仏教の生存戦略――欲望渦巻く世界でブッダの教えはなぜ生き残れたのか?|ゆるねこ仏教オンライン講座46より
2025年3月25日(火)開催された「ゆるねこ仏教オンライン講座」第46回の質疑応答をもとにしたコラムです。受講者から寄せられた質問を手がかりに「仏教の生存戦略」について、つらつら考えてみました。
聖者のメンタリティ――覚った人が目立たない理由
Q:今日もありがとうございました。さっきのお話の中で「聖者(阿羅漢)の方って、もう瞑想をやろうっていう気すら、あまり起きないんだ」と言われていたじゃないですか。それって、私たちが日常的に言っている「無気力」とは、また違うものなんですかね? ただ自分の寿命が尽きるのをじっと待っているだけというか、そういう状態なのかなって……。
A:「瞑想をやろうという気すら、あまり起きない」っていうのは、聖者の方々にとっては、禅定に入るのが簡単すぎて、それこそ呼吸をするのと同じくらい自然にできちゃうんだ、という意味です。わざわざ「よし、今から修行として瞑想をやるぞ!」と意気込む必要はない、ということなんですね。ちょっとした暇があったら、当たり前のように禅定に入っている、という感じじゃないかと思います。だって、その状態が一番楽だし、もっとも心地いいわけですから。
もちろん、誰かと話す時とか、社会的な関わりを持つ時は、私たちと同じように普通にしゃべったり行動したりしていますよ。でも、一人になって、何もしなくていい時間ができたら、自然と禅定に入って、心が軽やかで清らかな状態で過ごしている。ただ寿命を待つだけの退屈な時間ではなくて、ものすごく満たされた、静かな平安の中にいるっていう感じだと思いますよ。
Q:……となると、そういう本物の聖者の方って、現代のこの普通の世の中にも、実はひっそり暮らしていたりするんですかね?
A:そんなにたくさんはいないと思いますけどね。でも、可能性としては「いる」ということです。
ただ、仮にそういう聖者が今の世の中にいたとしても、そんなに目立とうとはしないはずですよ。だって、それこそ「私は覚りに達しました!」なんて言って周囲に見つかっちゃったら、いろいろとやばいというか、めちゃくちゃめんどくさいことになりますからね。いろんな人が押し寄せてきたり、変な目で見られたり、崇め奉られたりして、せっかくの静かな時間が脅かされちゃいます。
だから、もし自分が他人の役に立つような場面があれば、表立たないところで、ちょこちょこと色々な仕事をして人助けはするだろうけれど、基本的にはそんなに目立とうとはしないと思いますけどね。目立つ必要性がそもそも彼らにはないですから。
仏教と他宗教の違い――あらゆる信念体系は「私」を前提に成り立つ
Q:目立つメリットがないんですね。そういう境地に至る人っていうのは、やっぱり、単純に仏教の修行をした人がそういう風になるっていう理解でいいんでしょうか?
A:うーん、厳密に言えば、仏教が目指す解脱という意味では、仏教的なものの見方が必要になりますよね。もちろん、いろいろな宗教、特にインド系の宗教なんかだと、修行をするので、それなりに心が清らかになっている人っていうのは、たくさんいると思うんです。
じゃあ、仏教から見て何が違うのかというと、「私がいる」という、「私の」「私のもの」とか、「私」という観念を中心に生きていることが物事の根本的な問題なんだよ、というころにはなかなか行っていないんですよね。
他の多くの宗教や思想では、どれだけ心が清らかになったとしても、「私がいる」「これが私のものだ」という、何かしらの「私」という観念を中心にして生きています。物事の根本的な問題は、この「私」という実体があるという邪見から離れることなんだよ、というところまでは行っていないんです。どうしても、絶対的な神様とか、絶対的な魂(アートマン)とか、そういう実体論にしがみついてしまってところがあるんですよね。
仏教から見ると、「そこはもうちょっと頑張れ!」と言いたくなるというか、「もう一歩、先があるんだよ」という感じになるわけです。
とはいえ、それなりに修行をしてヨーガとかやって、心清らかに保っているような立派な人は、仏教以外にもいますよね。あとは生まれつき人格ができている人だって、それなりにいますよね。もしかしたら前世で仏教の修行なんかをしていて、たまたま今世では仏教とはあまり縁がない環境に生まれちゃっただけかもしれないし。これは完全に検証のしようがない妄想の話なので、本当のところはよくわからないですけどね。でも、世の中捨てたものじゃないというか、どんな世界であっても、本当に立派な人っていうのは確実に存在していますよ。
「立派な人」はどこにでもいるが、仏教と等しい教えはどこにも見当たらない
Q:どんな世界にも立派な人はいる、というのは、なんだか少し救われる話ですね。
A:ただ、世間一般で言う立派さっていうのは、例えば「周りの人のために頑張る」とか、「世界平和のために頑張る」とか、基本的にはそういうレベルですよね。もちろん、これはすごく立派で尊いことです。
仏教の聖者であっても、他の生命に対する態度としては同じなんですよ。仏教で言う四無量心、つまり、慈・悲・喜・捨という態度で他の生命に対して接するということでは同じなんです。
ただ、根本的にこの世界っていうもの自体が、なんていうか……完全に幻覚、マボロシの世界であって、「執着に値しないんだ」というところまで達しているかどうかはちょっと分からないですし、なかなかそういうアイディア自体が世の中、世界にないんですよね。
やっぱりね、色々と勉強してみるとわかるんですけど、仏教的なアイディアって、本当に仏教にしかないものなんですよ。私もそういう屁理屈的なお話(古今東西の思想哲学のたぐい)は好きなので色々勉強はしたんですけど、仏教みたいなことは仏教しか言ってない。あたりまえのことなんだけど、本当に他では見つからないんです。
特に、その中でも「初期仏教」にしかないっていうか。初期仏教の言っているようなことは初期仏教しか言ってなくて……まぁ、大乗仏教的なことならば、ある意味でヒンドゥー教でも似たようなことを言ってたりとか、他の宗教とも重なる部分があったりするんですけどね。純粋なお釈迦さまの教えに近くなれば近くなるほど、あまりにもユニークで、「ここにしかない!」っていう感じがします。だから、そういうブッダの教え、とりわけ初期仏教の教えをしっかり学んで体得した人しか到達し得ないような境地というものは、確かにあるんだと思います。
慈悲喜捨はブッダのいない「無仏の世界」における最高の教え
たとえば、仏教みたいな無我とか無常とかっていう真理は知らなくても、「生命に対しては慈悲喜捨の気持ちで接しなきゃいけない」という風に知っている人は結構います。仏教的に理屈を言うと、こんな話もできます。
仏教が存在しない世界のことを「無仏の世界」と言うんですけど、その世界においては、慈悲喜捨の四無量心こそが最高の教えになるんです。
だから、たとえ今世で仏教と出会っていなくても、あるいは輪廻の中で仏教とあまり縁がない人であっても、慈悲喜捨が優れているってことは知っている場合があります。
だからこそ、マハトマ・ガンディーさんもそうだけど、生命に対して「アヒンサー(非暴力)」という態度でなきゃいけないんだってことは知っているわけですよ。彼は別に仏教徒でも何でもないけれど、世界中で未だに尊敬されているような過去の偉人たちは大体そんなようなことを言いますよね。
それは、仏教があろうとなかろうと、生命はみんな慈しみの関係でいなきゃいけない、みんな平等に友達として接し合っていかなきゃいけないんだっていうことを、立派な人は知っているからなんです。そして、立派じゃない人でも、そう言われるとなかなか否定はできないものです。
Q:確かに。マザー・テレサとかもそうですね。だけど、やっぱり彼女たちの活動も、仏教から見ると「慈悲喜捨」のレベルで止まっているというか、そこからさらに進んだ「解脱」というところまでは行かない、ということになるんでしょうか?
A:そもそも、世の中を見渡しても、生命(すなわち輪廻)を乗り越える「解脱」というアイデアはなかなか見当たらないんですよね。そういう発想自体がないので、どうしても「生命は生命じゃないの?」「生命というのは尊いものでしょ?」「生命として皆が幸せであればいいんじゃない?」ってところで終わっちゃう。
仏教のように、「生命といったって、それは組み立てられた現象でしかないよ」というところまでは、なかなか行きづらいですね。そもそも、ブッダが教えた智慧の世界っていうのはそんなに生易しくもないし、欲(貪瞋癡)の世界で生きている圧倒的多数の生命にとっては、面白くも何ともない話なんです。
だって、みんな「私がいる」と信じていて、その「私」を満足させるために欲望のエンジンを吹かして生きているわけで、いきなり「あなたという実体はありませんよ」なんて言われても、興ざめしちゃって面白くないですよね。だから、なかなか仏教は伝わりづらいっていうところじゃないですかね。
多数派の欲望を踏まえた仏教の「生存戦略」
そういうわけで、欲を追い求める世界にあって、欲を離れることに挑戦しようという少数の人だけが仏道に入って一生懸命頑張る。そもそも同じ仏教徒であっても、大多数の人は「功徳を積んで来世は幸せになりたい、いい暮らしがしたい」とか、大体そんなところを目標にしているんですよ。
具体的には、知識としては「ドゥッカ(苦)」とか「無常」とかを知っていても、お寺に行って色々お布施をして、仏像に金箔を貼ったりしてお坊さんにお食事を差し上げて、それで「来世はお金持ちや天界に生まれられたらいいなぁ」というのが大多數の考え方だし、まぁ、生命って大体そんなものなんですよ。
だけど、そこはあんまり悲観することもないんです。仏教というのはよくできていて、そういう欲絡みで生きている人々が大多数の世界でも、なんとか生き残っていけるように、うまくやってきているんです。これが仏教の「生存戦略」ってやつです。
ふだんは欲を追っている人々であっても、人生の中では逆境があって困ったりすることがあるじゃないですか。そういう時には、仏教のところに来て色々相談したら、それなりに回答があるわけですよね。仏教の側から、その人がその問題を解決できるようなヒントを与えてあげることはできるんです。
あるいは他宗教の人が来て、「無我とか言われても、そんなこと信じらんないよ」っていう態度だったとしても、「じゃあ、生きとし生けるものの幸せを念じて、慈悲喜捨の実践をしてみてください」って勧めてみたら、「あっ、それだったら分かりますね」って感じになるでしょう。そうやって、どんな人でも受け入れて、それぞれのレベルに応じた処方箋を与えられるように、本当によくできているんですよ。だから、仏教はこれからも、なんとか生き残っていけるんじゃないかなと思いますけどね。そんなところでございます。
Q:やっぱりこうやって月に一回、こうやって講義を受けると、日常で嫌なことがあっても『あっ、また勉強しなくちゃな』と思えるので、助かってます。ありがとうございました!
A:こちらこそ、今日はありがとうございました。おやすみなさい、お元気で。
~生きとし生けるものが幸せでありますように~
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