リューベックへの憧憬―バッハが追い求めたブクステフーデのオルガンの響き
オルガニスト椎名雄一郎氏による「オール・ブクステフーデ」のコンサートを聴きに、東京カテドラル聖マリア大聖堂へ行ってきました。
この日は、日中は穏やかな晴れ。夜になり、澄んだ星空のもと、今日の会場の大聖堂のシルエットが美しく浮かび上がり、演奏会への期待がいっそう高まります。演奏に先立ち、椎名氏から、この日のプログラムについて、ご挨拶と解説がありました。
東京カテドラルは、演奏会場としては少し特別な場所です。何よりも、客席から演奏者の姿が見えません。これは、オルガンに『リュックポジティフ』と呼ばれる、演奏者の背後に設けられたパイプ群があるためです。皆さまからご覧になった際、一番手前に突き出している部分がそれにあたります。
もしかすると「奏者の姿が見えないのは残念だ」と思われる方もいらっしゃるかもしれません。しかし、このリュックポジティフこそが、ブクステフーデのオルガン音楽において極めて重要な役割を果たしているのです。彼が活躍した北ドイツの多くのオルガンにはこの機構が備えられており、その響きが音楽の生命力を支えています。この大聖堂の豊かな残響の中で、リュックポジティフの響きとともに息づくブクステフーデの音楽をお聴きいただければ幸いです。

ヘンデルもバッハも、「北の巨匠」ブクステフーデに会いにいく
かつてハンザ同盟の盟主として栄華を極めた貿易都市、ドイツ・リューベック。その中心にある聖マリア教会のオルガニストとして1668年に就任し、街の繁栄を象徴するかのような音楽を奏でたのが、ディートリヒ・ブクステフーデ(1637-1707)です。
当時、彼の名声はヨーロッパ全土に轟き、多くの音楽家がその妙技についての学びの機会を求めてリューベックを訪れました。1703年にはヘンデルとマッテゾンが、そして1706年には若きJ.S.バッハがこの地を訪ねています。
アルンシュタットの教会オルガニストだったバッハは、ブクステフーデからあらゆることを吸収しようと、4週間の休暇を取得して400㎞の旅に出ました。そして、その音楽の虜となったバッハは、無断で休暇を3ヶ月にも延長してしまいます。職務放棄をしてまで留まりたかったほど、ブクステフーデの音楽は、若きバッハにとって圧倒的だったのです。歴史を振り返ってみれば、この「リューベック詣で」がバッハに与えた衝撃は計り知れず、事実、この滞在を境にバッハの作風は劇的な進化を遂げることになります。
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バッハが筆写した大作、コラール幻想曲《今ぞ喜べ、愛するキリストのともがらよ》BuxWV210
バッハはリューベックを訪れる以前から、すでにブクステフーデの音楽に魅了されていました。2006年に発見された現存最古のバッハの自筆譜「ヴァイマル・タブラチュア」の中に、ブクステフーデのコラール幻想曲《今ぞ喜べ、愛するキリストのともがらよ》BuxWV 210が含まれていたのです。
まだ10代前半だった少年バッハは、遠い北の巨匠の楽譜を一心不乱に筆写していました。若き日の彼は、大都市リューベックの華やかな音楽文化、そしてブクステフーデに、並々ならぬ憧れを抱いていたに違いありません。
この《今ぞ喜べ〜》は、コラール(賛美歌)に基づくオルガン作品の中でも最大級の規模を誇り、ブクステフーデ作品の中でも屈指の難曲として知られています。椎名氏は「まるで、おもちゃ箱のような旋律を楽しんでいただけたらと思います」と紹介した通り、創意に満ちた技巧、華美な装飾、そして厳格な対位法。次々と音色を変えながら旋律が展開していく様は圧巻で、最後は荘厳な響きで堂々と締めくくられます。
ここでは、実際にどのような演奏が行われているのかを見てみましょう。奏者の左右でアシスタントがいくつものストップ(音色装置)を切り替えていく様子からも、この曲がいかに色彩豊かに作られているかが伝わってきます。
私がブクステフーデの作品に惹かれる理由は、その自由奔放な即興性と華やかな装飾にあります。それらは、大都市リューベックに君臨したオルガニストとしての威厳と、聴衆を魅了する圧倒的な「スター性」を肌で感じさせてくれます。
かつて多くの音楽家がこぞって「リューベック詣で」を行ったという伝説的な響き。今回の東京カテドラル聖マリア大聖堂におけるコンサートでは、リュックポジティフを備えたオルガンがその立体的な音響を見事に再現し、往年の輝きを現代に蘇らせてくれました。

<プログラム>
前奏曲 ニ短調 BuxWV 140
今ぞ我ら聖霊に願いたてまつる Bux WV 208
今ぞ喜べ、愛するキリストのともがらよ Bux WV 210
カンツォーナハ長調 Bux WV 166
トッカータへ長調 Bux WV 156
前奏曲ト短調 BuxWY 148
天にましますわれらの父よ Bux WV 219
第1法によるマニフィカト BuxWV 203
いざ来ませ、異邦人の救い主よ BuxWV211
前奏曲 二長調 BuxWV 139
<椎名雄一郎 プロフィール>
東京藝術大学音楽学部器楽科オルガン専攻卒業。
同大学院音楽研究科修士課程修了。第1回ダラス国際オルガンコンクール第2位。第12回ライプツィヒ・バッハ国際コンクール第3位。2002年NDR(北ドイツ放送局)音楽賞国際オルガンコンクール優勝。
ウィーン国立音楽大学に留学し、オルガンを故M.ラドウレスク、チェンバロを故G.マレーの各氏に事し、満場一致の最優秀の成績で卒業。スイス、バーゼル・スコラカントルム音楽院に留学。オルガンとチェンバロをJ.C.ツェーンダー、通奏低音をJ.A. ベッティヒヤー、アンサンブルをA.ルーリーの各氏に師事。日本のほか、スイス・オルガン・フェスティバルをはじめ、ドイツ、オーストリアを中心に欧州各地で演奏会を行なう。
コジマ録音よりCD「バッハのオルガン解体新書」、「平和の祈り」、「メンデルスゾーンオルガン作品集」などをリリースし、レコード芸術特選盤に選ばれる。また春秋社より「パイプオルガン入門」を出版する。
現在、東北学院大学文学部教授、大学宗教主任、宗教音楽研究所所長。日本基督教团讚美歌委員会委員。日本基督教団吉祥寺教会オルガニスト。


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