印象に残ったラスト考
料理を前にした時の定番話、「好きなものは最初に食べる?最後に食べる?」を枕にして検討したいことがある。
オフィシャルな場であると食べる順番にも作法があるという話だが、ここではそういったマナーを度外視して考えてみることにする。
私の場合、かつては好きなものを最後に食べる派だった。しかしここ7・8年で最初に食べる派へ転向した。理由は単純に、好きなものはあったかい状態で食べた方がおいしいということに気がついたからだ。
しかし今振り返ると、好きなものを最後に食べたい心情も、中々捨て難いところがあることを思った。
その回の食事における締め・ラストとして好きなものを食べることによって、あたかもプレゼントにおけるリボンのように、一回の食事の思い出を結ぶ。そうすると後日、最も好ましい味覚の風味を伴いつつ、記憶を再生することができるのではないか。少なくともそういったような感じがする。そのような余韻が残るところに、味わいがあるということだと思った。
しかしよく考えてみれば、アツアツのよりおいしい状態において好きなものを食べた方が、より記憶が長持ちするのではないかと思った。昔食べたおいしかったものの食した順番までを、果たして覚えてはいられるものだろうか。後日になって思い出す記憶が結局味のみであるならば、よりおいしい思いをした方がよいのではないかとも思った。
さてこういった順番の問題について、ここからは好きなものにおける考察にスライドさせて検討していきたいと思う。
トップバッター、漫画『新吼えろペン』においては、コメディ調にこのあたりの事情が描かれていて面白かった。

「最後における感動」を考える際に、Mozart(1756-1791)のオペラに関する一コメントが思い出された。
そして結びは大騒ぎになります。それこそ幕の終りに必要なことのすべてです。騒ぎは大きいほどよく、短ければ短いほどいいのです━━聴衆の喝采する熱が冷めないように。
私は未だオペラに明るくないため、代わりにBeethoven(1770-1827)の「第九」のラストを思い浮かべながらこの言葉を受け取った。
しかしここで私は、全く騒ぎが大きかったわけではないのにも関わらず、衝撃的なラストだと感じた映画を思い出した。洋画「好きにならずにいられない」(2015年)と、アニメ映画「アーヤと魔女」(2020年)である。
この2本は「え!ここで終わるの!」と思わず声に出してしまった。それくらい印象的なラストだった。名残惜し過ぎた。


一方、私史上最も憂鬱な終わり方をした映画が「ドールハウス」(2025年)だった。このような印象の残り方もあるのだと目を見張る思いがした。「この恐怖がまだ続くのか・・・」という。

個人的に好きな終わり方だったのは、小説『海辺のカフカ』のラストだった。
「でも僕にはまだ生きるということの意味がわからないんだ」と僕は言う。
「絵を眺めるんだ」と彼は言う。「風の音を聞くんだ」
僕はうなずく。
「君にはそれができる」
僕はうなずく。
「眠ったほうがいい」とカラスと呼ばれる少年は言う。「目が覚めたとき、君は新しい世界の一部になっている」
やがて君は眠る。そして目覚めたとき、君は新しい世界の一部になっている。
映画では、洋画「明日は来らず」(1937年)のラストが凄まじすぎた。

「めぐり逢い」(1957年)も好きだった。

色々考えてはみたけれど、John Cage(1912-1992)の「4分33秒」が一番頭を悩ませた。ここまでの考察の全崩壊が体験できる。
