小泉八雲のミュージアムに行こう!【全国9カ所】
小泉八雲と夫人をモデルにしたNHKの朝ドラ『ばけばけ』で脚光
2025年度の下期に放送されたNHKの朝ドラ『ばけばけ』は、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)と夫人の小泉節子(戸籍名はセツ)をモデルにしたドラマだ。
「登場人物の掛け合い、やり取りが面白い」「社会性や事件性は少ないが、主人公を取り巻く人間模様がユーモラス」「派手さはないが、コアのファンをつかんだ」などの反応で、そこそこの人気があった。
最近5年間のNHK朝ドラの平均視聴率は、以下のような数字を残している。
『カムカムエヴリバディ』(2021年度後期)17.1%
『虎に翼』(2024年度前期) 16.8%
『らんまん』(2023年度前期) 16.6%
『おかえりモネ』(2021年度前期) 16.3%
『あんぱん』(2025年度前期) 16.1%
『ブギウギ』(2023年度後期) 15.9%
『ちむどんどん』(2022年度前期) 15.8%
『舞いあがれ』(2022年度後期) 15.6%
『おむすび』(2024年度後期) 13.1%
『ばけばけ』の平均視聴率は15.3%前後で、『おむすび』に次ぐ低さとなった。娯楽が多様化し、録画や配信などでリアルタイムでの視聴が減少している昨今、朝ドラの視聴率は
17%以上はヒット
16%台は健闘
15%台標準
14%台はやや苦戦
14%未満は苦戦
と言われている。
作家で、ジャーナリストの小泉八雲は世界各地に足跡を残した人物であった。朝ドラでは、島根県松江市が中心で、一部、熊本と東京が舞台になっているが、それはハーン、八雲のほんの一断面にしか過ぎない。
ヨーロッパを離れ新天地のアメリカへ
パトリック・ラフカディオ・ハーン、後に日本国籍を取得して小泉八雲と名乗った人物の生涯はヨーロッパ、アメリカ、日本など各地に居住し、多くの人と交錯する波瀾の軌跡であった。
ハーンは、アイルランド人でイギリス軍医であった父チャールズ・ハーンと、ギリシア人で裕福な名家の娘だった母ローザ・カシマティのもとに1850(嘉永3)年に生まれた。出生地は、当時イギリス領で、1864年にギリシアに編入されたイオニア諸島の1つ、レフカダ島。幕末動乱期の幕開けとなったマシュー・ペリー提督が、現在の神奈川県横須賀市の浦賀に入港する3年前のことである。
名前はパトリックだが、生地のレフカダ島にちなみラフカディオというミドルネームが与えられた。父がイギリス領西インド諸島に転属することになり、2歳半で、父の家があるアイルランドの首都、ダブリンに移住して幼少期を過ごす。
文化や言葉の違いに馴染めなかった母ローザは心を病み、夫婦の絆は急速に崩れていく。父チャールズは1854年の夏、クリミア戦争に従軍し、他の女性と暮らすようになる。慣れない土地に取り残されたローザは、ラフカディオを残してギリシアへ帰国。4歳にして両親に捨てられた形になる。大富豪だった父方の大叔母(父チャールズの母、エリザベスの妹)のサラ・ブレナンに引き取られるが、その後、両親は離婚する。
4歳で両親と別れて以降、母に会うことはなく、父親に対しては嫌悪感を持ち、母親には思慕の念を抱き続けた。相反する感情を胸に抱き続け、人生をスタートさせた。
大叔母のサラ・ブレナンは厳格なカトリック教徒で、ハーンは神学校で教育を受けるなど、カトリック教への信仰を強く求められた。その反動として、キリスト教嫌いになり、神話や伝説、民話、民間信仰、そしてアニミズム(すべてのものに霊魂や霊が宿っているという考え方)に惹かれていく。
イングランド北東部のダラム市郊外にあるカトリック系の全寮制の学校、セント・カスバート・カレッジ(後のアショー・カレッジ)で学んでいた16歳のとき、校庭の遊具(ロープの結び目)が左目に当たって視力を失った。左目は白濁し、外見に劣等感を抱くようになり、写真を撮るときは左目を隠すか、右側から撮らせることを常とした。
17歳のとき、大叔母が破産し、生活は一転して困窮。学業半ばでアショー・カレッジを去ることになり、運命は大きく揺さぶられる。
19歳の1869(明治2)年、ハーンはヨーロッパを離れる決意を固める。移民船で新天地、アメリカのニューヨークに上陸し、親戚を頼ってオハイオ州シンシナティへ向かうが、援助は拒まれる。頼る者なき異邦人はホームレス同然だった。
その窮地を救ったのが、印刷業を営むイギリス出身のヘンリー・ワトキンであった。ハーンは2年間彼のもとに身を寄せ、印刷の技術と知識を身に付ける。放浪の果てに得た、小さくも確かな足場。ここから、後の作家、ジャーナリストとしての道が静かに開かれていくのである。
ニューオーリンズの混沌を愛したハーン
物語を書き、投稿を重ねて文筆の才を磨いたハーンは、24歳の1874(明治7)年、オハイオ州の地方新聞社シンシナティ・エンクワイアラー社に就職し、ジャーナリストとなった。週刊誌『イー・ギグランプズ』の創刊にも関わり、筆力を発揮していく。
シンシナティで知り合った女性、アリシア・フォリー(愛称マティ)と結婚。アリシアの父はアイルランド系の農場主で、母は奴隷出身の黒人であったため、ハーンは白人の上司や同僚から、有色人種との結婚を非難されることになる。
『エンクワイアラー』紙の記者として殺人事件の記事を書き、部数増に貢献していたものの、当時のシンシナティでは白人と有色人種の結婚は禁じられていた。社会の壁は厚く、ついに退社を余儀なくされる。記者の職を失い、深く傷ついた末に転職するが、2人の結婚生活も1877(明治10)年、破綻に至る。
オハイオ州シンシナティを離れ、ハーンはルイジアナ州ニューオーリンズへと向かう。メキシコ湾に面するこの地は、もともと先住民族の土地であったが、16世紀前半にスペインの探検隊が足を踏み入れた。その後フランス領となり、国王ルイ14世にちなみルイジアナと名付けられた。ミシシッピ川の水運を背景に、綿花や砂糖の大農園が発展し、交通の要衝として栄えるが、1812年、アメリカ合衆国に編入される。
就職の当てもないままニューオーリンズにたどり着いたハーンは、ミシシッピ川河口近くの港町で、1877年から1887年までの10年間を過ごすことになる。流浪の末の定住である。
『デイリー・シティ・アイテム』紙で編集助手となり、社会情勢や世相、事件の背景を鋭く読み解く記事を書き続け、ジャーナリストとして、そして作家としての評価を高めていく。1881(明治14)年12月に同社を退社し、アメリカ南部の有力紙『タイムズ・デモクラット』から文芸部長として招かれる。
ハーンは好奇心旺盛であった。多様な文化とコミュニティに生きる人々に分け隔てなく接し、白人か有色人種かという境界を越えて交流した。西アフリカのベナン共和国、カリブ海のハイチ共和国、そしてニューオーリンズなどで信仰される民間信仰、ブードゥー教にも深い共感を寄せていた。
ニューオーリンズは南国的で官能的、華やかな都市である。一方で、不衛生で病と死が身近にあり、混血社会ゆえの混乱も絶えず、退廃の影も濃い。ハーンはこの街を「オレンジの花を冠した死んだ花嫁」と描写し、都市の風景、人々の姿、街の気配をスケッチのようなエッセイや社会批評として書き綴った。「死んだ花嫁」という擬人化により、都市の実相を鮮やかに浮かび上がらせたのである。
その記事「死んだ花嫁」に触発され、ジャーナリストを志した若者がいた。10代の頃から『タイムズ・デモクラット』に詩を投稿していたエリザベス・ビスランドである。彼女はハーンが文芸部長を務める同社で働くことを志願した。
ビスランドはルイジアナ州出身でありながら、フランス文学やイギリス文学に精通し、美術、音楽、哲学にも関心を広げていた。文章は当時の新聞記者に多い扇情的、誇張的な文体とは異なり、簡潔で無駄がなく、それでいて文学的余韻を宿すものであった。ハーンより11歳年下。だが、その才能、美貌、知性、そして行動力に、ハーンは次第に敬意と憧れを抱くようになる。
ハーンが最初に出版した書籍は料理本
アメリカ南部からイギリスに綿が初めて輸出されたのが1784年であり、その百周年を記念して1884年、ニューオーリンズで万国博覧会の一種、万国工業兼綿百年期博覧会が開催された。ハーンは日本関連の展示や日本の話に触れ、日本という未知の世界への関心を強く抱くに至った。
博覧会の会場では、日本の農商務省の官僚、服部一三から日本文化の詳細な説明を受ける機会を得た。この出会いは決定的である。さらにこの時、農商務省に入省し、ニューオリンズの万国工業博覧会に事務官として派遣されていた高峰譲吉とも巡り合う。
高峰は現在の富山県高岡市の漢方医の家に1854年に生まれ、長崎で英語を学び、1868(明治元)年には京都の安達兵学塾、大阪の適塾へと転学。翌1869年に大阪医学校(現・大阪大学医学部)、さらに大阪舎密局(明治維新期に化学技術の研究、教育、勧業のために作られた官営の機関)で化学を修めた人物である。1874年、工部省工学寮(後に工部大学校に改称)に第1期生として入学し、1879年に工部大学校化学科(現・東京大学工学部応用化学科)を首席で卒業した。
1880年から3年間、イギリスのグラスゴー大学に留学した高峰は、その後農商務省に入省。1884年、ニューオリンズに派遣され、博覧会を取材していたハーンと出会ったのである。
同年、高峰はニューオーリンズ育ちのキャロライン・ヒッチと婚約し、1887年に結婚。1894年にタカジアスターゼを発見、1900年にはアドレナリン(エピネフリン)の結晶抽出に成功し、アメリカで巨万の財を築いた。科学者としての栄光、実業家としての成功。さらにキャロラインの両親が事業を支え、家族ぐるみの経営体制を築いた。
アドレナリンの結晶化で高い評価を得る一方、高峰は日本文化の紹介にも情熱を注いだ人物である。ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)はその姿勢を高く評価していた。逆に高峰も、後に『知られぬ日本の面影』(1894年)を著した八雲を、日本人の精神性や生活感覚、宗教観を正確かつ敬意を持って語り得る、稀有な存在と見ていた。相互の敬意と、文化を架橋する知の連帯が2人の間に芽吹いていた。
ハーンは『タイムズ・デモクラット』で、ブードゥー教信者を取材し、その思想と文化を記事として世に伝えた。さらにニューオーリンズのクレオール(植民地支配などで、異なる人種、文化、言語が混ざり合って生まれた人々や、その言語や文化を指す概念。特にカリブ海やルイジアナなどで、ヨーロッパ系、アフリカ系、先住民などが融合した社会を指す)の人々の食文化にも着目し、取材と観察を重ね、1885年に初の著作『クレオール料理』(邦訳本のタイトルは『ラフカディオ・ハーンのクレオール料理読本』。1998年に日本語版刊行)を出版する。料理書にして、文化論や生活の記録が盛り込まれている。
約400種類の料理を収録した本書は、単なるレシピ集ではない。文化人類学的視点から編まれた労作であり、ハーン自らの挿絵も添えられている。現在に至るまでニューオーリンズの人々に参照される実用書であり、同時に文化遺産でもある。料理には家庭、階層、民族の差異が映し出され、材料や調理法には地域性、交易、歴史が刻まれる。ハーンはこのように考えていた。
クレオール文化の本質は混交にある。フランス系、スペイン系、アフリカ系、カリブ系の文化と伝統が溶け合う多層性。そのままでは失われかねない「消えゆく文化」への危機感。だからこそハーンは、料理という具体的な形を通して文化の深層を記録しようとしたのである。
ルイジアナ州ニューオーリンズを象徴する世界的な祭り、マルディグラは「アメリカの三大祭り」の1つ。クルー(パレードを組む集団)と呼ばれる団体が主催する大規模なパレードで、華麗なフロート車(山車)から観客に投げられるビーズや記念品に沸き立ち熱狂することで知られている。
ハーンは10年間ニューオーリンズに滞在し、新聞記者、作家としてこの都市を見つめ続けた。クレオール文化、黒人社会、カトリック信仰、ヴードゥー教、民間伝承……。多民族、多宗教が交差する世界を丹念に観察し、文章として刻み込んだのである。現在も、マルディグラの祭りでハーンのフロート車が登場し、文化を記録し足跡を残したハーンを追悼している。
ハーンの敬愛する女性記者は世界一周レースへ
女性編集者、ジャーナリストとして活躍したエリザベス・ビスランドは1887年頃、ニューヨークへ移った。『ザ・サン』での仕事を皮切りに、『ニューヨーク・ワールド』などで腕を振るい、やがて雑誌『コスモポリタン』の編集者となり、『アトランティック』などの雑誌にも寄稿し、名声を高めていく。
一方、ラフカディオ・ハーンはニューオーリンズにおけるクレオール文化の取材と研究に一応の区切りをつけ、1887年、ニューオーリンズを離れる決意を固めた。向かった先は、クレオール文化が色濃く残るカリブ海の仏領西インド諸島である。マルティニーク島を拠点に2年間滞在し、紀行文や小説の執筆に没頭した。
西インド諸島での生活や風俗、混血文化としてのクレオール文化、さらには民間伝承や迷信に至るまで、ハーンは鋭い観察眼で描き出し、『ハーパーズ・マガジン』や『ザ・センチュリー・マガジン』に寄稿した。
この時期、彼は唯一の長編小説『Youma: The Story of a West-Indian Slave(ユーマ 西インドの奴隷の物語)』を執筆。黒人女性ユーマを主人公に据え、奴隷制の悲劇、人種と階級の対立を主題とし、弱者への深い共感を描き出した作品である。
仏領西インド諸島から1889年6月頃にニューオーリンズへ戻ったハーンは、翌年刊行予定の『Two Years in the French West Indies(仏領西インドの二年間)』の準備を進めつつ、関連記事の執筆を重ねた。同年10月にはニューヨークに赴き、ビスランドと再会を果たす。ここで、2人の軌跡が再び交差する。
その翌月の11月14日。ビスランドは月刊誌『コスモポリタン』の要請を受け、急遽「世界一周レース」への挑戦を決断する。発端は、発行人ジョーゼフ・ピューリツァー率いる『ニューヨーク・ワールド』の企画であった。同紙の女性記者ネリー・ブライが実際に世界を巡り、何日で一周できるかを記事化する前代未聞の試みである。これに対抗し、『コスモポリタン』はビスランドを送り出したのであった。
背景には、フランスの小説家、ジュール・ヴェルヌが1872年に発表した『八十日間世界一周』を実際に検証する狙いがあった。1889年11月から1890年にかけて実施されたこの企画で、『コスモポリタン』から白羽の矢を立てられたビスランドは依頼を受けたその日に出発。ブライと同日の出発で、まさに電光石火の決断である。
結果は、ブライが東回りで世界を一周し、72日と6時間余りで達成。一方、ビスランドは西回りでアメリカ大陸を横断し、最初の寄港地として日本に上陸し、76日で世界を巡った。『ニューヨーク・ワールド』は帰着時刻を当てるクイズ(景品はヨーロッパ旅行)を実施し、予約購読者がクイズに応募できる販売促進策によって、わずか1週間で部数を約30万部も伸ばしたとされる。
これに対し、『コスモポリタン』も大きな成果を得た。女性読者が増加し、全米での知名度が飛躍的に向上。知識層や中産階級の支持を取り込み、ブランド化に成功した。数万部規模だった発行部数はレース後に約10万部へ、さらに5年後には約30万部へと拡大したという。新聞界、出版界における一大イベントで、新聞や雑誌経営の転機でもあった。
この「世界一周レース」で、ビスランドとブライはいずれも日本に滞在している。ビスランドは日本について、「楽しい国、陶器の島々、ピンクや白い花が咲き誇る、夢見ていた以上に奇妙で素晴らしい土地」と記した。
その印象は、雑誌記事だけでなく、後に単行本として刊行された著書『In Seven Stages: A Flying Trip Around the World.(七段階で 世界一周の飛行旅行)』にも詳しく残されている。異文化との出会いが生んだ、鮮やかな記録である。
日本を取材し紀行文を書くためハーン来日
『ハーパーズ・マガジン』を発行するハーパー・アンド・ブラザーズ社の依頼を受け、ラフカディオ・ハーンが日本の風俗、文化、生活を描く紀行文や随筆の執筆のためニューヨークを出発したのは、1890(明治23)年3月8日である。
仏領西インド諸島での体験をもとに著した『Two Years in the French West Indies(仏領西インドの二年間)』が高く評価され、「日本を取材し紀行文を書いてほしい」と求められたのである。ニューヨークを発ったハーンは鉄道で北米大陸を横断し、太平洋航路で日本に向かい、同年4月4日、横浜に到着した。
1889年の年末、ハーンはハーパー社の美術主任ウィリアム・ハードマン・パットンから、バジル・ホール・チェンバレンが翻訳した『英訳古事記』を借りて読み、日本の神話やチェンバレンの考察に強い関心を抱いたと記している。
チェンバレンは明治期を代表する日本研究家であり、1873(明治6)年から1911(明治44)年まで38年間日本に滞在し、海軍兵学寮(後の海軍兵学校)や東京帝国大学で英語教育に従事した人物である。
1890年1月、世界一周レースを終えたビスランドがニューヨークに戻ると、2人は再び会う。ハーンが日本に行くことを聞いたビスランドは、横浜在住のアメリカ海軍主計官、ミッチェル・マクドナルド宛てに紹介状を書き、日本での活動に便宜を図るよう取り計らったとされる。
この紹介の事実は一次資料で裏付けられてはいないが、マクドナルドがハーンを支援し、外国人社会や日本の有力者を紹介したことは確かである。ハーンとマクドナルドは食事や酒をともにする友人として親交を深め、生涯に渡り交流を続けた。後年には妻の小泉節子や子供たちとも交わり、ハーンの死後は文学遺産の管理にも関わっている。
マクドナルドは退役後も日本に留まり、横浜外国人居留地に建てられた横浜グランドホテルの経営にも関与した。同ホテルは外国資本による西洋式ホテルであり、「世界一周レース」の際にはビスランドやネリー・ブライも宿泊している。現在の山下公園付近にあったこのホテルは、1923(大正12)年の関東大震災で崩壊した。
ハーパー社の依頼で来日したハーンは、日本の印象、障子や畳、着物など日本の建物や生活ぶり、さらには座り方や足音を立てない歩き方など、日本人の所作を細やかに記事にしていく。だが契約は記事一本ごとの報酬制であり、生活の安定には不十分であった。そこで彼は、固定収入を得るための職を求める。
マクドナルドや日本研究家のバジル・ホール・チェンバレンらの人脈を通じ、島根県尋常中学校(現在の松江北高校)および島根県尋常師範学校(現・島根大学)の英語教師の職を紹介される。西洋化に急ぐ東京や横浜とは異なり、神話や民間信仰、武士的生活様式が色濃く残る出雲の国、島根は、ハーンにとって理想の地であった。
1890年8月、松江に赴任したハーンは、英語教師として働くかたわら、日本文化や庶民生活、日本人の自然観、仏教と神道、祖先崇拝、民話や怪談などを精力的に取材し記録していく。それらの記事や随筆は、1894年、単行本『Glimpses of Unfamiliar Japan(知られぬ日本の面影)』として結実する。
松江で彼は「ヘルン」と呼ばれるが、これは赴任時の契約書に「ラフカヂオ・ヘルン」と記されたことに由来する。
1981年1月中旬、ハーンは気管支炎を患い床に伏す。2月頃、単身生活の彼のもとに、小泉節子が住み込み女中として雇われる。
節子は、松江の士族出身の小泉湊、チエ夫妻の次女として生まれ、生後まもなく親戚の稲垣家の稲垣金十郎とトミ夫妻の養女となる。旧鳥取藩足軽出身の次男、前田為二を婿養子に迎えるが、貧困に耐えかね、為二は大阪へ出奔。1890年、節子22歳のとき婚姻関係は解消され、小泉家に復籍していた。小泉家は300石取りの名家で、松江藩に仕え、組士50人を統率する番頭を務めた上士の家柄である。
ハーンと節子は6月頃には夫婦同然の生活を始め、事実婚の関係となる。しかし当時の日本社会では、外国人男性と日本女性の関係は妾的と見られ、冷ややかな視線にさらされることが多かった。内縁関係が続いた後、ハーンは小泉家の戸籍に入り、1896(明治29)年2月、正式に結婚するに至った。
「ヘルンさん会話」で怪談や民話を伝える
1891年10月、ラフカディオ・ハーンのもとに、熊本の第五高等中学校(現在の熊本大学)で月給200円という厚遇のポストが空いたとの知らせが舞い込む。城下町の風情が色濃く残り、民話や怪談が息づき、神社仏閣も多い松江を深く愛していたハーンであるが、給与が増額される現実、そして苦手な寒さ、この2つの要因が決断を後押しした。こうして約1年3カ月暮らした松江を離れ、熊本行きを決意する。
熊本の第五高等中学校をはじめとするナンバースクールは、明治政府が整備した「帝国大学」への進学を担う正規ルートである。学制上は「中学校」と称されるが、実態は後の旧制高等学校に近い存在で、地方の士族(旧武士階級)の子弟や、成績優秀な平民が全国から集い、強いエリート意識を育む場であった。
自由主義的で反権威的な校風、寮生活を軸とした自治文化。独特の気風が高等中学校にあった。帝国大学へ進み、官僚、法曹界(裁判官、検察官)、軍人、学者、ジャーナリスト、思想家など、国家の中枢を担う人材を送り出す場であった。
ハーンは小泉節子と、養父母の稲垣金十郎とトミを伴い熊本へ向かう。小泉家に復縁(復籍)したとはいえ、赤子の頃から育ててくれた養家との経済的、感情的な結びつきは深く、縁を断つことは社会的にも心理的にも不可能であった。なお節子の実母タエは松江に残ることとなる。
ハーンは1891年11月、第五高等中学校の英語教師として赴任し、3年ほど教壇に立つ。しかし、暗記や試験対策、実用重視の画一的な教育方針と、英語の文章に宿る感情や美を味わわせようとするハーンの授業との間には隔たりがあった。バンカラ気質で議論好き、反抗的な学生たちとの距離も広がる。
「学生たちは粗野で騒がしく礼儀に欠ける」「詩や文学の美を理解しようとしない」。そうした不満とストレスが募る。校長との教育方針の不一致や、同僚の教師との摩擦で、孤立感が深まっていた。
熊本時代の1893年11月、長男の一雄が誕生し、来日してからの記事、エッセイ、ルポルタージュをまとめた単行本『知られぬ日本の面影』がホートン・ミフリン社から1894年9月に出版された。
異国の地、日本の姿を伝えるこの書は好評を博し、年内に3版を重ねる売れ行きとなった。松江、熊本での歳月は、節子が語る怪談や民話の収集に没頭した時期でもあり、創作意欲は一段と高まっていく。
2人の会話は「ヘルンさん会話」と呼ばれる独特のもので、英語と日本語が混ざり合った文章で伝え合っていた。英語の語順に単語を当てはめ、日本語の助詞を省く、実用的な言語である。身振り手振りを交え、意思疎通を図っていた。節子は発音をカタカナで記した単語帳や英語ノートを作り、挨拶や定型表現を丸暗記することで、夫婦だけに通じる言葉を築き上げていく。
節子が怪談や民話を語るとき、日本語の語りを軸に、身振りや声の調子、間によって情感や空気を伝える。そこに簡単な英語や単語で補足を加える。曖昧な部分の補完、複数の話の融合、結末の明確化など、節子自身による編集も施されていたと見られている。
ハーンはそれを受け、意味を確かめ、推測し、英語として再構成する。単なる翻訳ではない。取捨選択し、起承転結を整え、自らの文学として昇華させる営みを続け、作品を熟成させていく。
左目に続き、右目も失明の危機に
熊本での英語教師としての活動に、ハーンは次第に不満を募らせていた。実用や試験、規律を重んじる官僚的教育に強い違和感を抱き、さらに給与削減など外国人教師の待遇見直しの動きも重なり、辞職を決意するに至る。そして、兵庫県神戸市の英字新聞「神戸クロニクル」への転職を選んだのである。節子、長男の一雄、養父母の稲垣金十郎とトミとともに、1894(明治27)年10月頃に転居した。
神戸クロニクルは在日外国人居留者や貿易関係者を主な読者とし、1868(明治元)年に創刊、ハーンが入社した頃は日刊紙(日曜休刊)として発行されていた。ハーンはここで、日本社会や日本文化、さらには国際問題に及ぶ評論や随筆を担当する。神戸時代はちょうど日清戦争の時期と重なり、近代国家としての体制を整えた日本が清国に勝利し、国際社会の注目を集め始めた時代であった。
日清戦争は1894年7月に始まり、1895年4月の下関条約の締結で終戦となる。ハーンは神戸クロニクル在籍中、日清戦争に関する論説や時評を執筆。戦況を報道する特派員記事ではなく、戦争に対する日本国民の意識や態度、西洋から見た日本人の戦争観、近代国家としての日本の位置付けなど、文化的、思想的な視点からの比較文化的な評論が中心であった。欧米による日本への一般的な理解(日本人は戦争に無関心のように見える)の誤りを指摘し、社会構造や日本文化論を展開しているところに特色がある。
熊本や九州各地での見聞や紀行、随筆を収めた『東の国から』(原題 Out of the East: Reveries and Studies in New Japan)がホートン・ミフリン社から1895年に出版された。松江や出雲の神話、風俗、風景を紹介した『知られぬ日本の面影』に続くもので、熊本や九州の教育現場、社会、思想、宗教を比較文化論の視点から分析した本書も大きな話題を呼んだ。詩情豊かな散文と内面的な洞察によって、日本理解を一段と深める著作であった。
「日本を美化し過ぎている」との批判もあったが、その一方で、詩的で美しい文体と哲学的な思索は高く評価された。表層的ではなく、精神に迫る記述によって、ハーンは次第に「日本理解の第一人者」と見なされていく。
日清戦争後、急速に近代化、富国強兵へと進む日本に対し、ハーンは鋭敏に反応した。個人主義の流入を、単なる進歩ではなく、伝統倫理の衰退、さらには精神世界の喪失として捉えたのである。そして日本人の行動原理を、義理、恩、忠誠といった概念で理解しようと試みた。そこには海外から来た観察者でありながら、内面へと深く踏み込もうとする姿勢が見て取れる。
書籍を相次いで出版し、一見すると順風満帆だが、好事魔多しである。ハーンは16歳のとき、イングランドのカトリック系の学校で事故に遭い、左目を失明していた。右目も強い近視であり、常に文字に顔を近づけて読む生活を余儀なくされていた。その酷使の積み重ねが、神戸時代についに限界を迎える。炎症を起こした右目にも失明の危機が迫り、医師から執筆活動の制限を告げられる。新聞記者としての生命線を断たれる宣告であった。
1896(明治29)年1月、ハーンは神戸クロニクルを退社する。同年2月、日本に帰化し、節子の戸籍に入る形で正式に結婚し、「小泉八雲」と名乗るようになった。これにより妻としての法的地位が確立され、子どもは嫡出子として身分が安定、家や財産の継承関係も明確となった。生活と家族の基盤が、ここに確かに築かれたのである。
「八雲」という名は、かつて暮らした島根県松江市にちなむ。出雲にかかる枕詞の「八雲立つ」に由来するもので、土地への愛着と文学的感性とが重なり合った命名だった。
家族を大切にしながら、次々と書籍を出版
その後、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は東京帝国大学文科大学(現在の東京大学文学部)の英文学の講師として招かれ、1896年9月頃に着任する。単なる語学教師ではない。西洋文学、とりわけ英文学と詩に対する深い理解と鋭い感受性、作品の魅力を伝える表現力が高く評価された結果である。この後、1903年まで約7年間在職し、彼にとって最も長く続いた職場となった。
1896年秋に牛込区市谷富久町(現在の新宿区富久町)へ転居した。東隣りに自證院という寺院があり、緑豊かな樹木や景色が気に入り、八雲は散策を楽しんだ。都市の中にあって、心を鎮める場であった。
東京帝国大学での講義は独特であった。ウィリアム・シェイクスピアやトマス・ラヴ・ピーコックといった英文学作品、さらにアルフレッド・テニスン、パーシー・ビッシュ・シェリー、ジョン・キーツ、ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティらの詩を自ら音読し、学生にも音読を勧めた。
知識としてではなく、声に出し、響きを味わい、作品を身体で感じ取ることを重視したのである。文学とは理解するものではなく、感じるものである。「文学を感じる力を養う」という信念が、講義の端々まで貫かれていた。
東京帝国大学勤務時代の小泉八雲は、著書の出版と執筆にも精力を注ぎ、実り多い時間を送っていた。日本社会に深く触れ、家族や祖先を重んじる倫理、相互扶助に支えられた村落社会、礼儀や思いやりを尊ぶ風土と文化に強い感銘を受けており、「日本人になること」(日本への帰化)への抵抗や違和感はなかったと考えられる。
家族が増えていくこともまた、充足感を確かなものにしていた。幼少期に父母に「捨てられた」体験を持つ八雲は、家庭の温もりを知らずに育った。ゆえに家族は「失われたもの」であると同時に、「理想的なもの」であり、「精神的な避難所」として強く希求される存在であった。
1893年11月に長男一雄が誕生し、続いて1897年2月に次男巌、1899年12月に三男清、1903年9月に長女寿々子が生まれている。家族との時間を何よりも大切にした八雲は、子どもたちに常に優しく接し、声を荒げることはほとんどなかった。抱きしめ、語りかけ、物語を語って聞かせる。その姿は、理想とした家庭像の体現であった。
子育てのかたわら、書籍の出版も途切れることなく続けている。世界各地を巡り、対立や迫害、急激な近代化と西洋化を目の当たりにしてきた八雲の眼には「日本は人間関係がまだ壊れていない社会」と映っていた。「礼節、思いやり、無私を重んじる日本人」と受け止めていた。
しかし同時に、日本が近代化、西洋化、さらには軍事化へと進んでいく現実にも鋭く目を向けていた。「消えゆく日本」への危機感が、記録への強い衝動を生む。八雲の舌鋒は鋭く、「西洋の国々と同じく、日本にも醜い生存競争があり、常々、不義や奸計が行なわれている」と断じ、日本の現状を憂えていた。
相次いで日本論、日本人論を著わす
1896年以降に出版した書籍は以下の通りである。
『心(Kokoro)副題 Hints and Echoes of Japanese Inner Life』(1896年)
武士道、家族、忠誠などを通して「内面の日本」に迫り、日本人の精神性、倫理、情緒を描き出した随筆集。
『仏陀の国の落穂(Gleanings in Buddha-Fields)』(1897年)
京都や大阪を巡る紀行を軸に、仏教思想や日本的宗教観を考察し、民俗・美術・都市の姿を観察した随筆集。
『異国風物と回想(Exotics and Retrospectives)』(1898年)
日本を異文化として捉え、「異国趣味(Exotic)」の視点から風物や体験を回想的に描き、西洋の読者に日本を紹介する色彩が濃い。
『霊の日本にて(In Ghostly Japan)』(1899年)
仏教説話、因果応報の物語、怪談、霊的世界、祖霊信仰を扱い、日本=霊的世界というイメージが形成された。
『影(Shadowings)』(1900年)
人生観や死生観、感覚的印象をスケッチした短編随筆集。より詩的で幻想的な文体が際立つ。
『日本雑記(A Japanese Miscellany)』(1901年)
民俗、迷信、日本語、生活習慣、社会制度などを雑録的に紹介し、民俗学的な観察と分析を加えたエッセイ集。
『骨董(Kotto)』(1902年)
骨董は古い物語や珍品を意味しており、題名の通りの民話や逸話、伝説を収集し、日本文化の一断片を提示する。
1902(明治35)年3月頃、家族の生活環境に変化が生じた。住み慣れた富久町周辺で開発が進み、住宅の増加や樹木の伐採、騒音の増大が続いたのだ。こうした都市化を嫌った八雲は、より静かな環境を求めて西大久保(現在の新宿区大久保1丁目付近)への転居を決めた。
当時、お雇い外国人の多くは教授であったが、日本国籍を取得していた八雲には日本人の教授要件が適用され、講師という身分にとどまっていた。この待遇に不満を抱いており、さらに英国留学から帰国した夏目漱石を講師に迎える人件費の都合もあり、大学側は八雲の授業数削減を図った。学内の教師たちに馴染めなかったこともあり、学生からは講師を続けるように要望する声もあったが、八雲は1903年3月、退職の道を選んだ。
その後の1年間は、『日本 一つの解明(Japan: An Attempt at Interpretation)』の執筆や『怪談(Kwaidan)』の素材の収集と執筆に没頭した。
英文学の講義実績と、日本文化と社会に対する鋭い洞察力に注目した早稲田大学は、1904年4月、英文学講師として八雲を迎え入れる。八雲は早稲田の校風と雰囲気を好み、教員とも交流を深めた。
しかし9月26日、狭心症(心臓発作)により、54歳という若さで急逝する。早稲田での教員生活は半年にも満たなかった。早稲田大学はハーンの突然の死を悼み、学生代表も弔辞を述べ、その別れを深く惜しんだのである。
小泉八雲が亡くなったとき、4人の子どもたちはいずれも幼少期にあり、末子は1歳という状況だった。長男の一雄は10歳、次男の巌は7歳、三男の清は4歳、長女の寿々子は1歳で、妻の節子は36歳。
若すぎる死に、家族の心残りは大きかったであろうが、八雲は充実した日々を送ってきた人物でもある。水泳を得意とし、日本でお気に入りの海を探し、夏になると一雄を伴い、毎年のように静岡県焼津に滞在していた。遠浅の海ではなく、浜辺から急に深くなる海岸を好み、その条件に合う海として焼津にたどり着いたのである。
八雲は長男の一雄に対し、自ら熱心に英語を教えていたが、焼津滞在中もその姿勢は変わらず、英語学習を日課として続けていた。八雲の死後は、日本で英語のレッスンを行なっていたレオニー・ギルモアから一雄は英語を学ぶことになる。
ギルモアは、詩人で作家の野口米次郎とアメリカで出会い、のちに彫刻家、空間プロデューサーになるイサム・ノグチを1904年11月に産んでいる。日本に帰国した野口とは距離を取りつつ、1人でイサムを育てていた。野口から日本に来るよう説得も受けたが、これを拒んでいる。
しかし1907年頃、イサムを連れて来日し、以降、日本で生活するようになる。ただ、その時点で野口は別の日本人女性と関係を持っていた。ギルモアは英語教師や家庭教師をして生計を立てながらイサムを育て、一雄の英語レッスンも務めている。
ハーンは1904年9月に死去したが、エリザベス・ビスランドはハーン伝記執筆のため1905年に来日し取材を行なっている。一次資料では確認されていないが、西大久保の小泉家を訪れ、小泉節子や子どもたちにも面会していたと思われる。
1906年に『The Life and Letters of Lafcadio Hearn(ラフカディオ・ハーンの生涯と書簡)』をアメリカで刊行。好評を博し、世界各国から反響の手紙が届いたという。
さらにビスランドは1910年に『The Japanese Letters of Lafcadio Hearn(ラフカディオ・ハーン日本書簡集)』を編集し出版。ハーンが書いた書簡を集めたもので、ビスランドが編集と序文を担当した。
『父「八雲」を語る』を著した長男の小泉一雄は、「印税を小泉家に贈ってくれた」と回想している。八雲は正式に結婚し、戸籍上も親子関係が明確であったため、著作の印税は遺された家族の生活を支える基盤となっていく。
小泉節子は八雲の死後、その思い出を綴った『思い出の記』を著し、一雄はエッセイスト、編集者として八雲の足跡と業績を後世へ伝えることを使命とした。次男の巌は節子の養家である稲垣家を継ぎ、教師となった。三男の清は画家となり、風景画やスケッチ、水彩画を描き続けた。長女の寿々子は病弱で、母節子の死後は兄の一雄に引き取られ、静かに生涯を送った。
墓碑銘に刻まれた2つの名前
小泉八雲が1904年に世に送り出した書籍は、次の2冊である。
『怪談(Kwaidan)』(1904年)
耳なし芳一の話、雪女、むじな、ろくろ首、かけひき、食人鬼、おしどり、葬られた秘密など、日本各地に伝わる怪異の物語を収めた怪談集である。幽玄で静かな恐怖をたたえた作品は、やがて世界中の読者を魅了し、日本の怪談文学を広く海外へと伝える役割を果たした。
『日本 一つの解明(Japan: An Attempt at Interpretation)』(1904年)
日本の社会と文化、日本人の国民性、宗教と国家の関係を総合的に読み解こうとした、日本論の集大成。祖先崇拝や家制度といった日本の精神的基盤に深く踏み込み、異文化理解の書として高い評価を受けている。
八雲の死後も、その思索と物語は途切れることなく、次のような形で世に現れた。
『天の河綺譚 その他(The Romance of the Milky Way and other studies and stories)』(1905年)
七夕伝説をはじめとする幻想的な題材を扱い、小説と随筆が交錯する一冊。未整理の原稿も含まれ、八雲の創作の息づかいがそのまま伝わってくる。
『日本抒情詩(Japanese Lyrics)』(1915年)
和歌や短詩、歌謡を英語に移し替えた詩集である。日本語原文と英訳が見開きで並び、八雲の訳は単なる逐語訳ではなく、散文詩(見た目や文体は普通の文章、散文だが、リズム、イメージの凝縮などにより詩的な効果を狙った文学)として新たに再創造されたもの。日本文学の美を英語圏へ伝える試みであった。
さらに、八雲が直接まとめた著作ではないものの、教え子たちの講義ノートから編まれた遺稿集も刊行されている。
『文学解釈(Interpretations of Literature)』(1915年)
東京帝国大学での講義を再構成したもので、シェイクスピアや英詩、文学論をはじめ、想像力や感情、美といったテーマを論じている。
『人生と文学(Life and Literature)』(1917年)
同じく講義をもとに編まれた文学論集であり、読書論、人格と文学の関係、作文技法、詩と散文、作家論など、「文学とは何か」を多角的に問いかける内容となっている。
八雲の代表作『知られぬ日本の面影』『日本 一つの解明』などは、欧米で長く読み継がれ、日本研究、東洋研究の基礎文献とされてきた。その価値は同時代や後世の文学者たちによっても高く評価されている。
「20世紀の英語圏で最も偉大な詩人」と評されるウィリアム・バトラー・イェイツ は、八雲を「東洋の魂を理解した作家」とし、「日本の奇異な信仰を美しい英語で表現した」と称えた。
推理小説『ブラウン神父』シリーズで知られるイギリスの作家で、批評家のG・K・チェスタトンは、八雲を「東洋を西洋に伝える通訳者」と評した。チェスタトンは20世紀初頭の思想界における代表的論客の1人だ。
『伝奇集』などの小説も書いたアルゼンチンの詩人、ホルヘ・ルイス・ボルヘス も「ラフカディオ・ハーンは、西洋に日本を明らかにした作家の1人であった」と述べ、その意義を認めている。
小泉八雲の墓は雑司ヶ谷霊園にある。墓石の正面には「小泉八雲之墓」と刻まれ、側面には「Lafcadio Hearn」と横書きで記されている。彼は海外で著書を出版するとき、ラフカディオ・ハーン(Lafcadio Hearn)の名を用いていた。2つの名前を持ち続けた八雲の生涯は、日本と世界を結び付ける架け橋であった言える。
島根県松江市にある小泉八雲記念館のホームページの「小泉八雲の生涯」と「年譜」を参考にさせていただいた。
焼津小泉八雲記念館
静岡県焼津市三ケ名1550
054-620-0022
休館日 月曜日(祝日の場合は翌平日) 展示替えなどの休館は要確認 年末年始
9:00~17:00 無料
静岡県焼津市にある焼津小泉八雲記念館は、明治期の文豪、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)が愛した焼津の町と、その足跡を体感できる文化施設で、2007(平成19)年に開館した。八雲の文学と人柄、そして焼津との特別な結びつきを今に伝える場として整備され、入館無料で気軽に訪れることができる。
記念館設立の背景には、八雲と焼津との深い縁がある。八雲は1850(嘉永3)年にギリシアのレフカダ島に生まれ、アイルランド、アメリカを経て、1890(明治23)年に来日した。日本の文化や民話に魅せられ、『怪談』『知られぬ日本の面影』などの著作を通して日本を世界に紹介した人物である。1896(明治29)年には小泉節子と結婚し、日本に帰化して「小泉八雲」と名乗った。
八雲と焼津の出会いは1897(明治30)年の夏である。夏を過ごす海辺の町を探すために各地を巡る中で焼津にたどり着き、深く荒々しい海の景観に強く惹かれた。それ以来、1904(明治37)年9月に亡くなるまで、ほぼ毎年夏を焼津で過ごすようになる。幼い頃から水泳を好み、16歳で左目を失明して以降は、障害物の少ない深い海を好んだ八雲にとって焼津の海は格別の存在であった。
焼津では、漁村の素朴な暮らしや人々との交流に大きな魅力を見出した。滞在中は魚商人の山口乙吉の家の2階を借り、地域の人々と親しく交流した。乙吉は八雲を「先生様」と呼び、八雲は「乙吉サーマ」と呼びかけ、その人柄を「神様のような人」と称した。
こうした交流は作品にも結実し、『乙吉の達磨』『焼津にて』『海辺』といった作品が生まれている。とりわけ『乙吉の達磨』は、実在の乙吉をモデルに、数奇な運命をたどった日本人の物語。海外漂流、帰国、その後の人生を通して「達磨」のように不屈に生き、人間の強さと運命を描いた印象的な作品である。
焼津小泉八雲記念館では、八雲の焼津での暮らしや創作の背景を具体的に感じられる展示が展開されている。直筆の手紙や草稿、写真、遺品など貴重な資料が数多く展示され、八雲の生涯と文学活動を立体的に理解できる。焼津滞在中に書かれた書簡や作品の下書きも見ることができ、創作の息づかいを間近に感じられるのが魅力だ。
妻の小泉節子の『思い出の記』によると、八雲が好きだった場所はマルティニーク島(カリブ海に浮かぶ西インド諸島の島で、フランスの海外県の1つ)、松江、美保の関(島根県の東部にあり、現在は松江市)、日御碕(島根県出雲市にあり、島根半島のほぼ西端で日本海に面する岬)、そして焼津だったという。
中でも焼津は、夏ごとに家族(長男の一雄が中心。次男の巌が1897年に生まれ、家族全員で行くことは少なかった)とともに訪れ、水泳を楽しんだ特別な場所であった。なお、滞在先であった山口乙吉の家は、現在、博物館明治村(愛知県犬山市)に移築し、展示されている。
記念館では常設展示に加え、年に数回の企画展が開催され、時代やテーマに応じた多彩な切り口で八雲の世界を紹介している。大画面の映像コーナーがあり、講演会や朗読会も行なわれ、訪れるたびに新たな発見がある。収蔵品は約2400点に及び、文学者としてだけでなく、1人の人間として焼津と向き合った八雲の姿を浮かび上がらせている。
記念館は焼津市中部の文化拠点としての役割も担い、周辺には焼津市歴史民俗資料館、焼津市立図書館、清見田公園がある。海沿いには「八雲通り」が伸び、かつて八雲が滞在した家の跡がある。
焼津漁業資料館
静岡県焼津市中港2-6-13
054-628-7112(焼津漁業協同組合)
054-620-0080
休館日 水曜日 日曜日 祝日 夏季休館日 年末年始
8:30~16:30(12:00~13:00を除く) 300円
焼津漁業資料館は、焼津漁業協同組合が創立30周年を記念して1979(昭和54)年に開館した、焼津港の歴史と漁業の歩みを紹介する資料館だ。江戸時代から大がかりに営まれていた焼津の漁業は、多くの文献によって裏付けられている。港なき荒浜から現在の遠洋漁業基地へと発展してきた過程を、豊富な資料や実物展示でたどることができ、先人たちの営みが伝わってくる。
1階には明治時代の沿岸小型漁船や操舵室が展示され、船内に入り舵や航海器具に直接触れることができる。2階には多彩な漁具が並び、さらに小泉八雲が焼津で暮らしていた際の家をモデルに再現した、明治時代末期の漁民の家も見どころとなっている。
館内は複数の展示コーナーに分かれ、明治末期の木造沿岸小型漁船である全長6メートルほどの櫓船は圧巻だ。木造構造や漁の道具、船大工道具、古文書などが展示され、当時の沿岸漁業の暮らしや漁法を理解できる。
生篭と呼ばれる竹製の籠は、小魚を海中で飼育し、かつお漁の餌とするための工夫を示すもの。現代の鋼鉄や合成樹脂(FRP)製の船体と比較できるよう、木造船の船橋部分も展示されており、技術の進化を実感できる構成となっている。
焼津と小泉八雲との関係も興味深い。英領のギリシアに生まれ、日本に帰化した八雲は、怪談や随筆を通じて日本文化を世界に紹介した人物。1897(明治30)年に初めて焼津を訪れて以降、毎年のように夏を過ごした。
「浜通り」と呼ばれる沿岸地域には、八雲が滞在した魚商人の山口乙吉の家があり、ここで地域の人々と親しく交流した。その記憶は今も地域史として語り継がれ、浜通りは「八雲通り」と呼ばれるほど、八雲の足跡が深く刻まれている。
焼津漁業資料館で特筆すべきは「漁民の家」が八雲の滞在した家と同様の形式で再現されていることだ。当時の生活様式を視覚的に伝える工夫が凝らされ、米びつ、ゼンマイ時計、焼津笠(菅が自生していた焼津で生まれたかぶり笠で、戦前の焼津の農家では副業としていた)、下駄などの生活道具が並び、漁師町の日常が分かる。

富山大学附属図書館「ヘルン文庫」
富山県富山市五福3190 富山大学附属図書館 中央図書館5階(五福キャンパス)
076-445-6899
定期公開日 毎月第3水曜日 誰でも見学可能
13:00~16:00
ヘルン文庫は、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の蔵書コレクションで、洋書2069冊、和漢書364冊に及ぶ。小泉八雲の代表作で、八雲が亡くなった1904年に刊行された『日本 一つの解明』の自筆原稿1200枚、さらにハーン研究文献約2600点も所蔵する。
和漢書は、妻の小泉節子が内容を説明し、八雲の作品創作の手がかりとなったもので、大半は木版刷りの和本。怪談本や奇談集、仏教説話集、民間伝承、因果話など、日本文化の深層に触れる資料が並ぶ。
なぜ富山大学に小泉八雲の資料があるのか。その背景には、富山県出身の田部隆次と兄の南日恒太郎の存在がある。隆次は生後まもなく田部家の養子となり、東京帝国大学で八雲に英文学を学んだ高弟で、後年『小泉八雲全集』の翻訳にも携わった人物だ。
一方、南日恒太郎は英語教育の第一人者で、教師となり、文部行政にも関わり、1923(大正12)年、北前船で財を成した富山の廻船商、馬場はる(女性当主)の支援で旧制富山高等学校(現・富山大学)が設立されると、初代校長に迎えられた。しかし、後発で「僻地」と見られていた富山に優秀な人材を集めることは容易ではなかった。
隣りの石川県には1887(明治20)年創立の第四高等学校(現・金沢大学)という名門ナンバースクールがあり、対抗するには独自の魅力が必要だった。そこで導入されたのが全国初の七年制である。従来の中学校(5年)と高等学校(3年)という制度を、中学校と旧制高校を統合した一貫教育を行ない、高校受験を減らし、小学校を卒業する12歳前後から学生を受入れ、育てる新しい試みだった。
新設校で、北陸という立地で人材集めは簡単ではない。そこで教員の質向上や語学教育の充実を測るとともに、強力な「文化的魅力」として活用されたのが「ヘルン文庫」だった。
恒太郎の実弟、隆次は八雲に学び、『小泉八雲全集』の翻訳者として、小泉家の遺族と深い関係を築いていた。1923(大正12)年の関東大震災を契機に、小泉家が蔵書の安全な保管先を探していることを知って、恒太郎は旧制富山高校での受け入れを構想。八雲の蔵書は富山の廻船商で篤志家の馬場家が買い取り、1924年、学校に寄贈された。
世界的作家の蔵書を核に「地域の文化拠点となる学校」を目指す。その戦略は、研究者や教師を惹きつけ、学校のブランド力向上の一助になったと考えられる。ヘルン文庫は単なる保存資料ではなく、閲覧、研究が可能な「生きた蔵書」として受け継がれ、現在も富山大学にその伝統が息づいている。
なお、富山大学は「南日文庫」267冊も所蔵する。これは南日恒太郎が自らの著書や蔵書を寄贈したことに始まり、英語教育、語学関連書が中心である。彼は「受験英語の開拓者」とも呼ばれ、『英文解釈法』や『和文英訳法』、さらに英文や英詩を味わうための『英文藻塩草』『英詩藻塩草』などを著した。
「ヘルン文庫」は富山大学附属図書館中央図書館のホームページでも紹介されており、関連資料は「富山大学学術情報リポジトリ ToRepo」を通じてWeb上で閲覧可能だ。実際に富山大学の附属図書館に足を運べば、八雲が見た日本、感じた物語の原典に触れることができる。
小泉八雲記念館
島根県松江市奥谷町322
0852-21-2147
年中無休 館内メンテナンスのため、年数回の休館日がある
9:00~18:00(入館は17:30まで) 4月~9月
9:00~17:00(入館は16:30まで) 10月~3月
600円 小泉八雲記念館と小泉八雲旧居共通券800円
小泉八雲記念館は、日本を深く愛し、その魅力を世界へ発信した作家、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の生涯と業績に触れられる文学館であり記念館だ。松江城の城下町の風情が色濃く残る塩見縄手通りの西端に位置し、八雲の旧居に隣接する場所にある。
八雲はギリシアのレフカダ島(当時はイギリス領)に生まれ、幼少期をアイルランドで過ごし、アメリカでジャーナリストとして活躍したのち、1890(明治23)年に来日した。松江では島根県尋常中学校(現在の松江北高校)や島根県尋常師範学校(現・島根大学)で英語教師として教壇に立ち、日々の体験が後の作品を豊かに育んだ。日本の風土や人々の暮らし、伝承文化に強く惹かれた八雲の姿に共感した地域の人々の思いが、記念館設立へと結実する。
1934(昭和9)年に現在地で開館した記念館は、長い歴史を刻んできた。八雲の弟子や関係者、有志の寄贈による原稿や書籍、遺品を基礎として資料を収集し、最終的に松江市へ寄贈された。
当初の建物はドイツのワイマールにあるゲーテ国立博物館を手本とした洋風建築であったが、周囲の景観との調和を図り、和風建築を基調とした現在の姿へと改築。さらに2016(平成28)年には展示空間を大きく拡充し、ライブラリーやホール、ミュージアムショップを備えた現代的なミュージアムとしてリニューアルオープンした。
館内は複数の展示室からなり、八雲の生涯と作品、思想を多角的に体感できる構成となっている。常設展示室1では「彼が見たもの、聞いたもの、心に響いたもの」をテーマに、1850(嘉永3)年の誕生からアイルランドやアメリカでの青春時代、来日後の松江、熊本、神戸、東京での足跡までを、写真や資料とともに時系列でたどることができる。
常設展示室2では「クレオール(植民地支配などで、異なる人種、文化、言語が混ざり合って生まれた人々や、その言語・文化を指す概念。特にカリブ海やルイジアナなどで、ヨーロッパ系、アフリカ系、先住民などが融合した社会を指す)」「生活」「再話」といった視点から八雲の思想と業績を読み解く。
再話とは、既存の物語や伝承、説話を基にし、新たな作品として再構成することであり、単なる翻訳や要約とは異なる創造的な営みだ。語り手の解釈や文体が加わる点に特徴があり、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の文学の核心はこの「再話」にあったと言える。
展示からは、八雲が怪談作家としてだけでなく、西洋と日本を結ぶ先駆者として、日本文化を偏見なく理解しようとする「オープン・マインド」の持ち主であったことが鮮やかに伝わってくる。
「再話」のコーナーでは、松江出身の俳優や音楽家による語りと音楽を組み合わせた演出が行なわれることもあり、文学を体験として味わえる点も魅力だ。
企画展示スペースでは、八雲に関連した多彩な企画展を定期的に開催。代表作『怪談』に着想を得た国内外アーティストの作品展など、文学と現代芸術が交差する展示などが行なわれ、八雲の世界観を新たな角度から楽しめる。
収蔵品は1000点を超え、八雲の遺品や手稿、初版本、写真、書簡、新聞資料などが充実している。机や椅子、眼鏡、筆記具、衣類といった愛用品からは、文豪の日常や創作の息遣いが身近に感じられる。妻の小泉節子の遺品や夫婦の暮らしを伝える資料も見どころだ。
2階のライブラリーには全集や関連書籍が揃い、電子検索システムで作品や資料を調べることもできる。八雲が見つめた日本の美や当時の生活、文化的背景を深く知るための貴重な空間だ。
NHKの朝ドラ『ばけばけ』を契機に連動展示も行なわれており、物語の世界と実像の八雲が重なり合う楽しみもある。記念館の東隣には、八雲が実際に暮らした旧居が残り、あわせて訪れることで理解が一層深まる。机や椅子、キセル、カバンなどの愛用品は、ホームページの「収蔵品」でも紹介されている。
事故により16歳で左目を失明し、右目も強度の近視であった八雲は、執筆に大きな苦労を抱えていた。松江時代に特注した机は通常より高く、眼鏡をかけなかった彼は原稿に顔を近づけ、目を擦り付けるようにして書き続けたという。
八雲は日本のキセルをこよなく愛し、とりわけ金具の意匠に魅せられて収集していた。仕事の合間にお気に入りを手に取り、一服を楽しむ。そんな人間味あふれるエピソードも紹介され、八雲という人物が身近に感じられる。
小泉八雲旧居
島根県松江市北堀町315
0852-23-0714
年中無休 館内メンテナンスのため、年数回の休館日がある
9:00~18:00(入館は17:30まで) 4月~9月
9:00~17:00(入館は16:30まで) 10月~3月
400円 小泉八雲記念館と小泉八雲旧居共通券800円
小泉八雲は1891(明治24)年6月、妻の小泉節子(松江に住んでいた時点では、戸籍上の結婚ではなく、内縁関係)とともにこの家に移り住み、熊本へ赴くまでの約5ヶ月間を過ごした。八雲にとって、日本での暮らしが本格的に始まった特別な住まいである。
屋敷は松江藩士の根岸家の武家屋敷で、当時、当主の根岸干夫は郡長として転勤中で留守にしていた。そのため「庭のある侍屋敷に住みたい」と願っていた八雲に貸し出されることになった。旧居は松江城の北側、堀にほど近い静かな場所にあり、当時の武士階級の住まいの姿を今に伝えている。八雲が心を奪われた庭は、根岸家が1868(明治元)年に造ったものだ。
八雲は帰宅すると和服に着替え、庭を眺めながら静かな時間を楽しんだ。植物を愛で、虫や動物を慈しみ、五感で味わう庭の魅力は、著作「日本の庭」(『知られぬ日本の面影』)にも生き生きと描かれている。この場所は、日本人の生活や精神文化に深く触れた原点ともいえる空間だ。
この旧居で夫婦は寄り添って暮らし、小泉節子は語り部として八雲に怪談や伝説を語り聞かせた。それらの物語はやがて『耳なし芳一の話』や『雪女』といった名作へと結実していく。静かな座敷の一角で紡がれた語りが、世界に知られる文学を生んだのである。
松江時代に居住したこの住宅は、1940(昭和15)年に国の史跡に指定された。庭は今も八雲が眺めた当時の面影をとどめている。建物は木造平屋建てで、座敷や居間、書斎などが続き、庭に面した縁側からは四季の移ろいを身近に感じることができる。華美な装飾はないが、自然と調和した質素な美しさが魅力だ。
根岸干夫の長男、根岸磐井は、島根県尋常中学校、熊本第五高等中学校、東京帝国大学で八雲の指導を受けた教え子。東京帝国大学卒業後、日本銀行に勤めていたが、八雲が愛したこの旧居を守るため、1913(大正2)年に松江へ戻り、1920(大正9)年から屋敷の一部を公開した。
さらに磐井は、小泉八雲記念館の設立にも尽力している。旧居は代々根岸家によって守られ、2018(平成30)年に松江市の所有となった後も、その思いを受け継ぎながら大切に保存されている。居間、書斎、妻の節子の部屋、庭などが当時のまま公開され、書斎には、背の高い机と椅子(レプリカ)が置かれており、暮らしの様子を体感できる場所になっている。
松江歴史館
島根県松江市殿町279
0852-32-1607
休館日 月曜日(祝日の場合は翌平日) 年末年始 企画展の日程などにより変更あり 要確認
9:00~17:00(入館は16:30まで)
基本展示700円 企画展は展示ごとに異なる
松江歴史館は、松江城山公園内の、松江城の東側に建つ武家屋敷風の歴史博物館で、2011(平成23)年に開館した。地域に息づく伝統や工芸、ゆかりの人物の展示を通して松江の歩みをたどり、城下町として発展してきた歴史と文化を分かりやすく紹介している。
常設の基本展示室には「城下町松江のはじまり」「松江の系譜」「今も残る城下町文化」などのコーナーが並ぶ。江戸時代、雲州と呼ばれた出雲国の中心地、松江は、松江城天守をはじめ、築城当時の掘割や街並みが今も色濃く残る城下町である。松江城は全国に12城しかない現存天守の1つであり、さらに5つしかない国宝天守の1つでもある。
全国に12ある現存天守は、弘前城(青森県)、松本城(長野県)、丸岡城(福井県)、犬山城(愛知県)、彦根城(滋賀県)、姫路城(兵庫県)、松江城(島根県)、備中松山城(岡山県)、丸亀城(香川県)、松山城(愛媛県)、宇和島城(愛媛県)、高知城(高知県)。このうち国宝天守は、松本城、犬山城、彦根城、姫路城、松江城である。
現存天守が12しか残らなかった背景には、1873(明治6)年の廃城令がある。多くの城が「不要」とされ解体、売却された。さらに第二次世界大戦の空襲でも多くの城が焼失した。水戸城、名古屋城、大垣城、和歌山城、岡山城、福山城、広島城、大分府内城、熊本城、延岡城、鹿児島城などがその例で、このうち名古屋城、和歌山城、岡山城、広島城は旧国宝であった。
松江歴史館は、かつて松江藩の家老屋敷が立ち並んでいた場所に位置する。城や町の仕組み、時代ごとの変化を、資料展示に加え、映像や模型、書割、切り絵など多彩な手法で理解できるよう工夫されており、歴史体験イベントも充実している。
松江藩は、堀尾三代、京極一代、松平十代と続いた。当館では、松平家初代の松平直政が1614(慶長19)年の大坂冬の陣で敵将、真田幸村から勇猛さを称えられて贈られたと伝わる軍扇(複製)をはじめ、藩印の猪目紋が施された甲冑、幕末を代表する刀工、高橋長信の刀など、見応えある資料を展示している。
また、松江藩7代藩主で大名茶人として知られる松平治郷(号は不昧)の影響により、茶の湯や和菓子文化が地域に深く根付いた。松江は京都、金沢と並ぶ菓子どころとしても知られる。
館内は畳敷きで、履き物を脱いでゆったりと鑑賞できるのも魅力だ。入場無料の広間では、日本庭園や松江城天守を眺めながら、上生菓子と抹茶のセットを味わい、くつろぎのひとときを過ごせる。天守を借景とした庭園や伝利休茶室、家老長屋も整備されている。
さらに松江は、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)が愛した土地でもある。館内では明治期の重要人物の1人として小泉八雲を取り上げ、「八雲の愛した松江の世界」では、八雲の作品世界と明治期の松江を結び付けて解説。明治期の松江の風景写真、八雲の松江滞在時代(1891年頃)の町並みや人々の生活、八雲の作品を紹介している。
「神々の国の首都」コーナーでは、当時の写真を見ながら紀行文の朗読を聞くことができ、その世界観を体感できる。
ホームページの「収蔵品紹介」では歴史、美術工芸、民俗、写真絵葉書の4ジャンルから資料を検索でき、詳細なデータや解説も充実している。事前に調べてから訪れれば、鑑賞がより一層深まるはずだ。
小泉八雲熊本旧居
熊本県熊本市中央区安政町2-6
096-354-7842
休館日 月曜日(祝日の場合は翌日) 年末年始
9:30~16:30 200円
ラフカディオ・ハーンは教育者、作家、新聞記者として日本各地を転々するが、1891(明治24)年11月、島根の松江中学校から、熊本大学の前身である第五高等中学校(1894年に第五高等学校と改称)の英語教師として赴任した。1894年10月までの約3年間を熊本で過ごした。
熊本に来て最初に住んだのが、当時、手取本町34番地にあったこの家である。住まいを借りるに当たり、日本の精神文化を深く愛していたハーンは、特別に神棚を設けさせたという。毎朝、神棚に拍手を打って礼拝し、人力車で通勤する。そんな日常を送っていた。
建物は、熊本城の城下町として栄えた地域に建つ町家風の木造住宅で、元は熊本藩士、赤星家の邸宅であった。1877(明治10)年の西南戦争で城下の多くは焼失したが、その後に再建された町並みには近世的な面影が色濃く残っていた。
旧居は瓦葺きの屋根や庭に面した縁側を備え、日本の伝統的な住まいの趣を今に伝える。熊本時代のハーンは教育者として英文学を教えつつ、学生と真摯に向き合い、文学者としての基盤を築いた重要な時期に当たる。
日本を世界に紹介した著書『知られぬ日本の面影』や『東の国から』は、この時期の経験をもとに生み出された作品。前者は松江時代を中心に一部熊本での体験を含み、後者は熊本や九州での見聞が色濃く反映されている。
この旧居は、1950年代に道路拡張のため取り壊しの危機に直面したが、小泉八雲熊本旧居保存会が結成され、1960(昭和35)年、現在の蓮政寺公園へ移転し、部材を再利用して保存された。その後は資料展示や朗読会の場として活用され、さらに熊本市による復原整備を経て、1994(平成6)年、明治期の姿に再現され一般公開されている。
熊本滞在中の1893年11月には長男、一雄が誕生し、ハーンは家族との時間を大切にした。妻の節子は家庭を支えながら、怪談や民話を語り聞かせて夫を支えた。
小泉八雲熊本旧居は、明治期の地方都市における外国人と日本人の暮らしを今に伝える貴重な場所であり、文学史と生活史が交差する現場として、ハーンの足跡を生き生きと伝えている。
くまもと文学・歴史館
熊本県熊本市中央区出水2-5-1
096-384-5000
休館日 火曜日(祝日の場合は翌日) 最終金曜日 年末年始 特別整理期間(年間14日以内)
9:30~17:15 無料
「熊本近代文学館」は、熊本県立図書館の移転にあわせて1985(昭和60)年、小泉八雲や夏目漱石など熊本ゆかりの文学資料の収集、保存、公開を目的に敷地内に開館した施設だ。2016(平成28)年のリニューアルを経て、「くまもと文学・歴史館」として新たに生まれ変わった。
旧文学館が収集してきた文学資料に加え、熊本県立図書館所蔵の古文書などの歴史資料を一体的に展示する拠点として再編され、九州の要所として発展してきた熊本の歩みを体感できる場となっている。文学と歴史を横断的に学べるだけでなく、興味を持った来館者が隣接する図書館でさらに調べを深められる「知の拠点」を目指している点も特色だ。
くまもと文学・歴史館では、小泉八雲や夏目漱石をはじめとする熊本ゆかりの作家の原稿や遺品を展示。併せて江戸時代の熊本藩の検地帳や絵図、人吉藩主の相良氏の古文書、明治時代の県関係公文書など、地域に伝わる貴重な歴史資料も紹介している。「文学を歴史の中で理解できる」展示構成となっている。
展示室の窓の外には、明治初期に整備された旧・砂取細川邸庭園が広がる。庭園の眺望も楽しめるのは、この館ならではの見どころだ。
熊本ゆかりの文学者の中核となるのは、小泉八雲と夏目漱石。小泉八雲については、第五高等学校(現・熊本大学)で英語教師を務めた時代の資料を中心に、直筆原稿や関連書籍、英語の原書や初版本、熊本時代の記録や年譜パネル、教え子や同僚に関する資料まで幅広く所蔵。「小泉八雲の世界」といった特集展示も行われている。
一方、夏目漱石についても、第五高等学校での教師時代に関する資料が充実している。交流があった人物への書簡や熊本赴任時代の記録、年譜と解説、俳句や草稿などが展示され、漱石の熊本時代に深く迫ることができる。
さらに、熊本出身の文学者として、ジャーナリストで歴史家、著述家の徳富蘇峰や、『不如帰』『自然と人生』で知られる徳冨蘆花、昭和を代表する女流俳人で、俳句を家庭婦人層へ広めた中村汀女なども紹介。
熊本出身の竹崎有斐や光岡明も、企画展や収蔵品展で取り上げられ、自筆原稿や作品資料が展示される。竹崎は『石切り山の人びと』など熊本を舞台にした作品を多く残した児童文学作家であり、光岡は『機雷』(直木賞受賞)や『千里眼千鶴子』『柳川の水よ、よみがえれ』など、戦争や郷土を描いた作家だ。なお光岡は熊本近代文学館の初代館長も務めた。
熊本大学五高記念館
熊本県熊本市中央区黒髪2-40-1
096-342-2050
休館日 火曜日 年末年始 3月~11月の祝日は開館 12月~2月の土日と重ならない祝日は休館
10:00~16:00(入館は15:30まで) 無料
第五高等中学校は、1887(明治20)年4月に熊本に設置された、九州一円を対象とする最高教育機関で、いわゆるナンバースクールの1つだ。「中学校令」によって全国を5つの学区に分け、それぞれに1校設けられた「高等中学校」の1つ。第一高等中学校は東京、第二は仙台、第三は京都、第四は金沢に置かれた。
その後、1894(明治27)年に「高等学校令」が公布され、第五高等中学校は「第五高等学校」と改称、戦後の学制改革を経て、熊本大学へと受け継がれた。
ナンバースクールの高等中学校、高等学校の最大の特徴は、帝国大学に進学するためのエリート養成機関(予備教育機関)であった点にある。現在の大学教養課程に近いが、入学時から全国の秀才が集い、学問に加えて、寮生活やスポーツ、文化活動も重視された。卒業生は東京帝国大学などへ進む、当時屈指の教育機関であった。
五高は教員陣も充実していた。校長の嘉納治五郎は柔道の創始者であり、ラフカディオ・ハーンは英語教師にして文学者、さらに夏目金之助、後の夏目漱石も英語教師として教壇に立っている。
熊本大学五高記念館は、旧第五高等中学校本館として1889(明治22)年に建てられた赤レンガ造りの校舎をそのまま活用したミュージアムで、1993(平成5)年に開館した。五高や熊本大学の歴史資料を展示しているが、重厚な建築美や内部の雰囲気そのものが見どころとなっている。
熊本大学となった後も講義室や研究室として使われ、教養や語学の授業が行なわれ、1969(昭和44)年には化学実験場や表門(赤門)とともに国の重要文化財に指定された。校舎自体が貴重な展示物であり、ナンバースクールの中で、創建当初の場所に現存する校舎は第五高等中学校だけである。
館内では、学校の歴史や制度、授業や寮生活の実態、卒業生の活躍、さらには学徒出陣など戦時期の記録まで幅広く紹介される。なかでも小泉八雲と夏目漱石は「五高を象徴する教師」として大きく取り上げられている。
小泉八雲関連では、英語教師としての授業資料やラフカディオ・ハーンの雇用契約書などを展示し、熊本時代の生活や著作の背景、日本文化への思い入れを分かりやすく紹介。熊本で『知られぬ日本の面影』や『東の国から』などを執筆したことから、「日本を世界に紹介した教師」として位置付けられている。
一方、夏目漱石関連では、英語教師時代の資料や自作の試験問題など、貴重な史料を多数展示。熊本での生活や後の作品への影響、五高での教育活動を通して、作家になる以前の漱石像を浮かび上がらせる。漱石の声を再現したモンタージュ・ボイスを聞くことができるのも大きな魅力だ。
*「小泉八雲のミュージアム」を掲載していますが、漏れているミュージアムがあれば、ご連絡いただければ幸いです。
*記事を転載する場合は、以下のURLを記載してください。
「小泉八雲のミュージアムに行こう!」
https://note.com/mzypzy189/n/nfb76a1080d92
