SF小説 クオリア・ゼロ 第1話「コーヒーの匂い」
クオリア・ゼロ
第1話「コーヒーの匂い」
窓の外はまだ暗い。深澤玲(みさわ・れい)は、抽出されたばかりのコーヒーをカップに注ぎながら、いつものように、ふと手を止めた。
湯気が立ちのぼる。豆の焦げた匂いと、わずかな酸味の混じった何か。
——これを「匂い」と呼ぶこと自体、もう十年近く前から公式には推奨されていない。
正しくは、こう言うべきだ。嗅覚受容体がある種の分子構造を検出し、その情報が処理されて、脳内で「コーヒーらしさ」に対応する反応パターンが生成された。それだけのことだ。そこに、玲が今まさに感じている——としか言いようのない、あの生々しさが宿る余地はない。
理論上は。
玲はカップを口に運ばず、しばらくそのまま立っていた。
三年前、玲はこの世界の前提を書き換えたチームの一員だった。国際意識標準化機構、通称ISCOが主導した「統合検証プロジェクト」。情報理論と神経科学を統合したその理論は、最終的にひとつの結論に到達した。
*主観的経験というものは、複雑な情報処理が自らを記述する際に生じる、言語上の産物にすぎない。*
いわゆる「クオリア」は、実体として存在しない。
この結論が発表された日を、後の歴史は「大脱魔術化(グレート・ディスエンチャントメント)」と呼ぶことになる。哲学は静かに書き換えられ、法律は「苦痛」や「喜び」という言葉を使うことをやめ、かわりに「負の処理負荷」「正の処理最適化」という表現を採用した。芸術さえも、「感動を与える」ではなく「特定の情報パターンに対する反応を誘発する」という言い方に変わった。
玲は、その理論の数式部分を実際に組み上げた張本人のひとりだった。誰よりも理論を理解している。誰よりも、その正しさを疑う理由がない。
——なのに、コーヒーの匂いから、目を逸らせない朝がある。
「深澤さん、また固まってますよ」
声に振り向くと、同僚の桐生が、扉から顔を覗かせていた。三十代前半の若い認知設計官で、玲より五年遅れて理論の実装フェーズから加わった人物だ。
「……ああ、少し考え事を」
「珍しいですね。玲さんが朝から思考リソースを個人的な処理に割くなんて」
軽口のつもりだろう。だが、その言い方——「思考リソースを割く」という表現が、今日はやけに耳に障った。
「桐生くん。君は、このコーヒーに、何か……感じる?」
桐生は一瞬、怪訝そうな顔をした。それから、ああ、と笑った。
「感じる、というと語弊がありますけど。芳香分子のパターンに対して、快の方向性を持つ反応が生成されてはいますよ。だから飲んでます」
「それだけ?」
「それだけ、で合ってますよね? 玲さんの証明ですよ」
玲は、うなずいた。それ以外に、返す言葉がなかった。
桐生が去った後、玲は誰もいないラウンジで、もう一度カップを見つめた。
湯気の向こうに、何かがある。理論上、そこには何もないはずの場所に。
その日の午後、玲のデスクに一件の報告書が届いた。差出人不明。件名には、ただ番号だけが振られていた。
*report #4471 *
開くと、たった数行の記述があった。ある市民からの申告——「証明後も、痛みが痛みのままだ」という、医学的にも制度的にも、存在しないはずの訴え。
玲は、その画面をしばらく見つめていた。
窓の外では、朝がようやく明けようとしていた。玲には、それが——ただの光量の変化以上の何かに、見えてしまっていた。
(第2話「report #4471 」へ続く)
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