人間と宇宙 第11話 それでも人間はなぜ意味を作り続けるのか
人間と宇宙 第11話 それでも人間はなぜ意味を作り続けるのか
前回、宇宙の果てには「熱的死」と呼ばれる、何も起こらなくなる静寂が待っているという話をした。
もしそれが本当なら、人間が今どれだけ頑張って何かを積み上げても、最終的にはすべてが均され、消えてしまう。だとすれば、そもそも意味を作ることに、どんな意味があるのだろうか。今回は、この問いに正面から向き合ってみたい。
「どうせ終わる」という感覚は、実は新しくない
「どうせいつか終わるのだから、意味なんてない」という感覚は、宇宙論を知らなくても、多くの人が人生のどこかで抱くものだ。
自分が死ねば、積み上げてきたものの多くは、いずれ忘れられていく。会社も、作品も、思い出も、時間が経てば風化していく。近しい人の死や、自分の老いを意識したとき、多くの人がこの感覚に触れる。
熱的死の話は、この「どうせ終わる」という感覚を、個人の一生から、宇宙全体の未来にまで引き伸ばしたものにすぎない。スケールは途方もなく大きくなっているが、問いの構造そのものは、実はずっと昔から人間が向き合ってきたものと同じだ。
終わりがあるからこそ、生まれるものがある
そして、人間はこれまで、この「どうせ終わる」という感覚と、まったく無縁に生きてきたわけではない。むしろ、終わりを知っているからこそ生まれたものが、たくさんある。
一輪の花が美しく感じられるのは、それがやがてしぼむと知っているからでもある。一期一会という言葉があるように、二度と同じ瞬間が訪れないと分かっているからこそ、その瞬間を大切にしようとする感覚が生まれる。もし何もかもが永遠に続くとしたら、今この瞬間を特別なものとして扱う理由も、薄れてしまうかもしれない。
終わりがあるという事実は、意味を消し去るものではなく、むしろ意味を際立たせる条件になっている場合がある。
「残るかどうか」と「意味があるかどうか」は別の話
もう一つ、整理しておきたいことがある。それは、「最終的に何も残らない」ということと、「意味がなかった」ということは、実は別の話だということだ。
たとえば、誰かと過ごした楽しい一日は、その日が終わればもう二度と戻ってこない。記憶さえ、いずれは薄れていく。それでも、その一日を過ごしている間に感じた喜びは、確かにそこにあった。後から「残らなかったから、あの喜びは無意味だった」と考える人は、あまりいないだろう。
意味は、後世に残るかどうかで決まるものではなく、その瞬間に、確かに経験されたかどうかで決まるものなのかもしれない。だとすれば、宇宙がいつか熱的死を迎えるとしても、それは、これまで人間が積み重ねてきたことの意味を、後から取り消すものにはならない。
意味を作ることは、宇宙への「返事」なのかもしれない
この連載の第1話で、宇宙の側には、たぶん意味なんて用意されていない、という話をした。
それでも人間は、科学を作り、物語を作り、誰かを愛し、何かを大切にしながら生きている。これは、宇宙が用意してくれなかった意味を、人間の側から差し出しているということなのかもしれない。宇宙が沈黙している中で、人間だけが、何かを語ろうとし続けている。
終わりが待っていることを知りながら、それでも語ろうとするその営みこそが、宇宙という圧倒的な沈黙に対する、人間なりの返事なのかもしれない。
次回、この連載の最終話として、ここまでたどってきた道のりを振り返りながら、「人間であること」の意味について、一度まとめてみたい。
(第12話につづく)
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