人を許容する物理学 第6話 自由意志がなくても責任はあるのか
人を許容する物理学 第6話 自由意志がなくても責任はあるのか
今日のテーマ
前回、善悪は宇宙に客観的に存在するものではなく、集団で生きる生物が生存戦略として編み出した仕組みだという話をしました。
今回は、その善悪の判断とセットで語られることの多い、もう一つの重いテーマに踏み込みます。
自由意志がなくても責任はあるのか。
「自分の意志で選んだ」という感覚は、私たちの行動の根拠になっています。しかし、脳が物理法則に従う一つのシステムだとすれば、その「自由な選択」とは一体何なのでしょうか。
脳は物理法則の外にいない
脳は、ニューロンという神経細胞が電気信号と化学物質でやり取りする、物理的なシステムです。ニューロンの発火は、それ以前の状態や入力によって決まります。魔法のように、原因なく意志が発生するわけではありません。
有名な実験として、ある行動を「決めた」と本人が意識する前に、脳の中ではすでにその準備にあたる活動が始まっていることを示した研究があります。これをどう解釈するかについては議論が続いていますが、少なくとも、「まず自由な意志があって、その後に脳が動く」という単純な図式は成り立ちにくいことを示しています。
このことは、「人間には自由意志など存在しない」という結論に直結するわけではありませんが、少なくとも「意志は脳の活動から独立した特別な力である」という直感には、疑いの目を向ける必要があります。
それでも「責任」は消えない
ここで多くの人が不安になるのは、「意志が脳の物理的な過程の結果でしかないなら、責任も消えてしまうのではないか」という点です。
しかし、責任という概念は、そもそも「意志が物理法則の外側にある」ことを前提にしなくても成立します。責任とは、ある行動をした人に対して、社会がどう反応し、その人がどう行動を調整していくかという、関係性の中の仕組みだからです。
たとえば、他人に危害を加えた人に責任を問うのは、その人の意志が宇宙の法則から自由だったからではなく、責任を問うという仕組み自体が、将来の行動を変え、集団の秩序を保つために機能するからです。責任は、形而上学的な自由意志の有無ではなく、実際に機能するかどうかで支えられています。
「決定論」と「責任」は矛盾しない
哲学の世界では、この立場は「両立論」と呼ばれることがあります。行動が過去の原因によって決まっているとしても、その人が持つ理由づけの能力、他者からの働きかけに反応して行動を変える能力があれば、責任を問うことには意味がある、という考え方です。
石が坂道を転がって人にぶつかっても、石に責任は問いません。石には、状況を理解し、行動を調整する仕組みがないからです。一方、人間には、理由を理解し、将来の行動を変える能力があります。責任とは、この「調整可能なシステムであること」に向けられていると考えると、決定論と責任は対立しません。
裁きではなく、調整のための責任
ここまでを踏まえると、「責任を問う」という行為の目的も見え方が変わってきます。
それは、「本来自由に選べたはずなのに、あえて悪を選んだ人間」を罰するための儀式というより、複雑なシステムである人間が、フィードバックを受けて行動を調整していくためのプロセスだと捉えることができます。この視点は、間違いを「本来あってはならないもの」として裁くのではなく、システムが機能していく過程として見る、前々回からの流れとも重なります。
次回予告
次回は、「感情は人間の欠陥なのか」というテーマに進みます。理性的な判断の邪魔をするものとして扱われがちな感情を、情報処理システムとしての人間の中でどう位置づけ直せるかを考えていきます。
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