ケルンコンサートのキースの胸のうち
ジャズ屈指のほぼ全編ソロピアノ即興ライブアルバム、キース・ジャレットによる”The Köln Concert”(1975年1月24日収録)から50周年を迎えるにあたって同アルバムに関する幾つかのプロジェクトが進行しています。
先ず、撮影が完了して近日中に公開予定とされている当時17歳の本コンサート女性興行主、ベラブランデスを主役とするドキュメンタリー映画、”The Girl From Köln”(仮名)がドイツで制作中です。そのタイトルが“Köln 75”に決定して来年2月に開催されるベルリン映画祭でプレミア上映され、3月13日にドイツで正式公開される予定となっています。

ベラブランデスのドキュメンタリー映画
次に、本作において重要な役割を果たした、あの状態の悪いピアノを”Phantom Piano”として、ブランデスを含む当時の関係者の話を聞きながら、その後の行方を追いつつ、当時の状況を明らかにするというドキュメンタリー作品、”The Köln Concert, film documentary”のクラウドファンディングがフランス発で進行しています。2022年6月に15日間にわたってケルン、パリ、マルセイユで収録した映像の編集と追加取材を資金使途として本日時点で、最低目標額20,000€に対して約15,000€の支援が募られている(残り18日)。そこでは予告の一つとして、本コンサートの本番前に撮影されたという、ジャレットがそのピアノと収められた貴重な写真が披露されています。
これらを想像しながら、キースジャレットの『ザ・ケルン・コンサート』に至る心境をフィクションで妄想任せに独断的に描いてみましたので、ご興味のある方はお付き合いください。
引用は全てイアン・カー著『キース・ジャレット 人と音楽』音楽之友社、1992年初版からのもの、状況的な情報は下部にリンクを記載したBBCラジオのドキュメンタリー番組を参考にしています。では、どうぞ。
1975年1月24日、夜更けのローザンヌにて
眠れないほど痛い。抱えている腰痛が、一日おきに開催されている過酷なソロピアノツアーで更に酷くなって眠れやしない。
コロンビアレコードとの契約が、同社のジャズジャンルからの撤退が決まった事から突然反故にされた時に親身になってくれた、信頼のおける業界でも著名なプロデューサーのジョージアバキアンの提案で、知名度を上げる為に欧州ソロピアノツアーの実施を決めたが、想像以上にハードだ。

“Milestones”(1958年)収録時の一枚
以前、アバキアンの提案でテナーサックス奏者のチャールズロイドのバンドメンバーとして1967年にソビエト連邦共和国のツアーを実施、成功を収めた時よりも、移動を含めるとかなり厳しいスケジュールだ。

右下の写真の右から二番目がジャレット
そんな強行ツアーの山場が明日。本ツアー唯一の三連日公演。今日のスイス、ローザンヌでの公演を終えて次の公演場所、国境を超えて隣国の西ドイツにあるケルンへの移動となる。ツアーのスケジュールは以下で基本、一日おきに公演が組まれている。

ローザンヌからケルンまでの距離が約400マイル強(700キロメートル)もあるが、車での移動とした。ケルンの興行主から手配された航空券を節約の為に払い戻したからだ。

演奏活動を続けるため、3年前に潤沢なグッゲンハイム助成金を取り付けたものの、それでも音楽で経済的に安定した生活を維持するには十分とは言えない。

”In the Light” (1972年)は同助成金で制作
そういえば、同じような境遇にいる駆け出しのジャズピアニストの才女カーラブレイはまだしも、あのテナーサックスの巨匠ソニーロリンズさえ隠遁生活直後とはいえ、同年に同じ”Music Composition”部門で助成金を得ているのだから、ジャズミュージシャンの生計は容易では無いという事だ。


一般に、ミュージシャンたちは絶対に家賃を払えない、決してお金を持っているなどと思ってはならないと思われている。多くの場合、確かにその通りである。それでぼくは、少なくとも最初の何ヵ月分かの家賃を払うだけのお金はあるとわかってもらえるように、自分の銀行預金をそっくり引きだして小切手にしたことを覚えている
自分も背に腹は変えられないから、航空券を現金化したってわけだ。早く名を成して演奏で十分な生活が出来る財力を蓄えねばならない。だからこそ、この過酷なツアーに出る事を決めたのだ。
腰痛がある中で身体が耐えられるか不安はあるが、明日は早朝に出発しなければならない。過酷な三連日公演を引き受けた理由、それは会場にある。ケルンの会場は、あの荘厳なオペラ座で、ソロコンサートでは人生最大となる桁違いの1,400人の観客が待ち構えているのだからやり甲斐がある筈だ。

そして、会場の規模感に合わせて、ベーゼンドルファーの最大・最高級グランドピアノ、インペリアルの手配を依頼してある。オスカーピーターソンがソロピアノ演奏で弾いていた、あの大きなピアノだ。残念ながらお気に入りのスタインウェイでは無いが、大型で如何にも会場との相性が良さそうだから、大会場でも乗り切れるはず。スタインウェイはケルンに一台も無いらしい。

(フランクザッパが所有していた1977年製)
※イメージ写真
そんなことに思いを巡らしていたら、慣れないホテルの環境もあって、またしてもろくに眠れないままに朝が来てしまった。まだ早朝で薄暗いが、出発時間になる。準備時間を考慮して、ケルンに午後には着かないといけない。車の運転はツアーに収録で同行しているECMレーベルのオーナー、マンフレートアイヒャーが買って出ている。アバキアンの紹介で取り付けたインパルスレーベルとの契約はあるものの、彼の知恵に従って「既に取り組んでいた特別な取り組みは除外」という特約事項の位置付けとなるソロ演奏だけ切り分けた事でアイヒャーのECMと契約に至っている。
最初は半信半疑だったが、この男は信頼出来る。今回の出発地となるローザンヌでの1973年のライブによるソロピアノ即興演奏を含めたアルバム”SOLO-CONCERTS”で、一定の評価と収入を得ることができたし、今回だって、こんな過酷なツアーに運転して同行しているのだから同志と言っても良いくらいだ。

ぼくが覚えているのは、
その時なんとか演奏したということだけだ」
1973年3月20日、ローザンヌ
1973年7月12日、ブレーメン
そのアイヒャーの車はかなり乗り込まれた大衆車のルノー4、アメリカの一般車に比べたら小型で窮屈だが、自分で運転するよりはマシだ。そして腰の具合が心配なので、居心地は悪いがコルセットを付けて道中移動することにした。ギックリ腰になったら座るのはもちろんのこと、思いのままに腰を浮かせた演奏なんて無理だからやむを得ない。

商業的に成功した世界初の実用的ハッチバック車
仮眠が苦手だから道中もろくに眠れやしない。アイヒャーも睡眠不足の中で長時間運転しているのだから、一緒に耐え忍ぶしか無い。運転に勤しむアイヒャーとたわいもない事を話しながら、眠気と腰の痛みを気を紛らわすしかない。
そんな移動の半日を過ごして、ようやく雨の降る肌寒い午後のケルンに到着した。ホテルにチェックインして、今回オペラ座を手配したという、17歳にして名うての女性興行主、ベラブランデスをロビーで待つ。その間にクローク係の荷物を運ぶ単純な反芻運動を見ていたら、アイヒャーと理由も無く笑ってしまった。ナチュラルハイってやつだ。相当来てるな、これは。アイヒャーもかなり疲労困憊で参っているみたいだ。
ぼくらはホテルのロビーにすわって、そこにいる人々の動きを、まるでそれが顕微鏡の下のアメーバか生命体か何かでもあるように、ただじっと見つめていた。そのうちにぼくらは、ときどき、くすくす笑い始めた。ぼくらはまったく黙りこくってすわっていたが、ときどき、くすくす笑っていた・・・・・ポーターはずっと同じ動きを繰り返していたが、彼がポーターとして働いているとはもはや思えなくなっていた・・・・・・・もう単なる習性としてやっているかのようだった......
その興行主が現れた。失礼だが、こんな小娘があのオペラ座を手配したって?なかなかやるじゃないか。

彼女が10ヶ月ほど前に興行したOregonのラルフタウナーのソロギター公演が好評だったらしいから、今回のソロピアノも聴衆との相性は良い筈だ。それにしてもしつこい誘い方で、それは断るのが飽き飽きする程の、以前のアイヒャーを彷彿させるレベルだった。

1974年3月21日ケルン公演のライブ版

公演のフライヤーを手渡されたが、日本のジャズ雑誌でグランプリを受賞したとか、先のソロアルバムの評価を記載してあって、感心する程、良く作り込まれている。これなら期待した聴衆が会場を埋め尽くしてくれそうだ。

開演は夜の十一時となっている。彼女が公演前に会場を案内するというからついて行ってみた。オペラ座とだけあって外観も内装も荘厳で、眠気が覚めるほど想像した通りの趣がある。ここで名演奏を行って、名を揚げて不自由の無い演奏活動が出来る程の財力を蓄える起点にしたい。
さて、リクエストしたピアノを見ておこう。あれ、ちょっと待ってくれ、インペリアルにしては小さく無いか。見た目もなんか見すぼらしい。話が違うぞ。深呼吸して気を鎮めて、試奏してみるか。なんだこれは。調律はされていないし、戻らない鍵盤はあるは、ペダルも壊れている。
ふざけるな、冗談じゃ無い。こんなピアノでは演奏は無理だ。とはいえ、こんな長旅で疲弊しているから怒る気力すら湧いてこない。唖然としてピアノの周りを歩いて周囲から見つめて、ベーゼンドルファーではある事は確認したが、小型だし、音は尖った機械的なハープシコードみたいで、廃れている雰囲気がプンプンする。
七フィートのピアノで、ずいぶん前から調律されておらず、ハープシコードのきわめてまずいコピーか、ピアノの中に留め金でも入っているみたいな音がした
その差は、約80センチメートル
ああ、言葉も出ない。雰囲気を察したアイヒャーも同じく鍵盤を叩いてピアノの状態を確認する。

※ イメージ写真
Manfred Eicher & Keith Jarrett at Amerikahaus Munich in 1973. Photograped by Robert Masotti
そして同じようにピアノの状態を周囲から歩きながら目視する。無言だが自分と同じ感触を得たようで、アイヒャーが彼女に代弁してくれた。「依頼したベーゼンドルファーのモデルでは無いし、こんな状態のピアノではキースは演奏出来ない」彼女はそれを聞いて動揺していた。そもそもベーゼンドルファーのピアノに種類があることすら知らないような反応だ。彼女が懇願してきた。「ピアノは何とか手配するので、公演は決行してください。お願いします」
やれやれ、どうなることやら。もう自分はここまで遥々来て成す術も無いので、運転手を担っている彼女の兄の車でホテルに戻ることにした。車に乗ると、彼女が血相を変えてやってきた。「行かないで。演奏してください。最善を尽くしますから。会場は満席になるんです。ジャレットさん、行かないで。何とか演奏をお願いします。開催しなければ、あなたも私も一巻の終わりなんです!」困ったもんだ。こんなに大変な移動を経て演奏出来るかと思ったら、演奏すら出来るかどうかもわからないなんて。もう、どうにでもなれ、だ。
「分かったよ。ただ、忘れないでくれ。貴方だけのため、特別に演奏しよう」彼女、半べそ状態じゃ無いか。あちこちに電話したり、必死になって取り繕う手配を進めているようだから、一か八か賭けてみよう。
ホテルに移動して仮眠を取ろうとしたが、やはり眠れない。演奏するとは言ったものの、ピアノがどうなっているのか、満足の行く演奏が出来る環境が整っているのか、気になって仕方がないから眠れる訳もない。
会場入りする時間が近付いて来たので、空腹を満たすべく、近くのイタリアンレストランに関係者で行くことにした。腹が減っては戦はできぬ、だ。
レストランに着いたら、異様に暑いじゃないか。上着を脱いだって暑い。そしてパスタを頼んだのになかなか出てこない。何てこった、同行者全員の料理は出て来ているのに自分の食事だけ出てこない。汗は出るけど食事は出ない。
なんて日だ!いいことなんて一つもない厄日じゃないか。ようやくパスタが出て来たと思ったら会場入りの時間に近付いていたので、ニ口三口ほど頬張って十分に食べれないままに会場に向かうしかない。そしてあまり美味しくもない。ついてない時は、ことごとくついてないものだ。ああ、眠い。そしてあのピアノの準備は出来ているのか。
それまで出くわしたこともないほど暑いイタリアン・レストランで、ぼくはやたらと汗をかいた。ぼくらは10人ぐらいの人と一緒にすわっていたが、ぼくにはいちばん最後に食事が来た。ぼくの料理が来たときには、ホールにいなければならない時刻まであと15分ぐらいしかなくなっていたので、ぼくはあんまりおいしくもない料理を、その灼熱地獄のようなレストランで急いでかき込んだ。
会場に着くとアイヒャーが言う、「録音の手配は全て整っているんだ。どうする?収録するかい、キース」おい、マンフレート、この期に及んで俺の恥さらしになるかも知れない演奏を収録するかどうかを訊くのは野暮ってもんだろう。マンフレートまで疲労で頭がおかしくなったのか、勘弁してくれ。
いや、ちょっと待てよ。こんな最悪の日の演奏を収録してみたら、どうなるんだろう。自分達は、酷い状況だと分かった上での演奏だから良いとして、客観的に他の人が聴いたらどう感じるのだろうか。どうせ録音の準備は支払いも済んで手配が終わっているし、自分も覚悟を決めたし、失うものは無いのだから、興味本位で収録してみよう。自分は逆境に強いと言われているから、それが本当かどうかテープを聴いて自ら確認してみようじゃないか。さて、吉と出るか凶と出るか。これが即興演奏の醍醐味だ。
マンフレートとぼくは、レコーディング・スタッフを返すかどうか決めなければならなかった。ぼくは言った。「ぼくには彼らにいてもらわなければならない理由が見当らない」。それから、ぼくらは考えた。そうだな、このドキュメンタリーを取るというのはどうだい•・・・・ほくらは自分たちの体験をよく知っているが、他の人たちは・・・・・・ここに来てもらうために、すでに代金を払っているんだし、それなら、彼らにそれを録音させてはどうだろうか、そうすればぼくらにはそのテープが手に入る。そしてこれがケルン・コンサートがレコード化されたいきさつなんだ。

ノイマンU67(60年代製造)

Telefunken M5ポータブル録音機
開演予定時間の23時は過ぎているが、まだ開演のお呼びがかからない。直前までピアノの調整をしているのだろうか。調律やペダルの修復具合を気にしても仕方ないので、その間、ステージ裏で半ばやけになってスタッフとボクシングごっこをして眠気覚ましをしてみる。
三十分遅れでゴーサインが出た。さあ、開演だ。アイヒャーを見て朦朧としながら拳を上げて「Power!」と口走り、気合いを入れ、ステージに向かう。
ぼくはステージに出ていったときのことを覚えている。そしてこれがおそらく重要な点なのだが、ぼくは本当に眠りかけていた。腰をおろすだけでよかった。ぼくは、本当に寝てしまわないまでも、うとうとし始め、意識がぼんやりし始めた。[ステージに出る前は]絶えず動き回っているために、エンジニアとボクシングごっこをしていた。ついに、演奏しにステージに出なければならなくなったときには、ほっとした。というのは、もう、この状態がやっと終わりになったからだ。つまりこういうことだ。ぼくはもう、ピアノの前に行って演奏するんだ。ほかのことなんか、もうどうにでもなれ!

ステージは異様に暗い。足下すら良く見えないし、観客なんて見えやしない。雰囲気からすると確かに大勢の人の気配がある。満席なのだろう。ああ、眠い。早く眠りたい。演奏をし始めたら眠気は吹き飛んで集中出来るのか。ピアノ椅子に座ったら即眠ってしまいそうなくらいに睡魔が襲ってくる。

そしてあの見窄らしい小さなピアノが、大きなステージに不釣り合いにポツリと置かれている。

(1919年製のベーゼンドルファー
Baby Grand Piano)
ああ、大丈夫だろうか。このピアノ、よくよく考えてみるとボロボロな状態なのは、今の俺とまさに同じじゃないか。そう思うと、このピアノに同情的な愛着が湧いて来た。これも何かの巡り合わせだ。こんな華美で大きな会場に、ボロボロでステージに晒されているちっぽけな俺たちは運命共同体だ。ひとときの演奏の旅に出ようじゃないか。
何かの手違いで急遽登場することになったベビーグランドピアノが、自分には愛らしく思えて来た。さあ、鳴ってくれ。思いの丈に響いてくれ。俺は音に身を任せるから、それに応えてくれれば御の字だ。では、行くぞ。集中だ。
「タラララーン」、誰だ冒頭から笑う輩は。こっちは死ぬ気でやってるんだ、黙ってくれ。うむ、やっぱり音色が硬い。ピアノ本体の鳴りも強張っている。長い間触られておらず陽の目を見ていなかったからか。可哀想に。
労わりつつ会場に音が届くように強めのタッチで弾いていこう。いまひとつな鍵盤やキーもあるが意外と大丈夫そうだ。そして、状態も試奏した時よりもかなり改善している。調律師が、神経質な自分の噂を聞いて相当手を尽くしてくれたのだろう。これなら今日もいけるかも知れない。頼むぞ、ベビーグランド。
(ハミングしながら)弾いているうちに応えるように鳴りを取り戻していくこのピアノに慈しみの気持ちが芽生えて来た。(足踏みが始まる)自分も調子が出て来た感じだ。いいぞ、いいぞ「アーッ」思わず唸る。腰もそんなに悪くなさそうだ(中腰で体を揺り動かして音楽に身を委ねる)
ペダルに制約があるが、慣れたもんだ。子供の頃にペダルを多用し過ぎ悪い癖を正す為にピアノ教師に制限された中での演奏を訓練させられたから苦にならない。
ぼくはまだ子供だった・・・・・・だから、ペダルを使えないということは、デザートをもらえないようなものだった。バルトークを弾くのはぼくにとってはいわば水分を絞り取ってしまうようなものだった。砂漠に服を乾してからからにするような具合に
弾いていくうちに、ピアノが熱を帯びて本来の音を取り戻し始めている。あんなに疑った俺が悪かった。許してくれ、そして有難う、ベビーグランドよ。最後まで宜しく頼むぞ。
(一曲目を終える)ふー、やれやれ。何とか前半を終了出来た。(観客からの拍手喝采)そういえば、音楽に集中していたから気付かなかったが、聴衆は物音ひとつさせずに聴いていたのか。聴衆にも感謝だ。ピアノも調子が出て来たようだし、これなら最後まで行けるはず。
そのあとは無我夢中で後半をこなしたが、朦朧としていたのか集中していたのかよく覚えていない。振り返って一つ言えるのは、疲労困憊の中で最後までやり遂げた、という事だ。
ツアーの移動中の車内で、アイヒャーとその演奏を聴いてみると、ピアノの音色自体は褒められたものではないが、演奏自体は悪くない。これなら発売出来るのでは、とアイヒャーも言っている。アイヒャーが太鼓判を押すのであれば異論は無いのでリリースすることとしよう。早速テープをミックスする運びとなった。演奏を聴いた自分の印象としては、音楽のテーマ、ピアノに対する自身の感情、ピアノとの関係性で以下のようなキーワードに集約できそうだ。
Part I: 邂逅、慈愛、調和
Part IIa: 模索、情愛、融和
Part IIb: 探究、寵愛、結束
Part IIc: 解放、敬愛、連帯
アルバムジャケットは、同じドイツのベルリンで1972年の屋外公演時に撮影したお気に入りの一枚を採用しよう。あの時も聴衆が至近距離に居てケルン同様に厳しい環境での演奏だったから通じるところもあって、演奏内容とも相性が良いだろう。

アイヒャーとジャレットはこのコンサートのカセット・テープをツアーの車中で聴きながら、結局、これを発表することに決めた。そのピアノの音と、アイヒャーが「録音技術の不備かもしれない」と述べたような欠点にもかかわらず、音楽的にはすっかり曲になっていたからである。それでアイヒャーとそれを録音したエンジニアのマルティーン・ヴィーラントは、二、三日スタジオで作業をしてサウンドの質をいくらかましなものにした。レコードはその年の終わりに発表され、またもや、批評家たちに絶賛されたのであった。
さて、「ケルンコンサートのキースの胸のうち」は、ここで終了です。ジャレットは、このアルバムについて、以下のように回顧しています。
一般の人々はロジックをリアリティと結びつけるが、実際には、リアリティにいつもロジックがあるわけではない。ところが、そんなロジックが、あのコンサートの時には確かに存在したのだ。あのコンサートには、音楽上のロジックがある。あれは自由に鳴っているように聞こえるが、また、一つの考えから別の考えへと、切れ目なく、飛躍することなく動いていくようにも聞こえる。しかし、リアリティはきわめてスムーズな確固たる思考の流れというよりも、一連の飛躍なのだ・・・・・ぼくはあのアルバムは本当に豊かな着想に満ちていると思うが、実際にぼくが表現したいと思うほど、プロセスを表現しているものではない・・・・・・他のライヴ・ソロ・レコーディングにくらべるとプロセスの表現はずっと少ない
そして、2007年12月3日にドイツで放送されたインタビューでジャレット本人が、ケルンコンサートについて語っている貴重な映像があります。
訳すとこんな感じでしょうか。
間違って借りられたピアノだった。本来のピアノを手に入れようとしたが、彼らはもうトラックを手放していたし、そのトラックでは運ぶのに十分な大きさもなかった。そして、微塵も気に入らないベーゼンドルファーと、2日間寝ていない状況のなか、レストランで不味いイタリア料理を食べる羽目になった。チケットの完売以外は全てがうまくいっていなかったから、辞めることだって出来ただろう。エンジニアを帰宅させるべきだとも考えていたが、直前で、全部準備が出来ているし、彼らもここに居るわけだから、自分達の為に録音する事にした。いつも最善を尽くしたいけれど、次から次へと手の施しようのない問題を抱えると無我夢中になるから、実際に何をやっているのか本番になるまで分からなくなって来るんだ。その忘我の境地がこの演奏をもたらしたんだよ。
本記事を書くにあたっては、ブランデスら当時の関係者が登場しているイギリス国営放送のラジオ番組も参考にしました。その取材力には恐れ入るばかりです。そこでは、本コンサートのアルバムリリースについて、アイヒャーから数ヶ月後に連絡を受けたが、アルバムのクレジットに自身の名前も記載されず、ロイヤルティーも受け取らなかった、というプランデスのコメントも明かされています。
そして、本演奏については、ジャレット監修の楽譜が存在していますが、それについて本人は以下の見解を語っています。
しばしばこんなふうに言われる。「どうしてケルン・コンサートのトランスクリプションがないのだろう?譜面を見ることで多くのものを得る人が、本当に大勢いるはずなのに」。ぽくの答えはこうである。譜面を見て人々が多くのものを得るというのは本当だろうが、残念なことには、聴く人の心をとらえた音楽の本質は決して譜面に表われるものではなく、譜面を見たとしても、その本質が人々の心にとどまるものではないであろう
さて、”Köln 75”というドキュメンタリー的な映画にて、これらの内情がリアルに明かされるのが楽しみです。

ジャレットとアイヒャーの人物像の描写が気になります

調律師や録音エンジニアは登場するのでしょうか
最後に、”The Köln Concert”については、以下の記事もご覧ください。
本日も素敵な一日をお過ごしください。
