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​「あれ?何か変だな」というモヤモヤをAIに話してたら、2,900文字のコラムになっちゃった話

みなさん、こんにちは。最近どうしても心の中のモヤモヤが止まらない話題があり、AIにだらだらと話し続けていた結果、「せっかくだからまとめて文章にして?」と頼んでみたら2,900文字ものコラムを書き上げて(もらって)しまっていました……。

今回は、古いリスナーである私の中に眠る「違和感センサー」が捉えた音楽のお話を、少しだけ語らせてください。

本編はLANAさんがカバーした『翼の折れたエンジェル』に関する考察ですが、AIにだらだらと話したものをまとめて記事にする、という自分なりの記事作成の成果をもって「#AIで遊ぼう」コンテストに参加します。

■はじめに:私の中の違和感センサー

最近、街中の有線や、YouTubeの画面の中で、心が「あれ?何か変だな」とざわつく瞬間があった。

世間やSNSを見渡せば、それは「最高!」「今っぽくてエモい!」と絶賛されているものばかりだ。
けれど、私の中にいる古いリスナーとしての「違和感センサー」は、どうしてもそのノイズを無視してくれなかった。

もしかしたら、というかたぶん新しい文化についていけない私のような世代の「老害の考え」なのだろう。
自分でも少しひねくれているのかな、と卑下してしまう気持ちもある。

けれど、そこから見えてきた音楽の本質的なズレについて、自分なりの定点観測を少し言葉にしてみたい。

 ■LANAの「翼の折れたエンジェル」が残したモヤモヤ

きっかけは、2004年生まれの気鋭のアーティスト・LANAさんが、1985年の名曲「翼の折れたエンジェル」をカバーした音源を聴いたことだった。

まず誤解のないように言っておきたいのだが、LANAさんは圧倒的な歌唱力とハスキーボイスを持ち、今の音楽シーンの最前線を走る本当に才能豊かなアーティストだ。
彼女が青春時代の苦しい時期にこの原曲に救われ、「大人になろうともがいている同世代(20代)の若者たちに捧げたい」という熱いメッセージを込めて、真剣に歌っている姿も映像を通してしっかりと伝わってきた。

今の若い世代が、彼女のこの歌声に熱狂するのも非常によく理解できる。

ただ、その真剣な姿を受け止めた上でも、原曲の中村あゆみさんのスタイルをリアルタイムで愛してきた私のようなリスナーからすると、どうしても消えない疑問と、何とも言えない「変な感じ」が残ってしまった。

彼女自身が語る「母親から教えてもらった大事な曲」「同世代へのエール」という、超個人的なストーリーやメッセージ性ばかりが、あまりにも前面に出すぎてはいないだろうか、という点だ。

そのメッセージ性が強くなればなるほど、原曲を愛してきた者としては、どうしても「それはあなたの個人的な思い入れの物語になってしまっていないか?」という違和感が拭えない。

40年前、中村あゆみさんというロックスターが魂を削り、当時の若者たちの焦燥感を代弁して完成させたあの「翼の折れたエンジェル」という偉大な作品そのもの、そして原曲歌手に対する本当の意味での「リスペクト(敬意)」はどこにあるのだろうか、という素朴な疑問が湧き上がってくるのだ。

ロックの直球のエネルギーを求めてしまう古い耳で聴くと、彼女の歌い方に多用されている音を細かく上下に揺らすフェイクや、リズムをわざと後ろに引きずるタメは、どうしてもメロディの「芯」をあいまいに入り組ませて崩しているように聴こえてしまう。

これは彼女の主戦場である「R&Bやヒップホップ」というジャンルでは最高の技術(フロウ)なのだろう。
が、作詞・作曲家が1音、1文字単位で悩み抜き、歌手の人生を重ね合わせて作り上げたはずの美しい設計図(意思)が、現代風のトレンドというフィルターを通すことで、綺麗に省かれてしまったような寂しさを覚えてしまうのだ。

プロの公式リリースとして聴くからこそ、「これでは原曲への敬意というより、 内輪の(あるいは『コミュニティの』)ストーリーに寄りかかった、彼女が気持ちよく歌うための高級なカラオケのように見えてしまうのではないか」と、つい厳しく受け止めてしまう。(勝手な解釈を言い過ぎですね、ごめんなさい💧)

これは音楽の優劣の話ではなく、育ってきた音楽のルール(分類)が違うからこそ起きる、仕方のない摩擦なのかもしれない。

■「引き算」と「魂」のプロの仕事

私がなぜそんな頑固なことを考えてしまうかというと、正直違和感をスッキリさせたいということもあるのだが、原曲の意思をしっかり受け継いだ素晴らしい色々な曲のカバーの形を、これまでに体験してきたからでもある。

たとえば、福山雅治さんがアコースティックギター1本で披露した「翼の折れたエンジェル」がそうだ。
無駄な装飾をすべて削ぎ落とした「引き算」の編成だからこそ、メロディの骨組みを1音もごまかさずに真っ直ぐ歌い上げ、原曲の持つ歌詞の切なさをより引き立てていた。

あるいは徳永英明さんや稲垣潤一さんのカバーアルバムシリーズ。
彼らは自身の強烈な個性を持ちながらも、それを「原曲を壊すため」ではなく、「原曲の持つ一番美味しい響きを最大限に引き出すため」に使い、メロディへの絶対的な敬意を払っている。
杏里さんの「悲しみが止まらない」のカバーなども、林哲司さんが生み出した切ないメロディラインを崩さず、その美しさを真っ直ぐに信じて歌うからこそ胸に響いた。

そして、玉置浩二さんのように大胆にリズムを崩して歌う天才もいる。彼の崩し方は計算されたR&Bのテクニックではなく、その瞬間に湧き上がる「剥き出しの感情」から生まれている。
だからこそメロディの芯がブレず、魂が震えるような大人のアレンジとして感動できるのだ。
同じ「崩して歌う」という行為でも、その根底にあるのが「ジャンルの手癖や流行」なのか、「命を削るような感情とリスペクト」なのか。

今回のLANAさんのカバーは、決して彼女を否定したいわけではなく、あくまで自分が違和感なく許容できる「カバーにおける表現の境界線」を改めて考えさせてくれる、興味深いきっかけをくれたと思っているのです。

■おわりに:自分だけの「ブレない物差し」を持つこと

今の時代、SNSのコメント欄やXを開けば、誰もが「最高!」「神曲!」「感動した!」と右へ倣えで分かりやすい言葉を並べている。
ネットの公の場で、わざわざこうした「非」や「違和感」を書き込んで、誰かと不必要な衝突を起こす必要は全くない。

けれど、世間の大きな声に流されず、「あれ?何か変だな」と立ち止まれる感性は、物事の本質やズレを見分けるための、自分だけのブレない物差し(審美眼)なのだと思う。

最後にもう一度、強く言っておきたい。
私はLANAさんという素晴らしいアーティストや、彼女の真剣な歌への情熱を批判したいわけでは決してない。
今の若い世代が彼女の音楽に心を震わせる文化も、一つの大切なリアルとして心から尊重している。

ただ、作り手の魂がこもった本物のメロディラインを愛し、原曲が持つ歴史への本当のリスペクトを大切にしたいと思う古いリスナーの「個人的な戸惑い」として、このセンサーをこれからも一人の人間として、静かに大切にしていきたいだけなのです。

……というお話でした。最後まで読んでいただきありがとうございました!







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