魔除けの角大師(つのだいし)と開運招福の豆大師(まめだいし)の貼り方
角大師とは
コロナ渦の時に注目を浴びた「アマビエ」が現れるよりもはるか以前。
平安時代の日本に、“最強”の呼び声も高い護符が登場しました。
それが、「角大師(つのだいし)護符」。実在した僧の姿を写したお札なのですが、そこに描かれるのは、人とは思えない不思議なお姿。

強大な法力を持つ良源が、鬼の姿で人々を守る!
「角大師」とは、平安時代の僧・元三大師(がんざんだいし)良源(りょうげん)のこと。良源は、近江の国浅井郡(現在の滋賀県長浜市)に生まれ、比叡山にのぼり延暦寺を発展させた、「延暦寺中興の祖」と崇められる人物です。大変法力が強くカリスマ的な人気を集めたことから数々の伝説・伝承に彩られ、そのひとつが「角大師」の伝承です。
良源73歳の時、世に疫病が流行り、人々は大変苦しんでいました。 この難儀を救うため、良源は大きな鏡に自分の姿を写し、静かに禅定に入ると、鏡のなかにはみるみるうちに骨ばかりの鬼の姿が。 その姿を弟子のひとりに描き写させ、絵を版木に刻み、お札に刷って配ると、護符を戸口に貼った家は、疫病は元より、一切の災厄にかからなくなりました。
この伝承により、天台宗の寺院では、数百年に渡り角大師護符を授与。 角大師のあるところ、病魔・悪魔がよりつかず、一切の災厄から逃れることができたそうです。
良源には、そのほかにも「豆(魔滅)大師」や「降魔(鬼)大師」、「木葉大師」など数々の伝説にちなんだ通称があり、延暦寺や各地の寺院で、姿も様々な護符が授与されています。通称の多さは、人気の高さ。死後には朝廷から「慈恵(じえ)大師」の称号が送られたのですが、正月三日(元日三日)に亡くなったことから「元三大師」と呼ばれ、今もその名で人々に親しまれています。
比叡山横川にあった良源の住房・定心房は四季講堂(春夏秋冬に法華経の講義を行ったことからこの名がある)と名を改め、良源像を祀ることから「元三大師堂」とも呼ばれている。全国あちこちの社寺に見られる「おみくじ」の創始者は良源で、四季講堂はその発祥地であるとされている。
良源 慈恵(じえ)大師 角大師
角大師は、昔の天台宗のお坊さんで、慈恵大師(十八代目の天台座主であり、正月三日に亡くなったので、元三大師ともいいます)が七十三才の時に、世の厄災を憂いてあらわされた護符です。
お大師さまが七十三歳になられた貞観二年(九八四)、御病気になられます 少し前のことであります。常には静かな夜も、その夜ばかりは、簫々たる 風雨で、心平かならないままに、ただ一人、居室に端坐して、止観を行じておられました。夜も更けたらしく、従僧や下男も眠りについたか、雨だれの音のみ、淋しう耳をうつばかりであります。不意に一陣の風が、颯っと室に入って来ましたので、禅定を出て御覧になりますと、残燈の影に、怪しい者が居りましたので、
「そこに居るは何者ぞ」
静かにおたずねにたりますと、
「私は疫病を司る厄神であります。いま、疫病が天下に流行しております。あなたもまた、これに罹られなければなりませんので、お身体を侵しに参りました」
「疫病の神となア、そうして私もまた、逃れられないとのこと、唯円教意、逆即是順という、何れのところにか逆境あらん、然し、因縁を逃れ得ぬもまた当然、止むを得まい、一寸、これに附いて見よ」左の小指をお出しになりました。
厄神がそれに触れたかと思うと、全身忽ち発熱して、堪えがたい苦痛を覚えられましたので、心を寂静に澄し、円融の三諦を観じて、弾指せられました。厄神は弾き出され、伏しまろびながら逃げ失せ、お大師さまの苦痛は、忽ち恢復せられました。
お大師さまは、
「わずかに一指を悩めるさえ、このような苦しみを覚えるに、全身を侵された逃るる術を知らぬ人々は、何としても気の毒である。これは、一時も早く救わねばならない」と思召され、夜の明けるを待ちかねて、弟子たちを呼び集められました。
「鏡を持って来てくれ、そうして、私がその鏡に姿を写すから、心ある者が、それを写し取ってくれよ」
弟子たちが運んで来ました、全身写しの大小判型の鏡の前に、座を占められまして、観念の眼を閉じ、静かに禅定に入られますと、不思議や、始めお大師さまの姿であったのが、だんだんと変りまして、最後には、骨ばかりの鬼の姿になりました。
見ていたお弟子たちは、あまりの恐ろしさに、その場にひれ伏してしまいましたが、明普阿闍梨だけは、気丈な上に、既に閻魔の庁で獄卒を見ておりますし、絵心第一と不断から自負しておりましたので、恐るることなく、鏡を見ては画き、画いては鏡を見まして、残るところなくそれを写し取りました。禅定からお出ましなされたお大師さまが、これを御覧になりまして、 満足に写しとれたという面持ちで、
「これでよい、これでよい、これを直ぐに版木におこし、お札に摺っておくれ」
お弟子たちが、版木に彫り、お札に摺り上げますと、お大師さま御自身で、開眼の御加持を施されて、
「一時も早く、これを民家に配布して、戸口に貼りつけるように申しなさい。この影像のあるところ、邪魔は怖れて寄りつかないから、疫病はもとより、一切の厄災を逃るることが出来るのじゃ」
お札を頂いた家は、一人も流行病に罹りませんでしたし、病気に罹っていた人々も、ほどなく全快して、恐ろしい流行病も、たちまちに消え失せ、人々は安堵の思いを致しました。
このことがありましてから以来は、このお札を角大師と称えて、毎年、新らしきを求めては戸口に貼るようになりました。疫病はもとより、総ての厄災を除き、盗賊その他、邪悪の心を持つ者は、その戸口から出入り出来ませんので、どれほど御利益を頂いているか、計り知ることが出来ないのであります。それでありますから、日本全国、何れの宗派に属する寺院も、正月には、必ずこの影像を檀信徒に配布して、その年の厄災を防ぐような慣わしになりました。
豆大師(まめだいし)
紙に33体の豆粒のような大師像を表した絵である。良源は観音の化身ともいわれており、観音はあらゆる衆生を救うために33の姿に化身するという「法華経」の説に基づいて33体の大師像を表したものである。『元三大師御鬮諸鈔』によれば、この像は正確には「魔滅(まめ)大師」といい、豆粒のように小さいから豆大師と名付けられたという話は正しくないという。

豆(魔滅)大師
寛永年中のことでありました。河内の国寝屋川在の百姓某が田植も無事に終りましたので、日頃信仰している横川のお大師さまに豊作祈願に参詣して来ました、横川に到着いたしますと、先ず御廟に参詣しまして、
「今年もどうか、水の難、旱の難、風の難などの諸難を逃がれて、豊作を与え給え」
と刻の立つのも知らずに、熱心に祈願をこめ、夕方、大師堂に参詣してお通夜をさせて貰いました。
某が大師堂に入った頃から降り出した雨は次第に激しくなり、夜半よりは車軸を流す大豪雨となりました。某の部落は淀川ぞいの平地、少しの大雨にも水浸しになる土地であります。お通夜をしながら雨の様子を気にして居りましたが、
「この大雨では、また寝屋川は洪水であろう、折角田植もすんで一息ついたばかりだのに、植えた苗もろとも、田も流されてしまうのではないだろうか、家に居たらまた何とか仕ようもあるだろうに」
居ても立っても居たたまらぬ、いらいらした気持になり、執事の坊さまに苦衷を訴えますと、
「田作りの守護をして下さるお大師さまにお参りに来ていて、それは何をいうて御座るぞ、いまこそ一途にお大師さまにお祈りする時じゃないか」
執事の教示になるほどと気のついた某は、宝前に端坐して一生懸命にお祈りをしました。雨の音も耳に入らばこそ、『お助け下さい』の一念で、お経を誦し、み名を称えて信心を凝らしました。夜の明けるを待ちかねて、降りつづく大雨の中を走るようにして山を下り、道々の様子を注意しながら在所に急ぎました。京も過ぎ、八幡を通り、橋本の里を過ぐる頃には、大水の被害は段々と目に見えてまいります。
「この様子だと、自分の田も全部駄目じゃろう」
重い足をはげましながら、急ぎに急ぎまして漸く村の入口に近づきますと、村の人々は鍬や鋤を持って出て来て居りますが、何れも茫然として立って居ります。
「ああ、やっぱり駄目じゃ」
その時、一人の男が某を見つけて、詰るような叫び声を出して、
「おぬし、何処へ行っていたぞ、それにしても手廻わしよう、やりおったのう」
某は一向にその意味が分りません。
「それよりも私の田も駄目じゃろのう」
「何をいうているぞ、おぬしの田だけが助かっているのじゃ、それじゃからこそ、皆が手廻わしのよいやつと羨ましがっているのじゃ」
「そりやおかしい。私は叡山の横川にお参りしていたんじゃ、日がくれてからの大雨じゃろ、気が気でないが何ともしようがないので、明けるのを待って走って帰って来たばかりじゃ」
「それじゃ、おぬし、何にも知らぬのか、三十人余りの子供上りの若者が、手に手に桶や鍬を持って来てサ、畔をつくるやら、水を汲み出すやら、いやもうその働きの素早いこと、手際のよいこと、おぬしの田だけが苗の顔が見えていらア」
某が行って見ますと、その男の云った通り、濁水一面の中に自分の田だけが、ちゃんと苗の先が見えている。
「不思議なこともあるものよなア」
家に帰ると妻や子が、
「助かりました、助かりました、うちの田だけが助かったのじゃ」
嬉し泣きしながら、詳しうに話をします。
「肝心のお前さんは居てくれず、女や子供ではとてもとは思いながら、あれこれしていると、夜明け前の三時頃に何処から来たのか子供上りの若い衆が三十人あまり……」
執事に教えられて一生懸命にお大師さまにお縋がりした時刻に助け人が来たというのです。
「これはお大師さまの御たすけに違いない、早速、今一度お礼にお参りしてこよう」
引返して横川に参詣しまして、執事に事の由を申しますと、
「それはおぬしの誠心が届いたので、お大師さまがお助け下されたのでありましょう、お大師さまは観音さまの御化身じゃから、三十三身に做えて、三十三人の童子となってお救い下されたのじゃと思います」
このことがありましてから、三十三体のお大師さまのお姿を一枚に納められてあるお札を魔滅大師と申しまして、田の作りをお護り下さるお札として、田植が終り次第、竹の皮に包んで竹にはさみ、田ごとに立てるようになりました。

小さなお坊さんが33人並んでいる図柄で、ユダヤ教でも聖数と言う概念がありますが、仏教においても33は聖なる数字と考えられています。
京都にある有名な三十三間堂、これは蓮華王院本堂の内陣柱間が33あることから命名されており、西国三十三所、坂東三十三観音巡礼も同意となります。
これは観音三十三応現身と言われ、観音菩薩はあらゆる衆生を救うため、その身を33通りの姿に変じるという法華経の教えが由来となっています。
豆大師の33人は、慈円が鎌倉時代に書いた『愚管抄』に、「観音ノ化身ノ叡山ノ慈恵大僧正」と記載があるように、元三大師良源は観音菩薩の化身と考えられていたからです。
豆大師信仰については、比叡山横川元三大師堂に掲げられていた奉納絵馬をその典型と考えるのが正しいでしょう。
鬼大師(おにだいし)

このお姿は「鬼大師(おにだいし)」と呼ばれ、「角大師」同様、良源さまが変化したお姿であるとされます。
鬼の姿に関しては、次のような話も伝えられます。良源さまは容姿端麗で、御所に参内する際には、女官たちが争って一目お目にかかろうとする程でありました。ある年の春、良源さまが御所の庭を散策していたところ、女官たちの花見の席に出くわし、大きな騒ぎになってしまいました。その際、鬼の姿に変じ、驚いた女官たちが目を伏している間にその場を去られたといいます。
鬼に変化された時の様子は、口は耳までさけ、見開かれた両目からは射るような光を放ち、右の手には独鈷(とっこ)を持ち、左の手は握りしめ、共に膝がしらを押さえていて、すさまじい迫力であったと伝えられます。その力強い「鬼大師」のお姿は、厄除けのお大師さまとして信仰を集めています。
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