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日本はなぜ戦争へ向かったのか――8月15日に振り返る近代日本の歩み


8月15日。今年も日本では「終戦の日」を迎えた。

戦没者を悼み、戦争の惨禍を振り返り、二度と戦争を繰り返さないことを誓う。そのこと自体に異論はない。

しかし、戦後81年を迎えた今、私たちはもう一歩先へ進んでもよいのではないだろうか。

「戦争は悪い」「戦争は怖い」「だから二度と戦争をしてはいけない」。

もちろん、それらは間違ってはいない。

しかし、それだけでは「なぜ戦争が起きたのか」という最も重要な問いへの答えにはならない。

この記事では、日本がなぜ戦争へ向かったのかを、一次資料や公的記録を手掛かりに時系列で振り返りたい。

結論を急がず、まず日本がどのような過程をたどったのかを整理することから始める。

「太平洋戦争」だけでは見えなくなるもの

今回の戦争を振り返る際、私は「太平洋戦争」という1941年以降だけの枠組みでは不十分だと考えている。

1941年12月12日の閣議決定「今次戦争ノ呼称並ニ平戦時ノ分界時期等ニ付テ」では、当時の日本政府は対米英戦争について、1937年以来の支那事変を含めて「大東亜戦争」と呼称すると決めている。

本文には、

「今次ノ対米英戦争及今後情勢ノ推移ニ伴ヒ生起スルコトアルヘキ戦争ハ支那事変ヲモ含メ大東亜戦争ト呼称ス」

とある。

この方針は12月10日の大本営政府連絡会議で決定され、12月12日の閣議決定を経て、同日、内閣情報局からも発表された。

つまり、当時の日本政府自身が、中国での戦争と対米英戦争を連続したものとして位置付けていたのである。

1941年12月の真珠湾攻撃だけを起点とすれば、「日本が突然アメリカを攻撃した」という理解になりやすい。

しかし、日本がなぜ対米英開戦にまで至ったのかを考えるなら、もっと前まで遡らなければならない。

もちろん、「大東亜戦争」という呼称を確認したからといって、当時の日本政府の政策をすべて肯定することにはならない。

問題は、どこから歴史を見るかである。

富国強兵という選択

明治維新後、日本は欧米列強による植民地化を避け、独立を維持するために富国強兵を進めた。

そこには軍事力を拡大するという側面だけではなく、近代国家として国際社会の規則に参加し、欧米諸国と対等な国家として認められたいという目標があった。

当時の世界は帝国主義の時代であり、アジアの多くの地域が欧米列強の植民地や勢力圏に組み込まれていた。

その中で独立を維持しようとするなら、国家としての経済力、外交力、そして軍事力が必要だった。

日本が富国強兵を進めたこと自体を、現在の価値観だけから単純に否定することはできない。

三国干渉が教えたもの

日清戦争に勝利した日本は、しかし三国干渉によって国際政治の厳しい現実を思い知らされる。

戦争に勝ち、下関条約によって得た遼東半島であっても、ロシア、フランス、ドイツという三国の圧力を前に、日本は返還を受け入れざるを得なかった。

条約によって得た領土であっても、それを維持するだけの国力がなければ守ることができない。

日本がここから、

「正しさだけでは国益を守ることはできない」

という教訓を得たとしても不思議ではない。

この経験は、その後の日本の安全保障観を考えるうえで重要な転換点の一つだったと思う。

日露戦争という成功体験

日清戦争、三国干渉を経て、日本はロシアの満洲や朝鮮半島への進出と向き合い、最終的に日露戦争へと至った。

そこには、日本側から見た国家安全保障上の明確な論理が存在していた。

しかし問題は、その後である。

日露戦争で日本は大国ロシアに勝利した。

それは日本に大きな自信を与えた一方、

「軍事力を使えば状況を変えることができる」

という危険な成功体験にもなったのではないだろうか。

さらに、日露戦争後の国内では強硬な世論や新聞報道が影響力を増し、やがて軍内部の統制問題も深刻になっていく。

そして満洲事変以降、日本の政治は現地軍が作り出した軍事的既成事実を次第に制御できなくなっていった。

ここには大きな違いがある。

「国を守るために力を持つ」ことと、 「力によって国益を拡大する」ことは同じではない。

日本が道を誤った重要なポイントの一つは、この境界が次第に曖昧になっていったことにあるのではないだろうか。

満洲事変から大東亜戦争へ

満洲事変以降、日中間の対立はさらに深まり、1937年の盧溝橋事件を契機として全面的な戦争へと拡大していく。

日本は長期化する戦争の出口を見いだせないまま、アメリカをはじめとする諸国との関係も悪化させていった。

そして1941年12月、対米英開戦に至る。

その直後、これまでの支那事変を含めた戦争全体を「大東亜戦争」と呼称する閣議決定がなされた。

この決定が示しているのは、当時の日本政府自身が、1937年からの中国での戦争と1941年からの対米英戦争を、切り離された二つの出来事として扱っていなかったという事実である。

したがって、1941年12月だけを切り取って「日本が突然戦争を始めた」と見るだけでは、日本が敗戦へ至った過程を十分に理解することはできない。

日清戦争から大東亜戦争へ至る近代日本の歩みには、一つの問いが通底している。

国を守るための力は、いつ、どこで、国益を拡大するための力へと変わっていったのか。

だからこそ、日本の戦争史を「全部正しかった」とすることも、「最初から最後まで侵略戦争だった」と一括りにすることも、どちらも歴史を単純化しすぎている。

必要なのは、

どこまでが当時の安全保障上の判断として理解できるものだったのか。 そして、どこから政策判断を誤ったのか。

それぞれを分けて検証することではないだろうか。

次回への問い

ここまで、日本がなぜ戦争へ向かったのかを、史実と当時の政策判断の流れに沿って振り返ってきた。

しかし、歴史を確認しただけでは終わらない問いが残る。

戦後81年間、日本はこの戦争をどのように教え、どのように語ってきたのか。

「戦争は怖い」

「戦争は悪い」

という言葉を繰り返すことは、本当に戦争の原因を理解し、次の戦争を防ぐことにつながっているのだろうか。

戦争の悲惨さを伝えることと、戦争がなぜ起きるのかを理解することは、同じではない。

次回は、戦後日本の平和教育と歴史認識のあり方そのものを問い直したい。

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