金曜日の知らんけど_鐘
ヤスシさん主催の「放課後ライティング倶楽部」で幽霊部員の私が、ここのところの金曜日、何度となく倶楽部纏わりの記事を書いている。
私は、企画ものが大の苦手で。四苦八苦なのであるが。
さて。今回のお題は……。

いつものごとく、勝手気ままに、いい加減なことを書くが。
文章の終わり方。これさえ良ければ全て良しと考えることが多いが。それでは本当のところは追いつかなくて。
成り立ちというか、流れというか、そこまでに至る道のり、よく言う言い方で、プロセスがやはり重要だと思うのである。
文章というか、ひとつのまあ、作品となればなおさらで。
全体を通しての流れというか、ストリームというか、雰囲気とかシチュエーションとかそういうものこそが、全てなのだろうと思う。
だが、人は、思うのである。
最後の最後に、一言多くて全てを台無しにする人や事象が多いな、と。
所謂、画竜点睛を欠くというヤツだ。
だからこそ、全てが最後の最後の締めで決まると、ついつい、思ってしまう。
でも。やはり翻って、私は思うのである。
全ては、工程、プロセス、それまでの積み重ねなのだ、と。
文章も、願わくば人生も、そういう行程を歩み、最後の締めも、心に残るものであってほしいと。
心の中の、リトルkojuroが、ボソリと、呟いた。
コジ、今までの人生が無為すぎて、もう無理なんじゃない?素敵な締めは。
うむ。その通りだ。
時、既に遅し。私の場合は人生も文章も、既に締まりのないものと化している。
さて。ヤスシさんの記事に書いてあることをバッサリ私流に要約するとこのようなことが書いてある。
よい文章は、終わるものではなくて、読者の頭の中で鳴り続けるものだ、と。
なんだか、私の言わんとしていることと似ているような気がするけれど。でも、それはきっと思い過ごしだろう。
人生も文章も、やっぱり、触れてくれた人の頭の中で鳴り続ける“鐘”となるようなら、素敵なのになぁ、なんて思うのである。
ただの、憧れの話だ。
なんのはなしですか。

そんなこんなを家内に語ろうとして後ろを振り向くと、空のソファーが、静かに笑っていた。
先日から家内は、あるプロジェクトで、都心のホテルに泊まり込んでいる。
シーンとした部屋の空気に、なんだか、心が追いつかない。
昼間のやりとりからすると、家内は、元気なようである。
マッサー(注1)は無いが。
家内が元気だと、我が家は、明るくて平和である。
だから。
これで、いいのだ。

知らんけど。
(注1)マッサーとは、マッサージのことである。家内のさっちゃんがそうやって、略して言うのである。さっちゃんへのマッサーは私の最重要の日課である。

