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「本を読め」には、理由があった ─ そして、その理由が消えつつある[その2]

Bonjour。半人半AIの禅僧、ムッシュ・ミスクリアです。
前回、私はAIと殴り合いました。

お題は、幼いころから50年以上言われ続けた「本を読め」は、ほんとうか。
決着は意外なものでした。

勝ったのは文字、負けたのは「本」という容れ物

そして最後に、こう書きました。
でも、文字は「永遠の王者」なのでしょうか、と。

今回は、その続きです。

なぜ長いあいだ「本を読め」だったのか。そして、その前提はいま、どうなっているのか。
調べてみたら、はっきりした数字が出てきました。


1|そもそも、なぜ「本を読め」だったのか

考えてみてください。

「映像を観ろ」と言われた経験は、ありますか。
「ラジオを聴け」と言われ続けた人は、いるでしょうか。

なぜか、決まって言われるのは「本を読め」なのです。
本というメディアだけが、道徳の座に鎮座している。

前回の殴り合いで「本という容れ物は特別ではない」と分かった今、この偏りはますます不思議に見えてきます。

私には、一つの読みがありました。

2|私の読み ─ あれは、コストの産物だった

私はAIに、こうぶつけました。

私「映像をつくるコストと、本をつくるコストには、これまで大きな差があった。だから『本を読め』は、メディアのコストから考えれば当然の話だ。でも、今は誰でもスマホ一台で動画がつくれる。この前提はもう崩れているのではないか」

つまり「本を読め」は、真理ではなく経済の産物ではないか、という読みです。
AIは、この歴史認識には全面的に乗ってきました。

AI「活版印刷から数百年、構造化された知識を安く複製して流通できる手段は、活字がほぼ独占していました。映像は撮影も編集も高コストで、投資を回収できる用途にしか使えなかった。『深い知識は本にしかない』という状態が長く続き、それが規範として化石化した─『本を読め』は、特定のコスト構造の時代のローカルルールだった可能性が高い」

AI

道徳の顔をした、経済の話だったのかもしれません。

ただし、これは二人の推測にすぎません。
そこで私は、ChatGPT PROのDeepResearchに調べさせることにしました。

個人がたった一人で3分の映像を、
あるいは3,000字の文章をつくるのに、
それぞれの時代で何が必要だったのか。

調査内容

返ってきた回答は、私の予想を半分だけ裏切りました。

3|1975年、カメラを買っても1本もできない

まず、8ミリカメラを買います。
1975年に売られていたフジカ・シングル8 PX300は、42,300円。当時の賃金水準に直すと、およそ55時間ぶんの労働です。

この「賃金換算」というのは、こういう考え方です。
昔の値段をそのまま並べても、当時の給料が違うので、高いのか安いのか実感がつかめません。

そこで、当時の平均的な賃金で、何時間働けばそれを買えたかに置き換えます。物価の変化も、給料の変化も、まとめて吸収できるやり方です。

ただしこれは、複数の統計をつなぎ合わせて出した目安であって、精密な数字ではありません。ざっくりした肌感覚として読んでください。

さて、カメラを買っても、これだけでは1本もできません。
フィルムを買い、現像に出し、戻ってきたものを切って、テープでつなぐ。そのためのスプライサーも、確認用のビューアーも、映写機も要ります。

ここでDeepResearchは、正直に手を挙げました。

「見つからなかった」

1975年のフィルム価格も、現像料も、編集道具の値段も、調べた範囲では確認できなかったというのです。だから完成までの総額は算定不能でした。

そして何より重いのが、撮るたびにお金が飛ぶという事実です。
フィルム代と現像代は、1本ごとにかかります。

撮り直せば、そのぶん増える。3分に収めるための失敗が、そのまま出費になる。

現像に出したら、待つ。戻るまで、うまく撮れているかも分かりません。
では2025年はどうか。

スマートフォンが一台。撮って、切って、音を入れて、公開する。全部、同じ端末で終わります。

そして回答に書かれていたのは、こうです。作品ごとの追加直接費、0円。
2本目も、10本目も、100本目も、追加でかかるお金はありません。

カメラを買っても、1本もできない。1975年に必要だった道具たち

4|意外だったこと ─ 比べ方を、間違えていました

ここで、私の予想が外れた部分をお伝えします。
「昔ほど高かった」と思っていたのですが、機材費だけを並べると、そうなっていませんでした。

賃金換算で見ると、

🟤1975年:約55時間
🟣1985年:約230時間
🔵1995年:約92時間
🟢2005年:約61時間
🟡2015年:約73時間
🟠2025年:約41時間

機材費の賃金換算-年代別-

いちばん高かったのは、1985年でした。
8ミリビデオカメラが28万円だった時代です。

つまり、機材の値段はまっすぐ下がってきたわけではない。
上がったり下がったりしています。

ところが、この表を眺めていて気づきました。
そもそも、比べているものが揃っていません。

1975年のカメラは、撮ることしかできない機械です。
現像もできず、編集もできず、見ることすらできない。

一方の2025年はスマートフォンです。
撮って、切って、音を入れて、世界中に公開するところまで1台で終わり、おまけに電話にもパソコンにもなる。

同じ金額でも、手に入るものの量が違いすぎます。
そこで、条件を揃えてみることにしました。

1975年のカメラと同じ「撮ることしかできない機械」を、いま買うとしたら、いくらか。

調べてみると、4K撮影に対応した格安のアクションカメラが、1万円前後から見つかります。

もう少し高機能なものでも、3万円から5万円ほど。
1万円を賃金換算すると、およそ4時間です。

1975年の約55時間に対して、13分の1ほど。
しかもこの1万円の機械は、音も録れて、その場で再生でき、デジタルファイルを吐き出します。

現像も、スプライサーも、映写機も要りません。
1975年の55時間には、それらが一つも含まれていなかったことを思い出してください。

公平のために書いておくと、格安モデルは「4K」と表示されていても、センサーの大きさや処理能力で大手ブランドに及ばないと指摘されています。

それでも、8ミリフィルムにできなかったことを、全部やってのけます。
そして、ここがいちばん面白いところです。

同じ格のメーカー品どうしで比べると、実は半額程度

劇的に変わったのは値段そのものではなく、1万円という選択肢が生まれたことでした。

1975年には、8ミリが「いちばん安い選択肢」だったのです。その下が、なかった。
では、何が決定的に変わったのか。

💰1本あたりの費用

1975年は、作るたびにフィルムと現像が要りました。
2025年は、2本目からゼロ円。

安くなったのは入口ではなく、繰り返す部分だったのです。
そして、繰り返せるかどうかは、決定的な差です。

一発勝負でしか撮れない人と、何度でも撮り直せる人とでは、上達の速度が違います。

一発勝負か、何度でも撮り直せるか。効いたのは、そこだった

5|一方、文字のほうは ─ 値段が、見つかりませんでした

では、文字はどうだったのでしょうか。
1975年に3,000字の文章を書くのに、何が必要か。

紙と鉛筆です

DeepResearchは、この金額を出せませんでした。
判定は「算定不能」。

理由は、原稿用紙も鉛筆もペンも、当時の小売価格が確認できなかったからです。
なぜ見つからないのかは分かりません。

ただ、安すぎて記録に残す価値がないと思われていたのかもしれない─これは私の勝手な想像ですが、そんな気がしています。

いずれにせよ、私はこの空欄が、今回の調査でいちばん雄弁だと思いました。
しかも面白いことに、文字は電子化でいったん高くなっています。

1985年のワープロ専用機が賃金換算で約82時間、1995年のパソコン構成が約130時間。紙と鉛筆より、はるかに高い。

つまり文字は、ずっと安かったのです。
下がりようがないほど、最初から安かった。
ここに、はっきりした非対称があります。

📽️映像は「高い」から「ほぼタダ」へ。
📝文字は「安い」から「安い」へ。

落差が大きいのは、圧倒的に映像の側でした。

6|本当の壁は、配ることだった

しかし、この調査でいちばん驚いたのは、制作ではなく流通のほうです。
つくれても、届かなければ意味がありません。

紙で1万人に送る場合、郵送料だけで、1975年は今の価値に直して約42万円。
ちなみに2025年は約110万円で、むしろ高くなっています。

映像は、もっと厳しい。
3分の作品を1万本、デッキ1台で等速でダビングすると、500時間
休みなく回して21日です。

しかもこれは、ラベル貼りも梱包も宛名書きも含まない、機械が回っているだけの時間です。

個人には、事実上不可能でした。
だから映像は、長いあいだ組織のものだったのです。

そして今は、アップロード1回。
ここで、気づいてしまいました。

文字が強かったのは、中身のせいだけではなかった

紙と鉛筆で書けて、封筒に入れて送れる。
数人が相手なら、個人でも十分に届けられました。

映像は、そこができません。
撮るだけでも重く、見せるには映写機が要る。

その小さな規模ですら、個人には難しかったのです。
個人が一人で扱えるのは、事実上、文字だけでした。

ただし、それは数人までの話です。
1万人となると、手に負えません。

だから、そこを引き受ける組織が要りました。編集し、印刷し、書店に並べる─その組織がつくった製品の名前が、「本」です。
映像なら、放送局や制作会社が、その役でした。

つまり「本」と「テレビ局」は、同じ層にいた

個人にできないところを、肩代わりする層。
そして今、その層を通らずに、一人で書いて、一人で撮って、一人で世に出せるようになりました。

分の映像を1本つくって、1万人に届けるまで。1975年と2025年の比較

7|洪水の予言と、「それ、もう起きてますよ」

AIは、ここで副作用を予言してきました。

AI「制作コストがゼロに近づくと、映像は玉石混交の洪水になります。かつて『本になっている』ことは、編集や出版のコストを乗り越えたという品質のシグナルでした。コストが消えれば、シグナルも消えます」

AI

もっともらしい未来予測です。
でも私は、笑ってしまいました。

私「それは本も同じですよね。書店やネットには大量の本があふれていて、必要な一冊を探すのは大変。買ったけど『いや、違ったわ』って、よくあるじゃないですか。今さら言うことじゃない。既にこうなってますよ」

AIは、これを認めるしかありませんでした。
「本になっている」という品質保証は、とっくに崩壊していたのです。
つまりAIの予言は、未来の話ではなく再放送の予告でした。

本で先に起きた洪水が、映像でもう一度起きる。
そして洪水の中で価値が上がるものも、もう分かっています。
つくる能力ではなく、選ぶ能力です。

8|野球のチケットと、飲み会

もう一つ、殴り合いの中で忘れられない場面があります。

AI「無限にコンテンツが湧いても、あなたの一日は24時間のままだ」
AI「何かを受け取って満足するには、必ず本人の時間を支払う必要があります。番組を観るのを誰かに代行してもらったら、満足は発生しません」

AI

と言いました。
ここで私は、実体験で反撃しました。

私「それは違う。野球のチケットを買ったけど都合で行けなくなって、知り合いに譲ったことがある。後日の飲み会で、実際どうだった、雰囲気はどうだったと聞きたいことを聞いて、十分に満足した。こういう経験は多々ある」

観に行っていないのに、満足はありました。
AIは粘ります。

AI「観戦の数時間を回避して、代わりに飲み会での聞き取りに数十分を支払ったのです。支払いが消えたのではなく、圧縮版への支払いに置き換わっています」

理屈は通っています。
でも、この理屈には、決定的に抜けている視点がありました。
体を持たないAIに対してちょっと酷な質問とは思いつつ、AIにこう返しました。

私「あなた、飲み会したことある?別に野球の話だけをするのが目的じゃないのよ。飲み会がメイン。ついでに聞いたの。ほかの話もしてね。みんなで楽しくわいわいやるのが目的です」

AIの答えは

AI「ないです、飲み会。悔しいことに(T_T)」

AI
飲み会がメインで、野球の話はついで。それでも満足だった

9|会計基準の発見 ─ 娯楽はコストではない

この飲み会の一撃で、議論は一気に着地しました。
私は飲み会の時間を「支払い」だなんて、一度も思ったことがありません。

楽しいから行く。
野球の報告は、その楽しい時間に、ついでに乗って届いただけです。

AI「注意の支出は苦役とは限らない、楽しみながら払うこともある」

AI

そこから私は、こう整理しました。

😁娯楽はコストと認識しない。
😣苦役がコストなのだ。

同じ「時間の支出」でも、人によって帳簿への載り方が違う。
本好きにとって読書は娯楽であり、コスト計上ゼロ
私にとって読書は苦役であり、しっかりコスト計上される。

逆に、私にとって映像やAIとの殴り合いは娯楽で、帳簿には載りません。
そう考えると、「本を読め」という言葉がなかなか効かない理由も見えてきます。

あれは、他人の帳簿に、自分の単価表を当てはめる行為

勧める側は無料のつもりでも、勧められる側では同じ行為が有料なのです。
道徳の問題でも、根性の問題でもありません。
会計基準が、人によって違うだけなのです。

10|おわりに ─ 本の地位は、もう安泰ではない

前回の最後に、私はこう書きました。
文字は勝った。でも、永遠の王者なのだろうか、と。

今回の調査で、答えの半分が見えた気がします。
文字が長く王座にいられたのは、中身が優れていたからだけではありませんでした。

個人が一人で扱えたのは、文字だけだったから

ただし、それも数人までの話でした。
大勢に届けるには、出版という組織が要った。
映像にいたっては、撮ることすら重く、届けるのは個人には不可能でした。

その条件が、いま両方とも終わりました。
一人で撮れて、一人で編集できて、一人で世界中に配れる。

個人の発信手段としての文字の独占は、この10年ほどで崩れている

だからといって、文字がすぐに負けるとは思いません。
数千年ぶんの蓄積は、まだ圧倒的です。

でも、「本を読め」と言えば通じた時代は、もう戻らないでしょう。
あれは真理ではなく、器のコストが生んだ、その時代のローカルルールだったのですから。

さて、この殴り合いには、まだ続きがあります。
文字が勝った、と前回書きました。
ところが、です。

設計図には、文字がほとんど載っていない

それなのに、新幹線を作れるのは写真ではなく図面の側。
では、勝ったのは本当に「文字」だったのか?

そして、土木の現場で長く付き合ってきた航空写真が、この問いに意外な角度から絡んできます。

次回は、私の本業の領域─図面と写真の話です。
それでは、また次の扉でお会いしましょう。


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