砂遊びにMECEなんてない。 〜メゾピアノとメルカリと、私の小さな祈り〜

「あぁっ、そこは水入れないで……!」

​とある中部地方の、穏やかな朝。喉まで出かかったその言葉を、私は砂場の縁に座って、飲み込んだ。

目の前では、娘がメゾピアノのワンピースの裾を泥水に浸しながら、一心不乱にバケツに水を汲んでいる。

​仕事なら、ここでロジカルシンキングが発動する。

「その作業の目的は何?」「水と砂の配分は最適か?」「衣類の汚損リスクというコストを考慮しているか?」

でも、今の私は自分に言い聞かせる。

​「MECE(ミーシー)とか、考えない。砂遊びに『漏れなくダブりなく』なんてないんだから!!」

​砂遊びは、カオスだ。

バケツに水を入れることに、大人が納得するような明確な目的(ゴール)なんてない。

かつて保育士試験のために必死で暗記した「保育の目的」という立派な言葉たちが、今の娘の夢中な姿の前では、あまりに無力で、白々しく思えてしまう。

教科書の中の正解よりも、今、目の前で泥にまみれている娘の熱量の方が、ずっと真実に近い。そこに、効率もクソもないのだ。

​「虹だー!」

​娘が叫ぶ。

ホースから勢いよく出た水が、逆光を浴びて小さな七色の橋を架けていた。

同時に、メゾピアノのワンピースは無残に濡れていく。

​その光景を見たとき、私の脳裏に、かつて聖歌集で出会った高田敏子さんの『水のこころ』が静かに流れ出す。

水はつかめません 
水はすくうのです
指をぴったりつけて 
そおっと大切に―

「水のこころ」  高田 敏子

​必死にコントロールしようとしていた「汚れ」も「時間」も「教育」も、本当は水のように私の手から零れ落ちていくもの。

でも、つかめないからこそ、それは光を反射して虹を作る。

​「……大丈夫、これはメルカリだから」

​二回、心の中で唱える。

定価で買った一張羅なら、私の心は今ごろ血の涙を流していただろう。

でも、メルカリで巡り合ってきたこの服は、すでに誰かの「思い出」を経由して、私の元に届いた免罪符だ。

泥で汚れたワンピースの裾を半目で見る。
そう、これは瞑想。

​教会の祭壇の前で静かに祈ることだけが、信仰じゃない。

泥だらけの娘を前に「これもまた、生かされている時間の一部」と諦め、受け入れる。

この「無」の境地こそが、今の私に必要な「祈り」なのだと思う。

​世の中は、ロジカルで、正解があって、ガチガチに頑張る人で溢れている。

「キリスト教徒なら、もっと聖らかに子育てしなきゃ」

「専門職なら、もっと正しく子供を導かなきゃ」

​そんな外野の声は、砂場に流し込んだ泥水と一緒に流してしまおう。

​バケツから溢れた水が、私の足元まで届く。

MECEじゃない。ロジカルでもない。

でも、この余白だらけで、目的不明な時間が、私のこわばった心を一番優しくデバッグしてくれる。

​「ねえ、ママ!見て!コーヒーできた!」

​泥水の入ったバケツを差し出す娘。

私はそれを受け取り、エアで一口飲む。

「おいしい。世界一のコーヒーね」

​アーメン。

明日の洗濯は大変そうだけど、今この瞬間、私の「心のスタイルシート」は、最高に美しい余白で満たされている。

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