三洋電機の挑戦と消滅3[成熟期]~挑戦を続けた三洋電機~
◉前回の振り返りと本記事の内容
三洋電機製作所の創業日から自転車用ランプを製作。
わずか3年ほどで市場シェア70%を占める急成長をとげた。

三洋電機は発電ランプの利益で様々な分野へ挑戦したこと。
そして、技術を磨き続けたこと。
次々と新たな技術やアイデアを製品に取り込んだこと。
本記事では、挑戦の手を緩めなかった三洋電機の歴史を振り返ります。
1970年、大阪万博。
三洋電機は来場者に未来の暮らしを見せていた。
テレビ電話、人間洗濯機、万能テレビーー。
その多くは半世紀後の現在、現実のものとなっている。
テーマは「人類の進歩と調和」であった。

引用:ええやん!大阪商店街
◉生前、井植歳男が残したことば
どんなときでも、まず、相手の立場を考えよ。
相手の便利、経済、楽しみ、よろこび、そして、繁栄が第一だ。
それらを、自分の事業に結びつけてこそ、自分の幸福が、得られるのだ。
1.三洋電機の技術とアイデアは未来へ
(1)未来を見せてくれた、大阪万博「サンヨー館」

テーマは「日本のこころ」
引用:大阪府日本万国博覧会記念公園事務所/サンヨー館
サンヨー館には様々な展示があり、現代だからこそわかる三洋電機の当時の発想は決して「非現実的なSFの様な話し」ではなく、多くが現在現実のものとして存在しているのだ。
①[テレビ電話]
ひとつめの展示物「テレビ電話」だ。
日本では1999年、PHS事業者DDIポケットが初のテレビ電話機能搭載PHSを発売した。

それからおよそ2年後の2001年、3GサービスFOMAがテレビ電話を標準的な機能にした。
およそ30年前の、1970年大阪万博「サンヨー館」では「テレビ電話」が設置され、館内の別の場所に連絡する事ができた。

引用:毎日新聞
②[人間洗濯機]
次に、「洗濯機のサンヨー」らしい出展物。
「人間洗濯機:ウルトラソニック・バス」も注目を集めた。

引用:毎日新聞
流線型のカプセルの中に座っているだけで、マッサージボールや超音波で自動的に入浴を済ませる事ができる全自動バスである。残念ながら一般販売などは無く展示だけであった。
それから55年経ち、「ミラブル」シリーズを展開している株式会社サイエンスホールディングスは、1970年大阪万博「人間洗濯機」の発想を進化させた。
2025年大阪・関西万博で「ミライ人間洗濯機」を出展した。数量限定ながら販売も行なっている。

引用:サイエンスHP

代表取締役会長 青山 恭明氏
出典:株式会社サイエンス
1970年、少年時代に大阪万博で初めて人間洗濯機に出会った瞬間、弊社の青山は「いつか、これを本当に使えるものにしたい」と心に誓いました。
あれから50年以上――娘の肌トラブルをきっかけに、肌をこすらず洗う方法を追い求め、微細な泡「ファインバブル」にたどり着きました。
ミライ人間洗濯機は、肌をやさしく包み込む泡に加え、センサーが心拍や自律神経を測定し、最適な音楽や映像を届ける“心まで整える未来型入浴装置”です。
三洋電機が当時形にした「人間洗濯機」は当時少年だった青山氏の心を動かし、2025年大阪・関西万博で実現された。
③[万能テレビ]
万能テレビは、未来の家庭情報センターのモデルで、ビジネスや買物が自由自在にできるというコンセプトのテレビだった。

引用:産経新聞
◆万能テレビでできること
三洋電機は「万能テレビ」で、様々な事を実現しようとした。
(カッコ内は現在、実現済みの機能やサービス)
①テレビ視聴
②ビデオ再生装置搭載(動画配信サービス/テレビデオなど)
③テレビ電話(一部スマートテレビでSkypeなどが使える)
④16ミリ映写機(プロジェクター型スマートテレビなど)
⑤電子計算機(スマートテレビで実現可能)
⑥電波新聞(データ放送/アプリ/アクトビラなど)
※Skypeは既にサービス終了。
これらの機能をボタンひとつで画面に呼び出したり、切り替えたりできるものだった。
1970年に描いた「万能テレビ」はその後様々な形で実現している。

出典:SONY

さまざまな情報の取得が可能。(電波新聞の実現)
出典:TBSテレビ

(ビデオ再生の実現)
出典:Panasonic
大阪万博「サンヨー館」は、1970年当時の技術と発想を組み合わせたコンセプト商品が多数展示されていた。
大阪万博「サンヨー館」は当時多くの人を受け入れた。
そして「数十年以上も先に実現する未来の姿」を見せてくれたのだ。

出典:nippon.com
2.「ビデオ戦争」に参戦した三洋電機
1974年:「三洋電機」と「東京芝浦電気(東芝)」は家庭用ビデオカセット「Vコード」を共同開発し「ビデオ戦争」に参戦。
三洋電機は、現・東芝と共同で「標準規格」になる事を目指し挑戦した。

◆家庭用ビデオ黎明期の競合規格
1971年:「U規格」•••ソニー/※松下電器/※日本ビクター
1974年:「Vコード」•••三洋電機/※東京芝浦電気
1975年:「VX方式」•••※松下寿電子工業(Nationalで発売)
これらの規格は残念ながら短命で終わった。
※松下電器→現・パナソニック
日本ビクター→現・JVCケンウッド(2008年パナソニック
から独立)
松下寿電子工業→現・PHC(2014年パナソニックから独立)
東京芝浦電気→現・東芝
その後、ソニーの「ベータ方式」と日本ビクターの「VHS方式」の二つの規格が、他社を巻き込んで本格的な「ビデオ戦争」へと突入していく。

1975年:「ベータ方式」•••ソニー
1976年:「VHS方式」•••松下電器/日本ビクター
◆松下電器のグループ間競争
興味深いのが、松下電器グループ内で統一した規格を採用せずグループ内で競争状態になっていたことだ。
松下電器産業と松下寿電子、日本ビクターや、松下を源流にもつ三洋電機は、統一した規格を採用しているわけではなく、それぞれ違う規格を採用しているところである。

これは松下幸之助氏の「相互補完・相互競争による発展」という方針から、「同じグループ内でも独自性を保つこと」を推進していた為だと考えられる。
◆柔軟に立ち回った三洋電機
三洋電機は、「Vコード」の敗色が強くなると「ベータ方式」に乗り換えた。
そして今度は「ベータ方式」が劣勢になると、「VHS方式」の採用に切り替えた。
VHS採用にあたり、当初は日本ビクターからビデオデッキのOEM供給を受けた。
三洋電機は乗り遅れないように状況に併せて柔軟に対応した。
3.三洋電機の海外進出と国内事情
松下幸之助の支えもあり、三洋電機は急成長を遂げた。
松下電器は、専務を務め、松下幸之助と共に設立した。
そんな源流企業である松下電器の本拠地を避け、競争の重なりにくい輸出と製品で自社の領域を確保する必要があった。
また、戦後1950年設立の三洋電機に対し、国内には戦前からすでに、松下電器、三菱電機、東芝、日立、シャープなど先発大手企業が幾つも存在していた。
後発である三洋電機は積極的に海外進出する必要もあった。


1986年時点での国内電機メーカーの海外輸出率は、後発企業のソニーが1位で67.6%、三洋電機は2位で60.6%という高い到達点に達していた。
対して先発企業の松下は37.2%、東芝は29%であった。

※1.ソニーも戦後1946年に「東京通信工業株式会社」としてスタートした後発企業である。
※2.各種数値は「戦後日本電機企業の海外進出-三洋電機の場合-」醇 文 肇氏(昭和63年8.9月)の論文から引用。
4.東京三洋電機を吸収合併
1986年、創業以来ライバルとして競争してきた三洋電機と東京三洋電機が合併する。
時代の変化と多様化するニーズに即応できる力の融合を意図するとともに、新生三洋電機のスタート「第二の創業」とし、コーポレートロゴマークも一新した。
「私たちは世界の人々になくてはならない存在でありたい」との経営理念と先端技術への意欲的な取り組み、新しい文化を創造してゆく姿勢を表したものであった。

5.三洋:技術革新や販売シェアの実績
(1)三洋電機が生み出した技術と製品
三洋電機は単なる総合家電メーカーではなかった。
生活家電から映像機器、デジタル機器、電池、通信機器に至るまで、数多くの独創的な技術や製品を世に送り出し、日本のエレクトロニクス産業の発展を支えた企業だった。
①洗濯機のサンヨー
※現代的価値観では不適切な表現となる場合があります。
「ひとつ奥さん方を喜ばそか。」
こう言って井植歳男は洗濯機事業に参入した。
当時多くの家庭で、女性が洗濯板で手洗いしていた時代。
「5人家族なら1日の洗濯物は2キロ。3年で2トンになる。動物園のゾウ1頭の重さや。」
「主婦を洗濯の重労働から解放すれば喜ばれるだろう。」
そう井植歳男は考えたそうだ。
三洋電機は1953年に噴流式洗濯機を商品化し、日本の洗濯機普及を大きく後押しした。
国立科学博物館の技術史資料では、三洋電機が「戦後の洗濯機開発の口火を切った」と評価されている。
後に「洗濯機のサンヨー」と呼ばれるほど高い支持を獲得し、三洋電機を代表する事業の一つとなった。

②テレビの進化を切り開いた三洋
テレビ分野では、1960年代に超音波式リモコンテレビ「ズバコン」を発売した。
当時としては先進的な製品であり、テレビのリモコン操作の普及を後押しした。

しかし初期の超音波方式には、鍵束や金属音などによる誤作動という課題もあった。
そこで三洋電機は日本セラミックと協力し、超音波送受信技術を改良した「新ズバコン」を開発した。

「新ズバコン」
1995年には、世界初の裸眼3Dテレビ「立体ビジョン」を発売。
専用メガネを必要とせず立体映像を楽しめるテレビとして注目を集めた。

当時、3Dコンテンツ不足により普及には至らなかった。
③炊飯器の常識を変えた可変圧力IH技術
炊飯器分野では「可変圧力IHジャー炊飯器」を開発し、高級炊飯器市場の先駆けとなった。
圧力を細かく制御しながら炊飯する技術は、後に「おどり炊き」へと発展する。
現在は、Panasonicの製炊飯器へ受け継がれている。
三洋電機が開発した可変圧力IH技術は、日本の炊飯器進化を語るうえで欠かせない技術の一つとなっている。
④「デジカメ」を世に広めた企業
三洋電機は、かつて「デジカメ」の商標権を保有していたことでも知られる。
デジタルカメラ分野ではOEM供給を含む生産台数で1999年には、世界シェア約30%を獲得し世界首位となった時期もあった。

1997年SANYOブランドデジカメ1号機DSC-V1発売。
1999年にOEM含め、世界シェア3割を突破した。
出典元:日本経済新聞
しかし、その生産の90%以上は他社ブランド向けOEM供給であり、三洋ブランド製品として販売されるものは一部に限られていた。
動画撮影に強みを持つ「Xacti(ザクティ)」シリーズを展開し、静止画と動画の垣根を越えた新しい映像体験を提案した。

引用:ASCII
その一方で、デジタルカメラ市場の価格競争激化や市場縮小は、後に三洋電機の収益構造にも影響を与えることになる。
⑤世界を支えた電池技術
1981年、三洋電機はリチウムイオン電池の基礎技術を開発し、後に特許第1769661号として成立した。
この技術は現在のスマートフォンやノートパソコン、電気自動車などに欠かせないリチウムイオン電池の発展に大きく貢献している。
また2000年代初頭には、ニッケル水素電池とリチウムイオン電池の双方で世界トップクラスのシェアを誇った。
多くのノートパソコンや携帯電話向け電池を供給し、三洋電機は世界有数の電池メーカーへと成長した。
※大阪国際大学経営情報学部教授・廣田章光氏の論文によれば、2002年時点で三洋電機の世界シェアはニッケル水素電池95%、リチウムイオン電池40%であったとされる。


その技術力は2005年発売の低自己放電ニッケル水素電池「eneloop(エネループ)」として結実した。
当時、国内充電池市場で60%以上のシェアを獲得し、海外約60カ国でも販売されるなど、三洋電機を代表するヒット商品となった。

国内シェア90%の市場占有率を誇った。
⑥モバイル時代を支えた通信機器
携帯電話やPHSなどのモバイル通信端末分野でも、三洋電機は国内外で高いシェアを獲得した。

引用元:ASCII 2002/09/05
当時の三洋電機は、国内でイーモバイルを除き全てのキャリアに端末を提供していた。
三洋電機製(一部鳥取三洋製)の携帯電話機は、日本初の迷惑電話拒否、世界最薄・最軽量cdmaOne端末、FMラジオ搭載、ワンセグ搭載など性能面も妥協しなかった。
結果として、携帯電話メーカーとしての存在感を示し、海外では北米や台湾市場などで大きな成功を収めた。


CDMA端末やPHS端末では高い評価を受け、モバイル通信の普及期を支えた。
小型化・薄型化の技術はデザイン面でも生かされた。
auのデザイン変革を志し始まった「au Design project」で初代INFOBARやtalby、INFOBAR 2なども手がけた。
(鳥取三洋電機製)

鳥取三洋電機製

鳥取三洋電機製

鳥取三洋電機製
⑦三洋電機:実はゲーム機も製造していた
家電メーカーとして知られる三洋電機だが、新しい市場にも挑戦し続けた。その一例がゲーム機事業である。
1994年、三洋電機が発売した3DO規格のゲーム機「3DO TRY」が登場した。

引用:Wikipedia
松下電器産業(現パナソニック)の「3DO REAL」と並ぶハードとして展開されたが、市場シェア拡大で苦戦し、三洋電機は1996年末には、事実上3DOから撤退した。

(2)挑戦を続けた技術者集団
このように三洋電機は、洗濯機、テレビ、炊飯器、デジタルカメラ、電池、通信機器、更にはゲーム機まで、幅広い分野で独自の技術や製品を生み出してきた。

その歩みを振り返ると、三洋電機は単なる総合家電メーカーではなく、新しい価値を世の中へ提案し続けた企業だったことが分かる。
1970年の大阪万博で展示されたテレビ電話、人間洗濯機、万能テレビは、その象徴とも言える存在だった。
当時は夢物語のように見えた技術も、半世紀以上が経過した現在では、スマートフォンによるビデオ通話、インターネットを通じた情報サービス、自動化された家電製品など、形を変えながら私たちの日常へ溶け込んでいる。
三洋電機は常に時代の少し先を見つめ、新しい可能性へ挑戦し続けた。
その姿勢こそが、三洋電機という企業の最大の特徴だったのかもしれない。
6.晩年の松下幸之助氏と後藤清一氏
晩年、松下幸之助氏は松下電器から三洋電機へ送り出し、当時三洋電機の副社長となっていた後藤清一との間で、次のような会話をした。
「君も副社長になったんやから、これまで三洋電機で学んだことを世間にお返しせないかんな…」
松下幸之助の発言に、後藤清一はしばらく考えた。
「世の中の経営後継者を育成するための塾を開きたいと思います。」
後藤清一はそう回答した。
「それはいい。」
松下幸之助はその言葉を聞き、大いに賛同したという。
後藤に具体的なプランがあったわけではなかった。
日本HR協会の山田宏に相談し、後藤が塾長、山田がチーフトレーナーを担当して、「生気経営塾」をスタートさせた。
◆「生気経営塾」スタート

引用:松下幸之助と井植歳男に仕え、三洋電機の基礎を築いた熱血仕事人後藤清一翁の事績を訪ねて/創意社・山口幸正
関西の中小企業経営後継者15人でスタートし、1975年から1981年まで毎月1回開催され、45人の塾生を輩出した。
生気経営塾の最初の勉強会は、北条製造所の見学会だった。最後にみんなで並んで記念撮影となった。
シャッターが切られ、2度目のシャッターが切られるものと誰もが思った。
そのとき、後藤塾長が言った。
「何をしてるんや。シャッターは1度で終わりや。1度で決めなあかん。はじめから不良率を見込んだようなやり方はここではやらんのや」
甘えを許さない塾長の厳しさが,その一言
でみんなの中に浸透した。
しかし、後藤塾長は、叱るばかりではなく、塾生1人ひとりに気配りする人でもあった。
名神高速に近いある塾生の会社の工場の横を通るとき
「ここがCさんところの工場や。彼もよく頑張っている。」
そうやって一人一人気にかけていたのだという。
◆後藤の人柄を表す「努力」という言葉
後藤清一氏の著書『こけたら立ちなはれ』の冒頭にこんな話しが出てくる。
20歳を過ぎた後藤は陸軍飛行兵として各務原飛行第2連隊に召集され、あるとき輸送トラックの助手席に乗った。
このとき雨が降ってきて、無蓋の荷台にすし詰めにされた戦友はズブ濡れになった。
小休止でトラックを下り、戻ってみると助手席は占領されていて、しかたなく荷台で雨に打たれることにした。
1キロも行かないうちにトラックは泥沼に車輪をとられて転倒。荷台にいた連中は全員投げ出されたが無事だった。
しかし、助手席の戦友はトラックの下敷きになって圧死した。
亡くなった戦友には気の毒だったが、自分が無事だったことを、後藤は母がくれた成田山のお守りのおかげだと思った。母は毎日後藤の安全を祈願してくれていた。
身内の者が寄り添って信仰するところに運は向いてくるのだろう。
要は、くじけずに自らの置かれた苦境の打開に努めるところに幸運はやってくるのではないか。
あの人は運がいい…というのは、その人が努力を続けているというべきで、俺は運が悪い…というのは、まだ俺は努力が足りないというべきなのだ。
だから,「私は運が悪くてねぇ」とヌケヌケとおっしゃる人物を、私は敬して遠ざけることにしている…
後藤はこのように結んでいる。
7.三洋電機[成熟期]を振り返って
1970年代から2000年代初頭にかけての三洋電機は、単に事業規模を拡大しただけではなかった。
テレビ電話や人間洗濯機といった未来志向の発想を示しながら、ビデオ、テレビ、炊飯器、デジタルカメラ、携帯電話、電池など数多くの分野で独自技術を磨き続けた。
時には市場に受け入れられず終わった製品もあったが、その挑戦の積み重ねは日本の家電産業やエレクトロニクス産業の発展に大きな足跡を残した。

引用:123RF
また、この時期には後に三洋電機の命運を左右することになる電池事業や環境技術も大きく成長していた。
三洋電機の成熟期は、企業として円熟を迎えながらも挑戦を止めなかった時代だった。

引用:Record China
6.さいごに
三洋電機という会社の面白さは、「挑戦することをやめなかった」点にあると思いました。
人間洗濯機、万能テレビ、裸眼3Dテレビ。
時代を先取りしすぎて普及しなかった製品もあります。
しかし、その多くは後に別の形で実現されたり、その後技術の進歩とともに市場に受け入れられた製品もあります。
私の家にある古いSANYO製のAMラジオも、壊れず今でも変わらず音を届けてくれます。
三洋電機が残したのは製品だけではなく、「未来を信じて挑戦する」という精神じゃないかという気がします。

「人と・地球が大好きです」を制定した。
次回Part4[衰退期]では、世界トップクラスのシェアを誇る電池事業や環境事業へ大きく舵を切った三洋電機。
様々な分野で世界1位や日本1位のシェアを誇るほどの企業が、なぜ経営危機へ向かうことになったのか、その背景を追っていきます。
【三洋電機の挑戦と消滅シリーズ】
・Part1[創業期] ~世界を夢見た井植歳男~(公開済)
・Part2[急成長期] ~急成長する三洋電機~(公開済)
▶︎Part3[成熟期] ~挑戦を続けた三洋電機~(本記事)
・Part4[衰退期] (執筆予定)

◉参考・出典
◆大阪府日本万国博覧会記念公園事務所
・1970年大阪万博サンヨー館
◆日本セラミック株式会社
・沿革(新ズバコン開発)
◆特許第1769661号(リチウムイオン電池基礎技術関連)
◆J-Stage 廣田章光:大阪国際大学経営情報学部教授(論文)
・プロトコル局面のマネジメント~三洋電機デジタルカメラ開発における「コンセプトイノベーション」~(PDF)
◆日本大学経済学部
・台湾デジタル・スチル・カメラ産業の台頭(PDF)
◆京都大学学術情報リポジトリ (KURENAI)
・戦後日本電機企業の海外進出-後発企業三洋電機の場合-
◆城西大学経営紀要
・日本の家電製品の潮流(佐竹博氏の論文)
◆国立科学博物館 産業技術史資料情報センター
・洗濯機技術発展の系統化調査
・テレビジョン技術発展の系統化調査(立体テレビ)
・炊飯器技術発展の系統化調査
◆Panasonic
・おどり炊き技術紹介
◆AV Watch
・パナソニック、三洋子会社化に向け資本業務提携協議
-「成長を担うもうひとつのエンジン」。詳細は12月末に
・三洋、総合家電メーカーから脱却。2,330億円の赤字
-中期経営計画発表。1万人のリストラも
・AQUAブランド発表会
◆ITmedia
・知られざる? auトップシェアの三洋
・台湾市場における三洋携帯電話
・三洋携帯電話事業関連記事
◆J-GLOBAL
・炊飯器(特許関係)
・炊飯器(特許関係)
◆特許庁
・検索ページ
・許第1769661号(リチウムイオン電池基礎技術関連)
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