わないでしょう。 人を殺したいとまで思わないのは、あなた方が優れているからですか、そうではないはずです。 つまり、あなた方が、それだけ不幸ではないからです。人を殺したいと思うところまで、不幸ではないのです。 実際、人を殺してしまった者は、不幸な方なのです。むしろあなた方は、同情すべきであって、責めたてるのは間違っています。
また、人を裁く人がおります。善人だと思っておるのでしょうか。 私は、職業が悪いとは言いません。ただ、警察官であるとか、検事であるとか、裁判官であるとか、その職業柄、人を裁かねばならぬ人がおります。 この人たちのなかに、悪はないのでしょうか。彼らは、少なくとも人を殺す、殺してしまうほど不幸な人ではないはずです。しかし、情心(なさけごころ)をもって接したでありましょうか。
人を裁き、人を追いつめる立場にある人は、自分自身の心、自分自身の行ないを振り返ってみるべきです。 それを問いつめるだけの優れた自分であるかどうかを、よくよくお考えになればいい。人間、人を裁くことはできないのです。すなわち、本当の世界とは、心の世界なのです。
外見を善人ぶることは、だれでもできます。いや、だれでもではないでしょう。しかし、できる人もいます。 外見を、偉い人であるかのごとく、罪一つ犯さない、虫一匹殺さない人のように、とり繕うことは可能です。 しかし、心の世界は、細(ごま)かすことはできません。神仏の眼から見た人間の心は、一目瞭然(いちもくりょうぜん)です。
「汝らのうちで罪なき者のみ、悪を犯したことがない者のみ、この女に石もて罰せよ」とイエス・キリストは言いました。 キリストは、罪を犯したことのない者と言いましたが、では、もう一歩進めて、「汝らのうちで、悪を思ったことがない者だけ、この悪人を罰しなさい、裁きなさい」と言ったとしたら、裁ける人は一人でもおりますか。 あなたでも、裁けないはずです。あなたも身に覚えがある。心に覚えがあるはずです。
7 この世で失敗を反省できる者は神の愛を受ける
親鸞: 私の悪人正機説は、一見奇異に聞こえるでしょう。悪人こそが救われるなどと言うのは、邪宗そのものに聞こえるでしょう。 善人が救われるのに、悪人が救われないわけはない。悪人こそ救われるのだ。それが弥陀の本願だ。 しかし、このようなことを言って、普通の頭の人が理解できるとは、私は思いません。
それは逆ではないか。善人こそ救われて、悪人は救われない。それが公平な裁きではないか、そう思うでしょう。 しかし悪人は、よいですか、悪人というのは、悪人であるということ自体で、すでにもう罰せられているのです。すでに魂は苦しんでいるのです。 あなた方は、人を殺そうと思うところまで苦しんだことはないのです。ないはずです。いくらあなたがつらい人生を送ったとしても、刃物で人を突き殺そうとまでは思わなかったはずです。すなわち、あなたの魂は、そこまで苦しんだことはないということです。彼らの魂は、そこまで苦しんだ、これが悪人です。
ところが、世の善人たちはどうでしょうか。 自分たちは、法衣を被って、勉強して、その知識でもって淡々と事務処理を進めていきます。裁判官がそうです。 彼は法律をよく勉強して、刑法とかさまざまなものを知って、こういうことをしたらこの罰に相当することがわかっている。ですから、無期懲役であるとか、死刑であるとかを、いとも簡単に、決断を下しているのです。 ところが、悪を犯す人は、そうした法律を学んでさえいません。勉強したこともないのです。自分の行為が、一体どのような罰に当たるのかも知りません。そうしたことすら知らない人を、それを知っている人が裁いておるのです。
それを知っている人は、自らの心のなかに悪がなかったかどうか、一度問うていただきたい。悪は、きっとあるはずです。 心のなかに悪がある者が、他人の悪を責めるということは、私たちの世界、心の世界においては、一体どれだけつらいことであるかを知っていましょうか。わからないからこそ、責めるのです、人を。
よいですか、もし人の心と心が開けっぴろげにわかるならば、罪にうちふるえている人でさえ、それを裁かんとする人びとの心の曇り、誤り、悪を知っているはずです。 そこで、「あんたの心のなかにも、悪はあるじゃないか」と言えるはずです。そのときに、裁きができるでしょうか。 善悪は、人間では決められないのです。決められないのにもかかわらず、現代の人間において、やむを得ず裁きをする人もいましょう。 しかし、これからの人もまた、救うべき立場ではなくて、救われる人です。
これは、何も、法の裁きをする人だけではありません。あなた方の大部分が勤めている会社というところにもあります。 人間は、会社という組織のなかで偉くなっていきます。しかし、出世をしていく途次において、そのなかには、それだけの悪を含んでいるはずであります。栄達した人のかげには数多くの泣いてきた人がいるのです。 たとえば、重役となり、社長となれば、彼らは、すなわち偉い人だとみなされます。本人も偉い人だと思っています。
しかし、世に偉い人と思っている人は、その奥にどれだけ悪を含んでいるでしょうか。 一体何人の人を苦しめてきたか、一体何人の人を人事で左遷(させん)してきたことでしょうか。 平社員で一生終わる人がいます。そういう人は不幸かもしれません。金銭的にも不自由かもしれません。しかし、そういう人は、人の悪口は言えても、人の首を切ったり、人を左遷したりしたことはないはずです。つまり、そういうことは、立場上しなくてもすんだからであります。 ところが、社長と仰(あお)がれるような人は、幾度人の首を切り、幾度人を左遷し、幾度いろいろな家庭に不幸を起こしたことか。しかも、それを本人は善人であり、成功者であると思っておるのです。そして、世の人びとは、社長のようになりたいとうらやましがっているのです。
8 総理経験者が地獄で苦しんでいる理由
親鸞: 親鸞が言う善人、悪人は、今の世で言えば、成功者と、そうでない者であります。こう言えば、あなた方にもわかるでありましょう。
神は失敗した人と成功した人とでは、どちらを救ってくださるでしょうか。 自分の人生は失敗をしたと思っている人、一生平社員で終わった人、会社を首になって職を転々とする人、能力を持ちながらもその芽を伸ばせずして苦しんでいる人、あるいは、能力を持ちながらも家庭環境、病、事故など、さまざまな問題が起きて、その才能を発揮できなかった人。 あるいはまた、若い人たちが今、野球というものにうち興じているが、才能を持った子供が、たまたま晴舞台で怪我をしたがために、プロの選手として活躍する機会を失う。こうしたこともあるのです。
神は一体どちらをいとおしいと思われるでしょうか。仏はどちらを救いたいと思われるでしょうか。 答えはわかっています。すなわち、世の失敗者こそ、神仏が、両手にとって抱きしめたいと思っている人びとなのです。
悪人もまた、悩んでいる人です。悩んでいる人とは、失敗した人です。成功した人ではありません。 成功した人びとは、自叙伝を書いたり、自分の成功談を人に話します。「俺はこうして社長になった」と。 しかし、社長になったときに、どれだけの悪を含んでいるかです。その人は、それをおそらく生涯反省することはないでありましょう。 そして、失敗者たち、成功しなかった人たちは、自分の人生は何とつまらない人生であったことかと思う。一方、成功者たちは、何と素晴らしい人生であったかと、そう思ってその人生を閉じるのです。
しかし、その後の世界においてはどうでしょうか。イエスが言ったとおりです。 すなわち、イエスは、「己れを低くするものは、高くされ、己れを高くするものは、低くされる――」と言いました。そのとおりなのです。 自らの悪を見つめ、自らの弱さを見つめ、自らの悩みを見つめ続けた人こそが、本当に神の愛を受けるにたる人間になるのです。 自らを成功者だと思い、この世的に偉いと思っている人、自分を秀れた人、立派な人、善人だと思っているような人。こうした人たちこそ、この世を去ったときに、反省すべきが多いはずです。
失敗者は、この世において、すでに反省をしておるのです。この世において、なぜ自分は失敗をしたのかということを、日夜考えているのです。 しかし、成功者は、この世においては、なぜ俺は成功したのかという点だけを、日夜考えている。そして、あの世に還って初めて、反省を始めるのです。
世に総理大臣とかいわれる人びとも、そうです。歴代の総理大臣のなかには、今、地獄で呻吟(しんぎん)している者もおります。 しかし、彼らには、その理由がわかりません。 俺は、世のなかで登りつめた人間だ。日本で一番偉かった、一番の成功者だ。その俺が、なぜ地獄にいるのかと考える。 すなわち、自らの成功のみを考え、自らの失敗を知ることが少なかったからです。 しかし、この世で自らの失敗を見つめた人は、あの世で自らの失敗を見つめ続ける必要はないのです。一方、この世で自らの成功を追い求めた者は、あの世で自らの失敗を、心の世界における失敗を知る必要があるのです。それがわかるまでは、反省を続けねばならんのです。
9 失敗したあなた方のために「神仏」の慈悲はある
親鸞: ですから、善人悪人とは、現代でいえば、成功者と失敗者です。 私がもし、現代に生まれたら言うでしょう。失敗した方がたよ、人生に失敗した方がたよ、あなた方のために、神仏の慈悲はあるのです、と。 成功した方がたよ、驕(おご)るなかれ、あなた方は、本当の成功者かどうかはいまだわかりませぬぞ。あの世に還ってみないとわかりませぬぞ。 あなた方の成功のかげに、一体どれだけの悪があったか、一体どれだけの人が涙を流したか。それを知っていますか。私は、そう言いたいのです。
人間心で、どう生きることが神の御意(みこころ)に適(かな)うかをわかる人は立派です。その方は神の心に適った生き方をしてください。 ただ、この世の人間には、何が神の意に適ったかはわからないのです。 わからないのであるならば、謙虚に生きていこうではありませんか。自らを成功者とするのではなくて、神仏の前に、謙虚な自分であろうではありませんか。
人を裁くような人間にならないようにしようではありませんか。人を裁くような人間とは、何でしょうか、それは、善人です。善人が、人を裁くのです。悪人は、人を裁けません。裁かれる立場です。
言葉を換えましょう。成功者が失敗者を裁くのです。人生の成功者が、人生の敗残者を裁くのです。登りつめた人が、落零(おちこぼ)れた人を裁くのです。合格した人が、不合格の人を裁くのです。そうではありませんか。
しかし、私たちは、裁くような人間にはなりたくないものです。裁きには驕りがあります。 神仏の心を分からない人間であるならば、謙虚に生きていこうではありませんか。 失敗者であってもよいではありませんか。成功者であることを祈るよりも、願うよりも、失敗者として自らの罪、自らの失敗、自らの弱さを徹底的にみつめて、どうしようもない自分であるならば、「神仏」のおおいなる慈悲に、任せようではありませんか。お願いしようではありませんか。
生きているうちに、このことに気がついた人は、死んでから気づく人よりも、私は素晴らしいと思います。 その意味においては、『悪人』こそ救われるのです。善人ではなくて、失敗者こそ救われるのです。よいですか、成功者ではなくて、失敗者こそ救われるのです。
イエスが、「金持ちが、天国に入るは、駱駝(らくだ)が針の孔(あな)を通るよりもむずかしい」と言ったのは、このことです。 そして、私が言った、「善人が救われるよりも、悪人のほうが救われる」とは、イエスが言ったことを別の言葉で表したものです。
成功者が救われるのは、駱駝が針の孔を通るよりもむずかしいのです。 成功者であって、しかも、その成功が神の御意にあった成功であるならば、それは素晴らしいものです。神仏の意を体現して、この世に地上天国をつくって、そして、成功された方は、素晴らしいです。おそらくは、悪人たちよりも素晴らしい方でしょう。ですから、あの世へ行っても、偉くなられるでしょう。
しかし、神仏の御意に適った成功が少ないのであるならば、失敗者であることを恥じないで、堂々と胸を張りましょう。そして、そのぶんだけ、神仏をより多く信じましょう。 神と人間では、比較にならないのです。相撲(すもう)する相手ではないのです。神は、人間よりも、はるかに偉大なる力を持っておられるのです。 そのおおいなる力の前に謙虚に平伏(ひれふ)すことです。これが大事なことです。 私の話で、わからないところがあれば、ご質問ください。
10 成功者「松下幸之助」は、なぜ天上界へ昇れるのか
(聞き手): 今まで聖人様が諄々(じゅんじゅん)とお説きくださったことは、あなた様のご法のなかで根幹となるもの、すなわち、「悪人正機説」についてであったと思います。 しかも、『悪人』とは何か、また、『善人』とは何かということについて、往時の社会においての理解の仕方、あるいは、釈迦、イエス様の説かれた喩えなども加えての本義をしてくださりました。 さらに、現代社会における認識、理解の仕方については、『失敗者』と『成功者』、『弱者』と『強者』の立場、理についてお諭(さと)しくださり、ありがとうございました。
『悪人』、今日的な悪人である『弱者』には、救いはないのかといえば、実は、反省という言葉のなかに、弱者にこそ神仏の救い、慈悲があるのだというお教えでございまして、私自身も、常に迷いと、悩みを持つ弱者の一人でもありますもので、わが身にあてはめて、身につまされる思いでございました。 そこで、私が、今一つ考えますのは、昔の衆生、今の大衆庶民が、この世の生を終えるまで、『悪人』、つまり、『弱者』であっていいものか、人間は常に『弱者』で『罪人』であるという意識を持ち続ける、これが、「神仏」の御本意にかなったものなのかということです。
また、さきほどの例にもでました死刑囚が、死期が近づくにつれて教誨師より神仏の救いの、慈悲の話を聴いて悟り、死んで行くという場合に、この罪人は、はたして地獄に堕ちるのか、極楽浄土に迎えられるのか。これらのことが、まださだかにわかりかねていますが、これは如何なるものでしょうか。
親鸞: わかりました。お話ししましょう。私は最初に、「毒矢の喩え」をお話ししました。 親鸞が教えは、毒矢に当たったら、まず、命をとりとめるために応急処置をしなさい、と。それからあとのむずかしいことは、専門家がおるでしょう。こういうことを、私は申し上げました。私の教えは、まさに応急処置であります。
私は善人や悪人ということを言いました。悪人は自ら悪人であるということを知っているからこそ、神仏に近い距離にあるのです。おわかりになりますか。 生きているときに、自らの悪を見つめて、反省する機会があるからこそ、神仏に近いところにいるのです。 善人は、自らの善に驕(おご)って、神仏を考えないからこそ、神仏から遠いところにあるのです。成功者というものは、ある意味では、唯物的なのです。
自力(じりき)というのはね、素晴らしいのですが、自力は、ある意味においては、神仏を否定することになっているのです。
しかし、神仏のお力によって自らが成功したと言っている経営者は、立派な方です。 松下幸之助氏のように、「私が成功したのは、九○パーセントまでが運でありました」と言っている方は、本当のことを知っている方です。 自分自身の力で成功したのではない。神仏や、高級霊たちの力によって、今日の彼の成功はあった。それを彼は知っていて、自らの成功は、九○パーセントが運であったと言っております。彼こそは、名経営者です。こういう人は、地獄へ行くわけはありません。
ところが、たいていの成功者は、そうは思わないのです。 自らが成功したのは、自分が努力をしたからだ。言葉を換えて言うならば、自分が秀れていたから、成功したのだ。世の他の人びとが成功しなかったのは、要するに、努力がたりなかったか、秀れていなかったからだ。人間として劣っていたからなのだ。こう思うのであります。 しかし、こういう人たちは、「天国」には遠いのであります。天国の心から遠いのです。 自らを高しとするもの、自らをしてこの三次元において巨人だと思っている人は、あの世では一番小さな人となるのです。
11 マイナスの人間は零(ゼロ)になっただけで幸せだ
親鸞: ところが、世の失敗者たちは、自らの失敗というものをしっかりと考え、受け止めています。弱さを知っています。自分の弱さを、無力さを知っています。 この点において、反省、要するに反省への“契機”があるということです。また、神仏を知る契機があるということです。 この契機があるということにおいて、神仏に近いところにいるのです。世の失敗者たち、世に失敗を続ける人であるからこそ、神仏への道というのがあるのではないですか。
病気というものを、たとえば『悪』としましょう。そして、いつも健康でいる人を『善』としましょうか。 健康でいる人は、自分が生かされているということがなかなかわからないのです。体が強いだけでね、体が強いということで、感謝を忘れています。当然だと思っています。 体が健康なのは、当然だと思うからこそ、感謝の気持ちがありません。ご両親のおかげ、あるいは、あの世の人たちのおかげで健康なのです。それを忘れています。
ところが、病人というものは、そうではありません。 病人というのは、健康の大切さというのをよく知っています。健康がどれだけありがたいか、それが幸せの基礎であるかということを知っています。 それだけ、こういう人たちは魂の修行をしているのです。感謝をするチャンスがあるのです。ですから、健康になっただけで、こういう人たちは幸せなのです。いわば、マイナスからの出発です。
世にプラスの人間とマイナスの人間がいるかもしれません。プラスの人間は、自分を驕(おご)っているでしょう。 けれども、マイナスの人間は思うでしょう。零(ゼロ)になっただけで、幸せなんですよ、と。実際、マイナスの人間は、零になっただけでも幸せなのです。そして、そう感じている。
そこで、これで幸せを感じる人と、プラスをいくらかでも積まないと幸せを感じない人と、どちらが本当に幸せに近いかです。 ですから、私が「毒矢の喩え」で言ったように、まず、命をとり止めることです。つまり、そういう止血(しけつ)という行為、これは一つの手当の最初であり、きっかけとなるからです。
12 悪人が救われる理由(わけ)
親鸞: あなたは、「悪人が本当に成仏しているか」とおっしゃいました。成仏している場合も、していない場合もあります。それは当然です。 ただ悪人であるということにおいて、神仏の心を知る契機を持っています。そのきっかけを持っています。きっかけを持つとは、すなわち、神仏に近いということです。自分を驕っている善人よりは、そのきっかけがあるだけ、神仏に近い。
病気の人よりも、神仏を知る近道があるのです。 だれもが、病気をして、神や仏のことを考えるのではありません。健康で、何もかもうまくいっているときには、何も考えないはずです。 ところが、病を得て初めて、宗教というものを知ることができるのではないですか。医者に見放されて初めて、宗教というものを勉強し始めるのではないですか。
つまり、悪のなかに、神仏への近道、契機があるということです。 ただ、この契機、きっかけを生かし得る人と、そうでない人がいるでしょう。 ですから、結局、その後の人生、あるいは死後の人生は、そのきっかけを十分に生かし得たかどうかです。それによって、変わってきます。
『毒矢』が当たっても、止血することはできます。ただし、止血のままで放っておいたのではよくありません。手当が必要です。看護が大事です。あとのことが大事なのです。ですから、腕を縛っておくだけではいけないのです。さらに先のことが大事なのです。
すなわち、「悪人正機説」とは、正しく救われるきっかけであるということです。 きっかけだということ、すなわち、きっかけを授(さず)かっているだけ悪人は、天国に近いのだということです。 死後、あの世できっかけが与えられるよりも、生きているこの世において、きっかけが与えられている。この世に失敗することにおいて、初めて、神仏を知るチャンスがある。 これは、『失敗礼讃』ではありません。『病気礼讃』ではありません。そういうことと間違っていただいては困ります。
ただ、失敗者のなかには、神仏に目覚めるチャンスがあるということです。 一部の優れた人たちを、私は否定はしません。神仏の御意に適って成功している人、自力で成功を収める人、そういう人たちもいることを、私は知っております。 しかし、そういう方は、そういう方です。
泳ぎの達人は、救う必要がありません。私が言っているのは、溺れそうな人です。泳ぎの達人に、私は説いているのではないのです。 ですから、現代の方がたに言うなら、失敗しているから救われるわけではありません、と。 失敗しているから、救われる契機がそれだけ多く与えられているのです。病気をしているから、それだけ本当の心の世界で救われるチャンスが与えられているのです。 つまり、健康な人以上に、それを忘れるなということです。むしろ、あなた方は、恵まれた方なのです。神仏の慈悲を受けるきっかけを持っている。ない人よりも、自分の力だけで、健康保険だけで生きている人よりは、神の保険にかかっている人のほうが素晴らしい。そういうことです。
13 「悪人正機説」の間違いやすいところ
(聞き手): そこのところが、とかく現代人の間違いやすいところだと思います。この「悪人正機説(あくにんしょうきせつ)」については……。
親鸞: 悪を犯せば救われるというわけではありません。
(聞き手): それをですね、“罪人礼讃”“受難礼讃”というふうに解釈し、そのように誤解されると、これは大変な間違いになるということですね。
親鸞: そうです。止血の方法を知っているからといって、毒矢をいくらでも受けていいわけではありません。そうでしょう。 毒を消す薬があるからといって、毒薬をいくらでも飲む人は馬鹿です。 よく効く注射があるからといって、病に自ら罹(かか)る人がいますか。よく効く風邪薬があるからといって、裸でですよ、酷寒の川のなかで坐っている人は馬鹿です。 風邪薬があるから、風邪をひいても癒(なお)せる。よく効く薬があるから、裸で水のなかに入っても平気だ。こういう人は馬鹿です。風邪をひかないように注意をするのが当然です。
同じように、悪人でも救われるからといって、悪を犯そうという人は馬鹿であります。 もっと悪を犯すれば犯すほど、きっかけがあるのではないかと、それで悪を犯すような人は、これは間違っています。 それは、たとえ溺れかけていても救ってくれるからといって、わざわざ溺れる危険性のある急流のなかに身を投げ込む人と同じです。 どうせ救ってくださるのだから、死にそうなら死にそうなほど、一番に救ってくださるなら、一番救いにくそうなところで溺れてみよう、と。こんなことをする人は馬鹿です。そこを間違ってはいけないのです。そこを間違う者は愚かです。知恵がたりないのです。
(聞き手): 親鸞様がおっしゃることが、よくわかりました。
14 現代のバベルの塔「唯物科学至上主義」は、邪神バールの化身
親鸞: ですから、あなた方の時代において、他力信仰ということをどうとらえるかは、むずかしいです。 現代では、『南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)』を唱(とな)えて救われるとは、だれも思わないでしょう。「阿弥陀仏」という方がどういう人かわからないでありましょう。 しかしね、私は思うのです。今のあなた方は、昔にくらべて進歩をしているように思っているかもしれません。 けれども、鎌倉の時代には、少なくとも、『南無阿弥陀仏』と称えられたらという素朴な宗教心を持った人びとがいたということです。
今の世の中で、神仏の力、神仏 submerged 護というものを信じている人はどれだけいますか。世はもっと哀れな状態になっているのです。 こうしたときに、本当の意味での神仏の加護を、神仏の力というものを知るきっかけとは何でしょう。
あなたは、すでに想像が働いてきたはずです。 災害が起こり、天変地異が起こり、人知を越えた異常が起きたときになって初めて、人間は、「これは私たちの努力では、私たちの知識では、私たちの力では、どうにも救われない」と思い始めます。 成功繁栄をしているときには、そうは考えないのです。
これからそういう時代がきます。今後十年、二十年のうちに、世界的な大混乱が起きてきます。さまざまな不幸や、災害が起きるでありましょう。 不幸や災害は、それ自体としては、悪いことであります。ただそのなかで、人びとは神仏の力というものを信じることを始めるでありましょう。
現代の人びとは、ある意味において、「バベルの塔」を築こうとしているのです。 人間が、自らの力を過信して、神に近づくとどうなるか。 神が雲の上にいたとしたら、バベルの塔を築いて、もう神様と対等になった、と。 「よし、神様と対等に話をしよう」と思っていると、一夜にして、雷が落ちて、バベルの塔は崩れていったのです。 そして、人びとはお互いに異なった言葉を話し始めて、お互いの意志疎通(いしそつう)ができなくなっていったのです。これがバベルの塔の話であります。
これは旧約聖書にある話ですが、同じであります。現代においてもまた、人びとはバベルの塔を築こうとしています。 現代のバベルの塔とは何か。唯物(ゆいぶつ)科学至上主義であります。 世の中に不思議など何もないのだ、すべて科学で解明できるのだという思い、これが現代のバベルの塔なのです。
たとえば、子供というのは簡単だ、と。精子と卵子を試験管のなかで交配すれば子供ができるのだ。神秘でも何でもない。生まれてくる前に、男女の区別はすでに図く。産みわけもできる。神様を信じる時代ではなくなった。神様、男の子をください、女の子をくださいと祈る時代ではない。 遺伝子の組替えでいろんな生物ができるようになったのだ、と。 一方では、心霊現象などまったく否定して、そんなものはない、科学の領野の外にあるものは何もないのだと言う人もいるでしょう。四次元以上の世界といっても、そんなものはわからない。それは物理学だけが解明できるのだ。そう思っている人もいるでしょう。
こういう人びとは、日々にバベルの塔を築いているのです。 魂の本質を知らず、霊を知らず、あの世のことも知らないで、自分らこそを最高だと思っておるのです。 原始人たちは、素朴なシャーマニズムを信じる。だから、霊魂信仰があったと、これを嘲笑っておるのです。 しかし、現代人たちは、ある意味において、南方未開の住民にも劣るのです。
これもまた、善人と悪人で話ができます。すなわち、現代人、文明人は善人、南方住民は悪人だ、と。そうとらえることもできるでしょう。南方住民たちは救われないと思っているのかもしれません。 しかし、物質文明に恵まれている人だけが、救われるのでしょうか。幸せなのでしょうか。 素朴なアフリカの原住民もおります。彼らは信仰を持っています。死後の世界があることを知っています。はっきりと知っているのです。
つまり、現代のバベルの塔を築いている人は、それにも劣るのです。 大学で五年、十年と学問をやって、教授とかいうものをやっている人が、霊魂も知らないのです。「あの世などあるはずがない」と言っている。 インテリと称する人たちは、素朴な原住民にも敵わない(かなわない)ような、そういうみじめな精神生活をしておるのです。
これもまた、親鸞が言う『善人』『悪人』であります。 自らを善人だと思っている、あるいは、自らを知識人だと思っている人が、自分たちより無知だと見下し、同じ人間だと思えない、彼らが類人猿に近いと思っているような人よりも、真実は劣っているのです。 素朴な彼らが天国へ行って、大知識だと自らを思っているような人が、地獄で苦しんでいるのです。
日本を代表するような学者が、数多く地獄にいるのを知っています。 彼らは、唯物思想に染まって、生きているときには、「霊なんてないのだ。神仏などあり得ない。科学が万能だ。技術こそが万能だ。すべては、人間の脳味噌で考えるのだ。脳細胞が考えるのだ」と、そんなことを信じていた。そして、そうしたことを、多くの人に教えてきました。 科学者で唯物思想を一生懸命に学生に教え込んでいる人たち、こういう人たちは、ある意味において、かつての宗教家が邪宗を説いたのと同じなのです。 すなわち、間違った説教において、人びとの魂を腐らしているのです。 そういう意味において、間違った宗教家が地獄に堕ちているのと、間違った唯物思想を持って人びとを教導(きょうどう)している人たちが地獄に行くのとは、同じであります。行く先は同じく、無間(むけん)地獄であります。
霊的なものを知らない、神仏を知らないのは最大の罪なのだということがわかっていない。神仏を知らない人が、人を裁いている。最大の悪人が、ちっちゃな悪人を裁いているのです。
「悪人正機説」は、ここにもまた、あるのです。 未開だと思う人のほうが救われて、文明人だと思う人が救われていないのです。 その素朴さを嘲笑う人たちこそが悟りに一番遠く、神仏に一番遠いのです。 やがて、現代人がつくった“バベルの塔”は滅びていくでありましょう。現代文明の粋(すい)を集めたものが、崩壊していくでありましょう。
本書の読者の皆さんは、親鸞が今だに日本の仏教の枠のなかにあると思いきや。私は、現代のことを知っているのです。 過日は、ソ連で、原子力発電所が事故を起こしました。これを偶然だと思っているのでしょうか。これもまた、“バベルの塔”が滅びていく前兆なのです。 現代の科学の粋を集めている原子力発電の威信、これが一挙に崩れていきました。 あるいは、アメリカで打ち上げた宇宙船が、一瞬ののちに、バラバラとなって天空で飛散してしまいました。これとて、前兆なのです。これから起きる大きな事件の前兆なのです。
人びとは、まずそれに気づかなくてはいけません。そうした大きな不幸が起きる前に、過去においても、さまざまな前兆があったのです。 現代人たちは、その警鐘(けいしょう)に気がつかねばなりません。自らが過信しているものが、どれだけ脆弱(ぜいじゃく)な基盤に立っておるのかということを知らねばならないときがきているのです。
かつて、バベルの塔のときに、異端の信仰がありました。これは唯物的な神でありました。 このときの神は、“バールの神”という名の神でありました。邪神であります。 このバールの神を人びとは信じました。バールの神を拝めば、何でもかでも手に入る、と。こういう信仰が、昔、あったのです。 唯物信仰です。形を換えた唯物信仰が、バールなのです。バールの神であったわけです。 真実の神は、バールの神を雷でもって、退治をされました。 現代もまた、バールの神がでているのです。唯物主義という、科学万能という名のバールの神です。
これが一つの信仰であることを、これが異端の信仰であることを、人びとは気がついていないのです。 教科書に唯物論を採って、進化論を採って、霊魂などは、昔の人の笑い話だと書いておるような人は、やがて自分がどのような運命を辿(たど)るかということを、気づかねばならないと思います。 現代でも、自分が優れた善人だと思っている人こそ、神に遠いということを忘れてはなりません。 まだ何か質問があったら、続けてください。
15 仏法者の肉食妻帯是非論について
(聞き手): 非常に深遠なるお教えを、現代の世相、世情にまで敷衍(ふえん)してお説きいただきまして、ありがとうございました。 現代の信仰者、あるいは、宗教者としても、また、真宗の僧侶学者の方たちであっても、今日の親鸞聖人がこのような人間の「善悪」論にもとづく信仰の真髄をお説きくださるとは、おそらく夢にも思っていなかったことだろうと思います。大いなる啓発であったとぞんじます。
ほかにおたずねしたいことも一、二ございます。 これは、今では法の根幹に触れる問題ではありませんが……、当時においては、僧侶の肉食妻帯(にくじきさいたい)ということは、異形なことであっただろうと思われますが、聖人様以来、真宗はもとより、他宗の僧まで、この“肉食妻帯”を否定はしなくなり、現今にいたっております。 しかし、この肉食妻帯を「是」となさった当時の聖人様のお心のうちは、如何なるものがあったのでしょうか。その辺のご事情について、おうかがいいたします。
親鸞: この「肉食妻帯」に関しては、さまざまな議論がありました。こちらの世界、あの世においてもまた、議論が多かったのであります。
私もこちらに還って来てから、さまざまな宗教家たちから、ずいぶん詰め寄られました。「親鸞よ、お前がために日本の仏法は滅びた」と。私は、ずいぶんたくさんの方から、このように言われました。 私の時代以降、人間はほしいままにしても、仏のみうちに仕えることができるのだという、そういう考えを持つ人が、宗派を越えて増えてきました。肉食妻帯しているのは、決して真宗だけではございません。親鸞以降、他の宗派の方がたも、そうなったのです。 そういうことにおいて、他宗を興した方がたからは、私は、ずいぶん批判を受けました。
「お前の教えを信ずる者だけが肉食妻帯するのは、けっこうである。けれども、われらが教えを信ずる者までが、お前の真似をし、肉食妻帯をしておるではないか。そのおかげで、われらの教えが、だんだんと衰えてきたではないか」と。こうしたことを、私はずいぶんこちらで言われました。確かに、当たっていることもたくさんございますでしょう。
親鸞は、自らが重病人であり、重罪人でありましたから、自らがどうすれば救われるのかを、一生懸命考えており、また自らの罪のなかを生きておりました。 世においては、要するに私は失敗者であったわけです。大失敗者であった。 ですから、私は大失敗者の道を説いたのであります。大失敗者においても、逆転をする道、逆境を跳ね返す道があるということを説いたのが、私の教えでありました。 それを間違えて、世に成功すべき人たちが失敗者の真似をし始めたら、これは世の中、困ってしまいます。こういうことを、ずいぶん言われました。
私は失敗者です。私は成功者だとは思っていません。失敗者である私が、神仏に近づく道を説いたのです。それを、成功しようとしている人が間違えてしまっているわけです。 私は肉食をしました。妻帯をしました。ですから、私は人一倍罪深い人間だと思って、神仏への、「阿弥陀」への信仰をいっそう深めたのであります。これは、私にとって、一つの契機でありました。
しかし、単に肉食をし、妻帯をしただけで終わっていたならば、私はどっちへ行っているかわかりません。私はそれを契機として、神仏の信仰を深めたのです。 世の中に、現われたさまざまなこと、さまざまな現象、さまざまな事件があります。ただ、それをどう咀嚼(そしゃく)し、どう自分の血肉にして、よき方向へ伸ばしていくかです。 修行者が単に肉欲に耽(ふけ)り、食道楽に耽っていくだけであれば、これらのものが行くのは地獄そのものであります。
親鸞は、堕落せよと言っているのではないのです。たとえ堕落した自分であっても、神仏を信じて立ち直りなさいと教えているのです。 堕落せよとは言っていません。堕落を奨めているのではありません。そういう方がたは、自ら救いにくい急流に身を投じて、「では、救ってみろ」と言っている人と同じであります。これは何かと言うと、結局は、神仏を試しているのと同じです。悪魔の声と同じです。
悪魔がイエス・キリストの前に現われて、「汝、もし神の子ならば、命じてこれらの石をパンとならしめよ」「汝もし神の子であるならば、聖書にあるように、この丘の頂より飛び下りるとも死すことあるまじき」―――――このようなことを、悪魔はイエスに囁(ささや)きました。 イエスはこのときに言いました。「汝の主なる神を試すなかれと、また聖書には書いてある」とイエスはそう答えたはずです。
同じであります。悪人だからといって悪を犯す人、堕落しても救われる道があるからといって、自ら堕落の道を選ぶ人、こうした人びとは、「石をパンに変えよ」と言った悪魔と同じであります。また、「神を試すなかれ」という訓(おし)えも忘れてはなりません。
ですから、今、宗教家のなかで堕落している者がいたならば、親鸞が教えを間違って理解して、堕落の奨めのように思っているかどうかを反省していただきたい。 堕落、すなわち成仏と、私は言っているのではないのです。それはまた、神仏を試しているということになってしまいます。そのような騙(だま)しにのってはいけない。 神仏は石をパンに変える力を持っているか――持っております。それだけの力は持っております。 ならば、神仏はすべての石をパンにするか――これはしません。神仏は、必要のないことはしないからです。また、人間心で試してはいけないのです。それもまた、“バベルの塔”であります。神を侵さんとする考えであります。
一般的なことを申しましょう。肉食を断てば、地獄に堕ちるわけではありません。妻帯をしたとて、地獄に堕ちるわけではありません。それは確かなことです。 ただ、欲をどうとらえるかということです。釈迦の時代にも、肉食はなるべく避けました。また、妻帯が、やはり妨げになるということは、釈迦も知っておりました。 しかし、釈迦がやったことをそのまま真似てはいけないのです。そこには、やむを得ずしたことと、好んでしたこととの違いがあるのです。
釈尊たちが肉食をしなかった理由は、肉食をしていると煩悩(ぼんのう)がつのるからであります。 肉食をすると、煩悩の働きが強くなる。しかし、なるべくこれを遠避けて、菜食にしたならば、体の活動がそう活発にならずに、瞑想に適した生活が送れる。 このような一つの知恵として、肉食を断ったのです。 ですから、肉食をすれば地獄に堕ちるとか、肉食をすれば悟れないとかいうことではないのです。それは一つの方法論であったわけです。 肉食をしても、悟れる人はいくらでもいるのです。肉食をしても、けっこうです。それだけ厳しい修行をすればよろしいのです。
また、妻帯にしても同じです。夫婦相和して、信仰心があって、同じ神の道を求めるならば、妻帯することはいっそう信仰を強めることになります。 今の世の中を見ていても、夫婦ともに同じ信仰を持って道に励んでいる人たちは、私たちの眼から見ていても、これは微笑(ほほえ)ましいものです。 夫婦相和して神社で掌(て)を合わしている姿、夫婦相和して一つの宗教を信じて一緒に努力している姿、夫婦相和して土曜日、日曜日にさまざまな人を導いている姿。こういう姿を見ていると、私たちは、非常に微笑ましく思います。 雄の鳩と、雌の鳩が一緒に空を翔(と)んだほうが美しく見えます。神様、仏様というのは、決してそういうことを否定はしていないのです。
ただ、これは一般的な手段であり、警告でもあったのです。 肉を食べると煩悩がつのるので、なるべく避けたほうがいい、避けたほうがよいであろうということなのです。 あるいは、妻を持つとなかなか修行がしにくいから、なるべく持たないほうがいいだろうということです。修行のなかには、『瞑想』があります。あるいは一人だけで、『坐禅』に耽ることもありましょう。神と対話するということは、やはり一人になるという必要があります。 ところが、家庭を持つと、どうしても世俗のなかに紛(まぎ)れるという機会がある。しかも、理解のない人を妻とすると、それはまた、その道の非常な妨(さまた)げとなります。しかし、理解をする人が妻であるならば、それはけっけうです。
妻帯のもう一つの問題点は、経済的な問題であります。 男はいつの時代でも、やはり経済的な柱になるように期待をされております。そのときに、経済的な柱になる人が、神仏の道に走ると、神仏の道にはなかなか金銭的余裕というものがありませぬから、その部分がむずかしくなる。結局、家庭不和になり、両方ともがどっちつかずになることが多いということもあるからです。
神仏の道を求めても、金銭的、経済的に苦労されない方は、恵まれた方でありますが、実際上は、むずかしい。このように、一般的に理解のない人が多く、理解のない妻が多いであろうということです。あるいは、夫がそれに走ると経済生活がうまくいかないであろうということです。 こういうことを考えて、まあ、妻帯をしないほうが悟りはしやすいし、修行はしやすい。自由に働ける、と。こういうことがあったわけです。ただこれも、協力をしあっていけば、さらに素晴らしいものができることは当然です。肉食と同様です。
逆に、今の時代に菜食ばかりしていたら、全国各地を、巡錫(じゅんしゃく)して廻るのはむずかしいぐらいです。エネルギーがいるのです。 豆腐と胡麻の油ばっかりを食べていたのでは、人間は活力がでてきません。それはあくまでも現象なのですから、それにとらわれてはいけないのです。そのほうが、ときには、悟りやすかったということにすぎません。現実にも、僧侶で悪妻を貰って、堕落した人はいます。あるいは、食べたいものをいっぱい食べて、全然努力をしない人もいます。
けれどもね、そういうことは、別に仏教の世界でなくても、仏の世界でなくても、普通のところにもあるはずです。普通の事務所でも、事業家でも、他の道を行く人でもそうです。 結婚したために苦しいというのはね、音楽家だってそうです。音楽家とか画家とか、こういう道を求めている人たちは、結婚することによって、さまざまな問題がでてきます。しかし、それは何でも同じです。 学問をする人もそうです。学者でもそうですね。独身時代には、貧乏であっても、本だけ買っていればよかった。ところが、結婚したばっかりに、さまざまな費用がいるようになって、そのため、本が十分に買えなくなる。だから、独身でいたほうがいい、と。こう考える学者もいます。まあ、そうしたものです。
ただ、これは、あまり一般的なことではありません。ですから、現代の人びとに言うならば、まあ、こういう時代ですから、結婚したほうがいいと私は思います。 しかし、そうしなくてもいける方であるならば、神仏の道一筋でいったほうがいい。 とはいえ、現実には誘惑も多い。実際、男と女が三十にも四十にもなって、いつまでも独身でいれば、誘惑も多いし、逆に、それが堕落の契機になるでしょう。また、世間のいろんな声が聞こえてきて、修行の妨げになることもあるでしょう。 ですから、好ましい方法は、同じ道を求める者同士が結婚して、一緒に生活するということです。
そのためには、あなた方がしっかり努力することが大切です。 「信仰を持つということは、普通の人間がすることなんですよ」「まっとうな人間が神や仏を信じていいのですよ」――ということを、あなた方がしっかり言うべきなのです。 神仏の道を信ずるのは特殊な人間ばかりのような印象を与えているから、苦しいのです。これは普通の人、だれでもあたりまえのことなのです。そういうことを、あなた方が、しっかりと説いていただきたい。そうすれば、同じ道に入っていく人びとが多くなるでしょう。 こういう宗教というものを、神や仏のことを悟るのが常識だとするような、そういう世の中を、頑張って早くつくってあげてください。馬鹿な科学主義ばかりが蔓延(まんえん)して、人びとを狂わしておるのです。そのような狂った人が多いから、本当の道を行く人が、間違った方向へ行ってしまうのです。
16 「他力本願」の本当の意味
(聞き手): 現代でも、「真宗」の方たちは、親鸞聖人のお教えの根幹にあるものは、他力本願(たりきほんがん)の教えであるとしております。この「他力本願」ということについては、如何でしょうか。 私は、この他力とは、自力に対する相対的な認識であるのか、それとも、この「他力」とは、自力、他力を超えた根源なるものの「絶対力」に帰依(きえ)するということを「本願」とみたてまつることが本来ではなかろうかと思うのでありますが……。
親鸞: これはね、時代によるものです。 たとえば、私たちの鎌倉時代には、この世的には、あなた方が、今計画しているような「仏国土」をつくれるような状態ではなかった。ですから、この世に生きている人びとにあの世があるのだということをまず悟らして、そのことを悟った上で生きていく心がまえを説いたのです。 この世に仏国土をつくるのはもうむずかしい、そういう末法の時代だった。したがって、せめてあの世で成仏してもらえるようにと、その心がまえを説いたわけです。
そこで、この世的なことを否定して、あの世的なものへと、他力へとなったわけです。 ところが、現代のような時代では、あなた方の使命は、この地上に仏国土をつくることです。そうであるならば、この世を一途に否定して、あの世のことばかり言っているだけではいけません。この世も、あの世も、両方ともによくなっていかなければならないのです。 ですから、この世をよくしていくためには、もちろん、各人の努力もいるでありましょう。
(聞き手): つまり、時代背景、環境というものを考えなければいけないということですね。
親鸞: 他力といっても、自力を排斥するものではありません。さきほども、私は言ったはずです。 自ら泳いで岸まで渡っていける人は、それはそれで素晴らしい方です。それを批判するつもりはございません。自ら泳いでいける人と、救ってもらう人とがいて、みな岸辺に上がってくることができるのです。
岸辺に上がる、すなわち救われるとは、昔においては、あの世に成仏するという意味でした。浄土に入るということであったのですが、今の時代では、この世もまた、よくしていくという時代であるということです。
(聞き手): 川の深みの急流へ、だれでもかれでもが入っても、『弥陀(みだ)』が救ってくださるのだから大丈夫だというふうに他力の教えを誤解してはならないというお諭(さと)しであったと思います。 また、これは、『神』を試そうとすることになるのと同じだと、イエス様のお訓えを通してお説きになられました。このように、ただ単に言葉だけにとらわれてはならないのだということでございましたね。
親鸞: そうです。キリスト教でたとえれば、アーメンと言えば救われるというわけではありません。 ただ、アーメンのなかには、深いものがあるということです。神に帰依(きえ)するという深い気持ちがあります。他力なしの宗教はないのです。
すなわち、宗教とは、結局、死後の世界のことを教える学問だからです。死後のことを言わない宗教がありますか。死後のことを言わないのだったら、それは宗教ではないはずです。
(聞き手): それは、宗教ではなくて、そういう『道学』ですね、道学になってしまいます。『処生訓』です。私たちが言っているのは、処生訓ではないのです。「宗教」でないものとの違いは、あの世の話があるか、ないかです。
17 親鸞は前世でイエスの弟子パウロとして生まれ、信仰の大切さを説いた
(聞き手): いろいろのお教えをありがとうございました。これは、親鸞聖人のお教えの本義を、現代人が現代的に解釈できる貴重なお説であったと、このように思います。 現代において、浄土真宗の方がた、あるいはまた、親鸞聖人をお慕いしている方がたが、親鸞聖人の『真宗』の教えというものを本当に理解できるということをわからせていただいたということは、おそらく今回のご霊訓をもって最初となったであろうとぞんじます。
親鸞: ですから、私は、現代の人に『南無阿弥陀仏』を唱えなさいとは言いません。 ただ神仏の大いなる慈悲、力というものを忘れるなということです。科学万能に陥ってはいけない。神仏の力、大いなる慈悲というものを忘れてはいけないよ。それほど自分を過信してはいけないよ、と。私は、そう言いたいのです。
親鸞より前に、過去世において、私は、イエスの弟子のパウロとして生まれたことがございます。そのときにも、私はそれを説きました。 「人びとよ、増長慢(ぞうちょうまん)になるな。自分の力でこの世的なことをやっていけると思うな。神の力は偉大なものなのだ。もっと信仰しなさい」と。
私は、いつの時代に生まれても、信仰の大切さ、信じるということの大切さを教えているのです。信じるということなくしては、あの世のことはわからないのです。 私は、「阿弥陀如来」がだれであるとか、そうしたことを言うつもりはありません。ただ、神仏はあり、神仏の側近き高級霊はあるのだということ、これを信じなさいと言いたいのです。
科学的に解明できるまでは、信じないとかいうのは、間違っています。これは証明できることではないのです。学問ではないのです。あの世のことは、手に取るようにはわかりません。だからこそ、信じること、信仰ということが大事なのです。私たちが言っていることを、どうか信じていただきたい。
パウロとして生まれたときに、私は、「贖罪説(しょくざいせつ)」を言いました。すなわち、イエスの死によって人びとの罪は贖(あがな)われたのだと、そう言いました。 しかし、これも、私の「悪人正機説」と同じように、のちの世にいろいろと誤解をされておるようです。 私がパウロとして生まれていたときに言った贖罪説もやはり同じです。つまり、イエスという偉大な方がでて、神の力というものをお示しになったのである。こういうお示しになったということを、信じることによって、人間は救われていくんだ。信仰が大事です、と。結局、親鸞は、同じことを言っておるわけです。
私の言ったのは、要するに釈尊の慈悲の意味を、また、当時の鎌倉的なるものを、現代的に説明したということなのです。今の時代でいうならばどうなるか。それを、あなた方は、今、担(にな)っているのです。
あなた方は、釈尊が説いた慈悲を、今説くとするならば、あの世の世界の神秘、その仕組みがあるために、この世がこのようになっているのだということを、しっかりと人びとに説く必要がありましょう。
(聞き手): 本日は長時間にわたり、ご高説を賜り、ありがとうございました。――――合掌 (本章は、一九八六年八月六日の霊示)
第2章 唯円上人の霊訓
1 「歎異抄」は親鸞聖人のすべての教えではなかった
唯円:唯円、唯円でございます。
聞き手:わかりました。かねてより、お噂はいたしておりましたが、実はこのたび、親鸞聖人様を始めとする真宗の教祖の方がた、まあ、こういう方がたをお招きして、真宗の教え、また、この他力信仰の真髄というものを現世の人びとに対しお知らせして、ご理解を深めていただこうという気持ちで、皆様のご高見をうかがっているのでございます。
つきましては、ご案内の「歎異抄」の作者であられる唯円様におでましを願うて、この辺の事情なり、いろいろのことにつきまして、おたずねいたしたいと思いますのですが、お教え願えますでしょうか。
まあ、現在の在家の人びとは、親鸞聖人のお説きになられた他力本願という信仰の基礎を、まずあなた様が編纂されました「歎異抄」を通して、多く理解しておるということが第一でございます。そういう意味で、この「歎異抄」に著わされている信仰の本旨について、その辺の内容なり、理解の深め方について、しばしお話をうかがわせていただけたら、人びとの理解もいっそう深いものになろうかと思いますので、よろしくお願いいたします。
唯円:「歎異抄」そのものについては、あれこれということはございません。これは、私自身の思想などほとんどないわけであって、聴き語りであります。聴き語りということであって、私自身の思想でもないし、ただ、親鸞聖人様がお偉かっただけであります。
そういうことで、私自身はどうこうということではないのであって、それを単に取りまとめたということだけであります。親鸞聖人様のお考えというのはもっと広く、もっと高い、もっと深いものであられた。
それを、私が、たまたまそうした小さな書物にまとめたために、聖人様のお考えがその範囲にとどまっておられるかのように、のちの世に誤解されたことを、私は大変恥じております。これはほんの一端であって、親鸞聖人様が唯円に対して、わかりやすく言ってくださったことだけでありまして、聖人様のお考えは、もっともっと深く、広く、高いものです。
ですから、私の書き方、私の編集の仕方次第で、のちの世の人びとから親鸞様のご思想が、その辺にとどまっていると思われるのは、大変申しわけないと思います。また、あなた方もごぞんじでありましょうが、教えというものは、相手にあわせて説かれるものであります。
今、さまざまな聖霊が降臨されて、あなた方に対して教えを説いておられますが、その教えの内容というのは、聴き手であるあなた方というのを意識した内容にしかすぎないのであります。したがって、あなた方にわかる範囲のことしか言えない。それ以下でもなければ、以上でもない。
そういうことで、聖賢たちはもっと高い、幽遠な話があったとしても、それはやはり、あなたに理解できる範囲でしかあり得ないということです。
まあ、唯円という人間は、あなた方ほどの知識も教養もない人間でありましたから、親鸞様は、この唯円にわかるように、噛んで含めるようにお教えくださったものでございます。ですから、そのご思想が非常にやさしいもののように感じられるかもしれませんけれども、それは唯円の責任であって、親鸞様のご責任ではありません。どうかそれを、世の人びとは間違えないでいただきたいと思います。
あくまでも唯円という頭の悪い愚僧を相手にお説きになられたお話なのです。すなわち、私程度の人間に対しては同じようなことが言えるでありましょうが、私より優れた方に対しては、お聖人様は、もっともっとむずかしいお話をされていたのであります。ですから、あれでもって、聖人様のすべてのお考えだと思うのは間違っております。
聞き手:それでは、あなた様は、その後、天上界におかれましてもやはり、”法”のことについて何か特殊な観点からのご研究を深めておられるわけでしょうか。とくに親鸞聖人のお教えについてそれを深く研究なさっておられるということでしょうか。
2 唯円上人たちは悪のどん底から「回心」して救われる道を説いた
唯円:そうではございません。天上界では、やはり自由自在でございますから、さまざまな方のお話をうかがっております。ただ、天上界でも、いろいろグループがございまして、如何にして人びとに法を説くかという、これは方法論ですね、それが日夜研究されております。
たとえば、人に法を説くときに、孔子様のような聖人としての道ですね、すなわち、聖人になられて、その尊いお徳で、徳で人びとを教化、感化するという説き方もあります。
また、仏教者たちの多くがそうであったように、まあ、精進というようなことを通して――努力の教えですね――人びとを導くというようなやり方もございました。
あるいはまた、もう一つのやり方がございました。すなわちそれは、大変な悪人になり、大変な愚僧として生まれたけれども、あるきっかけがあり、「回心」して、「廻心」をして神、仏への道へ向うということです。そういうことを、研究している方もまたいるのです。
親鸞様とか、私とかもそうです。「悪人正機説」とかいろいろ言われておりますが、それはね、ただ単に悪人が一般的に救われるという教えを考えたのではないのです。
そうではなくて、親鸞様もそうではありましたでしょうし、まあ、師匠と私とでは話が違うかもしれませんが、私も大変な悪人であったわけです。そういう悪人でも救われるという説をつくった理由の一つは、私たち自身がそういう悪人であって、それを「念仏」というものを通して「廻心」ということを経験した。このことが大事なわけであります。
ですから、これも一つでしてね、世の中に優れた人の感化を受けて、秀れた人として生きていく、そういう人も多いでしょうが、すでに気がついたときには、自分は罪のなかにどっぷりと漬かっていたと、こうした方も多いのです。
すでに宗教的なものに触れたときには、四十、五十と大変な悪業をも続けていたという人にとっては、もう救いはないのだろうか。孔子様のような聖人にはもうとてもなれない。イエス様のような聖人にもなれない。
しかし、罪なくして死ぬような人はありません。そこで、罪を数多くつくった人、こういう人にとっても救いの道はあるのか、と。こういうことを考えたのが私たちのグループなのです。
人の救いとひとくちにいっても、普通の人を救うのと、あるいは悩みの底、どん底、悪のどん底にいる人まで救うのか、――――こういう方法論がいろいろあるわけです。
そして、私たちが重視しているのは、その「回心」「廻心」の原理なのですね。これを非常に重要なこととしています。というのは、この地上に生まれた人たちというのは、どうしても盲目になりがちです。眼が見えません。「神理」というのがわからないのです。神仏というのがわからないのです。
ただ、神仏の摂理というのは非常に巧妙にできていまして、その何十年かの人生のなかにおいて、必ずどこかで何か気づくような、そういうきっかけというものがある。必ずどんな人間にも、宗教的な真理に触れるきっかけというものがある。そうしたものを与えられているのです。
それが、たとえば病気であろうし、たとえば人生に挫折することであろうし、たとえば一つの素晴らしい出会いであろうし、たとえば“奇蹟”を目撃したりするようなことであろうし、と。このように、いろんなきっかけがありますが、いずれの場合であっても、神仏は、必ず宗教的な真理に触れる局面というのを用意してくださっているのです。すべての人にね。
そしてそのときに、一つの「廻心」ですね、心の向きがくるっと変わる。そうした大切な瞬間というものを、設けておられます。この「回心」「廻心」の原理というのは、一つの悟りへの道だということです。
そして、生きているうちに、この回心を経験した人は、もちろん天国へ行くことができるわけです。しかし、死んで、地獄へ堕ちる方であっても、地獄界で、回心ですね、心を入れかえる、反省するなり、あるいは、神仏にお願いして、謙虚に自分というものを見直すなりすれば救われるでしょう。そういう回心というものを通さずしては、地獄から天国へ行くことはできません。
ですから、この回心の原理は、地上に生きてるときか、あるいはあの世へ行ってからか、いずれにしても、どこかで必ず体験しなければいけないということなのです。そういう一つの重要な原理なのです。
宗教的真理にもいろいろありましょうが、この心がくらっと神のほうへ、神仏のほうへ向くという瞬間、これを大切にする。こういう考えもあるのです。
3 大強盗スター・デリーの回心
唯円:私たちの仲間では、近年、アメリカに、スター・デリーという人をだしました。この人は、強盗の親分をやっておって、悪のかぎりをつくした男なのですが、監獄のなかでは、歯を食いしばって拷問に耐えておった。
つまり、強盗の親分としてのプライドがあって、どうしてもね、子分たちの前で、他の罪人たちの前では、自分の弱いところを見せたくないということで、歯を食いしばってね、拷問に耐えとった。
しかし、あるとき、もう気絶してしまって、拷問で失神してしまって、のびてしまったのです。そのときに、彼はイエス・キリストの幻影を見た。「スター・デリーよ、愛するいとし子よ。お前はどうしてそう強情なのか。お前は私の言葉が聴こえないのか」と、こういう幻を見て、彼は廻心をします。そういうことがありました。そうしてその後、アメリカにおいて、彼が神の道を説いたことは、皆様ごぞんじのとおりであります。
こういうスター・デリーのような人というのは、いつの時代でも、いつも用意されていまして、やはり世の大部分の人たちは、神仏に眼を向けないで、悪人としての生涯を送っているわけです。こうした人たちに一つの前例を、手本を見せねばいけないわけです。
そういうことであって、たとえば、人を殺すというようなことは悪いことでありますが、そういう悪行のかぎりをつくしていた人が、あるとき、神仏への道へ廻心する。こういう瞬間があり、こういう実績がありますと、世の悪人たちも、「ああ、自分たちにも、まだ救われる道があるんじゃないか」とこういうことに気がつくわけですね。
ですから、高級霊が、あえて悪人を装って、地上にでることがあるのです。スター・デリーなども、私たちの仲間ですから、彼が悪のかぎりをつくした頃、強盗の大親分になって、さまざまな人に危害を与えたときに、私たちは天上界で、とてもはらはらと見ておりました。
ああ、かわいそうだな、と思って見ておったのでありましたが、それでも、おおいなる道のためには、そういう個人の犠牲というのもあり得るわけですね。スター・デリーの魂にとっては大変苦痛なことであったでしょうが、そういう計画のもとに生まれる場合もあり得るということなのです。
聞き手:スター・デリーという方は、そういう立派な魂の持ち主であったにもかかわらず、そういう環境を与えられて、そのなかで手本をつくられたということですね。
唯円:あのくらいの大悪人、大罪人が悟れるなら、普通の小悪人はすべて悟れるのではないか、救われるのではないか、と。そういう勇気を与えるために生まれたということですね。
まあ、普通の高級霊であるなら、やはり聖人君子の道を歩みたいのはやまやまなのでありますが、あえてそのように自己犠牲ですね、そういう精神をもって生きている方もおるのです。
キリスト教などでも、犠牲ということがずいぶん言われます。自己犠牲ということを、これを間違いであるかのように言う方もずいぶん多いです。生きている人間で自己犠牲ということは間違いだという方も多いかもしれませんが、しかし、高級霊の”菩薩行”のなかには、そういう自己犠牲というものもやはり入っております。
自分というものを捨てて、人のために、つくそうというそういう”菩薩行”のなかには、そういう自己犠牲も入っております。単に自分という命を殺めて、他を助けるだけではないのです。「一粒の麦、もし死なずば――」ということで、やはり数多くの生命を生みならせるために、そういう犠牲をあえて行なうことがある。
まあ、イエス・キリストという方も、本人は否定されたとしても、結局は自己犠牲の一人であろうと思われるのです。
4 死刑囚が天国へ、政府高官が地獄へ、ということもある
聞き手:そこで、少しおたずねしたいのですが、よろしいでしょうか。日本でもしばしばあることですけれども、罪の深さは人によって違うとはいえ、死刑囚という刑を下された人のほとんどは、それ相当の罪を犯した人びとだと思います。
こうした人びとのうちで、いわゆる刑が決まってからね、教誨師の方が廻って来られて、だんだんと神の道、仏の慈悲を説かれて、それによって刑の執行の間近になって、回心をされた人がおります。そして、その自分の犯してきた罪について、懺悔の懐いを日誌なり何なりに綴っております。
とはいえ、こういう方でも、もちろん処刑されるわけでありまして、死後、こういう方はどちらへ行くのかということが一つ気がかりになるわけです。その人が浄土へ向かうか、あるいは地獄へ堕ちるかということの規範というものは、その人の全人生におけるトータルの心性が決定するのだということを、私は聴かされたことがあります。
トータルと申しますと、たとえば、その人が死刑に処せられるまでの間の長い人生の期間は、まったく極悪非道の積み重ねであったわけです。しかし、さきにも申しましたように、刑が決まりましてからは、初めて自分の罪を認め、悔悟の念を起こした。わずかな時間の浄心ですが、浄心した。こうした場合には、この死刑囚は、はたしてどちらのほうへ裁きわけられるのでしょうか。
唯円:まあ、その回心の内容、深さが問題であります。その発心、菩提心といってもいいですが、すなわち、どれだけの道を求める――悟りを求める心ですね、その菩提心の大きさ、力強さ、こうしたものにも関係があります。単に死後、天国、地獄がどうもあるらしい、と。地獄には堕ちたくないから回心したというような気持ちでいるだけかもしれないしね、その深さが問題です。
ただ、普通の高級霊であれば、ただ単に死刑囚となって死の直前に悟るということは、まあ少ないかもしれませんね。やはりそれであったら、引継いで何か大きなことをやるか、何か遺産を遺すはずですからね。まあ、話としてはあっても、実際問題としては、むずかしいかもしれません。
しかし、なかには、死刑囚であっても、人びとの心に煌きを遺して還られるような方もいらっしゃいます。そうした方が、地獄にいるかといえば、いないです。
逆に、政府の高官などをやっていたような人が、今度は地獄に行ったりして、死刑囚が天国に入る。そういうことはあります。神の目の前には、みな、平等ですからね。
5 「念仏」は免罪符ではない、要は、回心の深さによる
聞き手:その辺のところの理解ですね。普通の人間は、自分の死期が近づいてまでも生の執着を捨て切れずに、自分の不幸を勤き、死にたくない死にたくないと悶え苦しむわけです。そして、そのまま死ねば、これはもちろん地獄行きでしょうが、最後に神仏の御名を称え死んでいく者との違いがどうなるかということですね。
鎌倉時代において、親鸞聖人もそうであったし、あなた様もそうであられたと思いますが、とにもかくにも、『南無阿弥陀仏』と称えれば、その時点で、どのような悪人、凡夫でも成仏できるのだとのお説でございました。
しかし、現代的なお説では、その人の一生のトータルな心性、心の重み、清さの如何によって行き先が決まるのだということなので、その辺のところをお聴きしたいと思います。
唯円:私が言いたいことは、あなた方は、結果論者になってはいけないということです。いいですか、結果論者になってはいけない。『南無阿弥陀仏』を称えたけれども地獄に堕ちたじゃないかということは簡単であります。
ただ、この「回心」の原理というのは、心をぐらっとどちらかへ向けるわけです。そこで、心をどちらに向けたらいいのかを教えないでは、やはりいけないということですね。
それが向くかどうかは、もちろん本人の問題が残っております。しかし、どちらに心を向けたらいいのかを教えるのは、少なくとも宗教家の務めではないですか。そうではないでしょうか。私たちは、こちらのほうへ心を向けなさいということを教えました。それが、阿弥陀信仰であります。
『南無阿弥陀仏』と、大いなる仏の慈悲にすがりなさいと、そちらのほうへ心を向けなさいということを教えたのですね。それで救われた人もいるし、もちろん救われなかった人も、一時的にはね、そういう方もいたでしょう。ただ、それは個人個人の問題であるからして、一概にはどうだとは言えません。
それでは、まるで”詐欺罪”ではないかとあなた方は言うかもしれない。“阿弥陀仏”と言えば救われると言ったのに救われないではないか、と。しかし、これは詐欺でも何でもないのです。回心の原理です。
地獄に堕ちた人もいるでしょう。ただ、地獄に堕ちても、やはり阿弥陀仏の救いを願う心というものを持ち続けていたならば、そういう呼ぶ声を続けていたならば、必ずや本人の守護、指導霊たちが、協力して、本人を一日でも早く悟らせようと努力してくれるはずです。あなた方でもそうです。助けを求められて、放っておくような人はいないのです。
阿弥陀信仰というのは、要するに別の言葉で言えば、大きな力に助けを求めるということです。人間は、自分を救っていけるぶんにはいいのですが、どうしても、もはや救えないような自分というのもよくある。
たとえば、スター・デリーの回心にしても、獄舎に繋がれて、失神までして、そのときにキリストの幻影を見なければ、彼は回心しなかったかもしれません。しかし、そのキリストの幻影を見たという、幻を見たというその瞬間、やはりこれは一つの他力であろうと思うのです。
ですから、他力は一つのきっかけであります。もちろん、念仏を唱えても地獄に行っている人はいっぱいおります。たくさんおります。つまり、それは、念仏を悪用している人がいるからです。何をしたって、念仏さえ唱えておれば、天国へ行けるんだというふうな、”免罪符”だと考えている人がおるわけです。念仏をね。
念仏は、免罪符ではありません。それは、回心の原理をいっているわけであって、免罪符ではありません。
キリスト教のほうでも、マルチン・ルターという人が同じようなことに遭遇しました。ときの領主たちが、免罪符というのを売って、金儲けをしていた。これさえ買えば、天国へ行けるし、お前の罪は赦されるのだ、と。教会がそういったものを発行していた。教会が、自分たちの教会の改築のために、免罪符をだして金集めをしていた。これでお前たちの罪が赦されるのだから、お金をいくら寄付せよ、と。こういうことをやっていた。
マルチン・ルターは、それに憤慨して、「聖書のみの信仰」ということで、宗教改革をやったわけですね。これなども、同じでしょう。つまり、もう免罪符でしょう。生きている人間は、どうかすると免罪符を買うし、天国でも切符、いい座席を予約したいと、こう思いますが、これはまたちょっと違っているのです。
すべての人が悟りたいと思っている気持ちを持っていること、これは菩提心ですから、これは大事なことです。ただ、それを安易に予約できるようなね、そういう気持ちというのは、これは何か間違っているのです。免罪符ではないのです。だから、念仏を免罪符だと思った人たちは地獄へ行ったでありましょう。
しかしね、やはりこれは信仰の根本にあるのです。あなた方が私を呼ぼうとしたとき、ここへ呼ぼうとしたときにやはり、「唯円、でて来てください――――」と言ったではありませんか。唯円、でてくださいという声がなければ、私は、今、ここにでて来ることはないはずです。
もちろん、私たちは、あなた方のことを知らないわけではありません。ただ、私たちには、私たちの仕事があります。ですから、あなた方のことを知っているからといって、私のほうからでてくることはありません。しかし、唯円、でて来てくださいと言われれば、私はでて来ます。あなた方のお役に立ちたいからです。
結局、そうでしょう。あなた方にとっても、阿弥陀信仰の小型が現在通用しているわけです。あなた方が呼ばなければ、だれ一人としてでて来ません。向こうから来られる方は、よほどお暇な方か、おせっかいな方か、あなた方に非常にご縁のある方だけです。しかし、呼べば現に来るわけです。あなた方の心が求めれば、守護、指導霊たちも、何らかの助けをしようと、みんな心がけているのです。
ですから、一番大事なことは、『南無阿弥陀仏』と念仏をあげることではなくて、念仏をあげるような心境になることです。そういう発心です。すなわち、「回心」をするということ、これが大事なのです。
そして、ひとたび、そういう大決定をなしたならば、ひとたび、弥陀の弟子として生きていこうとの大決心をしたならば、もうそのときには、その人は救われているのです。
念仏という行為によって救われるのではないのです。念仏がありがたいから救われるのではないのです。そういう回心をする。回心をした瞬間に、人間はすでに救われているのです。あなた方も、そうだと思いませんか。
たとえば、あなた方は、もともと神仏の道を説く高級霊たちとして地上にでているのにもかかわらず、地上的な仕事に邁進しています。これでは、いつまでたっても、神様との約束ははたせません。
しかし、あるとき、高級霊からの啓示があって、「お前たちの仕事はそっちじゃないぞ、こっちだぞ。お前たちの仕事は、神仏の声を地上に広めることが本来の仕事だぞ――」と、こういう天からの声が聞こえてきました。
そこで、あなた方は、はたと気がついて、「ああ、しまった」と。私たちの道はこっちじゃなかった、と。神仏の声を人びとに伝えるのが私たちの道であったと、あなた方は悟ったはずであります。
これもまた、回心であります。この回心をしたときに、その一大決定をしたときに、もうあなた方は、救われているということではないのですが、少なくとも本来の任務についたとは言えます。
こういう大規模なことではありませんが、普通の人でもそうです。その宗教的な回心、これを行なったときに、もうすでに救われてはいるのです。念仏は、それからあとの結果であります。
6 唯円上人の過去世は、十二弟子の一人マタイだった
聞き手:今、上人様は、親鸞様や蓮如様と同じところにおいでになられるのですか。
唯円:そうです。
聞き手:同じグループでお仕事をされておられるのですか。
唯円:そうです。同じグループです。
聞き手:あなた様もその昔は、何かキリスト教にご縁のあった方ですか。
唯円:そうです。そのとおりです。
聞き手:やはりイエス様のお弟子さんのお一人であられたわけですか。
唯円:そうです。弟子の一人でありました。ですから、イエス様のお教えを、昔は、ずいぶん聴きました。そして、イエス様のお教えを通してね、イエス様がでられないときに、親鸞様らと一緒にこの日本にでて、キリスト教信仰、日本流に言えば、阿弥陀信仰ですね、同じものなのですが、この「阿弥陀信仰」を説くためにでてきたのです。
聞き手:やはり十二使徒のお一人だったわけですか。
唯円:ええ、あなた方が、名前を知っている人間の一人です。それほど有名かどうかは知りませんが、おそらくあなたは、私の名前は知っているはずです。どうですか。当ててごらんなさい。皆さんもそういうふうに言っておられたようですから。親鸞様は「パウロ」であったし、蓮如様が「アンデレ」であったように、私が一体だれであったか、あなたにはわかるでしょう。
聞き手:イエス様のお弟子様には、ヨハネと名のつく方が何人かおられましたが・・・・・・。
唯円:ヨハネではありません。
聞き手:ルカという方は、現在、日本の経済界にでて、「松下幸之助」という名で活躍されておりますし・・・・・・、私の知っている方といえば、マタイ様でしょうか。
唯円:そうです。マタイです。「マタイ伝」を書いたマタイです。
聞き手:そうでしたか。まあ、過去のことはさておき、現在の上人様のお考えといたしまして、私たちにとって、どういう問題というか、どういう方面が、今後、重要な布教のポイントになるかということについて、何かアドバイスをいただければと思いますけれども・・.....
7 現代の「悪人」病患者はインテリ層
唯円:ま、現代人にとって大切な教えというのは、何かというと、自分と同じような思想をあなた方におしつけるのもいけないとは思いませんが・・・・・・、結局、現代の「悪」とは何かということを、あなた方はまず、研究しなければならないと思います。
現代の「悪」とは何か。昔の悪とはずいぶん違うと思います。昔は、信仰心を持たないことが悪だと言われた時代だってあるのです。そういう時代もありましたけれども、まあ、現代の悪とは何か、その現代の悪というのを、言論界の人たちが考えているような悪ではなくて、神の目から見た悪、これをも一つ考えてみなければいけませんね。そして、現代的なその『悪人』をどうしたら救えるかということを真剣に考えていく必要があります。
まず、あなた方は医者なわけです。心の医者なのですから、どういう人が患者なのか、これをしっかりつかまなければいけません。患者さんというのは、自分が救われていると思っている人が多いのです。ですから、患者の実態をまずつかむ必要があります。
今、私が見ているかぎり、一番患者が多いのはどこかというと、インテリ層です。たとえば、田舎の百姓をやっているお爺さん、お婆さんというのは、信仰心を今でも持って生きています。田舎の方は、けっこう掌を合わして、神棚を拝んだり、仏壇を拝んだりしています。
一番信仰心がなくなっているのは、実にインテリ層なのです。それも、自分が受けた十数年の教育、こうしたものから宗教は迷信だと片づけている。そして、世の中の上に立って、人びとを導いているのです。これがとくに、困るのですね。
ですから、今、「回心」の原理を説くとするならば、現代の悪人とは何かといえば、インテリです。インテリたちが賢し気に、さまざまの言説を言って、素朴な信仰を持っている人たちをむしろ悪い方向へ導いているのです。
インテリたちは、かわいそうです。というのは、とくに科学関係にたずさわっている人たち、あるいは知識人と言われている人たち、こうした人たちが大変な悪人になっておるからであります。
現代的には、悪人というのは何かというと、結局、神の御意を曲げている人たちです。あるいは、本当の世界を理解していないで曲解している人たち、その世界観の理解を妨げようとしている人たち、こういう人たちが『悪人』であります。「この世だけがすべてなんだ」と言い切っているような人たちは、すべて悪人であります。
こういう悪人をどうやって救うか、これを考えていただきたいのです。すなわち、こういう悪人というのは、宗教的行為は知的レベルが落ちることだと思っているのです。そして、頭の弱い人たちがそういう迷信を信じる。
そういう百鬼夜行の世界、幽霊の世界、こういうのが霊の世界だと、これはよほど知的に暗い人たちでないと信じられない。あるいは、土人たちなどの間にある信仰だ、と。あるいは、また、日本でも民度の落ちた二千年前や、そういうときには土俗信仰もあっただろうけれども、現代の世の中では、そういうものは通用しない、と。こういうふうに、理論武装をしているわけです。
この理論武装を解くためには、あなた方もまた、徹底的に知的な武装をしていかねばなりません。知識人がまったく知らないような「知の体系」を築いていく。論理的に矛盾のない「知的な体系」を築いていく。そして、理論武装している人たちに、伝えるべきです。
すなわち、こういうことをあなたたちは知っているか、あなたたちの知っている知識というのは三次元的知識ではないか、と。私たちの知っている知識は、三次元をはるかに超えた知識である。その知識のなかには、理路整然と神の世界が体系づけられ、整理され、説明されていて、何の矛盾もないのだ、と。
こうしたものを、やはり突きつける必要があります。そうすれば、彼らも反論はできないでしょう。反論する材料がないからです。三次元をもって、四次元以降は反論できないからです。
まあ、いろいろな説もあるでしょうが、私は、現代の悪人というのは知識人だと思います。ですから、この知識人たちに頭から一撃、衝撃を与えるようなものをつくっていかねばならないと思います。彼らに回心、廻心をさしてやる必要があるのです。
彼らのもっている知識というものが、如何に貧弱なものか、如何に脆弱な地盤の上に建っているか、これを教えてやる必要があります。つまり、何も知らないのだということを知らしてやる。今の時代において、「ソクラテスの無知の知」ですね、これを教えてあげる必要があります。
8 純粋な信仰論に立ち返れば、各教、各宗派の小さな垣根は取り外すべきだ
聞き手:これは、昨日もお教え願ったのですが、現代における「歎異抄」というのを説かねばならんということでした。これは、今お示し願った現代の悪人、知識人に対するものでありますことはもとよりですが、仏教系、キリスト教系、神道系の方がたに対しても、四次元以降と申しますか、それ以上十次元までの神の世界、大霊界の構造についての正しい理解を求める必要があると思うのです。
こういう宗教人たちは、神仏の道を説く立場にありながら、そういう”霊”知識に乏しく、ただこの世での葬祭、儀式だけを主たる仕事として生活しているようなことではいけない、と。そして、もっと正しい霊知識を持って大衆布教に専心しなければいけないと、こういうことでしたが、まったく同感だと思います。
唯円:まあ、彼らの職業もあるでしょうから、私は一概には言いかねるのです。ただね、現在の「歎異抄」というものの一つには、まあ要するに、宗派が分かれすぎていますね、キリスト教にしても、仏教にしても、宗派が分かれすぎています。これは一つの問題だと思います。
仏教で、あれほど細分化して、この教えでないと救われないと言っているのは間違っています。また、キリスト教でも、特定の宗派に属さないと救われないとかね。お互いにクリスチャン同士でも、派が異なるからダメだ、と。あるいは、新教のなかでも、ルター派とカルバン派とは違うとか、あるいはまた、カソリックとプロテスタントでは全然違うとかいうのは、間違っています。
違うのは、この世的な様式が違うだけであって、本質は一緒なのです。そこが、本当には分かっていない。だから、人種が異なるように対立し合って、けんかをしたりする。こういうのは間違っているのです。
結局、今、「歎異抄」をだすとすれば、つまりは、本当の信仰とは何かということを説きあかす必要があります。本当の信仰、純粋な信仰というのを説けば、宗派という垣根は消えていくはずです。純粋な信仰においては、一つなのです。同じです。宗派は人間がつくったものです。人間がつくった垣根です。ですから、本当の純粋な信仰というものを取り戻す必要がありますね。
9 今後の信仰の対象は、人格神ではなく、宇宙の「英知」への信仰となる
唯円:実際、あなた方が現在信仰するような対象というのは、もう昔のような単なる人間的な神仏ではないでしょう。あなた方は、高級霊たちの働き、あるいは、あの世の仕組みをかなりあきらかにしております。
ですから、あなた方の信仰の向かうべきところは何かというと、結局、宇宙的な知性、理性、宇宙的な「英知」、こうしたものは、こうした将来の信仰となるでしょう。そして、その中継役としての高級霊たちに依頼するということだと思います。
信仰の純粋さというのは、もっと強調されてもいいと思うのです。たとえば、『南無阿弥陀仏』といいますかね、「念仏宗」というのは、ずいぶん批判されております。けれども、そのいいところは、要するにこむずかしい理論をひねくり回すのではなくて、純粋な信仰ということをね、教えたというところ、これはけっこう功績だと私は思うのです。
聞き手:ところで、今、あなた様は天上界にあって、とくに地上のどなたかをご指導されていらっしゃるのですか。
唯円:いや、しておりません。現在は、しておりません。現在は、こちらの世界で、いろいろと勉強しています。まあ今は、地上に「ルカ」もでておれば、「マルコ」もでておる。また、「聖ヨハネ」もでておるということでね、私たちは、ずいぶん関心を持っているのです。
聞き手:聖ヨハネとは、「ボアボルゲのヨハネ」と呼ばれた方ですか。
唯円:いや、そうではありません。まあ、それはいいでしょう。他所のことは言っても仕方ありませんから。しかし、まあこうしてね、「神理」の実証を通して、キリスト教も、そのなかに流れるものは一緒なのだと、ただ、その神仏への接近の仕方が多少違っているんだ、と。そういうことをわかっていただければいいのです。
ですから、私たちの教えは、さきほども言いましたように、「回心」の原理というものを、一つ梃子にして、人びとを悟らしめようではないかということで、私たちはあのときに、鎌倉時代に、教えを説いたわけです。
ただし、それしかないわけでは、もちろんありません。そういう「回心」をしたくなってね、生まれたときから、着実な人生を送っている方もおります。それはそれでけっこうなのです。
もちろん、医療でもそうですね、病人を治すにもいく通りもあります。漢方薬もあれば、西洋医学もあります。そういうことで、いろんなやり方があるのです。教えとて、同じです。これしかないというものではありません。
聞き手:現代の真宗各派のご指導は、当時の方がなさっておられるのではないのですか。
唯円:まあ、かつて真宗の僧侶であったような人たちが、いろいろやっているようではありますが、それほどの高級霊が今やっているわけではありません。
聞き手:仏教界は、各派とも、改革の関門に立ち向かっているような状態ですね。
唯円:しかし、今は、宗教改革は、たとえば仏教界からはなかなかでてきにくいですね。やはり外部からでてくるだろうと思います。宗門のなかでね、本願寺派の建て直しだとか、そういう形ではでてこないものだと思います。つまり、枠を越えられないから、むずかしいのです。
聞き手:― とはいうものの、現代まで法灯を継いできたということは、各時代時代において、多くの人びとを仏縁にあずからしめたということで、その功績は大きかったということですね。意義があったということですね。
唯円:そういうことです。もちろん、それはそうですよ。やはりね、ある仏教なら仏教が批判をされて、堕落していると言われていますけれども、あるということはね、やはり、常々死後の世界があるということを人びとに教える、その契機にはなっていると思うのです。
10 現代の「歎異抄」の『悪人』はインテリ層
聞き手:本日は、とくに「回心」の対象はインテリ層になるのだということのお話であったということで・・・・・・。
唯円:もちろん、それ以外の人もおりますよ。ただね、昔の『悪人』というのを現代にあてはめたらだれになるかというと、その辺ですよ、と。その辺の人たちにね、念仏ではない「宇宙の英知」を知ることによって救われるのだという原理を教えてあげねばいけませんよということです。
ですから、今、「歎異抄」を言うならね、田舎の爺さま、婆さまでも極楽往生できるのだから、ましてや論理的な教養を身につけた知識人たちは当然であるということになりましょうかね。
聞き手:これは非常によいお話であったと思います。現代の「歎異抄」というものをたとえれば、こういう人たちが当たるんだと、これが本当の「悪人正機説」に該当するんだということですね。
唯円:ですからまあ、「歎異抄」の原理でいけば、こうなります。すなわち、今、善人というのは、要するに素朴な信仰を持って生きている人たち、お百姓さんとか、田舎に住んでいる人たち、こういうのが善人です。
そして、こういう素朴な人たちでさえ救われるのですから、ましてや、インテリの皆さんが、『悪人』の典型であるインテリの皆さんが救われないわけはありません、と。
神仏を認めようとしない『悪人』ではありますけれども、インテリということで、ずいぶん頭がいいから、きっかけさえつかめば、きっと救われるでしょう。
田舎の人でも極楽往生するのです。単純な信仰心を持っている善人でさえ救われるのだから、ましてね、非常に知識のある、頭のいいインテリの皆さんですから、このことに気がつけば、当然救われるのは間違いなしです。地獄へは行きません。極楽往生、間違いなしです。
そこで、インテリの人たちに、これさえ気がつけばというきっかけですな、”契機”をあなた方が与えてあげねばいけない。こういうことですな・・・・・・。インテリの人たちは、頭がいいのだから、極楽往生できることは間違いありません。ただし、これだけは知っておきなさいよとね。その点を伝える。「唯円」の御言葉さえ読んでおけば、極楽往生間違いなしだと、こういうことをあなた方は言わなくてはいかんわけです。
理論としては、あっているでしょう。知識人は「悪人」、田舎の爺ちゃん、婆ちゃんは「善人」です。あんな何にも知らないね、この世の中を全然知らない、英語も知らない人でも、掌を合わせているなかで、極楽往生できる。ましてや、悪人の典型である知識人たちは、頭がいいのだから、いったん気がつけばすぐ救われますよ、と。極楽往生間違いなしとね・・・・・・。こういうことです。
ですから、その「阿弥陀如来信仰」ね、『南無阿弥陀仏』が一体何にあたるのか、これをね、現代の南無阿弥陀仏を、あなた方は発見しなければいけない。あなた方の「御言葉集」を読んで、気づくかもしれない。
知識人たちは何百、何千冊もの本を読むわけですが、そんなに読まなくてけっけおう、この本一冊読んで極楽往生してくださいと、これでもいいですよ。
すなわち、「御言葉集」一冊が、昔の南無阿弥陀仏の念仏かもしれない。そういうことですね。ただ、知識人たちは、自分を悪人だとは思っていないから、彼らこそ「悪人」だということをもうちょっとわからせてやる必要があります。
まあ、真理を晦ましている人たちなのですから、これは悪人ですよ。神の目からみれば、神理を晦ましているのだから。一方田舎の人たちはね、お天道様のおかげですと、掌を合わせているのだから、こういう人たちが天国へ行くことは確実ですよ。
ところが、何十年も学問やってた人たちが、「神様などあるもんか」と言っているのだから、これは馬鹿になるために学問したのと一緒です。ただ、そういう頭のいい人たちはね、きっかけさえ与えられれば、それを悟るのは早いはずです。
どうですか、他に現代の「異端」について、何か意見がありますか。あれば、私も言いますが・・・・・・。
11 現代の「異端」物質至上主義、霊は物質を生み、また消せる
聞き手:「異端」については、現在の科学者、あるいは一般知識人、こういう人たちのほとんどは、根元的な実在である「神」という宇宙の「大英知」の存在を信じておりません。「物質」がすべての根元なりとする「唯物論」を信じているということですね。
それと、現代人のものごとの「価値基準」が、心とかその精神とかいう前に、金銭、あるいは物量の多寡ということが基準になるということですね。事業家はもとより、政治家になるのにも金、また芸術家の作品もその価格で価値が決められるということになってきています。
唯円:まあそれは、宗教を説く人にも金銭は関係しますのでね。これがないと三度の飯が食べられない。現代では、なかなか布教もできない。お布施だけで生きていくわけにはいかないのでね。現代では、宗教法人などでも、金銭と無縁でないことは周知のことです。ですから、この辺はむずかしい。非常にむずかしいところだと思います。
ただ、物質というものだけをとってみるならば、あなた方の理論によって、”物質”というものは、実は霊的な存在であるということです。霊的な想いの念が物質化することは、あなた方は理論としてすでに説いているはずです。こういうことは、物質万能主義者たちに対して、一つの衝撃であり、一喝になるであろうと思います。物質、物質と言っているようなものは、実はそうじゃないんだぞ、と。まあ、奇跡の原理ですね。
ですから、本当の法則からいえば、この地上に現われているものは、一瞬にして蒸発したように消すことができるのです。この世に現われているもの、石ころ一つ、空中に消してしまうことは簡単にできるのです。そして、空中からですね、パンの一個ぐらいだすのは簡単なことなのです。自由自在にできます。本来はね。ただ、そうすると、世の中が混乱するために、私たちはそういうことをしないことにしているのです。しかし、本来は、自由自在なのです。
そして、昔の世界は、天上界の霊たちが物質化して、肉体を持って地上にでて来たこともけっけおうあったのです。昔はね。ですから、自分たちを物質化することぐらいは簡単なのです。別に男女、父母の縁ででて来なくとも、一時期物質化してでて来て、地上を歩き廻ることぐらいは簡単なのです。私たちは、幽霊よりももっとしっかりした体をつくれるのです。昔は、よくありました。ただ、それはやっぱり世の中を混乱させるので、やらなくなったのです。
昔はよくあったでしょう、天狗様が来て、人をさらって行ったという話が。あるいは、神隠しに遭ったとか。ああいうことは、実際にあった話なのです。「天狗」というのは、まあ、あの世の霊人ですが、そういうのが、物質化して肉体を持って現われ、この世の人を攫う。つまり、霊力でもって、この世の人を、あの世へ連れて行ってしまうのです。肉体を、物質を分解してしまうのです。
実際、そういうことができるのです。しかし、そういうことをしていると、世の中が混乱する。だから、近代になってからは、そんなことはしないようにとの”禁止令”がでています。
12 他力門はキリスト教系の人びとの転生、阿弥陀仏はイエスの過去名
聞き手:ありがとうございました。お説の趣旨がわかったような気がいたします。なお、お説をとりまとめ、編集させていただき、「唯円上人の霊訓」として掲載させていただきたいと思います。
唯円:まあ、唯円は、どちらかというとマタイよりは少し知名度が落ちるようですから、内心、若干忸怩たるものが私にはあるのです。まあ、あなたにもあるでしょうが、私にも内心忸怩たるものがあるので、少し気は引けるのですけれども・・・・・・。
聞き手:霊訓者紹介の欄には、マタイ様のお名前も入れさせていただこうと思います。
唯円:それはけっけおうです。事実、そのとおりなのですから。実は、鎌倉時代の他力信仰、他力門はね、キリスト教系の人たちの「転生」によって、一つの計画のもとに行なわれたのです。これは、天上界の秘密でもあるのですが、これは一つ知らしておく必要があるし、あなた方にとっても初めての発見であったと思うのです。
自力門と他力門とあるけれども、結局、他力門は、キリスト教系から多くきていたのです。話を聞いていても、喩え話のなかにキリスト教の話ばかりでてくるからどうもおかしいと思ったかもしれません。しかし、それもそのはずです。「阿弥陀如来信仰」というのは、すなわち、イエス・キリスト信仰なのです。
聞き手:しかし、唯円様たちも、ご在世中には、そのことに気がつかなかった・・・・・・。
唯円:ま、それはそうです。ただね、信仰というのは魂の根深いところにありますから、なかなか抜けてこないですね。「阿弥陀如来」というのは、イエス様のまあ過去世、過去世の姿ですね。それへの信仰ですね。
ですから、「釈迦」の時代にもね、「阿弥陀如来」という方が西方浄土にいらっしゃるということが言われていたのです。「阿弥陀如来」というのは、漢訳されていますけれども、”阿弥陀”とは、「アミーダ」という西洋に生まれた光の大指導霊のことなのです。それは、すなわち、イエス様の過去世のことを言っておったということですね。
聞き手:まあ、そういう背景をもとに、ここに親鸞様、唯円様、それから、一遍様、蓮如様という方がたが・・・・・・。
唯円:四人が四人頭を並べて、枕を並べて、日本のこの時代にでて来て、何をどうしたかは、皆様のご判断にまかせますけれどもね。ま、一つの大きな使命だったということです。ですから、昔はイエス様のような大きな方がでられたのですが、そうじゃなくてね、親鸞様あたりを頭にして、みんなでて来たわけです。
聞き手:いわゆる他力門の歴史的な背景というものが、この本によってあきらかに分かるということになりますね・・・・・・。
唯円:そうですね、ですから、「真宗」系統の方が多いのでしょうが、一つキリスト教へも目を開いていただきたいと思います。そして、「親鸞聖人霊示集」を読んだら、「キリストの御言葉」を続いて読んで、思想を深めていただきたいと、こう思います。一緒なんです。これしかないというものではないのです。
13 天上界の「総御言葉」は二度とでない
唯円:あなた方も、これから大変ご苦労ですけども、一つ頑張っていただきたい。まだまだこういうのも、一つの神理の発見なのです。どういう人が、どういう考えを持っているというのも、一つの神理の発見でして、大変ご苦労ですけれども、天上界の皆様のお声を地上に伝えていくという仕事を続けていただきたいのです。そうしているうちに、いろんな問題点に気がついて、あなた方独自のものもでてくると思います。
ただ、あなた方独自のものをだすにあたっては、そう焦る必要はありません。天上界の皆様の意見をご紹介するだけでも、一つの大きな力ですから。
今後、大いなる指導者がでても、こういうふうな「法」の集大成ということは、ちょっとむずかしいだろうと思います。あまりないと思います。まあ、こういう日がくるために、キリストの弟子であった私たちがまた日本に生まれて、そういう種を蒔いているし、そういう日本という国を、将来仏国土にするために、さまざまな霊がでて、日本という国を浄めるために、先触れとしてでてきたのです。
どうかこういう話を通じて、宗教は一つなんだと、すべて一つの神からでてきているのだということを教えていただきたいと思います。一つなのです。争いは間違っているよ、と。日本人と外国人が戦争するのも間違っているけれども、宗教同士で戦争するのも間違っています。ましてや同じ宗門のなかでね、派を争うのは大変な間違いですよ、と。これをしっかり知っていただきたいと思います。
聞き手:はい、どうも大変ありがとうございました。
(本章は、一九八六年八月八日の霊示)
●第3章● 一遍上人の霊訓
一遍(一二三九〜一二八九)
鎌倉中期の僧。時宗の開祖。諱(いみな)は智真。 伊予(愛媛県)に生まれ、七歳で仏門に入る。 法然の門弟証空の弟子聖たちを師とし、そののち、熊野権現に参籠し、霊験を得て念仏弘通の大願を発し、「念仏踊り」を民衆に勧めた。
諸国を遊行したから、世に遊行上人・捨聖(すてひじり)と称した。 著に「語録」「播州問答集」がある。 諡号(おくりな)は円照大師、証誠大師。 前世においては、キリストの十二弟子の一人ヤコブとして生まれ、福音伝道に活躍した。
1 一遍上人の前世はイエスの弟子ヤコブ
一遍:一遍一遍でございます。お初におめにかかります。
聞き手:お初におめにかかります。一遍様のご高名は、かねがねうかがっております。
一遍:いや、あなたは、私をあまり知っていないのではないですかなあ、あまりごぞんじではないようですな。
聞き手:いやそれは、一遍様のお教えの本義については深くぞんじておりませんが、ただ、お名前だけは、宗教人としてご高名であられたので、よくぞんじております。
一遍:私もね、まあ、最初からこんな話をしてはなんですが、前世においては、キリスト教系で、あなたとも縁があったものです。
聞き手:ああ、それはそれは・・・・・・、やはりイエス様とのご関係で・・・・・・。
一遍:そうですね、まあ、それほど有名ではございませんが、数ある人のなかの一人であったということです。
聞き手:親鸞聖人、蓮如上人とともに、イエス様のお弟子であられたということですね。
一遍:ですからね、仏教世界において、キリスト教的考え方を布教するためにわれらが一団となってでてきたということです。 ヤコブという名前があるでしょう。聖書のなかにね、ヤコブというのがでてきておりますでしょう。これが私なのです。
まあ、一遍がでて、ヤコブの話をしておったのでは、皆さんの期待にはずれると思うから・・・・・・、さあ、何からお話いたしましょう。
聞き手:上人様は、伊予の愛媛のお生まれで、浄土宗に学び、自ら「時宗」という一派を興されて、「踊り念仏」を行ない、お教えを広められたそうですが・・・・・・。 これからのお話について、読者のなかには、「はたしてこれが一遍なりや」との疑いを持たれる方もあろうかと思いますので、これはどなたにもお願いしていることですが、始めに、何か当時のお考えなどをお話し願えませんでしょうか。
2 踊り念仏は浄土を地上で表現したもの
一遍:まあ当時は、イエス・キリストのような偉大な教師がいなかったので、私たち小粒の指導霊たちが時代をつくるために、数多くでておったわけであります。 親鸞のような教えもありましたが、私の教えは、その他力の教えをもっと徹底して説いたものなのです。
それと、私の教えの一番の勘所(かんどころ)は何というかというと、はっきり言って大衆布教なのです。 つまり、どれだけわかりやすく教えを説いて、どれだけ多くの人を動員するか、これが眼目だったわけです。
お念仏で救われるという言い方もありますが、まあ、それだけじゃなくてね、もう少し動員力を増してやりたいということでした。 踊り念仏というように言われておりますが、当時の人は心が暗く、荒んでおったわけです。 ですから、いかに極楽浄土が明るく楽しいものであるかということを説いた。
そして、その極楽浄土の雰囲気を、皆さん、現世において味わってみませんか、と。 それは、こういう楽しい気持ちなんですよと、お念仏を唱えながら踊る。 そうすると、いろんな死の恐怖や、とりこし苦労、心配をしておったとしても、一時期ではありますが、ずいぶん気が楽になる。明るくなるのです。
宗教というのは、人びとのですなあ、知性、まあ知識ですな、こうしたものが高まって、理解力が増しているときにはむずかしいことを言ってもいいのですが、人びとがですな、考える力が十分でない時代には、まずは、人びとの心を明るくする。これが肝心なわけです。
ところが、今、あなた方は、「心の教え」ということで、さまざまな聖賢の話をうかがって、「教えの書」を刊行しているようですが、その教えの書もですね、まあ、私があの世から垣間見るかぎりは、若干知性と言いますかね、知的なものに流されておるようであります。
3 近い将来、一時期地上が暗くなるので、心の対処が必要
一遍:それも一つの生き方ではありますが、これから、近々十年、二十年の間に、世の中が一時期暗くなっていきます。 まあ、天照大御神様がお隠れになったようなもので、つまり、天の岩戸にお隠れになったような感じでね、地上が暗くなることがあります。 これは、陽が翳(かげ)るという意味ではなくてね、世の中が暗い世の中、暗たんたる世の中になる時期が、今後、来るということです。
そうしたときにはですなあ、人びとは動乱、狂乱のなかにあるわけです。 だから、むずかしい「御言葉集」を読んで、これを知的に理解すれば救われる――ということだけではですね、なかなか人間は救われない。
平和時においては、高い教養を持って生きている人びとを教導する意味においては、それで十分なのでありますが、混乱期、暗たんたる時期においては、それでは不十分なのであります。 ですから、そういうときにはね、あなた方ももう少し単純で、もう少し明快で、もう少し人びとの心を明るくするような運動というものを考えていただきたいのです。
私は、まあ、これは当時の私の発明でもあろうし、狂った男だなどと言われたこともありますけれども、世が暗いときにはね、せめて一般の人の心だけでも明るくしたいと考えた。楽しくしたい、と。楽しいということが、失われた時代でもあったわけであります。
今はね、楽しいことが多いようですが、苦しいことのみが眼につく時代がもうすぐやってまいります。 そのときにね、あなた方に、法の楽しみ、道の楽しみですか、それを伝えて貰いたいのです。 道を求めることの楽しみも大事ですが、その道を求めている人が、やはり心明るくなるような、心がうきうきするような、そうした考え方ね、それも、私は大事だと思うのです。
今、世の新興宗教を見ていると、どうもやたら修行ばかりをやっているようですな。 道場をつくってね、坐禅をやったり、瞑想をやったり、観法をやったり。いろいろやっておるようですが、ま、今一つ楽しそうではありませんな。
ですからね、まあ、「創価学会」などというものがありますわな。 見ていると、評判がよくないようですが、まあ、私もね、あれの教え自体がどうかはわかりませんが、いや、いいところもあると思うのですよ。 ああいう「学会」という完結した団体のなかでね、相互扶助が行なわれていた。 実際に、あの創価学会のようなものが広がったときにはね、まあ学会員になった者は、やはり世の中の貧しい方がたであったでありましょう。 そういう人たちが一団となって救っていく、互いに互助していく、そういう内容を持っとったと思うのですな。
同じ時期に、「共産主義」などがあった。 共産主義社会とかね、まあ、そういうものがあった。 そうした唯物主義にもとづく団結という考え方と、もう一つは信仰を通した団結というものね、こうしたものが近代の日本にはあったわけであります。 どちらが優れているかといえば、信仰のもとに団結し、まあ、ある意味でのユートピア社会の縮図なわけですな。
ですからね、あなた方も、本を読んで知的に悟るということも大事ではありますが、やはりね、あなた方が、今後、教えを説いていくなかにおいて、その教えを信じる者同士、その教えをお互いに理解し合う者同士が、「幸せ」に生きていけるように、やはり配慮していく必要があります。
今は、そうした心が孤独な人が多いんですね。 そういう心の世界、神仏の世界を信じていてもなお、孤独な人が多いのです。 自分一人だけの信仰になっているのが多くて、話し友だちもない。 そして、話し友だちを持とうとしても、ね、いろんな怪しげな団体、宗教団体に入らないと仲間ができないということもある。
まあ、こういうときですから、あなた方には、できるだけ明快で、明瞭でね、暗さが何もないような、そういう教えを説いていただきたい。 そして、そういうものを共有しあうことができるような人びとの交流の場を提供していけるようになりたいものだと思います。
で、宗教のかつての悪いところをなるべく拭(ぬぐ)い去って、あなた方の教えによって、明朗な人びととの出合いの場をつくっていくという考えが大事です。 教えを通じた出合い、信仰を通じた出合いですね。こういう出合いの場をつくっていく。 そして、人と人との心のふれあいを大切にしていく。こういうことをね、考えていっていただきたいと思います。
あなた方がね、生き神様のようになって、崇(あが)めたてまつられることが、信仰の本義であるわけでは決してないはずなのです。 まあ、あなた方のね、教えをともに勉強しあうということを一つのきっかけとして、いろんな人びとが、愛のサークルをつくっていけるような、そういう場を提供していく。これが大事だと思うのです。
だから、あなた方の教えを勉強するという機会を利用して、お互いの人たちが、いろんな人たちが、未知の人たちが出合って、話し合って、お互いに交流できるような、そういう明るいものをつくっていきましょう。
あなた方のお教えを信じている者が、他宗を排撃したり、折伏(しゃくぶく)したりして、一致団結する必要はないのです。 そうではなくてね、あなた方の教えは、だれもが学べるような、開放的なものにして、そして、そのなかで、教えを学ぶなかで、いろんな人が出合って、さまざまな「愛」が生まれ、出合いが生まれて、素晴らしい人生が、いくつも誕生するような、そういうやり方にしていただきたいと思います。
4 余暇を有効に使う生涯学習としての宗教活動
一遍:あなた方には、これから支部ができたり、また、組織ができていくでありましょう。 でも締めつけのようなことではなくて、異端邪説を排するとか、そういうことではなくてね、一つの出合いの場であってほしい。 あなた方の教えをそのまま信ぜよ、鵜呑みにせよ、というのではありません。 自分たちは出合いの場を提供するかから、これでみんなが心の交流をしてください、と。 そして、本当の教えというのは、書かれたものだけが教えではなくて、一人一人が話し合うなかにきっかけがあり、目覚めがあるんですよ、と。こういうことですね。
ここを私はね、まあ、他の人が今一つどうも言っておられないようなので、言っておきたいと思うのです。 レクリエーションという言葉があなた方の時代にあるようですが、まあ、宗教というのがね、今後、余暇の増大する時代においては、人びとの一つの出合いの場、心のゆとりの場になってくると思います。
だんだん時間的にもゆとりがでてきます。働きすぎの時代は、やがて終わっていって、一つのゆとりが生まれてきます。文化的な、時代としてのゆとりがでてきます。 そうしたときに、出合いの場をつくる。それが、あなた方の教えであっていただきたい。 すなわち、ある意味での「生涯学習」です。
今の時代でいえばね、生涯学習ということがずいぶん言われていますね。 若いときに、労働ばかりして勉強ができなかった方が、中高年になって、大学にもう一回入り直してみるとかね。 卒業してしばらくたって、勉強し直したい人がいて、そういう人のためにやるところとか、あるいは、カルチャー・センターとかありますね。 そういうところで、主婦とかが学んでおるようですが、まあ、こういうものも生涯教育の一環でありましょうが、そうではなくて、もっと大切な生涯学習があるはずです。
それが、宗教の世界、心の世界です。ですから、いろんな方がお互いに、一生を学習していけるような、そういう場をつくってあげたいと思うのです。 まあ、十分な時間を持っている主婦の皆さんには、昼間に活動していただく。 会社勤めがある男性は、夜とかね、休日に活動していただく。 そして、お互いに人生経験の幅を広げていただきたいのです。
5 心の広場、愛の広場をつくろう
一遍:それと今、世の中を見ていて問題点と思うのは、こういうことです。 つまり交際の幅が狭い。たいていの方がですな、企業に勤めているわけですが、一日八時間、あるいは十時間というものを拘束されている。 その職場仲間と、仕事で話をする。そして、夜は飲みに行く。また、土日のゴルフをしたりして遊んでおる。ということで、非常に交際の幅が狭いものになっていると、私は思うのですな。
これは、人間の人生においては、非常にもったいないことです。非常に少ない範囲の人とばかりつきあっていたのでは、新たな人生経験は得られない。大変にもったいないことです。 ですから、こうした方がたがね、心の教えを通じて、いろんな世代の人と、いろんな経験を得た人と話ができるような、ま、そんな場をつくることができたらと思うわけです。 広場ですな。あなた方は、そうした広場をつくるのですよ。
これからね、心の広場、愛の広場、それをつくっていただきたい。団体を一つつくろうと思わずに、広場を提供する。そのなかでね、だれもが楽しく想っていきなさい、と。私は、これでいいと思うのですよ。
そしたらね、今の世代の隔絶とか、個人主義の時代ですな、こうした時代に対して、一石を投ずることになるだろうと思うのですがね。 そうではないと、人と人の交流がね、非常にかぎられたものになって、孤独な人がずいぶんでてくる。 「文明病」でね、孤独ですよ。悩みがあっても、だれにもうちあけられない。 会社の同僚と交際(つきあ)っていても、悩みを打ちあけたりしたのでは、足を引っ張られるそうだ。いつ、だれそれの耳に入るかわからない。父母とは一緒にいない。だから、悩み一つ言えない。そういうことでね、心の孤独というのは、どんどん増していくのです。
ですから、あなた方には、孤独な人びとを何とか、救っていただきたいのです。 「孤独からの解放」――すなわち、あの世のことを知らせるのも大事ですが、まあ、現代人の孤独からですね、救ってあげることも大事なことですよ。そうじゃありませんか。 狂信、盲信の類は困るけれどもね、そうではなくて、だれが学んでもおかしくないような、立派な教えであるなら一緒に勉強会しましょうと、そのぐらいの気楽な気持ちでね、あなた方の広場に、たくさんの人びとが集まってくるような、そういうものにしてほしいのです。
広場ですよ。広場はみんなのものですから、みんなで使っていただければいいのです。そういう心の広場、愛の広場です。
それと、宗教の世界というのは、平等の世界です。「阿弥陀如来」の下の平等と言ってもいいですからね。まあ、神仏の下の平等ですね。そういうおおいなる力の前には、人間というのは、平等なんです。 この世的には、地位の差がありましょう。年齢の差がありましょう。収入の差がありましょう。男女の差がありましょう。 けれども、そういう宗教の世界では、おおいなるものの前に平等なのです。
ですから、すべての肩書を取りはずして、世間的な上下を取りはずして、そして、お互いに交流、心の交流ができるような、そういう場をつくってほしいと思います。 そういう集まりであれば、相手の人が会社で重役やっているのかどうかもわからないし、気にもならない、学生の意見だからといって無視する気持ちもない。そういうことで、一つの教えに関しておんな人が議論ができるような、そういう活発な場をつくってあげたい。
それだってね、ある意味でのユートピアです。別に会社の建設だけではありません。 人びとの出合いの場、憩いの場、広場をつくってあげることが、一つのユートピアなのです。 孤独な人たちにとっては、救いになります。 今、都会では自殺を考えているような人がいっぱいおります。 なぜ自殺を考えているか。つまりは、相談するところがないのです。
しかし、そういう「愛の広場」があったならば、そこで、いろんな人の相談を受けられる。 普通であれば、自分の父母、きょうだい、友だち以外には相談するところがない。 でも、そういう愛の広場に駆け込めばね、いろんな人の相談を受けられる。また、人生経験のある人の話を聴けるんです。
そういう人たちは、みんな、悩んでいる人たちを救いたいと思っていますから、困った人に対して、心から相談にのってくれるでありましょう。 自殺したいと思っている人がいたら、まず、そうした広場へ駆け込んでこい、と。 そして、いろんな人と話し、「いやあ、若いうちには辛いことも多いよ。私もそんなときがあったけれども、こうやって乗り越えたんだよ」と、そういうことが言えるような場がほしいですね。
まあ、あなた方の教えとして、むずかしい教えを遺す、後世に遺すことも大事でしょう。 しかし、今、あなた方の教えに触れてる人たちが、そういう楽しい場を持てるような、そういうものにしてほしいのです。
地域社会での互助会、町内会のようなものもあります。 しかし、そういうものは、非常に形骸化(けいがいか)しています。 結局、それぞれの立場が違って、思想が違うから、あまり話をすることもない。顔見せだけに終わっている。それでは、意味がない。 ですから、そういうことではなくてね、一つの信仰ということを通して集まっている人たちが、互いに学べるような、そういうものをつくってほしいと思うのです。
私の「踊り念仏」というのはね、時代の流れのなかからみれば、非常に奇異なものだろうし、今のあなた方から見れば、とても信じがたいものでありましょう。 しかし、ある意味においては、そういうね、一つの解放感というのを共通項にしてね、人びとの出合いの場、触れ合いの場をつくりたいということだったのです。 つまり、「阿弥陀如来」の称号のもとに、いろんな人が集まって、楽しくやっていける。 一時期であっても、この世的な辛さを忘れられる。まあ、そういうものを、私は考えたのです。こういう大衆布教の方法があるのです。
ですから、上から下に教えるのではないのです。あなた方が生き神様になるのではない。 あなた方は、単に広場を提供しているだけなのです。この教えをきっかけにして、いろんな人生問題を話し合って、心の交流をしていただきたい。 そして、あなた方がつくったその「愛の広場」「出合いの広場」で、若いカップルなどが生まれたり、そういうことになっていくのがむしろ望ましいですね。 同じ信仰を持って、夫婦生活をできるとは、素晴らしいことですよ。
ところが、今の見合いとか、ああいう結婚センターでは、同じ思想を持った者同士が出合うことがむずかしい。単に容色とか、学歴とかね、親の地位とか、職業とかね、こんなことで相手を探しておる。 しかし、本当に男女の出合いにとって大切なことは、そういうことではなくて、お互いに共通する精神的な基盤があるかどうかなのです。 ですから、私はそういう出合いの場をつくってね、青年部でも何でもいいが、若い人たちがどんどんカップルになって、素晴らしい家庭をつくっていく、こういう場もつくりたいですな。そういうのはいいですよ、素晴らしいですよ。共通項があれば、素晴らしいものになります。
6 明るい出合いの場をつくるのは宗教の任務
一遍:たとえば、今でいえば、「天理教」なども、教えとしては、ずいぶん不十分な教えだと、私は思います。あのような「お筆先(ふでさき)」の訓え(おしえ)ぐらいでは、現代人の悩みが解消するとは思いません。 ただね、いいところもあります。つまり、明るく生きていこうという気持ちがあって、それでお互いに、天理教のなかに入っている人同士が、親睦(しんぼく)を深めて仲よく生きている姿。あれは微笑(ほほえ)ましいものです。あれは立派だと、私は思います。
ですから、あなた方のなかにも、そういう微笑ましいものをどうか入れていただきたい。 むずかしい教えを説くと、現代のエリートばかりが集まってきたり、知識人ばかりが集まってくるけれども、そういう人ばかり広げるようでは、現代の鎌倉仏教の「禅」みたいになってしまいます。現代の禅になってしまう。それではいけない。幅広いつきあい方を考えなければいけません。
知識欲の旺盛な人には、その知識欲を満足させるようなものを提供することも、もちろん大事です。 しかし、一方では、あなた方が何もかも教えなければいけないというような、そういう前提をはずさなければいけないのです。 それを機縁として、つまり、その教えを機縁として、人生の出合いがあって、心の交流があるような、そういうものが大切なのです。 ですから、だれが師であり、だれが弟子というのをはっきり決めるのではなくて、その場その場で師になったり、弟子になったりするような、そういう人間関係。私はそういうのこそ、非常に素晴らしいと思います。 「君、そのことに関しては、僕が経験があるから教えてあげるよ」とね、こういう関係が大事なのです。
男性にとっても、そういう男女交際ということを抜きにした異性、女性とのね、精神的な語らいがあるということが必要です。 女性にとっても、そういう精神的な語らいがあるということは、大事なことなのです。 今、女性で、心の教えを求めてる人が多いのですが、そういう人たちも、結局は、はけ口がなくて困っているということです。
男性と交際したくても、そういうことを満たしてくれる男性が世の中にはあまりいない。職場にもいない。もし、いたとしても、わからない。外面にださないですからね。 ですから、女性もね、いろんな男性と会って、心の教えを交流できるような、そういう場をつくってほしいと思います。
神仏への信仰という一つの基盤がありますから、そういう出合いがあったところで、それほど不倫な恋にはならないはずです。 いわゆる社交クラブではないのですから、神仏の前の出合いですから、そういう不純な感情なしに、異性の考え、男性の考えなり、女性の考えというものを十分に理解吸収するチャンスがあると思うのです。 私は、これも大事なことだと思います。
健全な宗教ですから、別に主婦の方がご主人以外の男性の話を聴いたからといって、それに心奪われて、家庭が乱れるというようなこともないはずです。そういうことは大事なことなのです。 つまり、ご主人以外の男性の話を聴いたこともない、というようでは、主婦のほうも、人生経験が非常に狭くなる。そうでしょう。
そういうことで、明るい出合いの場を、あなた方につくっていただきたい。これもね、現代宗教が、今、やるべきことだと私は思います。 それ以外には、どう考えてもない。政治に期待するのも無理です。経済に、あるいは、地域社会の活動のなかに期待するにしても、ちょっと無理なところがあります。 すなわち、話がないからです。そのなかで、やはり共通項がいるのです。基盤がね。 そういうことで、政党などでは無理です。何とかの政治をやっているからといって、党員同士が集まるのとは、ちょっと違うのです。それは、ちょっと違う。そういうのは、単なる政治活動が目的の集団です。 ですから、まあ踊り念仏を、現代風にいうなら、そういう出合いの広場ですな。そうした愛の広場をつくるということです。これが一つです。よろしいですか。
聞き手:一遍様は、今、「踊り念仏」ということの踊りをとりあげられたのですが、現代では、何か歌、合唱とかね、そういう音楽をとりあげてもいいのではないかと思うのですが・・・・・・。
一遍:いいですよ。要は、そういう幅広いものにすればいいのです。優れているものだけがいいのではなくてね、みんなでやっていけるものがいいのです。つまりは、ある意味での平等な社会をつくっていただきたいということです。
世の中を見ていると、どうも縦の社会、垂直的な社会、すなわち、上下社会になってきました。で、横割というのは、年齢だけ、同じ年齢者同士平等なんだと、こういう社会になってきた。これではどうもいけません。 そこで、もう少し、本当の意味での平等な社会がほしい。いろんな方がたが、趣味でも何でもいいし、そうしたものを通じて交流できるような、そういう場をつくってほしいということです。私は、そう思います。これはよいでしょう、この考えは。
聞き手:そうですね。非常に斬新(ざんしん)な素晴らしいお話であると思います。
一遍:この視点も、私は、大事だと思うのです。つまり、あまり知的に道を求める人ばかりが集まっても困る。ですから、何度も申したように、明るい「出合いの広場」をつくっていただきたいということです。
7 一遍上人の「時宗」は一瞬、一刻の信仰の教え
一遍:一遍としての考えを述べねばいけないということでしたね。踊り念仏については、すでに話しましたが、もう一つ言っておきますと、私は当時、「時宗(じしゅう)」というものを称(とな)えておったわけです。正確には、時宗を称えておったわけではなくてね、人がそう呼んだわけでありますが・・・・・・。
その要点は何かと申しますと、結局、「南無阿弥陀仏」を何百万回唱えたから救われるのではない、そういう功徳で救われるのではありません、と。 人間というのは、いつ死ぬものかわからない。大波が後からおしよせてきて、いつ足を掬(すく)われるような人生になるかわかりません。 不確かな人生でありますからこそ、一瞬、一刻を本当に神仏への信仰のもとに生きねばならぬ、と。 そういうことで、南無阿弥陀仏を唱えるにあたりましても、その回数が大事なのではない。息を吐くとき、息を吸うとき、その一瞬、一刻が信仰生活でなければいかん、と。こういうことを、私は言ったわけです。
まあ、これも当時、ずいぶん斬新な考えでございました。息を吸うか、息を吐くか。人間というのは、いつもどっちかをやっているのです。そのどこでね、息が止まるかわかりませんよ、と。 今、息を吸っているから安心しているけれども、今度吐くときには、あなたはないかもしれませんよ、と。 そういうことでありますから、息を吸うとき、息を吐くとき、それぞれの瞬間において、まあ、現代流にいうなら最高の人生ですな、そういう人生を生きているあなた方であれ、と。
しかし、あの頃の時代ではそうは言えないから、まあ、南無阿弥陀仏と言っていましたがね。 そして、息を吸うときと吐くときは、もう臨終のつもりでね、それこそ「時」が終わりなのだということで、真剣に、一息ごとに南無阿弥陀仏と唱えなさい、と。 こうしておけば、いつ死があなた方を見舞っても怖れることはないよ、と。こう教えていたのですが、まあ、これも昔の教えなのでね、時間とか「時」のことを言っているから「時宗」と言われたようです。
これも、現代風に言い直すならね、時々刻々にベストをつくせということですね。つまり一瞬、一秒を惜しんでベストをつくす。こういう面が一つあります。 もう一つの面はね、信仰生活というのは、別にまとめて、信仰というものはできるものではないということです。現代においても、同じなのです。
ところが、現代では教会などがあって、日曜日だけ、教会へ行く。そして、そのときだけクリスチャンになっている人がおります。 日曜日を離れるとまた忘れてしまって、現代人は好き勝手なことしている。そしてまた、日曜になると、クリスチャンになって、「聖書」を読んでいる。 しかし、これではいけないのですよ。まあ、日曜だって大事ですが、やっぱり信仰というのは、毎日毎日であるし、毎時間毎時間であるし、毎分毎秒なんです。
ですから、一瞬たりとも信仰心が失われるようではいけない。そういうことです。そういう緊張感も大事なのです。 さきほど私は、解放感について言いましたが、逆に今度は緊張感ですね。それも大事なのです。 あなた方は日常生活をするなり、仕事をするなかでね、人間と人間の間でさまざまな衝突もあるし、さまざまな軋轢(あつれき)もあるし、さまざまな利害関係があるでありましょう。 そういうときに、これはビジネスだと割り切ってやることもけっこうですが、その割り切る背後に、深い宗教的な判断、深い神仏への信仰というのがなければいけません。
仕事の上では、どうしても相手を蹴落さねばいけないこともあるでしょう。商売の相手を、ライバルを、斬り倒さねばならぬこともあります。また、同僚をだし抜かねばいかんこともあるでしょう。ま、やむを得ずそうせざるを得ないときもあるでしょう。 ただそのときに、神仏の眼から見た自分の行為というものを冷静に、客観的に見えるようなあなた方でなければいけないということなのです。
8 新しい宗教は「空間」と「時間」を制する哲学であるべきだ
一遍:私の教えの要点の第一番は、まず開放的な「出合いの場」をつくるということです。 二番目には、一瞬、一秒に信仰を深めていく、信仰を持って日々に生きていくと、そういうことですね。 最初は「場」を言いましたが、二番目は「時」です。ですから、哲学的にむずかしくいうなら、「空間と時間」ですな。 まあ、哲学者みたいになってきて、大変むずかしくなって恐縮ですが、現代においても、私の時代もそうだけれども、現代においても、布教の要点は、「空間」と「時間」なのです。
まず新しき教えは、一定の空間を確保しなければなりません。そして、その空間のなかに、人びとの出合いの場があり、愛の広場がなければならない。これが一点です。 第二点は、新しき教えには時間という概念がなければいけない。 信仰というものは、特別の日に、特別の時間に集中して、まとめて信仰できるものではない。 信仰というものは一時間、一分、一秒これをも離れてはならないものである。 吐く息、吸う息、その時々刻々に自分を生かしめている親なる神の生命の息吹を感じなければいけない、と。これが二番目です。
息ができることは、当然ではないのです。あなた方が寝ているときにだって、呼吸はしているのです。呼吸を止めれば、心臓が止まってしまって、あなた方は死んでしまいます。 しかし、無意識のうちにも呼吸をしているのです。それは、そうした仕組をつくってくださった神さま、仏さまのおかげなのです。 ですから、ありがたいという気持ちで、毎日毎日を生きていかねばならないのです。 そこで、そういう時間ですな、この概念が必要です。 つまり、新しい宗教は、「空間」と「時間」を制するような哲学でなければならんということなので、あなた方の教えのなかに、「空間」と「時間」という概念を明瞭に打ち込むべきです。
といっても、特別な宗教的時間をとるわけではないのです。毎日毎日のなかに実践化していく、信仰を持っている。自分の発する一つ一つの言葉が、神仏の心に適(かな)っているかどうかへの反省を込めていく――。 あるいは、生きている毎日の一つ一つのできごとのなかに、神仏への報恩、すなわち、恩がえしということですね。 両親への恩がえし、恩になった方へのお返し、こうしたものを日々心に留めて生きていく。こういう時間概念ですね。 まあ、哲学的に言えば私はいくらでも言えるのですが、一遍上人としての世間の判断と離れてくるといけないので、それはそこまでにしておきましょう。どうですか、この時間の考えは。
聞き手:これは人の生きざまについての基本のことでございまして、そのとおりだと思います。 結局この「時間」というものは、一つの念(おも)いの持続であろうと思うのですが、念いの持続ということの強度、振幅によって、そこにそれに比例した「空間」というものが開けてくるということですから、まず念を起こせば時間が生じる。 念が一定の時間持続、振動すれば、そこにはそれに比例した空間が現出して、躍動し始めるということになりますね・・・・・・。
一遍:そうです。あなたもなかなかの哲学者ですな。
聞き手:いやいや、恐縮でございます。それにしましても、何と申しましても、この本義をまず時間のなかで把握していく、さすれば、そこに創造的ないろんな空間が自ず(おのず)から展(ひろ)がっていくとこういうふうに思います。
一遍:まあそれはね、今、哲学的にむずかしく感じるかもしれないけども、あの世へ行けば当然のことなのですよ。 あの世ではね、一瞬一秒、神仏のことを忘れては生きていないのですよ。だれもが、そういう信仰心を持って生きているのです。 もちろん地獄にいるような人たちはそのような気持ちはありませんが、天界、あるいは、高級霊界におられる方がたは、一瞬一秒たりと、神仏に生かされているという感謝の気持ち、信仰の気持ち、これを忘れてはいけないのです。
この生かされているという気持ちのもとに、皆様は、一瞬一秒を努力しておられるのですよ。 だから、まあ、この地上的にいうからむずかしいのであって、あの世では当然なのですよ。 私は今、「菩薩界」というところにおりますが、菩薩界というところにいて、一日のうちのある部分だけを「神仏」への信仰に打ち込んで、他の時間はね、他のことにかまけておいて菩薩界におられるかというと、おられないのですよ。 そういうことをしていると、雲の上から転落して、真っ逆さまに下へ堕ちていくわけです。
だからこそ、信仰というものはしっかりと持っていないといけない。 自分のところにある十字架だとか、あるいは曼陀羅(まんだら)、何でもいいけれども、それに向かってお祈りしているときだけ、心が清ければよいかといえば、そうではないのですよ。 仲間と出合ってね、それでさんざん悪口を言って罵倒(ばとう)する。 あとで、「ああ、しまった」と、それをまとめて精算し、あとでまとめて心の精算をしようと思っているうちに、真っ逆さまに堕ちてしまうのです。
ところが、生きている人間は、けっこうあるわけですな。 つまり、反省すればいいと教えれば、一週間まとめて反省すればいいんだから、日頃どんな放恣(ほうし)な、いい加減な生き方をしていても、まあいいだろうと思って、日曜日だけ教会へ行って懺悔(ざんげ)をしている。 まあ、それもしないよりはましですよ。ただ、この地上だからね、地上にいるから、まだ地獄へ行かなくてすむだけです。 私たちのうちで、世界で、六日間悪いことして、七日目に反省したところで、もうそのときは地獄のどまんなかにおります。 そういうことですからね、生きているうちに日々、一日を信仰的な感情を持って生きていく。こういうことが大事なのです。
聞き手:非常に斬新なお考えでございますね。
一遍:一遍は、古くて新しい男なんでございますよ。
聞き手:そうですね、こんなお話はめったに聴けないことですが、大変有意義なお話をうかがって参考になりました。 上人様のお説が書籍となって著われたときには、おそらく世の人びとは瞠目(どうもく)するであろうと、このように思います。 新しい大衆布教の場とその一つの方向が提起されたように思います。
一遍:まあ、一遍はね、本当絵巻物ぐらいしか残っていないので、私の思想はわかっていないのです。ただ当時はね、ずいぶん粋狂(すいきょう)な人がいたと思われていたのですが、まあ、その粋狂な人一遍の真意はどこにあるかですな。
9 この世で偉くなりたいと思ってはいけない
一遍:もう一つだけつけ加えておくと、さっきもちょっと言いましたが、宗教家があまり偉くなっちゃうことに、私は疑問があるのですよ。 偉い偉くないは、あの世へ行けば神様、仏様が決めてくださることなのですよ。 だからこの世で、地上で、自分が偉くなってしまうことはないのですよ。聖人君子になってはいけないのです。
ところがね、地上では、自分が偉くなっちゃう人がいるんですな。 まあ、某大宗教家でね、登りつめた方で、ときの政府からも信任されて、その仏教界の頂点にいた方が、今、ある苦しいところで喘(あえ)いでいるという事実があります。 その事実の背景にあるものは、結局、その方があまり偉くなりすぎたのですな。 キリスト教で言うようにね、「自ら高くするものは低くせられ、低くするものは高くせらる」と言いますが、これは真理なのですよ。 この世で、己れを高しと思う者はみな、下へ行くのですよ。逆に、これを低うするものは高うせられるのです。 神仏の前には、その人の高い低いはわからないのです。むしろ逆になることが多い。
そういうことで、今度は専門家の方ですな、今後「神理」を説いていこうといわれる専門の方がた、あなた方を始めとして、やがて支部などが、できればいろいろ幹部の方とか、支部長とか、まあそんな名誉職がいっぱいできるのでしょうが、自分を偉いと思ってはいけない。偉いと思っちゃいけませんよ。 偉いかどうかは、あの世で神様、仏様が決めることなのです。自分が決めることではないのです。人を導くということを、偉いことだと思ってはいけません。
そういうことで、やはりそういう宗教家というのは、本格的に自分の道というものを求める途中においては、捨てなければいけないのですよ。「執着」、これを捨てなければいけない。 この捨てるということが大事なのです。仏道修行に励んでいる人はね、みな偉くなりたいと思っている。そういう方が、けっこう多いのですよ。 俗事から離れて一筋に生きれば偉くなれるんじゃないか、と。 ところが、偉くなれないんですね。つまり、偉くなりたいという気持ち、その執着の気持ちを捨てられないからです。こういう人は低くされます。
たとえば、普通の人間などには真似できない荒行をやっている人がおります。 今だにね、那智の滝だとか、何とかの滝だとかで滝行をやっている人もおります。普通の人にはできないことでしょう。 なぜそんなことをやっているのか。つまりは、偉い人になりたいからですな。普通の人にできないようなことをして、偉くなりたいからです。 また、「千日回峯(せんにちかいほう)」とかいうものをやっている人もいる。何でやっているのか、これもまた、偉くなりたいからですな。 しかし、捨てていませんよ、何も。何も捨てちゃいません。生きながら名僧、高僧といわれたくてやっておるんです。 そんなことをやらなくてもね、山歩きがしたけりゃ、黙ってやればいいんですよ。「千日回峯」などと銘打って、人びとの注目をひいてやることはないのです。そんなのは名誉欲でしかありません。
それとかね、現代では、ヨガなども流行(はや)っているようですがね。ヨガなんかでね、私が見ていると馬鹿なことをね、空中浮揚とか、馬鹿なことが流行っておるようです。 修行して空中に体が浮くようになると、それで、われこそはとみんな修行をやったりしている。こういうものもすべて、偉くなりたいと思っておるのですな。こうした人びとにできないことをすると偉くなれると思っている。
しかし、こういう偉くなりたいという気持ちを捨てなければだめです。これを捨てなければ、本当には偉くなれないのです。 宗教をやる人びとで、最後の関門は、実はここなんです。 欲を絶つことはできるんですよ。食欲を絶って、断食をしたり、菜食主義にすること、これも慣れたらできます。 女性を断つ。異性を断つのも、まあ、できないことはないですね。修行だと思えば、女性がいないところへ行けばいいのですからね。これは、断てないこともありません。 睡眠をけずる。二時間、三時間と、体をいためるかもしれないけれども、これもできないことはないです。このように、昔からある修行は、できないことではありません。
ただ、一番むずかしいのはね、今の世の中にあって一番むずかしいのは、人から偉く思われたい気持ち、人の上に立ちたい気持ち、そういう気持ちを捨てることです。 人を教えるということのなかには、どうしても尊敬されたいという気持ちがあります。 現代においても、新興宗教が乱立しておるようだが、結局は、「われこそは本物だ」と言って争っている。何で争うか。偉くなりたいのです。人を蹴落としてでも、偉くなりたい、と。他宗の批判をどんどんしてでも偉くなりたい。 そういうことで、「これこそは本当の宗教」だと、そういうことを言いたいわけです。
まあ、あなた方、心の世界を知った人たちは、過去世の姿とかを知っていますね。 そこで、過去世の自分というものを知ってみると、ああ、自分が偉いもんだということがよくわかることがありますな。 最近できたある宗教でも、そういうのが多かったですが、過去世で偉い人であったから、自分は偉いんだ、と。 こういうのは、まあ、「神理」の実証のためにやっとるのはけっけうですが、過去世が偉いからその人がどうだこうだというわけではないんですな。過去世は過去世、今世は今世で、光の天使だって地獄へ堕ちるかもしれません。それはわからない。
しかし、たとえば修行してね、反省をして、霊道を開いてですな、そして、過去世を知った、と。 それで、過去世は偉かった、万才と、自分は過去世では、キリスト教系の偉い人だった、仏教系の偉い人だったと、こういう人がいっぱいおるわけです。 釈迦の教え、キリストの教えを直々に聴いたとかね、あるいは、自分はキリストそのものだなどと言っている人が、なかにはおるかもしれません。 しかし、こういうふうに、偉い人になったと思ってはいけない。とくに新興宗教のなかには、そういう考えが多いですから、気をつけていただきたい。
そして、信ずる人も信ずる人でね、その人が過去世で偉い人だから、その人を信ずると、こんなことではいけないのですよ。過去世では本当に偉い人かもしれないけれども、それは過去世の話なのです。 ですから、今世の人となり、教えの内容を見て判断しなければいけない。 とくに現代の新興宗教を見ると、どうも生き神様がでてくる傾向がある。死んでからはともかくとしても、生きているうちから生神様になって崇(まつ)られている。 この方が言っているんだから絶対だと、間違ってても何でもいいからそのまま信じちゃって、それに対する批判でもでようものなら、一蹴(いっしゅう)するか押え込んでしまう。あるいは、悪魔、悪霊が憑いているなどと言って、名指しで批判する。 こういうことをよくされているようです。こういうのはすべて、偉いということを誤解しておるんです。 真理はいつも同じなんです。偉いと思っている人は低くせられ、低いと思っている人は偉くされるんです。
10 九次元の人は秀才、しかし、七次元、六次元にはもっと専門家がいる
一遍:だから、あなた方もね、七次元だの八次元だの、九次元だのと、ずいぶん言っているようだが、これも害悪を撒くことが多いですよ。 九次元の人がこう言っているのだから、八次元、七次元の人は黙っていろ、こういう人の意見などは、採ることはない、と。後世において、こういう人ができますよ。 あなた方の「御言葉集」のなかでも、九次元の人の言うことだけ聴いておればいいんだ、と。あるいはまた、八次元、七次元の人の言うことは聴かなくてもいいんだ、と。こんなことを言う人がいるでしょう。 しかし、「神理」というものは、そんな簡単なものではないのです。
まあ、九次元におるような人というのは、オール・マイティの秀才なんですよ。国語も、英語も、理科も社会も、何もかもできるような人が、九次元へ行っております。 ただね、英語なら英語という特別な科目をとれば、七次元、六次元の人で、もっとできるという人はいます。また、国語だけとっても、同じことが言えます。絵だけ描かせれば、もっとうまい人がいる。詩だけ書かせれば、うまい人もいる。
これは、一つの譬喩(ひゆ)でありますがね。たとえば、よくあるでしょう。 学校の先生がね、小学校、中学校の先生がね、まあ、大した学校をでていない、と。 ところが、子供のお父さんのほうは、まあ、一流大学をでている。 そこで、そういう一流大学をでているお父さんとかお母さんとかがね、PTAに行き、三流大学をでている先生の話だと不安になってくる。いけません、と。塾へでも通わさないとね、心配だ、などと言っているんですね。 しかし、専門家というのはいるんです。たとえ、三流大学をでていてもね、小学校で教えるということで専門教育を受けているんですから、一流大学をでているからといって、何も父兄が口をだすことはないんですよ。専門家がいるんですから、同じことです。
親がどれだけ立派な学校を卒業しているか知らんけれども、子供が小学校、中学校へ行っている以上は、小学校の先生の言うことを、中学校の先生の言うことを、よく聴けばいいのです。 立場が違うんです。彼らは専門家なんです。同じですよ。 六次元の人だからといって、レベルが低いとか、七次元だから意見を聴いてやらないとか、こういう考え方は、間違っています。 ですから、あなた方の次元概念も、下手をすると、読者とか信者にそういう間違いを招く惧(おそ)れがあります。
11 権威主義はやめるべきである
一遍:あなた方の前に興ったある新興宗教でも、そうしたことで間違いを起こしている人をずいぶんつくっておるようです。 すなわち、この人は上だ、と。人間には、上下段がある。この世にも、上下があるけれども、あの世の上下まで持ってきて、あの世の物差をこの世で通用させる。しかし、それではいけないのです。
いいですか、あなた方の教えを説く講師とかがでてきて、そういう人の教えを聴く場合に、「あの人は、OR先生が菩薩だと言ったから、あの人は偉い。だから教わるんだ」とかね、「あの人はYS先生に、“如来”の人だと言われたから、あの人の教えを聴くんだ」とかね、こんな馬鹿なことを言う人がでてくるんですね。 しかし、そうじゃない。その人の箔(はく)ではないのです。その人の本当に持っている神性、教えの内容をよく見て、それでもって判断せねばならんということですね。そういうことなんですよ。
だから、私は最初に、「空間」の話、それから、「時間」の話をしました。 三番目にした話は、「価値尺度」について。この話を私はしたんですね。 「空間」「時間」「価値尺度」とこの三つ、すなわち、これはある意味での哲学であります。これをまあ、わかりやすく言ってみたんですが、偉い、偉くないをこの世で計ろうとするなということです。そういうことなんです。 あなた方も、それに気をつけなさいよ。ORさんも、YSさんも、過去世においてどんな偉い方であったとしても、また、どんな偉い大聖者の下で修行をしたからといって、今の自分たちが偉いんだなどとは考えてはいけないよ。
ですから、あなた方が今後、布教していくときにおいてね、 「私たちは偉いんじゃありません。私たちが偉いから、私たちの教えを聴けと言っているのではありません。私たちの教えの内容を見て、あなた方に汲み取るところがあったら、それを汲み取ってください」 と、こういう立場ですね、これをとっていただきたいのです。 教えの内容を見て、参考になるところがあったら、吸収していただく。決して、自分たちが偉いから教えを説いているのではありませんよ、と。こういうことです。
まあ、私もつくづく考えていることですが、あの世での価値基準でこの世を計ろう、それで自分が渡ろうとしてはいけないということを考えております。
聞き手:まあ、あの世にね、神様がつくった価値の序列、上下があるのは確かです。 ただそれはね、いろんな理由があって、そうなっているのですから、それをそのまま持ってきてはいけないのです。それぞれの立場で役割があるのですからね。それをそのまま持ってきちゃいけない。この世に引きずり下ろさないようにしてください。
一遍:このことは、私どもの今後の「法」布教にあたっての頂門の一針(ちょうもんのいっしん)とさせていただきたいと思います。ありがとうございました。
一遍:まあ謙虚な気持ちでということですな。これは大事です。 宗教家にとってはね、この謙虚さということが、一番大事なんです。自分を偉くし、「偉し」とする気持ちは危ないです。 もちろん、へり下る必要はないんですよ。それはないけれども、「偉し」と思ってはいけない。
聞き手:それは、私も、近頃ふと考えることですが、こうしていろいろな聖賢の方がたのお話をうけたまわっていても、人によっては、この人はずいぶん偉い人なんだなと感じる方がおられます。
一遍:いや、それもまた、裁いてはいけないのです。本当に偉いかもしれないですよ。本当に偉い人に対してはね、偉いと認めてあげること、これもまた礼儀ですからね。 ただ、肉体を持っているあなた方はそう思わないほうがいいでしょうと、私は言っているのです。 まあ、あの世へ行けば、偉い人はおりますよ。偉い人は偉いんですから、それはそれでいいじゃないですか、認めてあげてください。へり下るからって、偉いわけではありません。
イエス・キリストはイエス・キリストの、釈迦は釈迦としての立場があるし、毅(ぜん)とした態度をとらねばいけません。それをへり下ってね、あなた方と同じように戯言(ざれごと)を言っているわけにはいかないのです。それは仕方ありません。立場があるのですから。 まあ、偉い偉くないではなくてね、あなた方も、お役に立ちたいという気持ちでやっていきなさい。それがいいことですよ。
私はね、権威主義というのが一番嫌いだったのです。だからあなた方も、権威主義にならないようにしてください。私はそれがすごく嫌いでね、ごらんのとおりの生涯の生活でした。 やっぱり、私は俗人と混って生きたかったんですよ。これは、あくまでも私の個人的な考えですが、権威主義はやめていただきたいと思います。 ま、それは、あなたとも意見が一致するでしょう。昔は、よく話したものです。こういうことをね。つまり、権威主義って嫌いだね、と。お互いに恵まれないことが多かったものですからね。この世的には恵まれないことが多かったもんでね、権威主義は嫌いなんですよ。
お互いにね。神の道を説く者が、この世では、なかなか偉しとはしてくれないこともあってね、でも、いいじゃないか、と。平々凡々とね、そのなかに生きて、そして、光っていればいいのです。 まあ、そういうことで、時間もだいたいきたようでございますから、今日の私の話は終えましょう。唯円様のぶんをとってはいけないので、ここらで私は引きあげたいと思っておりますが、どうですか・・・・・・。
聞き手:あなた様には非常に斬新な、そして、含蓄(がんちく)のある教えを賜って、心を広くせられる思いがしました。
一遍:まあ、あなたは一遍など忘れているでしょうが、私もまた、あなたの友だちの一人ですよ。あなたの友だちはいっぱいいるんですよ。私たちは、おせっかいではないから、自分たちからはでません。 けれどね、あなたは、蓮如様とも友だちだし、私とも友だちです。親鸞様だって友だちです。実は、みんな友だちだったんです。
聞き手:本当に、そういうことでございましたか。如何(いかん)せん肉を持つということは哀しいことで、かつての恩義のある方や、友人方に対し、不義理なことばかりを重ねてしまって・・・・・・。 でも、そちらへ還ったら十分にお詫びをし、お礼も申し上げたいと思っておりますので、今後とも、ご指導をよろしくお願いいたします。
一遍:じゃあ、そういうことです。では、今日は還らしてもらいます。
(本章は、一九八六年八月七日の霊示)
第4章 蓮如上人の霊訓
れんにょ(一四一五~一四九九) 室町時代の浄土真宗中興(一四五七年)の祖。本願寺第八代の法王。 諱(いみな)は兼寿。童名、布袋丸。
一四六五年比叡山衆徒の襲撃に遭い、京都東山大谷をでて、近江(滋賀県)に逃れ、一四七一年越前(福井県)吉崎に道場を開き、北陸の信者の組織化をはかった。 そののち、山科(京都)に本願寺を再建、大阪に石山本願寺建立、上人の努力で真宗は大きく勢力を伸ばし、それとともに、一向一揆も盛んとなった。
著書として、「正信偈大意」「御文」「領解文」など。 諡号(おくりな)は慧燈大師。 前世はキリストの十二弟子の一人アンデレとして生まれ、福音伝道に活躍した。
1 蓮如上人の「親鸞観」について
(質問者) 初めてお招きいたしましたが……。
(蓮如) いや、私のほうでは、もういつ呼ばれるかと、ここ数ヵ月、首のまわりを洗って待っておりました。
(質問者) これはどうも……。
(蓮如) あなた方も親鸞様のご本をだすということで、不肖蓮如もどうやら呼ばれるそうだということで、居眠りから醒めて、頭を洗って、顔を洗って、首のまわりをよくこすって、今、でてきたところであります。
(質問者) それはそれは、まことにありがたいことでございます。実は、ただ今お話にございましたように、今回私どもが行なっておりますのは、各時代における東西の聖賢方のご意見を今世におきましてあきらかにし、そして人びとの救いの手立てとしようということでございます。
そこで、いろんな方がたのおでましを願ってお教えをうかがっておるわけですが、今回、親鸞様を始めとする真宗関係の聖賢方のお訓えがうけたまわれないということは、まことに残念だという読者の強い要望がございました。 ですから、ここに皆様方のお教訓をうけたまわって、現代、及び未来の人びとの生きる上での光とも、指針ともさせていただきたいと思いますので、上人様にもよろしくお願いいたしたいとぞんじます。
(蓮如) わかりました。まず最初に、それでは、私の「親鸞観」ということから始めたいと思います。 ごぞんじのように、親鸞様は、私より二百数十年前に活躍された方であります。ですから、私は、直接の面識はなかったのです。
私は真宗の中興の祖ということで、世に言われていますが、私がなぜ親鸞様を信じて、この信仰に入ったのか。こういうことから、お話していくのが、最初はわかりやすいかと思います。 親鸞様という方は、非常に誤解された方であります。
当時、鎌倉時代においても、いわゆる専門家たち、仏教界のなかにおいても、親鸞の思想を本当に理解した人は数少なかったのです。 しかも、親鸞を偉い先生として崇め祭っていた人でさえ、親鸞の真意は理解し得ていなかったと、私は思うのです。
そこで、なぜ親鸞様が誤解をされたか。私は、このことについて徹底的に考えてみました。 私が生まれた家というのは、お寺ですから、それも親鸞様の教えを継いでいるお寺ですから、もちろん最初からそういうきっかけはあったわけであります。 しかし、親鸞様の思想、なぜそれが誤解されたのか。私はこの疑問を徹底的に追究してみました。
彼のどこがそのような誤解を生んだのか。世の人びとの誤解を生んだのか。 結局のところ、親鸞の教えは、向上の教えではなくて、堕落の教えであると、世の専門家たちは思ったということですね。
宗教家というものは、人間をよい方向へ導いていくのが仕事であります。向上させるのが仕事であります。 にもかかわらず、親鸞は、悪人を肯定し、悪人こそ救われるべきだ、と言いました。
ま、これで一般庶民は非常に喜んだわけでありますが、専門家たちは、それでは、おまんまの食い上げです。 悪人で救われて、修行しなくて救われるなら、お寺関係はすべて商売が上がったりです。それでは困るのです。
しっかり勉強していただいて、尊い教えを聴いて初めて、極楽浄土へ行けるというのが本当のあるべき姿であると、まあ、僧侶たちは考えたわけです。 そして、そのために、自分たちの修行があったのです。まあ、こう考えたわけです。
親鸞様という人は、もちろん無知な人ではありません。 彼は、比叡山、叡山において、二十数年間勉強に打ち込み、大変な秀才と言われて将来を嘱望された方です。
しかし、その方が、なぜ山を下りたかです。なぜ山を下りたか。 その当時、やはり彼は周囲の人たちを見ていたんです。いくら教学をやっても悟っている人はいない、と。
自らの栄達を思う心、あるいは自らの知識を鼻にかける心、こうした心を持っている人は数多いのだけれども、本当に大衆とともに、神仏の教えに帰依して、彼らを救っていこうとしている人が、叡山にはいなかったということです。
今の世界で言うならば、いい学校をでて、立身出世をする人は数多かったのだけれども、いい学校をでて、一般庶民のためにつくしたいと思っている人は数少ない。それと同じです。 そこで、親鸞は、栄達の道を断って、自ら悩みのなかにわが身を投じたのです。彼は、考えに考えたはずです。
秀才の彼のことですから、さまざまな教典を読んで、その内容を読破したことでありましょう。内容を吸収したことでありましょう。 しかし、彼は、そのような勉強のなかにおいて救いがあるわけではないと考えた。
やはり宗教というものは、できるだけ多くの人を救うのがその任務ではないのか、と。そこで、彼は野に下ったわけです。 叡山で出世をするというのは、官僚になって立身出世をするのと同じなんで、官僚になって、大蔵次官だとか、そういうものになるのとか、あるいは、政治家で頂点を登りつめたり、あるいはまた、学者で頂点を登りつめるのと同じ道なんです。
しかし、そうした道を捨てて、彼は野に下りました。まあ、学問でいうなら、在野の学者ですね。 野に下って、庶民とともに考え、彼らとともに苦しもうと、そう思ったということです。
そして彼は、従来の“戒律”、この戒律というものに対する疑問を深くいだきました。 戒律を守らなければ人間が悟れないものであるならば、ではなぜ神仏は、人間にこれだけの煩悩を与えたのだろう、と。
人間に煩悩があるということが悪であるならば、生まれてくること自体が悪なのではないか。 人間には食欲があります。これが悪だというならば、人間に食欲がないわけはありません。これが悪だというなら、生まれてくることが間違いだったのではありませんか。
人間にはまた、異性への欲、情欲、あるいは性欲といってもいい、こういう欲があります。 宗教家たちはみな、これを悪と言っています。しかし、それは本当の善悪の悪でしょうか。 宗教家たちは、すべて悪と決めつけていました。異性への思いというのは間違いである。悪である、と。
それは、たまたま「釈尊」が出家をして悟ったということに由来しているのでありますが、本当にそうでしょうか。 では、なぜ神仏は男と女とをつくられたのですか。 男が女を思う、女が男を思うことが悪であるならば、男女をつくったこと自体が間違いなのではないでしょうか。
男として、あるいは、女として生まれてきたこと自体が間違いではないでしょうか。 もし、それが間違いであるならば、男だけを、女だけを、あるいは、男でも、女でもない人間をつくればよかったはずです。
神仏は、その気になったなら、人間を雌雄両方の性格をかね備えた動物としてつくることもできたはずです。 男性であり、かつ卵でも産んでですよ、子供をつくれるようにしておけば、それなら、それでいいではないですか。
しかし、それにもかかわらず、男女をつくり、しかも、男女の葛藤をつくって悩ませて、地獄に堕とすような神仏とは何だろうか。というところですね。 やはり、こうした疑問は追究しなければならないのです。
宗教家たちは、もう最初からですね、前提として当然のことながら、肉食すること、食欲のあるのを悪いこととし、男女の欲は悪いことと決めつけています。 そして、自分だけが模範生徒になればいいんだ、と。模範生徒ではない人たちは地獄へ行くと言っているわけですね。
しかし、人間には、そもそも生まれついた本性がある。その本性を否定すれば本当によくなるのでしょうかね。 そうだとすれば、本性そのものが悪いのではないでしょうか。 それならば、人間というような、人間として生まれる、その生まれるということ自体において、そのなかに悪を内包する存在だということになります。
たとえどんな聖人だって、食欲のない人はおりません。あるいは、性欲のない人はいないはずです。 あるいはまた、睡眠欲というものがあります。 この三つの欲望ですね、すなわち、食・性・眠、この三つの欲望というのは断ちがたいものです。これを断って、そして悟れるのでしょうか。
私は、これは違うのではないかと思ったわけです。 そして、親鸞様もまた、その疑問を徹底的に追究した方です。 一般の庶民たちは、魚も、もちろん食べていました。では、彼らは魚を食べているから、それだけで、すでに救われないことになるのでしょうか。
叡山の僧侶たちは、魚を食べていない。豆腐を食べたり、野菜を食べたりしている。だからこそ、悟り、救われるのだ、と。 しかし、肉食をしている人びとは、もうそれだけで“救い”ということから捨て去られているのでしょうか。隔絶されているのでしょうか。
こうしたことを徹底的に考えた人はいないのです。ただ昔から、伝統的にそうなっているから、それを守ったというだけにすぎません。 よくわからないけれども、祖師の教えを守って真似をすれば間違いがないんだ、と。 そういうことでやっていたわけであって、その疑問追究はやっていないわけです。
ちなみに、高野山に因んだ話がありましたね。 苅萱道心(かるかやどうしん)が、父である自分を訪ねて来たわが子石童丸に、女人禁制とされていた高野山には登れず、麓に残っていた妻に対して、「父はすでに没したと言え」と偽って子を帰したため、待っていた妻は深雪のなかに死したという苅萱親子の悲劇物語です。
まあ、これは、当時においては、女人を修行の妨げとみなしていたことによるのでありましょうが、これが本当の宗教家の姿でしょうか。 この見方によると、女はもう悪だと、迷わすものだという考えでしかすぎません。
逆に考えるならば、宗教とは、男だけのものですか。悟りとは、男だけのものですか。 人類の半分は女性ではないですか。女性を悪と決めつけるような宗教が、本当に神仏の御意(こころ)を反映しているのでしょうか。
釈尊が言ったことは、女性にして悟ることはむずかしいと言ったのであって、女性が悪だと言ったのではないのです。 なぜ女性が悟るのがむずかしいか。つまり、女性は、俗世に煩わされることが多いからです。
それにまた、女性というものに生まれついたことによって、さまざまな人間関係に縛られるからです。 子供を産む、子供を育てなければいけない。母親としての役割があります。また、妻としての役割があります。また、嫁としての役割があります。 女性はこうしたものに縛られるがために、解脱(だつ)することがなかなかむずかしい。
釈尊はその本質を喝破(かつば)されたのであります。ですから、女性を悪と見たのではないのです。 悟りにおいて障害が多いと言ったのであります。
それをどう誤解したのか、女性そのものが悪であるかのように、悪魔の手先であるかのように、誤解している人が多かったのです。 こうした根本的な問題を、徹底的に疑問追究しなければ、一般の庶民は救われません。 ほとんどの人は、男女があいともに暮らして、子供をつくって育てているのです。これが悪でしょうか。
もし男女が結婚して子供をつくることが悪であるならば、人類はとっくの昔に、滅(ほろ)びています。 善人を目差している人ばかりならば、とっくの昔に亡びています。 それにもかかわらず、連綿(れんめん)と人類は生き続けています。それは人類は悪だからでしょうか。
そうではないはずです。神仏の御意は、人類をずっと永代、末代まで生き伸びさせて、そして、魂修行の場を設けようとしておられるはずなのです。 であるならば、悪であるはずはないではないですか。
やはり、この辺を考えないといけない。立脚点を、エリートに置いてはいけないということです。 親鸞様という方は、その点を徹底的に追究されたのです。 ですから、私を見て、親鸞様の立派だと思うところは、今まで既成概念だと思われていたことを徹底的に追究した。 自ら勇気をもって、身をもって示したということですね。
私は、近年、“牛痘(ぎゅうとう)”というのですか、“種痘(しゅとう)”ですか、種痘ということをした医師の話を聞いたことがあります。 牛痘、つまり、“天然痘”ですか、それを治すために、そのワクチンを、自分の子供の腕に植えつけたという人がいたはずです。私はそういう話を聞いたことがあります。
これもまた、同じような勇気ですね。一歩間違えば死んでしまう。一番大いなるものを失ってしまう。しかし、それをあえてやる。真理のために、あえてやる。同じであります。 宗教家というのは、みんな、悟りたいと思っている。悟って、天国のいいところに行きたい、と。みんな、そう思っております。 浄土のいいところに行きたいと、だれもがそう思っているのです。
にもかかわらず、その一番大切なものを、あえて危険に晒(さら)してでも、やはり真理のために実行せねばならない。そういうことがあったと思うのです。 ですから私は、そういう迷いのなかで、大迷のなかで、大悟(たいご)された親鸞様、そういう大きな勇気をもって行動された親鸞様という方に、大変心魅かれたわけです。
とくに、私たちの世もまた、戦乱の時代でありました。 このような時代において、一般の人びとが、聖人君子になることはほぼ不可能であります。 ですから、如何にして彼らを教導していくか。これを考えない宗教家は、真の宗教家ではありません。
叡山に行ったら救われるというならば、一般の人はすでに救われないことになっているのです。 むしろ時代が要請したことは、在家の宗教であります。在家にあって、如何に救われるかということです。
これと正面から取り組まないで、山に籠(こも)ってお経ばかりあげたり、教学ばかり勉強しているようでは、どうして一般の人は救われますか。 自分だけが救われようとしている気持ちは、すでにエゴイストではないですか。自己中心主義者ではないですか。こういうことがあったのです。
今の方がたから見てもね、親鸞様の考え方には、よく分からないことが多いと思います。 なぜ悪人が救われるのか、と。まあ、一つのね、異説、変わった説だととられるぐらいがおちです。その本当の真意を汲み取ることは、むずかしいです。
ただ、親鸞の考えというのは、まあ一つのアンチテーゼであります。従来のね、固定概念がある。 釈尊の死後、すでに二千数百年経っています。そして二千年も同じ考えが連綿と続いて、まったく紋切り型で、形だけを真似ている。
宗教家というと、もうお線香を燻(いぶ)いてやっている。線香などはね、日本では必要ないのです。 インドの地で線香を燻いたのは、かの地では蚊とか虫が多かったからです。 修行に差障(さしさわ)るからそういう香薬(こうやく)とか没薬(もつやく)を用いて修行していたのです。
ですから、お線香を燻くことが目的ではなかったのです。ところが、そういう形ばかりを真似ている。 私たちは、もう形を捨てた。真理というものは、自由自在なものであり、時代に応じて変幻自在に現われてくるものだと、こういう柔軟な思考をですね、したわけです。
私が蓮如としてでたときも、もちろん親鸞様のあとを継いで、この真宗をおおいに広めるという目的を承知の上で、この地上に生まれてきています。まあ、その目的は一応達したというわけであります。
しかし、その真宗の教えが、今の時代に伝わって、“浄土真宗”はずいぶん人口が多いようですが、そのなかにあってまだ、形にとらわれている人たちが多いのも事実であります。 他力信仰というと、何かもう題目を唱えているような、すなわち南無阿弥陀仏と唱えていたら救われていたように思われるけれども、当時においては、これはもう画期的な教えであったのです。
まあ、当時の新興宗教なわけです。非常に画期的な教え、斬新な考えだったわけですが、今においては、そうではありません。 ですから、むしろ今の時代に私たちがでて来たならば、今の浄土真宗を攻撃するかもしれません。 そんな考えにいつまでも執(とら)われるなというかもしれません。 まあ、そういうことが私の「親鸞観」でありますが、このことについて、何かご質問があれば、お聞きください。
2 現代の葬式僧侶は詐欺罪を犯している
(質問者) 親鸞聖人には、昨日その辺のところのお話をいろいろくわしくお聴かせいただき、大いに教えられるところがございまして、感謝いたしております。 蓮如様につきましても、そのご宗旨の本義ということもさることながら、やはり上人様には、当時、ご活躍されたその縁(よすが)というか、ご様子というか、その行動力の活力となったものを、実はお聴かせ願いたいと思っております。 そして、私どもが、今日新たな教えを広めようとするにあたっての貴重な指針とさせていただけるなら、非常にありがたいと思うのでありますが、お願いできましょうか。
(蓮如) わかりました。それでは、他の方がたがおそらくは話をしないであろうと思うようなことについて、私はあえて話をいたしましょう。 鎌倉、あるいは室町の時代においては、要するに、僧侶は独身か、妻帯かという選択を迫られました。
そして、一般の人は妻帯をしているということで救われないのかどうか、妻帯したままであっても、他力信仰によって救われるのかどうか。こういうことが、いわゆる争点であり、焦点であったわけです。
しかし現代、私たちの眼で現代を見た場合、何が問題か。 現代では、僧侶もすべて妻帯しています。結婚していない人というのは、非常に珍しい。 ところが、家庭生活を営んでいる僧侶のなかに、また高僧が少ないことも確かであります。
ですから、親鸞様同様、私も、その後の仏教を堕落せしめたとずいぶん批判が多かったことも確かです。 つまり、僧侶というのは、「真理」を求める者であるにもかかわらず、それが生活になってしまっていたということです。
仏教者がね、そういうお勤(つと)めをするべきであるのに、生活になっている。 勤行(ごんぎょう)し、まあ写経をしたり、それを声にだして詠んだり、あるいは、お葬式にでて行ったり、そういうことが、要するに職業になっています。
ですから、現代において、たとえば私たちがでたとするならば、何をどう改正するか、改革していくか。こういうところが一つの視点だと思うのです。 またこれが、あなた方が知りたいところだと思います。
あなた方がやっているような、こういう“霊界通信”ですか、これは、近年イギリスなどを中心にして興ったような、スピリチュアリズムというのですか、まあ、そういうもののように考えられております。 一つの新しい、まあ、精神科学ですね。
こうとられていますが、いわゆる宗教家のなかでもプロといわれる人びと、あるいは、神社、仏閣で、神主だの僧侶などをやっている人によっては、また遠い話でピンとこないのです。 そういうことは、興味としてあったり、ほんの知識として読んだり、教養として読むことはあっても、自分自身によってはピンとこないのです。 つまり、そうしたことは別世界の話だと思っている人が多いのです。
ですから、宗教の大学をでて、宗教大学の学長などをやっている人であるにもかかわらず、いいですか、本心において魂などを信じていない人がいっぱいいるのです。形だけでね、学問だと思っているのです。
だから、何とか経にはこう書いてあるとかね、そんなことばっかりやっている。釈尊が思想家だと思っているのです。救うということを忘れている。 これについては、たとえば、一般の人びとの信仰に対しても同じことが言えます。
「うちのお爺ちゃんが死にましたから、偉い先生、どうか一つお念仏をあげてください」と言われても、せせら笑っている。そんなことね、念仏をあげたところで成仏するわけじゃないが……と腹のなかで思いながらやっているんですね。形だけのことを。
あるいは、偉い学長さんの話でね、最近、私はこんなことを聞きました。 まあ、真宗系ですけれども、その信者がね、言ったんです。 「家の者が死にましたので、ちょっと来てください。真宗系統では、死んだときに念仏を唱えないと、お棺のなかになかなかうまく納まらないと言われています。
そこで、先生、この死者をもうそろそろお棺に入れますから、お念仏を唱えてください。そしたら、死者も安らかになって、体も、手足の骨も柔かくなり、お棺のなかに収まりますので、先生、どうかお念仏を唱えてください」と。
すると偉い大学の学長さんで、真宗を専攻しておられるその方は、馬鹿馬鹿しいと思いながらも、形だけね、そう言われたら、気休めだから拝んであげましょうと、お念仏を唱えるわけですね。
こういうことをして、得意気になっている人がいるんです。お坊さんに何か拝んでもらわないと体が柔らかにならないと思っているとはと、馬鹿にしているわけです。 しかし、本当の魂の真実においてはどうかというと、その民度の低い人びとのほうがむしろ正しいのです。
実際に、死ぬときに、硬直する人がいるんです。死ぬときに体が確かに硬直する。なぜ硬直しているのか。 要するに、魂が肉体からだされるのが恐いのです。ここ以外には住家がないと思っているんですね。
だから、お棺に入って焼かれるのがいやなのです。このように、迷っている魂がいるんですよ。焼かれては困る、と。 お棺に入れられて、火葬場へ行ったら焼かれてしまう。知っているんですよ、彼らも。 だから何とかね、焼かれるもんかと、肉体を守らねばならんと、硬直するんです。体がね、抵抗しているのです、霊が。
こういう人に対しては、教えてあげなくてはならない。 あなたは死んだのですよ。死んであの世へ行くんですよ。肉体は仮の姿ですよ、と。これは本当の姿ではありません。
あなたは魂として、あの世へ行って、あの世で修行させられるのですよと、本当はこういうことを懇々(こんこん)と諭(さと)さねばいけないんです。 そういう死者に対しては、肉体に執着をもっている死者に対しては、それを諭さねばいかんのです。
それにもかかわらず、それすら知らない僧侶がおるということです。偉い人でね、そんなことすら知らない。 そんなのは気休めだと思っている。馬鹿馬鹿しい、そんなのは民間信仰だ、と。 体が折れるだとか、折れないとか、お棺にうまく入るだとか、入らないだとか、こんなことあるもんかと思っている。そういう人がおるんです。
しかし、こんな人は職を辞しなさい、と私は言いたいのです。こういう人は、いくら知識だけを詰め込んでも、何も解っていないのです。本当の魂のことが、わかっていない。
ですから、あなた方はね、現代にでているわけですが、私たちも現代にでたら、まずこの僧侶たちに対して、本当の正しいものを教えなければいけない。 どうも葬式仏教に堕してしまっている。だから、まずは、葬式仏教の改革が一つ必要です。 僧侶たちが死後の世界、魂の世界を知らないのにもかかわらずそういった職業につくというのは、これは詐欺です。“詐欺罪”です。はっきり言ってね。
信じていないのに、自分が死後の世界を信じていないのに、それを職業とするのは、詐欺ではありませんか。 あの世は「ない」と思っているのに、袈裟法衣(けさごろも)を着て、お経をあげて、なぜ、お礼を貰うのですか。
帽子を被ってバイクに乗って来て、最近では自家用車で乗りつけて来てですね、そして一時間、二時間、お経をあげる。本人は意味も何もわかっていないのにお経をあげる。 周囲の人びとは、退屈で、退屈でしょうがない。とくに夏の暑いときなどは、大汗流して、足にしびれが切れて立てない、と。 そして、やっと終わってくれてありがたい、と。ありがたいというのは、終わってくれてありがたいということですよ。それで、掌を合わせている。
こんなことばかりしているのです。こんなのは、心が入っておりません。 現代の僧侶は、そういうお経をあげるのではなくて、むしろ法話をせねばならんのです。 死者というのは、実は、肉体が死んでからも、まだ二日、三日は体から離れていません。
さきほどのように、肉体に執着している霊もあります。 ですから、そういうお棺を置いておいて、その場で、家族の人、親戚の人を集めて、本当の死というものは何かということについて、僧侶はお話ししなければいけないのです。もちろん、現代語で、わかるようにね。
「皆さん、この家の何某という方が亡くなりました。亡くなりはしましたけれども、どうかご安心ください。肉体が、すべてではありません。人間には、死後の世界というのが待っているのです。 そして、その後の修行があります。まあ、この方が生きているときにどういうふうに生きられたかわかりません。 ただ、ご立派な人生であったと私は聞いておりますので、きっとそのみ魂は天国へ昇られるでしょう。しかし、天国へ昇られたとしても、そこも修行の場ですから、しっかりとね、いろんな方の守護指導を受けて勉強しなければならないようになっているのです。
あるいは、運悪く地獄で苦しまれることがあるかもしれません。もし暗い世界へ行かれることがあったら、それは地獄でございます。 もし地獄に堕ちたならば、自分が地獄にいるということを自覚されて、生きていたときに、生前、何が間違っていたのかをしっかりと反省してください。
その反省が終わらないと、地獄からでて来ることはできません。生きていたときに、人の悪口を言わなかったかどうか。人を責めなかったかどうか。自己本位のままに生きたかどうか。要するに、人を愛したり、生かしたりしたかどうか。こうしたことを徹底的に反省しなければいけないのです」
このように、お坊さんは、その霊が地獄へ行く可能性があるからこそ、反省という方法を教えてあげねばいかんのです。 何も知らないでね、死ねばすべては終わりだと思っていた人は、死んで終わりでなかった場合、どうしたらよいかわかりません。 そういうことは、学校で教わっていませんし、あの世で教えてくれる人もおりません。だから、地獄の深いところへ行って、孤独なのです。ただ一人暗いところへ行って、迷っておるのです。どうしていいかわからないのです。
3 迷える先祖、家族霊を救うのは家族の「正心法語」の諭し
(蓮如) してみれば、頼るのはこの世の人です。とはいえ、この世の人に頼っても、この世の人も何も悟っていません。 お坊さんのところへ行っても、お経をあげるだけです。といって、お経をあげられても、全然成仏できないんです。
だから、家族のところへ行きます。しかし、彼らにも、どうしてよいかわかりません。 自分は地獄に行っているのだけれども、どうしたら救われるのか、と。たとえば夢枕に立ったとしましょう。 しかし、家族たちは、何も言うことができません。何とかさんがね、どうも迷っているようだとは思うかもしれない。
迷っていると思ったら、どうするか。お線香を立てて、ろうそくを立てて、チーンと鳴らしてね、掌を合わせて、それで終わり。 あるいは、お墓参りをする。お墓へ行って、花を立てて、水をやる。これで、終わってしまいます。
しかし、これでは救われないのです。これでは、救われるわけはない。本当は、諭(さと)してあげなければいけないのです。なぜ地獄へ堕ちたのかを。 地獄に落ちた人は、やっぱり生きていたときに、人のためにはつくさなかったのです。自己本位のままに生きていたのです。
人間というのは、神の法則のもとに生きているのです。ですから、その法則に外れると、やはりそのぶんだけ、軌道修正をしなければいけなくなるのです。 地獄に行っているような人は、生きていたときに、死ねばすべては終わりなんだと思っていた人がほとんどです。 そのため、生きているときに、やりたい放題をやってきたはずなんです。そういった人たちには、やはり反省ということが大事です。反省をしなければいけないのです。
ですから、お坊さんはね、法話の話ですが、葬式のときには、そういうありがたい「神理」の話を、遺された家族の人たちにしなければいけないのです。 死者は、まだ狼狽(ろうばい)していてわからないかもしれない。 しかし、家族の方がたには、こういうことなんですよと、神理を教えてあげる。
そして、あなた方がお墓へ行くなり、仏壇に掌を合わすときには、それを口で言って、死者に聴かせてあげなさい、と。 「お爺ちゃん、あなたは死んだけれども、死んで肉体はなくなったけれども、魂というのはあるのですよ。あなたが、もし自分が生きていると思ったとしても、それは肉体ではなくて、霊体として生きているんですよ。霊体として生きていくために、あの世というのがあるのですよ。 この地上は、もう、あなたたちが住むところではありません。お爺ちゃんは、天国か、地獄か、どちらかへ行かれるんです。そこで、いずれにしてもね、修行されるのですよ。だから、そちらの人の偉い方の話をよく聴いて反省して、修行してください」
こういうことを真に、心のなかから言ってやる必要があります。そうすれば、死者は成仏するはずです。 死者の霊というのは、通常、頼るところがないから、生きている人のところへでてくるのです。 憑依(ひょうい)霊とかよく言いますね。憑依とかよく言います。憑依とか、こんなことあるんでしょうかとよく言います。あるんです。現にあります。
「溺れる者は藁(わら)にも縋(すが)る」とはよく言われることです。あなた方もそうでしょう。自分が死んでしまえば終わりだと思っていて、死んではっと気がつくと、まだ生きている。 生きているはずなのに、自分は真っ暗な底にいる。これは大変ですね。何とか助けてほしい。
助けてほしい、助けてほしいと言っていると、どこか遠くでどこか見たような人影が見えてくる。これが家族ですね、遺された家族。 そこで、「あっ、いた。助かった」とね。
だから、助けてもらおうと、子孫のところへでて来て、腰にしがみつく。腰痛が起きます。 助けてくれえーと足にしがみつきます。リューマチになります。助けてくれえーと頭にしがみつきます。これで、ノイローゼになっていきます。 こういうふうにして、体の調子が悪くなって、子孫に不幸が起きていきます。こういうことがあるのです。
彼らは、ただわかっていないのです。別に悪を働いているわけではありません。 ただ遺された子孫の方がたに、いろいろ問題が起きてきたら、病気がでたり、事故が起きたり、家族の家庭争議が起きたりしたときには、もう一度皆さん集って、よく考えてみてください。 何か問題があるのではないかと、死んだ人も迷っているのではないかと、あるいは、生きている人も、心に何か誤りがあるのではないか、と。こうしたことを反省していただきたいのです。
やはり生きている人が「神理」を悟って、明るく正しく生きていくことが、最高の教えなのです。これが最高の供養になるのです。 死んだ人は、まず家族の人のところへ来ます。家族たちが神理に則った生き方をしているかどうか、これを見るんです。それで教わっていくんですね。
だから、あなた方がみんな、死後の世界をよく知って、その知識を知って、そして悟っていくことですね。そうすれば、ご先祖も必ず悟ることができるはずです。 私は、あなた方の商売の援助をするつもりではありませんが、できるだけ多くの日本人、あるいは、世界の人びとの一人でも多くが、この「御言葉集」を読んで、死後の世界があることを、そして、こういう世界になって、こういう法則があるんだということを、しっかりと知ってほしいと思います。
まず、知識が前提です。知っていないと悟れません。知っていて、次の段階として、これを行動に移すということです。これが大事です。 まあ、少し長くなりましたが、とくに、お坊さん方ですね、僧侶たちはこれを知って、要するに生きている人に説かなければ、これはもう職業的に詐欺罪です。
こういう方は、あの世に還ったら、絶対反省させられること間違いありません。わけのわからないお経だけをあげておったのでは、ダメなのです。死後の世界について、本当に探究心を起こしなさい。大学で学問的に教わって、単位を貰えばいいというだけではないのです。これをね、個人としても、教養としてしっかり身につける。単にお経をあげるだけではないのです。
もちろん、お経をあげてもいいけれども、それが終わったら、皆さんにわかりやすい説法をしなさい。これが一番大事です。これも宗教改革の一歩です。 「南無阿弥陀仏」だけで終わったのではいけないのです。死後の世界について、説明してあげなさい。そうあってこそ、本当の専門家でしょう。 それができないのであれば、もう僧侶はやめたほうがよろしい。これが宗教改革の一歩だろうと思います。
4 「性」の倫理をどう考えるべきか
(蓮如) では、宗教改革の第二歩は何かについて話しましょう。 私たちの時代には、妻帯をしても成仏できる、往生できるという話をいたしました。これが一つの宗教改革だったわけですが、では、現代ではどうでしょう。
まあ、妻帯するのは当然です。通常、だれもが結婚をします。 なかには、道を求めるために、昔の訓えに還って、独身を通して道の探究をしている人もおります。学問をやる人で、仏法をやる人には、そういう人もいるということです。
そういう人たちはさておき、一般大衆を見てみると、だいたいは結婚をしています。 結婚するだけならまだいいのですが、結婚以上のことをしている。つまり、性風俗がいかに乱れているかということです。
私が見ているかぎりでは、今の男性、女性の多くが、結婚前に異性を体験している。これがふつうになっております。 女性でも、結婚をして初めて男性を知ったという人は、非常に少ないといえます。男性においては、もっと少ない。 そこで、神理の伝道者は、このことについて、もう一度徹底的に疑問追究をしなければいけません。
どうもこの方面についての、正しい教えがないように思います。哲学でも、これについては、語っていません。過去の宗教も語っていません。 では、現代にでたあなた方はこれをどうするか。ここがむずかしいところです。問題は、これをどうするかです。
いや、それでも救われるのだという教えもあります。真宗をもっと進めたようにしてね、たとえどんな乱れた生き方をしていても救われるのだという生き方もあります。 しかし、いずれにしても、これをどうするかです。
そこで、私の考えを申しましょう。結婚というのは、言うまでもなく、長い間、何万年、何十万年にわたって続いてきています。あるいは、もっと前から続いているものです。すなわち、これは人類の一つの知恵だと、私は思っております。
人間は性情のままに、そのときそのときを生きてしまいます。単に子孫を産むだけであるならば、猫や犬などの動物がそうであるように、一年のうちのある時期だけに発情して子孫を残すようにすれば、それですむはずです。 ところが、人間というのは、そうじゃない。年がら年中発情しております。
そこで、これをどうするかということなのです。発情するから、異性というものの存在が必要になってきます。 しかし、発情のままにまかせていたのでは、手当たり次第ということになる。眼の前にいる男性、女性に、だれでもいいから眼をつければいいということになります。
とくに現代では、避妊法が進んでいるために、男女の交際イコール、結婚・出産とはならない。そういう時代です。 しかし、避妊というような考えについても、宗教家の立場でどう考えるか、これも必要です。
昔は、性的な行為をすれば、即座に子供ができるとされていました。ですから、結婚即出産ということになっていた。つまり、性行為即結婚、結婚即出産という図式があったのです。 ところが、現代ではそうはならない。性行為即結婚ではありません。結婚即出産でもありません。結局、避妊という方法が発達してきたためです。
しかし、これははたして神仏の意に適ったことなのか。あるいは、それはそれと認めて、そのなかでの正しい生き方を考えていくべきなのか。この点について、考えていかなくてはなりません。
昔は、子供というのは神仏からの授かりものだとされていたので、子供ができたらありがたいと思うのが当然でした。 ですから、現在よりも、もっともっと貧しかった時代にも、八人も十人もの子だくさんというのは、さほどめずらしくはなかった。
しかし、時代は豊かになったにもかかわらず、現在では、各家庭に一人か二人しか子供がおりません。ですから、一人っ子もずいぶん多い。これもおかしな現象です。何かが違っているのかもしれませんね。 さあ、この辺の問題についてあなた方は、どう考えるか……。あなたはどう考えていますか。あなたのお考えをちょっと聴かせてください。
(質問者) まあ、これはですね、“性”の問題ですね。結婚というのはまた別として、結局は、性の問題ですね。
(蓮如) そうです。性の問題です。
(質問者) 性の問題、これについては、解放すべきか、あるいは、制御すべきか、と二つの考えがあると思います。 現在、日本の国に入ってきている性の問題意識の多くは、アメリカの思想が流れ込んできたものでしょう。これによって、若い男女が性の問題について解放されたというふうに受け取っている人もありますが、また反面、これは非常な堕落であると考えている人もいると思うのです。
そこで、私どもは、先般、女性霊の方がたに、この問題についてのご意見を拝聴いたしました(注「卑弥呼の御言葉」のなかで)。しかし、それはそれとして、一応道を説く者が、どのような解釈を下すかという点が問題だと思います。
まあ、私どもでは、こう考えております。性だけを持ってするならば、これは犬猫、その他の動物も変わらない。ただ、人間は、霊長類の頭であって、しかも、人間は、「神」というものの存在を知っており、神の道というものがどんなものであるかということを認識できる存在である。
そこで、その“性”の問題についても、自ずから秩序というものを弁(わきま)えている。ひらたく言えば「良心」を持っている。つまりは、この良心というものが優先するのではないかと思っております。
しかし、だからといって、この性の問題を軽視するなり、旧仏教のように罪悪視することは間違いだと思います。 悪は、ほどほどに、中庸(ちゅうよう)の心を持って処していけばよいと思っております。一夫一婦制を前提として、結婚するのは当然であります。
では、結婚しない独身者の性の問題はどう扱えばよいか。これについては、男女の間に“愛”というものが芽生え、形成された場合には、結ばれてよいのではないかと思っております。
しかし、ひとくちに愛といってもむずかしい問題で、ただ単に好いた惚(ほ)れたといっても、その基準となるものが顔や肉体的な外形上のものではなくして、思想、趣味といった精神的なものが“愛”の基準となったものであることが肝心なのではないかと思います。 したがって、現代のアメリカ的な放恣(ほうし)なフリーセックスというようなことは排さねばならぬ、と私は考えます。
5 「招婿婚」の一夫多婦でも地獄に堕ちなかった
(蓮如) あなたのお考えは、だいたいわかりました。ただ言っておきますとね、性の解放というのは、今のアメリカだけが進んでいるのではなくて、もっと昔の時代にもあったということです。
ギリシャでも、たとえば、昔のゼウスなどのギリシャ神話の頃、神々は非常に開放的でありました。神々というよりは、むしろ、あの時代に生きていた人びとという意味ですね。その頃の男女の交わりというのは、非常に開放的でありました。非常におおらかな気持ちでやっておりました。
それからまた、ルネッサンスの頃も同様です。おおらかな性ということで、 “性”がずいぶん解放されました。つまり、その頃というのは、罪の意識が非常に薄らいできた時代なんですね。これはラテン系、南欧系の考えでしょうけれども、非常におおらかなものの考え方をしています。
また日本においても、奈良、平安の頃には、けっこうおおらかな考えがあった。性に関してはね、おおらかだった。歌など詠みましてね、歌で気持ちが通じ合った者同士だと、“招婿婚(しょうせいこん)”というのですか、通い婚があった。
通い婚ということで、一夜妻がけっこういたわけです。一夫多婦もありました。歌を詠んで、歌の上手な人が、多くの女性を射止めることができる。そういう貴族の世界がありました。
では、歌がうまくてね、多くの女性を射止めた男性は地獄へ堕ちているのか。堕ちてはいません。 あるいはまた、その当時、幾人かの男性を持った女性は地獄へ堕ちているか、堕ちてはいないのです。
「紫式部」という女性もそうですね。彼女にも、夫にあたるような人が何人かおりました。彼女は大変な才人で、文学者であり、また、歌もうまかった。ですから、彼女を求めて、男性が殺到しました。大変にもてたわけです。
いろんな男性が彼女に求愛をしました。もちろん、そのすべてを彼女は受けたわけではありませんが、そのなかの幾人かの男性を夫らしく扱ったことはあります。 しかし、彼女が地獄におるかといえば、地獄にはおりません。けっけう悟った世界におります。ここら辺がね、どういうことかということを、もっと考えていかねばならないのです。
6 許される男女の交際は、お互いの人格向上が基準
(蓮如) 結局はこういうことなのです。性というものが宗教から遠ざけられている理由は、どうしてもこの世的なもののほうへ考えが走ってしまうからです。ここがいけないということなのですね。
どうしても精神的になりにくいんです。この世的なものの方向へいって、あの世のことを忘れる。本来の世界のことを忘れる。霊的な世界のことを忘れてしまう。ということは、こちらの方向へいってしまうという意味での危険性があるのです。
“性”というのはね。そういう意味では、精神的な世界に浸るためには、なるべくそちらにいかないほうがいい。「いってはいけない」のではなくてね、「いかないほうが望ましい」ということです。 つまり、精神を開発するには、根本に、こういう考え方があります。
ですから、物質的に、あるいは、肉体的に、男女の接合といいますか、その接触自体が地獄へ堕ちるような行為かといえば、そうではないのです。 これは、昔の威しすかしの教えの一つであります。しかし、そういうものではありません。
ただ、男女の交際のなかにおいて、如何に精神的であるかということは、これは一つの基準であります。如何に精神的であるかということですね。 そのなかに、要するに、男女の交際のなかにおいて、如何にお互いを高めるものがあるかどうかです。
結局、許される男女の交際、及び許される男女の交際の結果としてですね、それによってお互いの人格が高まっていくかどうか、お互いが素晴らしいものとして認め合う存在となっていくかどうか。その点が、許される行為というものの基準になるわけです。
であるからこそ、あなた方は、青少年が不純異性行為というのをするのを避けているのでしょう。 もの心、理性(まゆ)が十分ついていないから、また、堕落へつながっていくことが多いから、その警告の意味でも、不純異性行為を取り締まっているのでしょう。まさにそのとおりです。
中学生や高校生では、まだ分からないです。本当の“愛”というのが分からないから、興味本位で行なっているにすぎません。ですから、それをある程度取り締まっているということは正しいのです。
ただ、たとえば、しっかりした人生観を持った男性なり、女性なりが、異性を想うこと自体が悪である、触れること自体が悪である、あるいは、性的行為は悪であるとして、これから遠ざかること自体は、問題があると言えます。 神は、悪をこの世につくっておられないのです。本来、人間に備わっているものが悪であるはずはないのです。
ですから、結局、この問題に関しても中庸ということが、一番大事なんですね。中庸、すなわち、どちらへ極端に走ってもいけないのです。 そして中庸で、中庸のなかにおいて、お互いに高め合えるものがあるかどうか、これが基準の一つです。
お互いに高め合うものがあるかどうかです。堕落の方向へ行くのか、高め合うのかかどうか。 これが基準の一つで、高め合う愛であるなら、許されることも多いということです。
ですから、異性との交際を、すぐ罪や罰と結びつけて考えるのは間違っています。 おおらかな時代がありましたし、そうした時代において、罪の意識を持たずして、人間はけっこう幸せに暮したときもあったわけです。そこで、この性の問題についても、時代背景を考慮した問題があります。
7 現代の「性」の乱れは、生活難という社会的制約が元凶
(蓮如) それと、もう一つ言っておきます。この宗教と男女の愛については、社会的な制約、背景があるということです。 そこで、あなた方も、そのことについても考えなくてはいけません。
今、若い男女がなぜ乱れているのか。そこを考えねばいけないのです。 それは、彼らの道徳が低くなったからでしょうか。性情が粗悪になったからでしょうか。私は、必ずしもそうだとは思いません。
戦前においては、子供が八人、十人といて、大家族であるのが普通でした。それでも、生活ができた。 ところが、現在では、子供は一人か二人しかいない。それ以上、つくらないようにしているからです。 しかし、何がそうさせているのか、この点について、考えてみる必要があるのです。
また、男女の結婚の年齢が高まっています。 男性の性的な成熟は、ほぼ十八歳から二十一、二歳までの間に完成します。女性の場合はもう少し早く、だいたい十六歳から十八歳で、性的に成熟します。
ところが、実際の結婚年齢を見てみると、男性の平均年齢は二十七、八歳、女性の場合であっても、どうでしょうか、二十五歳から二十六歳ぐらいへと近づいてきているのではないでしょうか。
これは、生物学的な条件と比較しても、非常にへだたった差があります。男性に関しては十年間です。 つまり、もし二十代後半から三十歳ぐらいで男性として完成しておれば、別に何の問題もないのです。
ところが、生物学的にはもう十八、九歳で大人になっておりながら、社会的に大人になるためには、三十歳ぐらいまでかかる。 女性に関しても同じです。生物的には十六、七歳でもう完成しているにもかかわらず、女性として社会的に結婚できるのは二十五、六歳です。 約十年の差が、男女ともにあります。ここに問題があるわけです。この点を考えていかねばならないのです。
結局のところ、若い二人は、なかなか結婚できないのです。なぜ結婚ができないのか。 物価の問題があります。家の問題があります。収入の問題、子供の問題、転勤の問題。こうしたいいろいろな問題があるのです。
ただし、農耕社会だったらできるんです。たとえば、夫、二十歳で、妻十六歳というケースでも、結婚できるんです。 農業ということに関しては、別に年齢は関係ない。むしろ、若い人ほど頼もしい大黒柱となります。ところが、今の高度管理社会では、そうはいかないのです。
若いとは、すなわち、収入が少ないということを意味しています。収入が少ないのです。 そして、若いとは、空間を確保できないということです。空間とは、家を持てないということ、土地を持てないということ、部屋を持てないということです。こういうもろもろのことを意味しているんですね。 ですから、結婚するとは、こういう社会制度とも非常に関連があるんです。
今の人びとでも、もし二十、二十一歳くらいの若いときに結婚できるようになっていれば、別に問題はないのです。おそらくは、幸せな結婚をするでしょう。 ところが、生物学的に、それが十年遅れる。この部分が問題なんですが、はたしてそれまで禁欲を強いれるかどうかです。 僧侶になる人なら、十年ぐらいは修行するでしょう。しかし、一般の人は、そうはいかない。
結局、経済的な問題が多いわけですね。そこで、結婚するかわりに、男女でいろいろな楽しみを見つけだしているわけです。 まあ、これも一つの知恵ではあるのでしょう。ところが、それがまた、世の中の混乱を起こしているのも確かです。
ですから、なぜ、そういういろいろの問題があるのかというと、一つには、都会に人びとが集まりすぎているということです。これが問題です。そのために犇(ひし)めき合って、なかなか生活空間ができない。
もう一つの問題は、 “核家族”です。両親と一緒に暮らさなくなったということですね。 両親と一緒に住まないから、子供ができたときに、困るんです。 若い二人が結婚しても、夫の収入だけでは生きていけないので、妻が働く。しかも、両親とは別々に住んでいる。そこで、子供ができると困る。こういう問題があるのです。
8 「性」の善悪を問う前に社会制度の政治改革が必要
(蓮如) ですから、あなた方は、「神理」を説くと同時に、制度改革、社会改革にも眼を向けるべきだと思うのです。 つまり、もう一度ね、もう一度、一つの社会的な革命を行なうことが、私は必要だと思います。 もっと人間の本性に即した制度をつくらないと、社会制度の仕組みがますますおかしくなってしまうでしょう。実際問題として、現在の経済世界も、すでにおかしいと思います。
そこで、一つには、若くして結婚ができて、生活ができるような、そういう方法を考えていく必要があります。 たとえば、学生たちにしても、そうですね、現在の高度学歴社会で、女性が四年制大学をでて、それから会社に勤めると結婚が遅れます。 こうしたことも、“性の自由化”に結びついているのでしょう。
しかし、この辺もね、もう少し柔軟性を持って考えられるようにしたいと思うのです。 ですから、あなた方は、知恵を集めて、どうしたらもう少し若いときにね、自由に結婚ができるようになるか、考えてみてあげてください。
そして、私が思うに、もう一つには、両親と住むような生活形態、これをやはりもう一度見直す必要があるのではないか、と。 すなわち、若い人が両親と住まないのは、たとえば、都会でないと、仕事が見つけにくいということがあるからだと思います。 職業がないから、両親のもとを離れて、都会にでてくる。これは偽政者の責任でもあります。
昔からも、都というのはもちろんあったわけですが、地方には地方の生活があったはずです。 ですから、やはり地方にもっといろいろと仕事をつくって、若い人がおれるようにして、そして、早く結婚できるような社会的な保護制度をつくってもいいと思うのです。
つまり、若い人びとに、「空間」と「収入」とを保証する道ですね、これを考えてみてあげる必要があります。 年寄ったときのためには、いろいろな保証があります。しかし、若い人のためには何も保証がありません。これは、逆であってよいと思うのです。
住宅を建てるためだけにローンがあるのはおかしいのです。若い人が結婚するためには、お金がかかります。 そういうときに、非常に安くてすむ補助を受けられるような、そういう方向であってもいいと思います。 あるいは、結婚にかぎらず、若い人が住宅を借りたり、購入する際に国庫補助をだすことを考えても、おかしくはないのです。
ともあれ、もっと早い時期に結婚を奨励するような策をつくる必要があると、私は思います。 そうすると、その善悪を問わずに、人びとは普通に暮らしていけるはずなのです。 ですから、制度ですね。そういった制度自体を、もう少し見直す必要があると思います。
さきほども申しましたように、生物学的に見れば、十年遅れているのです。 これでは、よほど禁欲精神の強い人でないと、性のモラルは、ちょっとむずかしくなっていくばかりです。 医学的に考えて、逆に、男女の生理をもう少し遅らせる方法でも考えないとむずかしくなります。
こういうことに関しても、もっと多くの人びとが知恵を集めて、社会風俗の改良のために考えていくべきなのです。そのよし悪しだけをいたずらに言うだけではなく、真に考えねばいけません。
そういう前提があります。ですから、「正法」にしても、何が善であり、何が悪であるかというのは、すべて時代背景によって変わってくるのです。 すべてが豊かになっていると考えているのです。しかし、人間の意識は、豊かになっていると思いながら、本当は貧しくなっているのです。この点がわからないのです。
人間の本当の幸せのために生きようと思ったら、生きられないのです。偽政者たちのインフレ路線に惑わされているのです。 だから、毎年、年収が増えれば、それだけ豊かになっていると思い込んでいるのです。 ところが、物価がそれ以上に騰がっているのですから、実際は、少しも楽にはなっていない。こうした問題ですね。
9 簡素ななかの「美」価値基準の転換こそ唱道すべきである
(蓮如) それともう一つはね、簡素な生活というもの、この素晴らしさを唱道(しょうどう)する人がでてこなければいけません。 今様に表現するならば、シンプル・イズ・ベストというのでしょうね。簡素。 武士の時代には、実に簡素でした。簡素さというのが、もっとも素晴らしいものだと思われていました。 お茶の世界にしても、そうです。
簡素さ、簡素であるということは、決して悪ではないのです。むしろ素晴らしいことなのです。 ところが、現代では、“もの”があふれていることが素晴らしいと思われているのです。この価値基準の転換が大事です。
簡素に生きることの素晴らしさ、美しさ、これを唱道する人が、もっとでてこなければなりません。 シンプルに生きるということですね、現代流にいうならば。ものが、一杯にあふれても、ちっとも幸せにならないではないですか。
たとえば、東京の高級地に、何億円もだしてマンションを購入する。そして、それが贅沢(ぜいたく)だと思っている。 しかし、人間が生活するための家に、そんなに何億円もかけることが本当に素晴らしいことなのかどうか、そこを考えていただきたいと思います。
ですから、政治の立場でいうならば、職業のもう少し分化、細分、地方への分散、こういう問題を考える必要があるでしょう。 また、個人の生活スタイルを考えるならば、簡素であるということが美しいという考え、こうしたことをもっと流行らせなければいけない。
たとえば、ものをたくさん持っている人を見て、蔑(さげす)むぐらいのそうした風潮がでてきても、おかしくはないのです。 お茶の部屋みたいな、ああいう茶の湯のような生き方、こういうものがどんどん入ってきても、ちっともおかしな(は)ないのです。 このように考えていくならば、きっとまた、違った生活観がでてくるはずです。
10 なぜラブホテルを林立させ、ボケが流行るのか、経済政策の貧困を正せ
(蓮如) 経済の問題を解決しないで、現時点において、現時代において、「正法」というのはあり得ません。 つまり、社会政策はもちろんのこと、経済、これも入ってくるということです。 この社会政策と経済政策が現代の善、悪をつくりだしていることが多いと言えます。
むしろ、かなり悪い世の中になっているのです。発展していると同時に、かなり悪い世の中になっているのです。 ですから、あなた方は、その辺について、もう少し具体的に提言していく必要があります。
私は、まず一番目として、僧侶が法を説かねばならんという話をしましたが、二番目として必要なのは、社会倫理の改革のためには社会制度、政策を改革することです。 さらに言えば、人びとの生活意識、これを改革していかなくてはならない。私は、こう思っております。
男女の交際自体が善か悪かというのではありません。ラブホテルの存在自体が善か悪かというのでもありません。 問題は、なぜラブホテルが林立しなければいけないような状態になっているのかということです。この点について、考える必要があります。
若くして結婚できれば、そんなことをする必要は、何もないのです。つまり、ラブホテルを儲けさせる必要はないのです。 ですから、こうした問題についても、考えていかなくてはなりません。 そして若い人でね、勉強のためにどうしても時間がほしいという人には、それを何か支えるような制度をつくってやる必要があります。結婚制度には金がいりますからね。
それと、家族制度をもう一回考えて、両親と一緒に生活するという方向をもっと考えてみるべきです。 一緒に暮らすというのは、やはり便利です。子供の面倒を見てもらえるし、留守をあずかってもらうこともできる。問題は、少ないです。非常に少ない。
そもそも、昔は大家族で生活できたのです。その点をもう一度考える。便利です。 年寄りにとっても、新たな生きがいがでてきますし、何といっても、若い人は便利なのです。 それにもかかわらず、なぜ“核家族”にしていくのか。そこを考えていくべきです。
今、年寄りの“惚(ぼけ)”が流行(はや)っています。ボケ老人が非常に多くなっている。 なぜボケ老人が多いのか。すなわち、一人で暮らしているからです。孤独に暮らしているからです。
年寄りには、年寄りなりの刺激が必要なのです。年寄りには年寄りなりの日々の情報が必要なのです。 ですから、空間ですね、家族が住む空間、そして、職業、これらについて考えなくてはならないのです。 まあ、交通網の発達によって、やがては、ある程度解決されていく問題でしょう。
つまり、今の時代においては、過渡期的な問題かもしれません。いずれにせよ、これが第二点です。 あと、今のところで補足することは経済についてですね。「神理」のなかにおいても、経済が必要問題となることが、まだ、あなた方の視点に十分には入っていないようです。
しかし、経済ということで、金銭的な解決という点も無視してはいけないのです。 経済の問題とひとくちに言っても、土地とか、空間とか、お金とか、収入を始めとして、いろいろあります。 税金の問題にしてもそうです。ともあれ、経済の問題、これが非常に必要問題となるということを、決して忘れないでください。
11 宗教的理想、幸福の自己実現の方法とは
(蓮如) 第三番目について、申し上げます。 もう一つ私が言いたいことは、宗教における日常生活化ということです。宗教の日常生活です。 現在においては、宗教ということ、それだけで、すでに特殊な世界になっています。
特殊なというと、たとえば、あの世に興味のある人が入り込む世界です。 ですから、新興宗教に入っているというと、眉をひそめたりします。宗教自体が、そういう世界になっていると思うのです。 ですから、会社とか、官庁とか、そういったオフィス内にあっては、宗教の「宗」すらだすのもおかしい、ということになっていますね。
とくに日本の憲法においては、政教分離と言いまして、政治と宗教は分離すべきだとされております。 また、教育からも宗教は分離されてしまっている。宗教は、まったく孤立なのです。 まるで淫祠邪教(いんしじゃきょう)であるかのように言われています。 ですから、宗教改革家がでたとしても、その淫祠邪教の宗教改革に終わることが多いと思います。しかし、これではいけないのです。
すなわち、本来、宗教というのは、もう一つ、日常生活のなかに入り込んでくるべきものなのです。 そこで、現代の宗教改革家は、この点について、徹底的に考えなくてはなりません。どうやったら、宗教が日常生活のなかに入ってくるか。これを徹底的に考えるべきなのです。
日常生活に宗教が入ってくるためには、少なくともさまざまな段階的な教えがいるということを伝える。これが第一段階です。 あまりむずかしいことだけを言っていたのでは、ダメなのです。やさしい教えもいるということです。平易な教え、だれもが理解できるような教え、こういうのが必要だというのが一つです。
第二段は、その宗教を日常生活に取り入れることによって、人びとが幸福になっていくための何かの原動力がないといけないということです。 あの世に興味のある人たちだけの趣味の対象が宗教であってはおかしいのです。 その宗教を信じ、実践していくことによって、日々の生活が幸福になっていくようなものでなければいけないということです。
その意味においては、宗教が幸福の具体化であることを教えていかなければならないのです。幸福の具体化です。 ですから、現代の宗教では、あの世の世界のことについて説くだけでは不十分です。 会社生活なら会社生活のなかで、如何にして幸福になるかという方法を徹底的に研究しなければいけないのです。
ところが、そうしたことを説いている宗教家は、残念ながら、あまりいない。 会社生活のなかで、如何にして幸福に生きるかという方法。あるいは、商売の世界で生きている人は、商売の世界で如何に幸福に生きていくかという方法。 またあるいは、農業や漁業に生きている人が、そうした第一次産業的な業種において、如何に幸福に生きるかという方法。
このように、それぞれの日常生活のなかでの密接な生き方の方法、これを教えていく必要があるのです。これが、すなわち、幸福の具体化ということであって、これが大事なのです。非常に大事です。
この世離れしたあの世の教えだけを説いていたのではいけないのです。もっと密接な教えがいるのです。 では、現代人にとっての密接な教えとは何か。 それを、一言で表現するならば、“自己実現”だと私は思うのです。
それぞれの持ち場、それぞれの職場で、だれもが希っていることは、“幸福”です。 幸福とは何か。つまりは、彼らの理想がうまく開花すること、それが幸福だと思うのですよ。 それぞれの人は、それぞれの理想を持っています。その理想は、開花していく必要がある、開花するべきだと思うのです。
彼らが本当にほしがっているのは、善悪の道とか、天国へ行く、あるいは、地獄へ行くという話ではなくて、どうしたら自分の理想を実現できるかというようなことであろうと思うのです。
ですから、宗教の世界で理想を実現していくためには、「自己実現」ということを、これを宗教のなかに採り入れていかねばいかんということです。 古い言葉で言えば“御利益(ごりやく)”になるのかもしれないけれども、このご利益は、ある意味においては、自分の努力に応じたそのお返しというか、その反映でありますから、ちょっと異なったものであります。
“自己実現”とは、もっと現代的なことなのです。あなた方が、罪とか、赦しについて考えるのもけっこうですが、現代的に「自己実現」ということをもっとしっかり考えておく必要があります。 それぞれの人が自己実現するためには、どうしたらよいのか。この点が大切なのです。
12 昔の「他力信仰」に代わる現代の「光明思想」
(蓮如) まあ、私が言いたいのは、今から七、八百年前に現われた他力思想、あるいは、室町の時代に生まれた他力思想が、現代において、どのように現われているかです。 他力行者たち、他力の信仰を持った人たちが、現代の世の中にもいろいろでているのです。日本はもちろんのこと、アメリカやヨーロッパにもでております。
他力信仰の方がたと、他力行者たちが、今何をやっているか。すなわち、こういう方がたがやっているのが、「自己実現」なのです。 昔の他力信仰は、現代においては、科学的な自己実現の方法、こうした方向へいっているのです。つまり、「精神科学」の方向へいっているのです。
他力の信仰が、如何にして自己実現するか。自己実現の方法というものがあります。これは、“精神科学”の法則のように言われています。あるいは、クリスチャン・サイエンスとも言われていますが、こういう方向があるのです。これが、昔のいわゆる“他力信仰”なのです。ですから、現代風にアレンジされてでてきたと言えます。
現代においては、願いごとを如何にして叶えるかということを、私たちは、「心の法則」を用いて説明しております。 もちろん、そのためには、かなり心理学も関係しています。心理学では、「願望実現の方法」というのがあります。
つまり、まず最初に、心にイメージを描く。ある像を心に描くのです。自分の理想の像をイメージし、その像を心に描いて、日々、それについて思念を送るということです。
そして次には、やはり神仏ですね。「神仏」に祈るという言葉が、今では、「潜在意識」という言葉になってきました。潜在意識に対して祈るということになっています。 これも、ある一定のイメージを抱いて、それを潜在意識に植えつけるわけです。
たとえば、寝ている間に、願望を実現してくるとか、あるいは、日常生活のなかに実現してくれるということを言っています。 しかし、潜在意識という言葉で呼んでいるものは、結局のところ、宗教的にいえば、本当は守護、指導霊や神仏の力なのです。 それを、心理学でいうと、『潜在意識』となる。現代風には、そのような説き方をされているわけです。
自己実現の方法としては、まず、イメージを描く。そして、自分の潜在意識にそれを植え込み、さらには、肯定的観念を持つということになります。 まず、しっかりした明確なイメージを持ち、潜在意識を信頼し、そして、肯定的な観念を持ち続ける。そうすると、必ず自己実現する。こういう具合に説かれています。
自己実現の方法として教えていることは、否定的観念を駆逐するということです。 そして、潜在意識のなかに、完全によいことばかりを植え込む。肯定的な観念を植え込まなくては、意味がないのです。 こうした方法は現在、西洋で流行っております。日本でも、流行ってきています。
その“走り”が日本でいうと、「光明思想」であったと思います。アメリカでも、光明思想です。 日本では、一部神道系の宗教のなかで、この光明思想がずいぶん流行ったと思います。 光明思想とは、つまりは、他力信仰なのです。かつての他力信仰が、現在、光明思想となってでてきているわけです。 そして、それが、現在、大きな一つの流れとなって、「自己実現」ということを言っているのです。
13 潜在意識(守護、指導霊)への肯定観念植えつけで「自己実現」する
(蓮如) あなた方の考える思想には、自力の教えも多いでしょうが、自己実現に必要なのは、単なる他力ではなくて「自他力」だと言えます。 まあ、これを、絶対力という言葉で表現する人もいるでしょうけれども、こういうものなのです。 いずれにせよ、こういう心の世界の法則を教えていく必要があります。
確かにこれは、嘘ではないのです。心に明確な“像”を持って、それを、常々潜在意識に植えつけて、否定的な念(おも)い、くよくよする懐(おも)い、消極的な想(おも)いを排除し、積極的に生きていると、必ず自己実現が適うのです。
たとえば、レベルの低い譬え話ですが、軽井沢に別荘を持つというようなイメージであっても、そうしたいという願望を本当に心のなかに持って、常々、その家の絵をありありと心に描く。 そして、暗いことを考えずに、明朗な意識を持って、日々生きていると、必ず、そのチャンスがでてくるのです。
あるとき、お金がころがり込んでくるとか、あるとき、軽井沢に別荘を持っている友人が、「俺は海外に行ってしまうから、家はいらないので、安く売りたい」とかね。 こういうような形で、チャンスがでてくる。こうしたことは、潜在意識と言いながらも、実は、守護、指導霊があの世から手配をしているんです。あの世で、他人の守護、指導霊と話したりして、“自己実現”を助けているのです。
一方、否定的な念い、消極的な念いとは何か。それは何かというと、つまり、ある意味での想念の曇りだと言うことができます。 たとえば、こういうことです。「いやあ、軽井沢に別荘を持とうと思っても、俺にはそういうことはできないだろう。なぜなら、俺の収入は限られているから」と。
このように消極的な考えを持っている人は、結局、自分で否定しているわけです。自分で否定するとはどういうことかというと、心に曇りをつくっているのです。 心に曇りをつくっているから、守護、指導霊がいるあの世の世界と否定的な考えをする人の表面意識との間に疎通ができない。
明るい肯定的な観念を持つことです。そうすれば、あなた方が思ってることが、すぐあの世にまで伝わってきます。そして、あの世の方がたも協力してくださる。だから、自己実現ができていくのです。
自分の病気は、もう治らないだろうと思い込んでしまう。あるいは、ある医者にかかっていても、ここの医者はヤブなので、治らないだろう、と。もっといい病院へ行きたいけれども、お金がない。 このように、いつも否定的なことばかり考えていたのでは、治る病気であっても、なかなかよくならない。
そうではなくて、必ずこの病気は治るんだと、明るい気持ちで生きることです。すなわち、潜在意識を信頼する。そして、守護、指導霊にお願いして、任しておけば、病気は本当に治ってしまうものです。 それが治らないというのは、自分の否定的感情、暗い感情で、それを覆っているからなのです。
病気は、簡単に治るんです。あの世の力を受けて、治っていくんです。そういう“自己実現”ですね。 ところが、自分の像を描いても、自分でそれを勝手に打ち消す人がいるんです。 いやあ、そんなことは無理だろう。別荘など自分には持てるはずがない。あるいは、自分は社長にはなれない、大成功はできないだろう、と。
「富者が天国に入るのは、駱駝(らくだ)が針の孔を通るよりむずかしい」という意見がありますが、これを本当に信じている人は、決して大金持ちにはなれない。絶対になれないのです。 そういうことを心に植え込んでいる人は、何のことはない、自分がそう希(ねが)っているからにすぎません。
否定的方向での“自己実現”を、つまり、大金持ちにならないという意味での自己実現を願っているからです。 本当の意味での自己実現とは、明確な像を描いて、明るく肯定的に生きていって、常々、潜在意識にそれを刻み込む。 そして、夜、寝る前に、必ず、自分の願いが実現するようにと祈る。こういう積極的な方向ですね。 これが、真の自己実現につながるのです。ここが大事なのです。
昔の神仏は消えてしまいましたが、自分の潜在意識というものを使って、実現しようとします。こういう方法もあるのです。
14 昔の阿弥陀様、今は潜在意識
(蓮如) こうしたものを入れておきますと、現在のビジネスマンたち、社会的地位のある人たち、こういう方がたも、こういう形の宗教なら“大歓迎”だと考えるはずです。 日常生活で確かに幸福になれる方法だ、と。こう考えるでありましょう。
つまり、他力の信仰は、昔のような、「阿弥陀如来信仰」ではないのです。さきほど申したように、現在では、自己実現の法則で説明する段階にきているのです。 すなわち、「光明思想」による自己実現の方向が昔の他力信仰なのです。その点を忘れないでいただきたいのです。
現在では、「阿弥陀如来様、助けてください」と祈りなさいと教えても、だれ一人、そんなことは信用しないでしょう。 そうではなくて、潜在意識に頼んで、積極的な生き方をしていれば、必ず自己は実現するのだと説いておれば、人びとは納得するはずです。はるかに、説得性がある。
これは別に、偽りでも嘘でも何でもありません。事実そのとおりなのです。 明るい気持ちで、守護、指導霊についてお願いをし、自分の願いが実現するのは当然なのです。だからこそ、まず、お願いをしなさいと言っているのです。これは、一つの信仰のあり方です。
私は、一番目として、僧侶、宗教の専門家は“法話”をしなければいけない、また、死後の世界について明確に話をしなければいけないということを言いました。 二番目は、男女の「性」の問題とか、そういう社会的混乱を考える前に、その正、邪を分かつ前に、「正法」は経済と関係があるのだから、これを忘れてはいけないということでした。
そして、三番目には、現代風の他力のあり方について話しました。 つまり、「自己実現」の方法というもの、こういうものを採り入れていけば、生きている人間も、日常生活のなかに宗教というものを取り入れていけるのだ、と。 だから、こういう視点を忘れるなと、こういうことを私は言ったのです。これについて、あなたに何か疑問があれば、受けましょう。
(質問者) 蓮如様がおっしゃったいろいろのお説については、まさにそのとおりであります。ですから、格別の疑問ということはありません。 ただ、自己実現という問題に関して、蓮如様は、潜在意識への自己暗示、明るい肯定的なイメージ、願望の植えつけということをおっしゃいましたが、自己実現がもっと積極的な方法で行なわれ、その実現の確率性を高める方向というものはないものだろうかと思っております。
まあ、昔は、「念仏」を唱名するとか、お題目をあげるとか、太鼓を叩くとかによって、人びとの感性に訴えて、その実現を早めていくという手段もあったように思うのです。 今日では、さきほどのお話にもあったように、毎晩、寝る前に目的意識をはっきり持って思念をするということでありますが、これを、今少し、増幅拡大する方法をとることができるのではないか、また、それがよりいい方法なのではないかと思うのです。
その一つとして、「観法」を行なう。つまり、坐禅、瞑想を始めとしていろいろありますが、動作とか、唱名とか、あるいは、詠歌、音楽などの感性により、集中的に行なうという方法もあるのではないかと思っております。これについては、どのようにお考えでしょうか。
15 長寿、大成功者は、偉大な力への全託者
(蓮如) はい。そのことについてお話します。あなた方は、霊道を開くということを知っております。 「正法」というものを行じておって、自分の心の曇りを晴らして、十分に反省をすれば、霊道が開いて、自分の守護、指導霊と話ができる。そして、過去世のことが分かるようになる。こういうことですね。こういうことを教わっているし、すでに知っています。
ただし、霊道を開いたからといって、それですませていたのではいけないのです。 それだけでは、わけの分からない異言(いげん)、つまり、あの世の異言を語るくらいのことだけで終わってしまいます。霊道を開くだけなら、普通の人でもかなり開けるのです。
ただ、それと“自己実現”とを結びつける思想がまだないようです。そこで、結びつける理論を開発すべきだと思っております。 霊道を開いて、自己実現をはたしていく。霊道を開くということは、すなわち、自分の守護、指導霊と直接話ができるようになっていくということです。
まあ、霊道でなくても、そういう「正法」を実践していると、インスピレーションを非常に受けやすくなってきます。 「霊道」でなくても、あなた方の心のなかに、うずきがでたり、ひらめきがでたりします。ですから、霊道でなくてもいいのです。 「正法神理」を実践していますと、あの世からのインスピレーションが多くなってきます。
そこで、こういうものをつくって、自己実現の法則と組み合わせていく。ここが大事だと思います。 過去世を知るための単なる霊道ではなくして、自己実現を知るための霊道、つまりは、“坐禅”も現代的にアレンジしていけるというわけです。
ただ坐っているだけではだめなんです。心を空っぽにするだけではだめなんです。 真の坐禅をして、反省の瞑想をやって、心を開く。霊道を開いてね、あの世の霊たちと直接、あるいは、インスピレーションという間接の交流を開始する。 そこで、自己実現というものを強く意思する、瞑想する。そして、それをはたしていく。こういう方法があってもいいと思うのです。
すなわち、これは自・他力であります。まず、霊道を開くまでが自力です。開いてからあとは、他力であります。 これは、現代人によっての非常に素晴らしい教えになるでありましょう。 ですから、現在、心理学の分野で、“潜在意識”とか言って、わけの分からない言葉で説明していることを、あなた方が、明瞭にね、その本当の意味を教えてあげる。その必要があります。
病気などは、必ず自分で治せるようになってきます。いわゆる他力、本当の他力で治すのではなく、自分で治せるようになっていくはずです。 そして、そういう考えをしていくと、任せきる力がでてきます。
昔でいうと、まあ、親鸞様も、私も長寿でありましたが、すなわち、まかせきる力というものがでてくると、人間は本当に伸びやかに生きられるのです。 だから、その結果として、長生きすることができる。 現代においては、この任せきる、全託(ぜんたく)という想いを持って生きている人が少ない。
しかし、任せきることも、大きな力なのです。自分一人だけで生きようとしていると、どうしても力が不足する。 ところが、おおいなる力に任せようと思っていると、そこにまた自分以外の力が働いてきて、おおいなる業(わざ)をだせるのです。
現代で瞠目(めみはる)ような成功をした人で、単なる自力だけで成った人というのはいないのです。成功者のだれもが、その大いなる力を使っているのです。 意識的か、あるいは、無意識的かにかかわらず、この大いなる力なくして、通常あり得ないような大成功をするというのは不可能です。
(質問者) 蓮如様のお考えというものは、何と申しますか、非常に現代のこの時世に即した、新たな教えの本筋になってきつつあるように思います。 そこで、私たちも、今後、この“自己実現”というこの方向を今少し強力に訴えていくべきであろうと、このように思います。
(蓮如) 鎌倉時代というと、だれもが死ぬことを分かっていた。つまり、戦乱の世だったわけですし、飢饉(ききん)はある、天災はある、あるいは、天変地異はあるし、病気がある、と。 そういう世の中にあって、だれもが、もうやがては死ぬということがわかっていたのです。
だから、人びとは、浄土を信じていました。浄土に行ける、と。天国に行けるということは、すなわち、自己実現だったのです。 私たちの時代においても、同じでした。応仁の乱の頃です。
この時代においても、人びとは、いつ死ぬか分からない。世が乱れているから、もう長い命ではない、生きていてもいいことは何もない、と。 そういうなかにあっての自己実現とは何かというと、極楽浄土に生まれ変わることなのです。これが、自己実現だったわけです。 すなわち、『南無阿弥陀仏』と唱え、極楽往生することが、あの時代の自己実現だったのです。
ところが、今の時代での自己実現は、そうではないでありましょう。時代が変わっておりますから、自己実現の方法が異なってもあたりまえなのです。 ですから、私たちの“他力信仰”も、現代であれば、そのように変わってくるはずなのです。
あの世でユートピアを信じられないのであれば、せめてね、現時点において、現代において、自分を、自分の周りをユートピアにしていく。そして、一つの国を、社会をユートピアにしていく。 あの世のことが分からないのであるならば、せめてこの世を仏国土にする努力をしていく。すべての人が、そうなるように努力をしていくべきであります。
その際に軌道の修正といいますか、正しい「自己実現」の方法は何かということを、もう一度教える必要があります。 霊道を開いても、間違った自己実現の方向へいけば、それは地獄のサタンみたいになってしまう可能性があります。
その点で、あなた方の教えが必要なのです。何が本当の神の教えに、御意に添った自己実現であるか。あなた方には、これを教える必要があるのです。
16 この世での「超能力」だけを説くのは眉唾ものである
(質問者) 現代では、この「自己実現」ということについて、いろいろな説があります。 すなわち、いろんな新興宗教や、巷のご利益信仰など、これに類したものが、「超念力」で万事可能とか、「天下を取る」というようなことを言って、思うことを必ず実現させると唱えておりますが、こういうものは如何なものでしょうか。
(蓮如) それもね、まあ、一理あるのですよ。ただし、あの世のことをまったく言わないで、この世のことばかりの成功を言っているようならば、それは眉唾(まゆつば)ものです。怪しいと思います。
あなた方のようにね、あの世のことをはっきり言って、すべての世界のことを説明しながら、そのうえで、「自己実現」の話をするというのならば、それはそれでいいのです。
人間は、未来に対して、努力することはできないのです。人間は、過去において、努力することはできないのです。人間が努力できるのは、現在においてだけなのです。すなわち、「自己実現」の連続だということです。
結局、自己実現を目指して日々やっていくしかないのです、人間というのは。ですから、この世だけのことを説くのは間違いなのです。「この世で成仏する」とかね、そういうことを言っているようでは怪しい。超能力がでてね、何もかもできる、と。こういうのは、ちょっと違っています。
まあ、間違っている霊たちですね。ところが、この世には、そういう超能力信仰を言っている人たちがいます。 それが間違っているかどうかは、その人が、あの世の世界のことを知っているかによって、はっきり分かります。
あの世の世界のことを明確に説けないような人で、この世的な成功ばかりを説いている宗教家がいたら、まず間違いなく、インチキです。 あの世の世界を明確に説けるかどうか、それが一つのチェック・ポイントだと言えます。そういうことになるでしょう。
地獄の霊たちは、あの世のことをあまり言いたがりません。すなわち、あの世のことを言うと、自分たちのことが分かってしまうから言いたがらないのです。 あの世でも、地獄の霊たちが指導している宗教家というのは、この世のことばかりを言います。まあ、そういうことです。ほかに何か質問がございますか。
17 高額の戒名やむずかしいお経で死者は成仏しない
(質問者) 人間の死期、死後とその間の取り扱い、その他のことについておうかがいしたいと思います。まず一点は、葬式と戒名(かいみょう)についてです。 ま、これは前段における、現代仏教の真のあり方というところでお話がありました。僧侶の任務についてでした。
つまり、死者の葬式にあたって、ただ漢語のお経だけをあげるのではなくて、現代語で参列している一般の人たちにもわかるように、人間の生死の問題について説教することが大事だということでありました。 蓮如様のこのお話は、僧侶の方にもよくご理解がいただけたことと思いますが、今一つ、うかがいたいことがございます。
というのは、戒名という儀式といいますか、仕来(しきた)りというものがございますが、それについてです。 近年におきましては、この戒名に際して、金銭の多寡(たか)に応じたランクづけということが行なわれております。
最高額が院典大居士(いんでんだいこじ)、ついで院大居士、院居士、大居士、居士、信士の順となっております。寺によっては定価表まであるということです。 それはさておき、死者は自分につけられた戒名というものがわかるのでしょうか……。
(蓮如) 死んであの世へ行って、自分の戒名など知っている人は一人もおりません。何とか居士とか言われたって、わからない。招霊だって、何とか居士でて来なさいと言われたって、わからないです。
しかも、ああいうものをつけて、あの世で偉くなる人はいないのです。 称号をつけてもらっても、あの世の地獄に堕ちてしまって、何とか院典大居士って言われても、地獄からでて来れないのです。
地獄のなかで、悪魔に追いかけられて、「何をする、俺は何々院典大居士だぞ」とね、地獄の釜のなかで茹でられながら、「俺は偉いのだぞ、俺は百万円もだして、高い戒名をつけて貰ったんだぞ。お前たちは、十万円の戒名のくせに、俺を釜茹にするとは、一体何事か」と叫んだところで救われない。どうにもならないのです。
高いお金を払って、戒名をつけて貰う。こうしたことが、実際、お寺さんの収入になっているのかもしれないけれども、こんなのは間違っています。
もちろん、戒名をつけるのはかまいません。習慣だからかまわんけれども、金銭の多寡でもって、何だかんだと言うのは、間違っています。金銭が高くなればいい名がつくというのは、当然のことながら、間違っています。こういう馬鹿な信仰は、どうか止めていただきたいと思います。
(質問者) 蓮如様のおっしゃることは、よく分かります。ところで、現代の仏教系の僧侶の方がたの第一の仕事というのは、死者を弔(とむら)うということが、その大きな行事になっております。 それがまったく正しい弔い方であるならば、それはそれなりの意義があります。しかし、ただ生活の方法としてだけの存在意義ということになりますとね、どんなものなのでしょうか……。
(蓮如) ただね、まったく意義がないこともないのです。生きている人間は、葬式をやりますね。ですから、自分も一回や二回は葬式に行ったことがある。 自分が死んだときに、自分は死んでも霊体があります。つまり、自分の周りで行なわれていることを知っているのです。
どうやらこれは葬式をやっているらしいなとわかる。お坊さんが来て、拝み始めた。お経をあげて、拝み始めた。 だから、どうやら俺は死んだのかなということをとりあえず悟る契機ではあるのです。
ですから、葬式というのも、否定しかねるものがあります。しかし、悟った人には、葬式は必要ではないのです。 悟った人は、あの世へ一直線に行ってしまいますから、葬式などは、全然いらない。
ただし、死んでしまったその人が悟っているかどうかは、この世の人には分かりにくいですから、まあ、葬式というのも風習ですけれどもね、死者に死を悟らせるという意味においては意義があります。そういうことがあるので、葬式については、私は完全には否定しません。
ただ、死者は、お経をあげたところで成仏はしないということです。ですから、お経をあげる代わりに、その死後の世界の話をよく知らせてあげなければいけません。そういうことを、私は言っているのです。
まあ、生きている人にしてもね、自分の父や母が死んで、それをそのまま棺桶に入れて、焼場に持って行くのは何か忍(しの)び得ない、何かやってあげたいという気持ちがあるでしょう。 ですから、葬式をすること自体については、それが間違っているとは言いません。これ自体は、それほど、否定すべきものではないからです。
ただ、また繰り返しますが、お経をあげて貰ったからといって、それだけで、成仏するわけではない。たとえ偉いお坊さんが来たからといって、成仏するわけではないのです。 むしろ、あなた方が行ったほうが成仏します。お坊さんがお経をあげたところで、般若心経をあげたところで、何をやったところで、成仏はしません。
そうする代わりに、あなた方が、二十分か三十分、お話をしてあげたら、すべて成仏してしまいます。おもしろいですね。 世の中というのは、つまり、成仏にも、まず知識がいるのです。基本的には、世界観が分からないと、どこにいるかわからないのです。自分がどうしたらよいか分からないのです。
とくに今問題なのは、科学万能になって唯物思考が増えているから、死んだあとで生きていた時代と死後とのギャップが大きいのです。そのギャップが大きいために、非常な不幸が起きているのです。そのため、とりあえず地獄に行くという人が多くなっています。
18 死の瞬間の形相は、死後の行き先を暗示するか
(質問者) そこで、この死の問題に関して、今一つおうかがいしたいと思うのですが、よろしいでしょうか。
(蓮如) 何でも聞いてください。
(質問者) 人間の死の瞬間に際しての容姿、形相(ぎょうそう)はさまざまです。そこで、平安な顔と苦痛に満ちた顔というのは、死後の行き先の方向を暗示しているものでしょうか。
(蓮如) それは、人間の死態(しにざま)だけではわからないのです。もちろん、よっぽどの悪人というのは分かりますよ。というのは、よほどの悪人というのは、暴れ廻るとか、死後硬直するとかします。要するに、死にたくないということの表われです。
しかし、ふつうの人の場合には分からない。とくに病気などで死ぬ人は、苦しみながら死にますが、それでも成仏する人はいます。もちろん、そうでない人もおります。 それこそ坂本龍馬さんの御言葉の本にもありましたが、刀で斬られて死んだとき、そんなに嬉しく成仏する人はいないでしょう。斬られたら、そりゃあ、痛い。痛いけれども、成仏すべき人は、成仏するのです。
ただね、死に方があまり不幸な場合には、死後しばらくの間は、魂がかなり傷ついていますから、その傷が癒えるまでの時間が必要です。 たとえば、とても激しい苦痛のなかで死んだ。病気の苦痛のなかで死んだ。凄絶(せいぜつ)な事故とかね、戦争のなかで死んだ。こういった場合には、魂がやはり傷ついてしまいます。 だから、その魂の傷口が癒えるまでに、しばらく時間がかかるのは当然です。
一方、いろんな人に看取(みと)られて、安らかに死んでいける人というのは、魂が傷ついていませんから、あの世で、そのぶんだけ、成仏するのが早くなります。その差はあります。
19 因果はくらますことができない
(質問者) 最近、ある宗教で、悪い因縁(いんねん)を絶つ法というものを説いているようですが、これについては如何でしょうか。
(蓮如) 確かに、ある宗教では、“因縁を切る”とか言って修行をしているところがあるそうです。 たとえば、親子の因縁を切るとか、自分がかかえている悪い刑罰の因縁を切るとか、あるいはまた、自分の横変死ですか、不幸な死に方を回避する法とかで、坐行をやるとか言っているようですが、そういう宗教は、私から解説しておきますが、絶対に間違っております。
“因縁”というものの、そもそもの理解の仕方が間違っております。因縁とは、原因・結果という連鎖でありますが、これは切れないものです。切れるわけがないのです。
男と女が結婚するという原因があって、子供ができる。両親と子供。この親子の因縁が切れますか、切れないです。 たとえば、前世において、殺しをしました、と。まあ、それを十分反省して、浄土へ上がって、この世に生まれてきた。じゃあ、前世で、人を殺して、反省させられたという過去が切れるかというと、切れない。
このように、因縁というのは、絶対に切れないものなのです。すなわち、因縁とは、原因・結果の連鎖だからです。 人間の永遠の転生輪廻は、そういう原因・結果の連鎖です。そして、これは絶対に切ることができない。
ですから、因縁というものに対する正しい考え方というのは、現在というのもまた、将来に対する原因になっていくわけですから、その悪い原因をつくらないということですね。悪い種を蒔けば、悪い草が生え、悪い実がなっていきますから、まず、悪い種を蒔かないようにする。 因縁というのは、この点だけで考えられるべきなのです。
現在において、いい種を蒔けば、いい結果がでてくる。すなわち、善因善果、悪因悪果です。これは、霊の世界では確実です。百パーセント、間違いがありません。 ですから、因縁に対する正しい考え方とは、現在において、悪の種を蒔かないようにしなさい、と。この部分です。 そして、これだけが正しいやり方でありますからして、“因縁を切るための修行”とか、そういう考えは、完全に間違っています。そういうことは、ありません。あり得ません。 因縁を切るなどいうことは間違っていると、私は、はっきりと言っておきます。
20 「即身成仏」などはあり得ない
(蓮如) また、「即身成仏(そくしんじょうぶつ)」ということについても、はっきり言っておきます。 ある宗派においては、即身成仏とは、この世において、この身、このまま仏になれるんだと言っていますが、そういう人たちは、まず、そもそも即身成仏とは何かの意味が分かっておりません。
即身成仏とは何かがさっぱり分からない。分からないから、結局、昔の大宗教家のような超能力者になれるのだとか言っている。超能力者になれば、即身成仏なんだ、と。こんなことを言っています。
しかし、生きている人間で、即身成仏などできる人はいないのです。今の末法の世に、そういうことはありません。そんな人は、成仏はできません。成仏というのは、死んであの世に行って初めて、成仏するのです。この世で、成仏はできません。
この世に生きているかぎりは、この体という絆、あるいは、この物質世界の絆から離れることはできないのです。仙人のように切るようなわけにはいかないのです。普通の人間に(は)ね。ですから、「即身成仏」というのはありません。
もちろん、悟りを日々高めていくということはできます。「如来」であっても、この世に生まれ、肉体を持てば、ただの人です。 ただ、他の人よりはもう少しいろんなことを知っていて、識見が高い、悟りがやや高いと、こういうことは言えるかもしれません。 しかし、「如来」にあっても、この世に生きている間は、人間として生きていかねばならぬということです。
たとえ、どんな高級霊が地上に降りたとしても、やはり人間としての制約は越えられません。イエス・キリストのような人が地上に生まれたとしても、十字架にかけられたら、死んでしまうのです。 そういう意味においてはね、「即身成仏」ということはあり得ません。ですから、こういうことを教えている宗教があったら、それは、間違いです。 もし、私の言葉を信ずるのであれば、人びとは、よく耳を傾けて、このことを聴いてください。
21 親鸞や蓮如の意見を聴いたなら、浄土宗各派は時代遅れしないよう学べ
(蓮如) まだほかにも言っておきたいことがあります。 たとえば、賽銭(さいせん)やお布施の額によって、偉さやご利益が決まるとか、十万円以上寄付したら、あの世でのいい席が約束されるとか。あるいは、護摩木(ごまぎ)ですか、それを何本以上焚いたら霊格が高まって、いい守護霊がつくとかね。
こういうことも、すべて間違っています。お金ではないのです。お金では、あの世の地位は約束できません。お金で予約できるのは、飛行機や、船や列車だけです。 ですから、金銭の多寡によって成仏が決まったりするというのは、間違っております。このことを正しておきたいと思います。何かほかに、現代宗教についての質問がありますか。
(質問者) 現代宗教についてというわけではありませんが、蓮如様もまた、一宗の時代の先達(リーダー)でいらっしゃったわけですが、現在、ご承知の仏教、就中(なかんずく)真宗系のお方で悩んでおられる人びとに対し、蓮如様は、どのようなご指導をなさろうとされていらっしゃるのでしょうか。
(蓮如) いや、むしろね、これについては、もうあなた方の仕事です。仏教もすでにその時代を終わろうとしているのです。 ですから、新たな教えが必要なのです。また、あなた方のお弟子さんたちが、ある意味で、昔の僧侶に代わってこなければいけないのです。もう時代が終わりつつあるのです。 だからこそ、今後新たな教えの種を蒔いていっていただきたいのです。
(質問者) と言われますと……、仏教系の何宗ということではなく、その立て直しが、近い将来に行なわれるということですね。
(蓮如) いや、すでに現在、もう行なわれつつあるのです。現にね。 親鸞様のご意見、あるいは、私らの意見、これを聴いただけで、真宗の方がたは、ずいぶん精神的なショックを受けられると思います。 実際、まさか蓮如が、「自己実現」の法則を説くとは思ってはいなかったでしょうし………………。
(質問者) 確かに、思ってもみなかったまったく破天荒(はてんこう)のことで、驚愕(きょうがく)するでしょうね。
(蓮如) そういったことは、西洋の心理学などでやることで、まさか『南無阿弥陀仏』を教える人が、自己実現を説いているとは思わないでしょう。 「阿弥陀仏」を言っていた人が、「潜在意識」などと言うと思っていないでしょう。
しかし、時代は変わってきているのです。皆さん、この時代の流れを、どうか読み違えないでいただきたいと思います。
(質問者) その意味で、現代の真宗の皆様方も、この際、どうかこの蓮如上人様のお言葉を襟(えり)を正して拝聴していただきたいと思います。
22 「墓相」を唱える者への警告
(蓮如) それからね、この際、ついでですから言っておきたいことがあります。 お墓とか墓相(ぼそう)とかね、こういうことを言っている人がおります。 墓相が悪いから先祖が迷っているとか、墓相がいいから成仏しているとか、こんなことは完全に間違っています。
ですから、皆さん、こういった商売に惑わされないようにしてください。墓相が悪いから迷っているなどと言うような人は、すべて地獄霊です。高級霊や浄仏霊は、お墓などにはおりません。成仏霊は、すべて天国にいるのです。
(質問者) 仏壇などについても、同じことが言えますね。
(蓮如) そうです。しかし、それはね、仏壇はあってもいいのですよ。 人間というのは、もちろん、何もなくて精神統一ができれば、一番いいのです。ただふつうは、そうはできないでしょう。
そこで、そういう方便としてね、先祖を思う気持ちを持つ。これは大事です。つまり、先祖を思う気持ちを向けるために、仏壇をつくるということは大事だと言えます。
ただし、いい仏壇かどうか、金ぴかかどうか、何百万円するかどうか、そんなことは、関係ありません。要は、気持ちの問題、心の世界なのです。 ですから、いい仏壇だからといって喜ぶようでは、たいした先祖ではありません。
仏壇がいいかどうかを見て喜んでいるようなら、この世を浮遊している浮遊霊にすぎません。地獄にさえ行っておりません。つまり、この世で、まだうろうろしているということです。
本来は、仏壇などなくてもいいのです。もちろん、つくってもいいのですけれども、あくまでも、先祖供養の一つの方法としての仏壇だということです。ですから、墓相がどうとか、仏壇がいいとか、悪いとか、そのようなことは、関係がございません。
23 大安、仏滅、友引は何ら関係なし
(質問者) 今日でも、日本の暦には、今だに、大安、仏滅、友引などが残っております。そして、こうしたものによって、日常生活が歪(いびつ)にされている部分が多々あると思うのですが……。
(蓮如) そうしたものは、もう完全な風習にすぎません。ですから、やがては滅びていきます。日本の国がそのうちなくなれば、こういう風習もなくなります。 いわば、外国の十三日の金曜日みたいなものです。こんなものは、何の意味もないのです。 だから、仏滅であっても、どんどん結婚式をやってください。友引に葬式をやっていただいてもけっこうです。
あの世の世界へ行くということは、いいことなのです。これを悪いことだと考えているのは、間違っているのです。 仏滅は、釈迦入寂(にゅうじゃく)、入滅という意味でして、これは素晴らしいことなのです。 つまり、お釈迦様がこの世で成功を収められて、見事、実在界に還ってこられたことを意味しています。あの世では、大祝賀会が開かれているのです。
ですから、皆さん、仏滅に喜んで結婚式をあげましょう。 人間本来生死なしです。実相においては、生死なしです。永遠の魂、生命をもっているのです。死ということは、ないのです。
この地上の生活を送っているということが、むしろ、あの世の人から見たら死なのです。 あの世での生活ができなくなって、このむずかしい現象界にでて、苦しい人生を送っているのです。これは死ですよ。
つまり、あの世に還るということは死から蘇(よみがえ)るということですよ。 あの世に還る、要するに、死ぬということは、あの世から見たら誕生なのです。還ってきてくれるということなのです。素晴らしいことなのです。
ですから、仏滅だからといって、忌み嫌うのは間違っています。友引にしても、何ら関係ありません。そうしたことは、単なる風習です。 神社のおみくじにしても、やれ大吉だ、凶だとかいって金儲けをしているようですが、こういうのは、昔のどこかの土人などがやっている風習にすぎません。 ですから、こうしたことに大の大人が惑わされてはいけないのです。
24 占星術、姓名判断では人は縛れない
(質問者) 星占い、占星術などが近年流行っていますが、これについては如何でしょうか。
(蓮如) 確かに、こういうことを専門にしている人がおります。もちろん、その効果がまったくないとは言いませんが、本当の“神理”というものは、そういう占星術を超えていかねばならないものです。
なぜ人間が、生まれたときの星の位置で、一生を支配されてしまわねばいかんのですか。 また、姓名判断というものがありますが、なぜ名前によって、一生を支配されるのですか。 名前によって、一生が決まるというのならば、名前を変えればよくなるのですか。
生まれた星が悪ければ、もうどんなに努力しても、いい一生は送れないのですか。努力できないのですか。 そういうことは、おかしいのではないですか。それは、「決定論」でしょう。 しかし、あなた方は、いろいろと学んでいて、決定論が通用しないということがわかるはずです。
決定論があるのならば、何のために、自力門があるのですか。決定論が効くならば、なぜ他力、私たちの言う他力があるのですか。神仏の信念があるのですか。そういうのは、間違った教えです。
ヨーロッパにも、そういうものがありました。つまり、「予定説」といって、生まれたときから、天国へ行く人と地獄へ行く人が決っている。自分が天国へ行くことだけを信じておりなさい、と。こういう教えがありました。しかし、これも、間違っております。
神は、人間の努力に期待しておられるのです。そういう姓名判断とか星占い、これが当たっているか、いないかは知りません。 ある程度は、そういう傾向というものがでてくるでしょう。そういう専門家がおるのですから。 ただし、それは、乗り越えていけるということです。心の教えを知って、正しい生活をすれば、そうしたことは乗り越えられるということです。
(質問者) 蓮如様のお言葉として、「墓相、仏壇」「仏滅、友引」「星占い、姓名判断」など、こうしたことについてまで、明快なお教えをうけたまわれるとは思ってもおりませんでした。ありがとうございます。
25 御祓で悪霊は払えない
(蓮如) あと、何か宗教に関しての誤りがあれば、この際に、正しておきたいと思います。何かありませんか、現代の人びとの信仰についての質問が。 まあ、御祓(おはらい)というのがありますが、あれについても、ちょっと言っておきましょう。
“御祓”というのは、そういう霊的能力ですね、高級神霊の能力を持っている人がお祓をすれば、もちろん影響はあります。すなわち、悪霊を祓う力があります。 しかし、神社の神主さんが、ただ単にお祓いをやったところで、悪霊はなくならないのです。
つまり、彼らは、何にも知らないからです。お寺のお坊さんが、数珠で拝んでいるのと同じです。何も死者には影響がありません。 むしろ、あなた方がお祓をしたほうがよく効きます。あなた方が、「神理」の言葉を言えば、悪霊たちはいなくなります。
私が見ていると、車を購って、何とか神社へ持って行って、御祓して貰って、祈祷料を五千円、一万円払っている。何ともおかしくて、おかしくて、仕方がありません。
26 滝行、千日回峯行は、皮膚と体を丈夫にするだけ
(質問者) それから、山岳信仰や滝行などがありますね。こうしたことについては、どうなのでしょうか。
(蓮如) まあ、こういう人はね、みんな仙人や天狗になる人です。普通の人ではありません。 あなた方は、行(ぎょう)に走らないようにしてください。滝を浴びたからといって、悟れるわけはないのです。
悟りとは、心の教えなのです。ですから、滝を浴びて潔められるのは、体ぐらいなものです。体は強くなるでしょう。皮膚が強くなって、風邪を引かなくなるかもしれない。しかし、それは悟りとは違います。
また、千日回峯(せんにちかいほう)とかいって、山のなかを千日も歩けば悟れる、と。こういうことを言っている人がおるが、間違いもいいところです。 千日回峯をやったからといって、悟った人などいないのです。千日回峯をやって、体力がついた人はおります。スーパーマンみたいな体力がついた人はおります。
しかし、もしあなたが、千日間、山のなかを歩いたからといって、悟れるのですか。もし、それで悟れるならば、すべての人が、千日歩けばいいのですか。そうではないはずです。競歩の選手かそういうものになればいいんです、そういう人はね。
まあ、千日回峯の行者を尊敬するような人は、まあ、ホームランを何本打ったからその選手を尊敬しているというのと同じです。しかし、ホームランを何本打ったからと言ったって、あの世へ還れば、何も関係ないのです。
まあ、いろんな人を尊敬したいと思っている気持ちがあるでしょうから、それはそれでけっこうです。 しかし、肉体行は、あまり重視しないことです。大切なのは、皆さんの心の教えなのです。それが、すべてなのです。
肉体行は、必要ありません。肉体行をやるくらいなら、スポーツをやって、体を鍛えてください。 また、お念仏を何万回、何百万回称(とな)えたからといって、関係ありません。大切なのは、本当の正しい信仰を持つことです。このことについては、それでよろしいですね。
27 夫婦の正しい心の結び方について
(蓮如) 男女のことに関して、言い残したことがあります。さきほど、宗教の日常化ということを言いましたが、願わくば、あなた方の教えが広まって、あなた方の教えを信じる男女が、お互いに協力しあって、「神理」の伝道をやれるような、そういう世の中になってほしいものです。
人類は、やはり男女に共通項があるかないかによって、全然違うのです。 お互いに精神的な支えを持って、夫婦生活をやっていければ、これは、大調和です。
今、精神的支えがないから、金銭とか、そんなことでもって争いが起きているのです。 経済生活をするために、男女は一緒ではないのです。肉体的な欲望のために、男女が一緒に住むのでもないのです。
一つの精神的目標のために協力しあっていく。この姿こそが、本当に神仏の心に適(かな)った相(すがた)なのです。 これから結婚されていく若い人たちは、どうか共通の人生目標なり、共通の精神、精神主義というかね、共通の信仰、こういうものを持っていただきたいと思います。
ですから、若い人にも持っていただけるような信仰、そういうものを、あなた方には、どんどん説いていただきたい。 本当に強い男女の絆というのは、信仰というか、精神的な結びつきにあるのです。これこそが、一番強い結びつきなのです。 こうしたことを忘れているから、次々と離婚、再婚を繰り返していくのです。精神的な結びつきが大切なのです。その点について、あなた方が教えてあげてください。
28 「経済理念」のあるべき方向について
(質問者) 大変有益なお教えをうけたまわりまして、ありがとうございました。蓮如様のお話は、一貫して現代的で、現代人が聴いて理解し、自分のものとして十分悟れる内容のものであったとぞんじます。
(蓮如) それは、私が、現代というものに非常に興味を持っているからでしょう。
(質問者) 親鸞聖人様も、「蓮如様は、私とは、ちょっと肌あいの違った、非常に秀れた方です」ということをおっしゃっておりましたが、実際、蓮如様は、新しい感覚をお持ちの方ですので、現代人には、そのお教えがよく解るのではないかと、このように思います。
(蓮如) やがてね、あなた方の教えを受けた者のなかから、政治改革とか、経済改革をする人がでてきますから、そのときには、また私を呼んでください。また、そういうことについてもお話をしたいと思います。
(質問者) ――――「政治」のこともさることながら、「経済」の問題が、今、非常に大きな問題だと思うので、どなたかこの方面の専門家にお教えを願いたいと思っております。
(蓮如) そうした方も、まあ、おりますけれども、経済の基礎がね、経済に心がないからいけないのです。 どうやったら、利潤を極大にできるかとか、経済学者はそんなことばかりを考えています。 しかし、そうじゃないのです。どうしたらみんなが、幸福になれるか、その点から経済を考えていく必要があるのです。利潤の極大がどうのではないのです。
やがて企業はね、私は思いますが、企業というのは、一つの精神的な柱がなければやっていけない時代がくると思います。 まあ、あれは一つの信仰なんですね、利潤極大という信仰を持って、企業をやっているのです。それが当然だと思っている。だれが間違えたか知りませんが、そうではないのです。
企業というのは、これからは、「社会正義」の実現、「社会的理想」の実現、あるいは、「仏国土、ユートピア建設」の一翼を担うものとして活動していかなければならなくなってきます。 やがて、そういうことが分かってくるでしょう。あなた方は、そういうことをも、教えていかなければなりません。
(質問者) 今、おっしゃった経済の基本理念、あるいは、農業問題、こういうことについては、私どもも、これから学んで行かねばならないと考えております。
(蓮如) 農業問題、これはね、どちらかといえば、私の任を越えていますので、そういうことまで蓮如が言うようではちょっと眉唾(まゆつば)になってしまうでしょう。ですから、それについての発言は、控えておきます。
(質問者) 蓮如上人様には、長時間にわたりまして、宗教的真理をあらゆる角度から現代的にお説きくださったのみでなく、現代世相の諸問題、さらには、人倫に関する問題につきまして、深いご教訓を賜りまして、まことにありがとうございました。 現代の心ある人びと、または、未来の、この世に生を受けてこられる方がたになり代わりまして、厚くお礼を申し上げます。本日は、まことにありがとうございました。
(本章は、一九八六年八月七日の霊示)
