ことばの番人失格者だけど、でも

ことばの番人、失格
「今日発刊の月刊XXXXXの表紙、漢字間違ってませんか?」
2025年、春、午前9時過ぎ。手元のスマホが鳴った。
他部署のお兄さんに、ひとつの罪を知らされる。
いち民間企業で、数十年続く月刊コラム誌の校正担当(4代目)に着任してから3年目の春。
とうとう誤植を出してしまいました。しかも、表紙に!マジか。終わった。え、でも目次は合ってるし、該当ページの見出しも本文も全部合ってる。
……校了直前の突合せ校正で見落とした!ギャー!
他部署からの電話を切り、冷や汗でびちょびちょになりながら外出中の上司に一報を入れる。
出社したばかりだけどもう帰りたい。これ、私、いま、なんの罪に問われてますか?ヤバいか?!でもたいていのトラブルって先に困ってる人がいるはずだし。何十年も続く月刊誌なら、こういうときにどう対応すればいいのか文書あるでしょ。
内なる楽観性がベラベラしゃべるのでマニュアルを探したが、なかった。
ひとまずアーカイブデータを漁って、訂正文を過去事例に倣って準備する。
結局、ニュースリリースをうち、インシデントレポートをうち、次月号に訂正記事をうってクローズとなった。
やり切っても達成感など得られない仕事。
自分の甘さで招いたミスの回収作業は、時間差攻撃を受けているようでずっとしんどかった。
誤りを背負い、誤りに救いを求める
たった一つの誤植に何日も苦しみ、眠れなかった。
顔の見えない誰かに、頭の中で謝り続けた。
さらに双子を育てる時短勤務の身。保育園のお迎えがあるから、残業もできない。
業務時間量を増やすことなく、どうやって品質を担保すればいいんだろう。いや、気を引き締め直して校正作業を丁寧にやるしかないのだけれど……。ウワー今日の夕飯どうしよう……の堂々巡り。
月刊コラム誌にとって、ことばの番人こそ、私であるはずだったのに。
私は番人失格です。でも補欠がいないからレースに立ち続けることもできる。情けないままで。
そんなぐずぐずを重ね続けたある日、出会ったのが『ことばの番人』。
己の罪を裁かれたい。
告解室で懺悔したい。
魂を救済していただきたい、すがる思いで、本著を開いた。
生きているから間違える
本著には先人や歴史に名を残す哲学者、人文科学領域の研究者の言葉、古文が数多く引用されており、大変勉強になった。
『言海』を版違いで270冊所持する校正者、境田さんの話。
ああ、私、そんなふうには辞書を愛せていない。
「その昔、ヨーロッパでは聖書に誤植が見つかると、校正者は死刑に処されたという。」
21世紀ジャパンに生まれてよかった。
日本国憲法にさえ誤植があることを知る。
そして、どんな素晴らしい校正者でも痛恨のミスを少なからず経験しているーー。
私の世界が外側に広がっていくのを感じた。
知らないことが世の中にはたくさんある。
本をひらけば、空想の世界にも飛んでいける。先人たちと対話ができる。
時を超えて、知る喜びと感動を私にもたらしてくれるのもまた、文字だ。
もし、誤植や事実誤認があったなら?
筆者が伝えたかった言葉の中に、読み手へ届くことなく沈んでいくそれらが生まれてしまうことに、はたと気付いた。
やはり、誤植は拾わないといけない。
その一方で、裁かれるために読み始めたはずなのに、なんだかゆるされている気持ちになっていった。
もちろん、無罪ではないのですが。もろちん。
読後、私が住むこの国のことばは、未完成で、文字に対してなんてあいまいな態度をとるんだろう、誤りに対してどうしてこんなに優しいんだろうと涙が出た。
なんというか、日本国憲法って絶対的な文章規律だと信じ切っていて、そこに誤植があるなんて考えたこともなかった。
心が震えたからには、頑張るぞ
どんなに完全無欠に思える文章にだって実はいとおしい”校正不足”が隠れている。
完璧などないことにずいぶん救われた。でも、校正者として完璧に近づけるお手伝いはできる。
完璧な校正ができないとわかったから、何度でも見返す。
ことばひとつを疑う。
AIには頼るが、それ以上をもたらす校正者として、誠実に原稿と向き合うことを忘れない。
堂々巡りの日々から抜け出せた。
『ことばの番人』は私を救い、ゆるしを与えてくれた。
弊社の月刊コラム誌のいち校正担当者として間違いを引き受ける覚悟も与えてくれた。
何度でも番人として目を通すこと、誤字を拾い続けること。
筆者が伝えたい情報を、心が震えた瞬間を、正しい記述を、読者に届けるために。
誤植出しちゃったけど、でも、まだできるって、自分のことを信じたい。
時間に追われて苦しい時もあるけれど、私は校正作業が好きだ。
自分の好きなことに気づかせてくれる、ことばを愛おしいと思わせてくれる。
そんな一冊でした。

