ちょいよみ 2026 05 05
ヌーソロジーという思想にふれていたら、土台のひとつとも言える、
フランス哲学者・ベルクソンの著書『物質と記憶』が気になり、
それとつながりのありそうな、ロシアの哲学者・
エマニュエル・レヴィナスの『倫理と無限』を読む事にした。
その前に、段ボール箱に収められていた『手の倫理』を
なんとなく手にした。
・ 『手の倫理』 伊藤亜紗 著(講談社選書メチエ 2020)
【千夜千冊・以外】 47 / 214 頁
人が人の体にふれるときに必要な技術トッは何なのでしょうか。
乱暴な言い方をしてしまうなら、
「まなざしの倫理」は、身体接触=介助を必要としない、
健常者の身体を基準にした倫理
(・・・)
私たちはときに、目ではなく、手で考える必要もあるように思います。
重度障害を持つ国会議員に対する批判、
あいちトリエンナーレの企画展に対する抗議・脅迫と展示中止、
冷え切る日韓関係。
現実の日本で進んでいるのは、多様性の尊重とは真逆の、分断の進行です。
「多様性」は良い面があると思うが、
もう一面として、例えば障害を持つ人に寄り添わず、
別々の存在だから・・・という考えも産み出す。
・ 『分身トウルパをつくって次元を超える』 松村潔 著(2018)
【精神世界】 39 / 203 頁
松村潔氏の文章は、理解出来るような類ではないが、読み続ければ、
「新しい考え」を受け取れ、楽しい。
執行草舟氏も、松村潔氏も、シュタイナーから学んだことを、
ご自分の物語に落とし込まれている。
人間は、今、皮膚ー筋肉の鎧をつけているが、過去には、液体や気体で
あったときもあるというお話。肉体には、微量元素として鉱物が散りば
められており、それ故に、重さを持つようだ。
作品を作る中で、新しい自分も作られていく。
自分が作品を作るというよりも、新しい自分も作られていく。
主客という二極化を統合して、もとの大きな自己としての自分に戻ると、
自分が主導権を握っているのか、それとも客体が主導権を握っているのか
さっぱりわからない。
トゥルパとは、分身のこと。人間は、肉体という重いものを纏っているが、
本来、人間とは「感情」のことらしい。肉体とは異なる〇〇体に「感情」をのせ、分身させる、ということだろう。分身した後は、やっかいそうだ。
いや、普通、分身できない、だろう。
人間の個体とは、このどこにもつながっているということを
拒否したうえで成り立つ存在である。
執行草舟氏、松村潔氏の著書などを読んでいると、
やはり、ルドルフ・シュタイナーを読もうかなぁ、と思い始める。
『自由の哲学』は、森章吾氏訳の新版が出ていたし、
シュタイナーの農業関連の本も、今月中旬に再刊があるのだ。
「アカーシャ年代記」は、再刊なく、いまだ値段高め。
その前に、「カバラ」にいくか、「神聖幾何学」へいくか。
