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写真と別人になっていく怖さ

 ここ数年、メディアに出たり講演会をさせていただいたりする機会に恵まれた。たまに写真の提供を求められることがあるのだが、その度にノートやXのアイコンにも使っている写真を提出している。
 子どもの七五三で撮った家族写真をトリミングしたもので、撮影してから3年は経っている。写真の中の私は今現在の私よりほうれい線が薄いし、プロが撮ったこともあり実物より見栄えがよい。
 子どもの頃を思い出すと、政治家だとか芸能人の宣材写真と現物の違いにギョッとした経験が何回かある。意図したわけではないとはいえ、その頃は自分が同じようなことをするとは思ってもいなかった。
 親になってから、写真は自分が写るものではなく子どもを写すものになった。写るとしても子どもとくっついているので、自身の近影としては使えそうもない。ちゃんと写っている写真といえば、もっぱら家族行事の写真くらいなのである。わざわざ一人で写っている写真を撮ろうというモチベーションもないため、惰性で数年前の写真を使い回しているのが現状なのである。
 作為はないものの、昔の写真を使今続けていることにはなんとなく後ろめたさは感じる。
 ずっと同じ写真使ってますね(笑)なんて言われると、イラっとする反面確かに世間を騙しているような気にもなる。実際に会ったときに、子どもの頃私が感じた「ギョッ」とした気持ちに相手がなるのではないか……なんてことも考える。
 面倒だしお金ももったいないので、次の行事写真の撮影がくるまでは同じ写真を使い続けるだろうが、写真と別人になっていくことに密かに恐怖を感じている。

多層化するコンプレックス

 こんなくだらないことをつらつら書いているという時点で察する人も少なくないかもしれないが、私は自分の顔に結構なコンプレックスを抱いている。元々の顔が自分の好みじゃあないというのもあるし、ここ数年は進行していくエイジングサインを発見しては日々悲しい気持ちにもなっている。
 それと同時に、顔面なんていう表面的なことに拘泥してしまう自分の精神性にもまたコンプレックスを感じている。ルッキズムの波に溺れながら、波に溺れている自分を冷ややかな目で見ている自分もいるのだ。
 盛れたからといって特別何かいいことがあるわけでもないし、逆にすっぴんだからといって大きな不利益を被るわけでもない。それなのに毎日化粧をまとい、その出来で気分が上向いたり落ち込んだりしている自分はなんて滑稽なんだろうと思う。

 今の私はすれ違いざまにブスと言われることもないし、美しいからと顔をジロジロ見られるようなこともない。もちろん若い子の隣にたてばどうしようもなく粗は目立つのだが、同年代の中にいたらどこにいるかわからない平凡な顔だと思う。
 「お前みたいなブス/おばさん盗撮にあわないだろと」いうコメントがくることもあれば、「小綺麗だから客寄せパンダとして使われている」なんていうコメントがくることもある。評価する側の好みや年齢、私に対する意識で美醜の評価は上振れしたり下振れするものだと思うし、よく知らない誰かの評価そのものには何か思うことはない。
 しかし、顔で商売しているわけでもないのに、あぁだこうだ言われることには虚しさを感じる。私の言葉や意見が、私の美醜で意味や価値が変わってしまいかねないことが虚しいのだ。

 取材時に撮影された画像がサムネイルや記事で使われることがあるが、その画像はしばしば修正がかけられている。プロの仕事なので、誰かわからなくなるような加工ではない。ただ毎日自分の顔を見ている自分には、実物より若く小綺麗にしてくれてることがしっかりわかる。美しく加工されたことにではなく、美しく加工しないと私の言葉は聞いてもらえないんだということに、自分の力不足を感じる。そしてもし私が男性だった場合に、はたして同じ加工がされるだろうかとも考えてしまう。
 もちろんこれは私の考え過ぎで、今どきサムネに使われる画像は老若男女同じように美化されるものなのかもしれない。私のような素人の意見が聞いてもらえるのであれば、詐欺にならない程度に美しく加工してもらった方が「得」であることは間違いない。
 
 そもそも加工云々の前に自分でメイクで誤魔化しているだろ!と言われるかもしれない。それはその通りで、素材のままでお出しできるようなものではなくメイクという「調理」をしているのは事実だ。その上で加工されるのは、味が決まっていないと料理に調味料を足されるような気持ちになるのだ。
 調味料を足した方が美味しくなることも、それにメリットがあることも理解はしている。それでも写真の中の本物よりマシな自分を見るたびに、恐怖と後ろめたい気持ちと劣等感が心に渦巻く。


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