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現行憲法、公職の制約、そして「誰を英霊と呼ぶのか」

一水会の投稿に、考えさせられた。

「靖国神社が境内でのコスプレ・軍装を禁止する声明を発表。心ある人々からの長年の顰蹙を思えば遅きに失した感もあるが、一方で『15日の高市首相の参拝に向けての伏線ではないか?』と勘ぐる声も。靖国参拝は首相の責務と言っていいが、対米従属状況を放置したまま、どの面を下げて英霊に向き合うのか?」

X投稿文 2026.8.11筆者閲覧

私は、一水会の問題意識に共感するところが案外多い。
だが、この「靖国参拝は首相の責務と言っていい」という部分には、疑義を呈したい。

なぜか。

私は、現行憲法を支持しているからだ。

靖国神社は一宗教法人である。現職の首相が政治家として靖国神社を参拝することは、個人の信教の自由だけの問題ではない。国家と宗教との関係、そして憲法20条の政教分離との緊張を生む。

「私人として参拝した」と説明することもできるだろう。

しかし、かつて石原慎太郎氏が語ったように、「私人と公人をどこで区別するのか」という話になるのなら、私はむしろ逆に考える。

区別できないのなら、現職の間は参拝を控えればいい。

英霊に祈りを捧げたい。その思いまで否定するつもりはない。

どうしても靖国で祈りたいのなら、政治家を辞めてから、堂々と一人の人間として行けばいい。

それは「我慢しろ」ということではない。

ある目的を達成するために、途中で小さな目標を諦めたり、好きなことを我慢したりすることはある。公職に就くという選択にも、それと同じような「引き換え」があっていいと思う。

教育の憲法と言われる教育基本法14条は、次のようになっている。

(政治教育)
第十四条 良識ある公民として必要な政治的教養は,教育上尊重されなければなら ない。
2 法律に定める学校は,特定の政党を支持し,又はこれに反対するための政治教 育その他政治的活動をしてはならない。

教育基本法等関連部分抜粋及び解説

教育公務員はこれにより、国家公務員同様に政治的発言を制限されている。
公職には、公職として引き受けるべき制約がある。

したがって、国会議員はじめ現職議員は、現職の間は、そっと手を合わせればいい。
「赤信号みんなで…」的に大袈裟に振る舞う必要を私は感じないし、参拝の形それ自体が靖国の政治利用に見えてくる。

戦没者への追悼は、靖国神社でなければできないものではない。

自宅の神棚では慰霊の思いは伝わらないのか。
亡き人への感謝と、これからを生きる人々の安寧を祈る場所はある。
千鳥ヶ淵では慰霊できないのだろうか。

なぜ靖国なのか。

ここで、もう一つ考えたい。

靖国神社には、祭神として祀られている人々の名簿がある。つまり、「戦争で亡くなった人をすべて祀る」ということではない。誰を祭神として祀るのか、そこには明確な区別がある。

しかし、あの戦争で亡くなったのは、軍人だけだったのだろうか。

違う。

民間人も亡くなった。子どもも亡くなった。沖縄では住民が戦場に巻き込まれ、広島や長崎では原爆によって多くの命が奪われた。各地の空襲でも、多くの人々が命を失った。

「戦争で命を奪われた人」と「靖国神社に祀られている人」は、同じではない。

それなのに政治家が「英霊に哀悼の誠を捧げる」として靖国を参拝するなら、私は問いたい。

その「英霊」とは、誰なのか。

戦争犠牲者すべてを追悼しているのか。

それとも、靖国神社が祭神として祀ることを選んだ人々を、特別な存在として政治家自身が「英霊」として扱っているのか。

私は、ここに政治家による「特別扱い」の問題があると思う。

靖国神社が自らの宗教的な考えに基づいて誰を祀るかを決めることまで否定する話ではない。

問題は、政治家が政治的な行為として、そこへ参拝することなのだ。

そして私は、ふと思う。

神様や仏様が、亡くなった人を区別するのだろうか。

もちろん、これは宗教論として言っているのではない。

私自身の身近な死者を思えば、そう感じるのだ。

私の身内も、仏式の葬儀を執り行ったゆえに、「仏になった」と言われる。

でも、私にとっては違う。

今でも「じいじ」であり、「ばあば」であり、「母」であり、「父」なのだ。

仏様という抽象的な存在ではない。

生きていたときの、その人なのだ。

戦争で亡くなった人たちも、同じではないだろうか。

同様に「英霊」という言葉で括られる前に、一人の人間だった。

誰かの父だった。
誰かの母だった。
誰かの子だった。
誰かの兄弟だった。
誰かの友だった。

「靖国で会おう」と戦場で約束した人もいたかもしれない。

その約束を胸に靖国を訪れる元軍人の思いを、私は否定しない。

しかし、その慰霊する本人が政治家であるなら、私は参拝を見送ってほしいと思う。

その思いが本当に大切なら、政治家を辞めてから行けばいい。

それが私の考える「引き換え」なのだ。

一水会は自主憲法制定を掲げる。

私は現行憲法を支持する。

だから、戦没者への敬意を出発点としても、靖国参拝については意見が分かれる。

私は、現行憲法との緊張を曖昧にしたまま、「靖国参拝は首相の責務」とすることには従えない。

そして、8月15日に私が考えたいのは、誰を「英霊」や「御霊」と呼ぶかだけではない。 誰が、どのように亡くなったのか。

そして、

私たちは、その死をこれからの生にどうつなげるのか。

そういう想像をする。思いを寄せる。思いを馳せる。
そうやって死者に手を合わせる。

けれど、死者への祈りが、生きている人を守る政治につながらなければ、その祈りはどこへ向かうのだろう。

戦争を始めない。

戦争をさせない。

戦争によって、もう誰も家族を失わないようにする。

災害で苦しむ人を放置しない。

貧しさや孤独の中にいる人の痛みを少しでも和らげる。

私は、そうした政治こそが、亡くなった人たちへの一つの「御礼」になると思っている。

8月15日。

私は、靖国に行かないことを誓うのではない。

戦争をしないこと、始めないことを誓いたい。

そして、亡くなった人たちを「英霊」という一つの言葉にする前に、まず一人の人間として思い出したい。

「じいじ」だった人。
「ばあば」だった人。
「父」だった人。
「母」だった人。

その人たちが生きていた時間を、戦争によって断ち切らせない。

それが、私にとっての8月15日の「不戦の誓い」である。


#不戦の誓い   #8月15日   #靖国参拝   #憲法20条   #死者を誰のものにするのか


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