金曜日の知らんけど_意思
ヤスさん主催の「放課後ライティング倶楽部」で幽霊部員の私が、ここのところの金曜日、何度となく倶楽部纏わりの記事を書いている。
私は、企画ものが大の苦手で。四苦八苦なのであるが。
さて。今回のお題は……。

いつものように、私の思うことを勝手気ままに書くが。
ウケる文章術なんかが、どこかにあって、例えばそれを身につけることが出来るならば、私がそれを知りたい。手に入れたい。
そんなものは存在しなかろうし。それが、よしんばあったとしても体得することはできないからみんな悩んでいる。私もその一人で。この質問への解答を書く資格なんて私には到底無いが、まあ、書こう。
かねてからこの金曜日の記事にも書いてはいるが。文章は書き手が手元から放った瞬間に、書き手のものではなくなる。それを受け取った人が解釈してしまえば、それがたとえ書き手にとって曲がった解釈であったとしても、その受け取り手には関係がない。
つまり、どんなに文法的に合っていても。素晴らしくとも。その受け取り手以外の人が絶賛しようとも、ある受け取り手にとって酷いものであれば、その受け取り手にとってそれは酷いものなのである。
受取手次第。それに委ねられる。
例えばそれが、その受け取り手にとってだけ酷い内容で。それ以外の大多数の受け取り手にとっては良いものである場合、前者の受け取り手は“曲解”したことになるのだろう。
だが正解と曲解の境界線は、全く明確ではない。
ただ。
質問者の意図は、ここに尽きるだろう。
“大多数の受け取り手にとって”ウケる文章術。
最低限だが。書き手は、受け取り手のために書くべきだろうし。ちょっとでも少しはこっちを向いてくれるところから入る、というのは、礼儀なんだろうと思う。
手紙も。そして、メールの案内文も。
心の中の、リトルkojuroが、ボソリと、呟いた。
コジの記事って、いつも、そんな風な礼儀を尽くして書いてる?
うーむ。それは、甚だ怪しい……。
さて。ヤスさんの記事に書いてあることをバッサリ私流に要約するとこのようなことが書いてある。
“つかみ”は、スベる前にぶちかませ、と。
私の思っていることと、ちょっと似ていると思うのは、思い過ごしだろうか。……だろうな。
ここまで来て思い返すに。こんな私の拙ない記事にでも読みに来てくれる有り難い方々がいらっしゃる。
本当に有り難い。有り難いのである。ほんとうに、心の底から感謝を申し上げたい。
あれ?
なんのはなしですか。

そんなこんなを家内と語らおうとしてソファーに目をやると、家内が脚を指さしてニッコリと笑っていた。
コジくん、「べらぼう」を観ながら、マッサー(注1)しようか。
……。
マッサージをすると、家内は上機嫌になる。
家内が上機嫌だと、我が家は平和である。
だから。
これで、いいのだ。

知らんけど。
(注1)マッサーとは、マッサージのことである。家内のさっちゃんがそうやって、略して言うのである。さっちゃんへのマッサーは私の最重要の日課である。

