【小説】告白タクシー
●予感
その紳士は、傘に残った水滴でシートを濡らさないように気をつけながら、するりと車内に滑り込んだ。雨が激しさを増す中、タクシーをひろうことができてほっとした様子が、運転席に座る僕、野々宮悟(ののみやさとる)の肩越しにも伝わってくる。ほうっと息をつく音がした後、「箱根へ」と行き先が告げられた。ここ日本橋からだと、一時間半はかかる。深夜料金も含めると、かなりの額になるだろう。
見るからに上品なツイードのスーツ、型崩れの心配がなさそうな中折れハット、そして黒光りした持ち手の傘。乗り逃げを心配するような要素は、一つも見当たらない。タクシーの運転手にとって、ありがたい客であることに間違いはなさそうだ。心配なのは、雨脚だ。雨の日の事故件数は普段の五倍にもなる。
しばらくは、小さな音量で流れるクラシック音楽が、雨の音とともに静かに車内を満たしていた。ただ、予感のようなものはあった。きっと、始まるだろうという密やかな予感。
紳士がおもむろに口を開いた。
「今日はね、五十年ぶりに親友に会ってきたんですがね」
天職というものがあるのかどうか、僕にはわからない。だた、僕にとっては、タクシーの運転手がそれだった。運転が好きだったし、そして何より一人になれる。
大学を卒業して就職した出版社で、人間関係に疲れ切ってしまった僕には、この小さな一人の空間が心地よかった。音楽を流しておけるのもいい。昼間はお客さんのために、当たり障りのないラジオをつけておくのだけれど、暗くなってからは自分の好きな音楽を流す。FMラジオに接続できるオーディオアクセサリーがあれば、携帯からプレーヤーからも簡単に音楽を流すことができる。僕はクラシック音楽を好んで流している。気持ちが落ち着くし、運転に集中することができるからだ。それに、クラシックに文句をつけるお客さんはいない。
一回の勤務時間が二十時間という働き方をする僕にとって、これは大切な決まりごとだった。二日分の勤務を一気にこなす運転手にとって、どこかで気持ちをリセットすることは、安全面から見ても重要なことだ。ラジオのニュースから、自分の好きな音楽に切り替えることで、僕は一段階リラックスすることができた。さあ、これからは自分の時間なのだと。
手がけたものが残る本の仕事と違って、時間だけが流れていってしまうような頼りなさを、この音楽への切り替えが緩和してくれたのかもしれない。
だから最初は、特に気にも止めなかった。
夜になると、タクシー運転手を相手に、長々と話す人がけっこういるものだと、思っただけだ。僕自身はタクシーに乗っても何も話さないから、人がこんなにも運転手と話したがっていたというのは、新しい発見だった。
しかし、同じ会社の運転手と世間話をするようになるにつれて、どうやら皆が僕と同じ状況に置かれているわけではないということは、だんだんわかってきた。つまり、お客さんの長い話、しかも告白めいた物語を聞かされる運転手というのは、どうやらいないようなのだ。
僕のタクシーが、ある種人々の告白の受け皿になっているようだと気づいたのは、ある男性が降りぎわに言った一言のためだった。振り返れば、このタクシーが持つなんらかの雰囲気が、お客さんの告白を誘っていたのかもしれない。もちろん、本当のところはわからない。
その男性は言った。
「なんだか、話をしたくなって。ここでなら、いいような気がしたものですから」
その人は、兄に腎臓をあげた人だった。
●善意
東京郊外の住宅地にお客さんを送り届けた僕は、都心に戻るために、大通りを目指していた。この辺りの住宅地の道は細い上に入り組んでいる。同じ頃に開発されたのだろう、似たような外観の家が多く、自分が来た道を見失いそうになる。だからこんな場所で、お客さんを拾うとは思っていなかった。やけに痩せた男性が、手を挙げている。仕事帰りなのか、上に羽織っているのは、工場でよく見るような作業服だ。男性の細さのせいかその上着のせいか、もう四月だというのにやけに寒そうに見える。もしかすると思いの外、気温が下がっているのかもしれない。
僕は早く男性を車内に入れてあげようと思い、車を止めた。車内のライトに移った男性の顔は、青黒くくすんでいた。風のせいだろうか、もともと癖の強そうな髪の毛が頰に張り付いている。くすんで見えるのは、無精髭のせいもあるかもしれないし、分厚いメガネの曇ったレンズのせいかもしれなかった。男性は「ああ、よかった」と言って乗り込み、小さな紙切れを僕に渡した。
「この住所までおねがいします。ここからそう遠くはないと思うのですが、迷ってしまって」
「このあたりは、わかりにくいですよね」
「ええ、大事な用があるので、どうしてもそこにいかなければならないんですよ」
そう言って、男性は話を始めた。
兄が腎臓病になったんです。いろいろ治療をしましたが、とうとう移植というところにまできてしまいましてね。家族の誰かが提供しなくては助からない、という連絡がきたんです。父親はとうに亡くなっていますし、母も高齢ですから、ドナーになれる可能性があるのは、私と兄嫁と兄の息子でした。母はドナーになることを望みましたが、年齢制限にひっかかってしまい、諦めざるをえませんでした。
とはいえ、誰でもドナーになれるわけではありません。まずは検査が必要になります。兄嫁と息子、私にとっては甥ですね、二人はすぐに検査を受けました。ただ、兄自身は甥が検査を受けること自体に反対していたようです。「子どもから腎臓をもらうわけにはいかない」というのが、兄の一貫した姿勢でした。まあそうですよね。自分の命がかかっているとはいえ、大切な一人息子の若い身体を傷つける、という気持ちにはならなかったのでしょう。
ある土曜日に、私は兄嫁から呼び出されました。気は進みませんでしたが、兄の顔を見ておこうと思い、お見舞いがてら病院に向かいました。兄の顔は以前よりもだいぶくすんでいて、土気色というのはこういう色を言うのだろうかと思いました。本当に、土のような色だったんです。
帰りがけ、病院の廊下で、兄嫁から、「私の腎臓は不適合だった」と告げられました。華やかなその顔に浮かんでいたのは、失望よりも安堵感ではなかったでしょうか。兄嫁は大手企業で、責任ある仕事についています。たとえ夫のためだといっても、自分の健康を犠牲にする気持ちにはならないでしょう。検査によって、そのための免罪符を手に入れたわけです。それに他に候補者が、自分よりもぴったりな血の繋がった候補者がいるならなおさらです。
甥の腎臓は適合したけれども、兄がそれを拒否していると聞き、私は追い詰められたような気持ちになりました。そして話が終わるころには、検査を受ける手はずが整っていました。兄との仲は決して悪くありませんでしたし、優しい兄のことを私は慕っていたのです。そして数日後に行われた検査の結果、私の腎臓は問題なく兄に提供できることがわかりました。
誰がどう考えても、提供するのは私でした。血が繋がった兄弟ですから、きっと予後もいいはずです。私は独り身ですし、何かあったとしても、悲しむ人は母と兄以外にはいそうにありません。それに兄は息子からの提供を拒んでいます。お見舞いに行っても、兄は私に何も言いませんでした。一方兄嫁からは、その後ちょくちょく連絡がくるようになりました。それは兄の容体が、日に日に悪くなっているというものでした。
でも、運転手さん、考えてみてください。そんな簡単に腎臓をあげるなんて決断できるものではないですよ。五十年そこそこの人生を振り返ってみましたが、私が自慢できることといったら、健康くらいのものだったんです。他には、何もなかった。私にとっては、その最後の一つを、差し出すようなものだからです。それに引き換え兄は、全てをもっていました。安定した正社員の仕事、美しく有能な妻、賢い息子。そんな相手に、私がもつ唯一のものを差し出すのは、なんだか不公平なことに感じられました。私はなかなか決心ができませんでした。
ただ、私が断れば兄は命を失うのです。それは間接的に兄を殺すことにも思えて、私は怖くなりました。兄を殺す引き金を、自分が弾く。そんなふうに思えたのです。私には、提供しないという選択肢はないようでした。そのことが、私を逃げ場のない暗い場所に追い詰めていきました。
その恐怖心と戦った後に襲ってきたのは、不思議な感情でした。運転手さん、どんな気持ちかわかりますか? それは「人の命がこの手の中にある」という感覚です。世の中でどれだけの人が、人の生死を左右するような権利を持ち得るものでしょうか。何も持たない私が、もてる最後のものを差し出そうとしている私が握っていたのは、人の運命を左右できるというとてつもない力だったのです。それは恐ろしいほどの全能感でした。
私は兄嫁への回答を引き延ばしました。最終的にはドナーになるつもりでしたが、この気持ちをできるだけ長く味わっていたかったのかもしれません。
ある日仕事を終えてアパートに戻ると、入り口に若い男性が立っていました。
甥でした。
緊張した面持ちの甥は、少し厚みのある白い封筒を私の胸に押し付けました。そして、深々と頭を下げました。
「父はどうしても僕からは腎臓を受け取ってくれないんです。おじさん、どうかドナーになってください」
頭を下げた甥のつむじを見つめながら、私の中に湧いてきた感情は、激しい怒りでした。それは甥のその行動が、私の全能感をあっさりと奪い去ったからです。私は私自身の意思で、兄の命の行方を決めなければならなかった。それが、腎臓を差し出す私に与えられた、唯一の報酬だったはずです。そして次に襲ってきたのは、例えようもない無力感でした。
この瞬間、私の腎臓はその封筒に入っている金額に置き換わってしまいました。私の全能感は急速にしぼみ、跡形もなく消えてしまったのです。突き返すこともできました。臓器提供において、金銭を受け取ってはならないことも、もちろんわかっていました。でも、私はそうしませんでした。私が得るはずだった唯一の報酬は、封筒が提示された時点で、すでに失われてしまったからです。この封筒を拒絶したところで、その報酬が戻ってくることはありません。私が得られるのは、もう白い封筒以外に残されていなかったのです。
封筒を手にしたまま、私は言いました。
「もともと善意で提供するつもりだったんだ」
それは、自分で聞いていても、野党が素晴らしい公約を訴えるような響きを持っていました。甥は感情を失った顔で「ありがとうございます」と言い、その場を去っていきました。
その金額は中途半端なものでしたが、そのぶん、甥がどこからか必死で集めたものであったことが伝わってきました。工場での契約が切れてしまったときには、そのお金が生活を支えてくれました。その後何度も、受け取ってよかったと思ったものです。
移植は成功しました。しかし、兄はその一年後に亡くなりました。もっと早く提供を決めていればよかったのでしょうか。そうかもしれないし、そうではなかったかもしれません。それは、誰にもわからないことです。
今日は、十年ぶりに甥に会いに行くんですよ。ええ、会うのは兄の葬式以来です。ああ、住所はこの一戸建てなんですね。ありがとうございます。
実は、残った私の腎臓がダメになりましてね。医者は、移植が必要だというんです。それでね、甥にそのことを話しに来たんですよ。十年前、甥にもらったのと同じ金額を集めようとしたのですが、どうやっても足りないんですがね。
私がそうしたように、甥が善意で、腎臓を提供してくれるといいのですが。
●Sホール
その初老の男性は、何も荷物を持っていなかった。一人で乗り込み、小さな声で「Sホールまで」と言った。Sホール! それは僕が今日、一番行きたい場所だった。世界屈指の音楽コンクールで優勝した日本人ピアニストの凱旋公演が、今日まさに、そこで行われる。
僕は、さりげなく音楽をクラシックに切り替えた。ちょっとしたサービスのつもりだった。コンクールが終わってからしばらく、僕は夜になると彼のピアノを流していたから、すぐに切り替えることができた。ただ、僕が思ったような反応は男性からは返ってこなかった。それで僕は、「チケットが取れたなんて、うらやましいです。今一番、チケットが取れないピアニストですよね」と声をかけた。それは本心だったし、男性の自尊心を満足させる声かけだと思ったからだ。
今一番、チケットが取れないピアニスト。ええ、その通りです。今回なんとかチケットが取れました。運転手さんはクラシックが好きなんですね。今かかっているのは、誰の曲ですか? ああ、彼の、ですか。私は恥ずかしながら、全く詳しくないんですよ。なぜコンサートに行くかというと、実は、彼がね、小学校時代の教え子なんですよ。まさか、あの子がピアニストになるなんて、思いもしませんでした。
そうですね。一言で言えば変わった子でした。いつも、椅子や机をガタガタ鳴らしていましたよ。彼のインタビューを読んでわかったのですが、どうやら頭の中に流れる音楽に合わせて、リズムをとっていたようなんです。音を出していたのは、打楽器のつもりだったのかもしれません。ああ、運転手さんも同じインタビューを読んだのですね。それに気がついて、音楽の道に促した先生がいると。
ただ、それは私ではありません。
考えてもみてください。授業中に椅子や机をずっと叩いたり揺らしたりしている子がいるんです。うるさいし、他の子にとっては迷惑でしかありません。だから私は、彼がちゃんとするよう、注意ばかりしていました。思い切り叩くこともありました。あの頃は、体罰はわりとありふれていましたからね。
それに、彼を他の子と同じように勉強させることが、教師の務めです。ええ、私は熱心な教師だったんですよ。でも今思えば、私の話をまともに聞かない彼のことを、憎んでいたのかもしれません。音楽のことで頭がいっぱいだった。きっとそうなのでしょう。ただその当時は、教師をバカにしているとしか思えなかったんです。ですから、殴る拳にも力が入りました。
私の短くない教員人生の中で、彼と同じような生徒がいたかもしれません。その子たちは、私のような教師に出会っても、うまく人生を歩んでいけたでしょうか。ピアニストになった彼のように。
彼の演奏を聴くことは、罪滅ぼしなのかもしれません。もちろん、彼に会うことはありません。後ろの席に座り、コンサートが終わったらそのまま帰ります。それだけのことなのに、今この瞬間も、引き返したいくらいなんです。ですから運転手さん、私をちゃんとSホールへ連れていってください。
殴ったときに彼の耳や指をダメにしないで良かった。今、思うのはそれだけです。
●保育園
身なりのいい老夫婦を、地方都市まで運んだ帰りだった。二時間を越すドライブを終え、すでに時刻は夜の八時半をまわっている。周りはもう暗い。朝から途切れることなく降っている雨のためだろう、僕のやる気もすっかりなくなっていた。雨の日は、運転に気を使う。いや、初めて使う道が多かったからかもしれない。
ようやく都内に入った。
灰色のビルを見上げると、雨に濡れてさらに暗い色に変わっている。もう、今日の分は十分稼いだから、いいだろう。そう考えていたところだった。街灯の下、荷物を抱えたすらっとした女性が手をあげているのが目に入った。十月に降る雨は激しくはなくても、傘からはみ出した女性の肩を濡らしていた。なんだか可哀想になり、僕は車を停めた。
美しい女性だ。
僕より十ほど上だろうか。紺色のスーツの襟の端に、金色のバッチがみえる。弁護士。確かにこの辺りには、いくつか大手の弁護士事務所がある。
止めていただいて、ありがとうございます。雨の日は嫌ですね。同じことをするにも、いつもの通りにはいきませんし、ずっと時間がかかります。小さな子どもがいると特にそうです。自転車にしろバギーにしろ、雨カバーをつけなければなりませんし、子どもにレインコートも着せなければなりません。傘も指していますから、手がいくつあっても足りません。でも、子どもは雨が好きみたいですね。降ってきた雨を見て「あめ」と指差したり、わざと水たまりに入ったり。一緒に過ごしていると、もう一度自分が子ども時代を体験しているような気がしてきます。ああ、私も雨が好きだったと、思い出すんです。
ええ、保育園までお願いします。このひどい雨で電車が遅れているようなんです。今日は延長のお願いをしていたので、九時までにお迎えに行けばいいのですが、電車だと間に合いそうになかったんです。このタクシーに乗れてよかった。本当に助かりました。
ええ、子育ては大変ですけれど、子どもはかわいいですよ。やっと授かった子なので、特にそう思うのかもしれません。
実は結婚して数年後に、夫の年の離れた妹がいじめの被害にあいましてね。それを苦に自殺をしたんです。そんなことがあって、子どもどころではなくなってしまって。夫はひどくショックを受けていました。年の離れた妹を、とてもかわいがっていましたから。
夫はそれから、裁判にのめり込むようになりました。というのも義理の妹の場合、ネットのいじめが中心ということもあって、いじめの首謀者を特定するのが難しかったからです。それに、学校もいじめの存在を認めませんでした。もちろん私も、強い怒りを感じていました。できるだけ夫の力になりたいと思い、仕事のない土日は、裁判の準備を手伝いました。
その頃、私は三十歳を何年か過ぎて、そろそろ子どもが欲しいと思っていました。しかし、そんなことを言い出せる気配は、まるでありませんでした。私たちの生活は、義理の妹の裁判関連で埋め尽くされてしまったんです。
正直に言えば、いつ終わるかもわからない戦いの中で、私はすっかり疲れ切っていました。妻というより、夫の助手になって仕事をしているような気持ちでした。会社でも仕事、家に帰っても仕事。平日も休日も弁護士のままでした。息ができなかった。二人の間の会話は、裁判のことしかなくなりました。
今思えば、猫でも飼えばよかったのかもしれませんね。そうすれば、別の話ができたかもしれない。そんなことに気がつく前に、私は息ができる場所を見つけてしまったんです。それは仕事先で出会った、年下の男性でした。私が既婚者だということも、もしかすると彼は知らなかったかもしれません。
私たちは何の変哲もない普通の恋人でした。コーヒーを飲みながら好きな本の話をしたり、公開されたばかりの映画を観に行ったりしました。ただ、桜の下を歩くだけで、生きている気がしました。この当たり前が、私の精神をなんとか繋ぎ止めてくれたんです。二年もたたずに別れはきましたが、彼にはとても感謝しています。そうでなければ、今も続く闘争の中で、私の方が先に崩れてしまったでしょう。
彼と別れてから、妊娠していることに気がつきました。
妊娠したことを告げると、夫はとても喜んでくれました。数少ない接触の中でできたこの子は奇跡だと。本当にそうかもしれません。そうではないかもしれませんが。
無事に女の子が生まれました。これからお迎えに行くのがその子です。娘のおかげで夫婦の会話も増えて、今は元のような普通の夫婦に戻っています。娘に関しての会話が一番多いんですよ。この子が私の元に来てくれたおかげで、夫と別れなくてすんだと思うんです。
ああ、着きましたね。なぜかしら、ちょっと話し過ぎたかもしれません。でも私にとっては、一度は誰かに話さなければならない話だったんです。
聞いてくださり、本当にありがとうございます。
●キャンパス
信号の手前で、飛び出すように手を挙げている男性に止められた。
銀縁の丸い眼鏡をかけた男性は嬉しそうに、後部座席に乗り込んだ。手には小ぶりのボストンバッグを持っている。一言「さて、どうしようかな」と言った後、行き先が告げられた。
眼鏡を外し、手に持ったハンカチで拭いている。眼鏡をかけたと思うと、また外してそれを拭くという動作を繰り返した後、男性は僕に話しかけた。そしてそこからは、一人で息つく暇もなく話を続けた。
きっと相手は誰でもよかったのだ。
タクシーに乗るのは、久しぶりなんです。長い間閉じこもっていたものですから。いえね、出てきたばかりなんですよ。ああ、病院ではありません。刑務所なんです。でも、心配しないでください。殺人で服役していたわけではありませんから。私がそんな凶悪犯に見えますか? 見えませんよね。私は長い間、大企業で真面目に働いていたのですから。私の罪状は横領です。若い運転手さんと戦ったって、腕っ節で勝てるとも思えませんから、まずは安心してください。
運転手さんは、大学を出たんですか? ああ、あの私大ですか。私が卒業したT大とわりと違いですね。いや、たいしたことはありません。小さい頃からまあ、わりと勉強はできたんです。親も私に期待をしていましたしね。そして無事、T 大に現役で入ることができたんです。
勉強は大変でしたが、学生時代は楽しかったですよ。「君たちはこの国を支えていく人材だ」という教育をずっと受けてきましたから、私も当たり前のようにそう考えていたのでしょう。この国の先頭に立っていかなければならない、とね。そういった誇りを無意識のうちに抱いていたのかもしれません。
ですから将来に対しても、明るい見通しがありました。官僚になるにしても、企業で働くにしても、上に立ち、当然経済的にも豊かになるものだと。リーダーとして皆を引っ張っていくのですから、それに対するリターンは当然のことです。それに自分には、その資質と価値があると思っていましたから。まあ、自分で言うのもなんですが、いわゆるエリートってやつです。
私が勤めたのは、いわゆる伝統的な大企業でした。順調に思えたのは、最初の数年間です。業績不振のために、経営陣が大幅に入れ替わったんです。それから二流大学卒の連中が、取り立てられるようになりましてね。中途採用のなんてのも増えました。強い女性も多くなってね。本来なら、私がつくはずだった役職が、そんな奴らに奪われてしまったんです。いつの間にか、私の能力を発揮する場が消えてしまったんですよ。だからせめて、私の価値に見合う報酬はもらわなければと考えたんです。同じ大学を卒業した仲間と、同じくらいもらったっていいはずです。私には、その価値があるんです。いえね、そんなに難しいことではないんですよ。データを少しいじって、架空の口座にお金の流れをつくっただけです。
刑務所でもね、学びはありましたよ。同じように横領で服役していた人は何人もいたんですが、彼らと私ではレベルが違いました。盗んだ金額の「桁」が違うんですよ。やっぱりね、こういったところに差が出るんでしょうね。タクシーの運転手さんに、私のこの気持ちは理解できないかもしれませんけどね。
ああ、ここでお願いします。ちょっとキャンパスの周りを歩いていきます。もしかしたら懐かしい教授に会って、声をかけられるかもしれませんからね。ああ、お釣りはいりませんよ。運転手さんだって大変なお仕事でしょうから、遠慮なくとっておいてください。
●署名
オフィスビルが乱立するこのあたりにそぐわないような、若い女性が僕のタクシーを止めた。大学生だろうか。小ぶりのスーツケースをそのまま車内に持ち込む。「ここに八時までに行けますか?」。すでに夜の七時半を回っている。「急ぎましょう」。そう言って、僕はアクセルを踏んだ。
しばらくすると、「あの……」という声が聞こえた。そして、小さなカードが料金受けの上に差し出された。
運転手さん、唐突に申し訳ないのですが、もしよかったらこちらにご協力いただけませんか? このカードのQRコードから、オンライン署名のサイトに飛べるようになっています。学生団体を立ち上げて、「ストーカー規制法」の改正を訴える署名運動をしているんです。今日もその相談のために、弁護士事務所へ行ってきたところなんです。
みなさんあまりご存じないのですが、この法律では、ストーカーの定義というのが決まっているんです。簡単に言えば、相手の行為が「恋愛感情から生じたもの」という条件があるんですね。でも、相手の気持ちがどういうものだったかを立証するのは難しくて、それが大きな壁になっているんです。それはそうですよね。ストーカーがどんな思いだったかなんて、知りようがありませんから。
実際、私の姉をストーカーした相手も、「恋愛感情はなかったから、ストーカー行為に当たらない」と主張しています。ええ、そうです。きっかけは姉の事件でした。
犯人は大学生の姉がバイトをしていたファミレスの常連客でした。他の客に絡んでいるのを注意した姉を、逆恨みしたようです。それ以来、犯人はファミレスで長時間過ごすようになり、仕事帰りの姉をつけるようになりました。そんなことが数ヶ月続き、身の危険を感じた姉はバイトを辞めたのですが、それからもストーカー行為は続きました。どこで知ったのか、姉の携帯電話に無断で撮影した写真が何度も送りつけられました。警察にも相談しましたが、「まだ起きていない事件」に関して、警察の腰は重いものです。
母親から震える声で電話が入った日のことは忘れられません。病院に着くと、姉は顔に大きなガーゼを当てられて、ベッドに横たわっていました。犯人は顔を狙って切りつけたそうです。姉の左頬、そしてふっくらとした唇は、すっぱりと切られてしまったということでした。
お姉さんのためにえらい、ですか? いいえ、そんなことはないんです。私は、こんな事件を招いてしまった責任を感じているんです。ええ、この事件は私が起こしたようなものだからです。
年子の姉は、本当に綺麗な人でした。私の曽祖父、祖父の父は、イギリスの人だったそうです。どんな遺伝子のいたずらだったのか、姉の外見にはその八分の一の遺伝子が、色濃く現れました。明らかに日本人とわかるのに、見方によっては欧米人に見える。妹の私が見ても、とても魅力的な人でした。実際私は、やさしくて美しい姉のことを、誇らしく思っていたんです。ただそれも、小学生くらいまでのことです。
中学生になると、私と姉の関係を知らない人達が周りに多くなりました。私が中学に入学した時、姉の友達や部活仲間、姉に憧れている男子が、私のことを見に教室にやって来ました。そして、ひどく落胆したような、軽蔑するような表情を見せたのです。それまでも、似たようなことはあったはずですが、中学生ほどに残酷で、あからさまな態度を示す人種はいないものです。
姉はそんな私に対して、とても優しかったと思います。私のいいところ、例えば色が白いとか、髪の毛がきれいだとかを、ことさらに強調してほめてくれました。
昨年のお正月、私たち家族はいつもどおり、神社へと出かけました。神殿に入り、ご祈祷を受けるのが年初の習わしなんです。その年成人式を迎える姉は、せっかくだからと振袖を着て出かけました。
神殿の中の空気は、寒さと静けさで引き締まっていました。そこで祈る姉は、神々しいほどに美しかった。私はぼんやりと、そんな姉の姿を見ていました。その時私の心をよぎった思いは、「私と姉の立場が、逆だったらよかったのに」というものでした。できるなら憐れまれる側ではなく、憐れむほうになりたい。単なるお参りであれば、そんなことをつらつらと考える時間の余裕はなかったはずです。しかし、神殿でのご祈祷は、短く見積もっても五分はかかります。その短いようで、考えを巡らせるには十分な時間を、私はそんなくだらない妄想に費やしていたのです。
ええ、運転手さんがおっしゃるように、姉がストーカーに襲われたのは、私のせいではありません。しかし、こんな不幸な形で、私の思いは聞き届けられることになってしまいました。頭ではわかっていても、私はどうしても、その事件を私自身が起こしてしまったような気がしてならないのです。
ええ、その病院です。今、姉は心のバランスを崩して入院しています。鏡に映る新しい自分の顔に、馴染めないのだと思います。
運転手さんには何の関わりもない話かもしれませんが、姉のために、いえ私のために、どうか署名をよろしくお願いいたします。
●花瓶
結婚式の帰りだろうか。大きな荷物と花束を抱えた初老の女性が、チャペルの前で手を挙げていた。黒い着物に金の帯を締めているところを見ると、花嫁か花婿の母といったところだろう。僕はゆっくりと車を止めて、運転席から出た。荷物をトランクに入れるのを手伝い、女性を後部座席に案内する。「結婚式ですか。おめでとうございます」と伝えると、そこから長い話が始まった。
ありがとうございます。そうなんです。息子の結婚式だったんです。お花までトランクに入れちゃいましたけど、大丈夫だったかしらね。あんな大きな花束をもらうのは、生まれて初めてですよ。次は葬式かしらね。まあ、どんなに花に包まれていても、その時、意識はないんでしょうけど。
一人息子が片付いて、ホッとしましたよ。結婚できるなんて、思ってもいなかったものですから。難産で生まれた子でね。そのせいで、生まれつきちょっと体が悪くてね。育てるのに、他の子の何倍も手がかかりましたから、もう必死でした。夫はそんな家庭に疲れたのか、あの子が小さいうちに出て行きました。女手一つで、息子を育てなきゃならなかったんです。
思い出すのも嫌になるほど、忙しい日々でした。仕事も掛け持ちしてね。でも、不憫な息子をなんとか育てあげなきゃと必死でした。父親がいないことも、他の子と同じように歩いたり、走ったりできないことも、可哀想で仕方ありませんでした。なぜ、私たちばかりこんなに不幸なのか、何度も人生を恨みましたよ。
息子は就職して一年もたたないうちに、仕事先で出会った方とお付き合いが始まり、そして、結婚することになったんです。私はね、反対したんですよ。だって、私がしてきた苦労を、他の人に押し付けるわけにいかないじゃないですか。そうしたら、その子はね、お世話をするために結婚するわけじゃないと言うんです。自分も仕事を続けたいし、二人で人生を楽しみたいから、ボランティアやヘルパーの人にも家にきてもらって、協力してもらうつもりだと言うんです。賑やかに暮らすんだ、と。
私はなんだか、気が抜けてしまいましたよ。不憫だ、不幸だと育てた息子は、今はこの上なく満ち足りて、幸せそうな顔をしています。不憫というレッテルを貼られて育てられた息子は、もしかすると私のことを恨んでいるかもしれませんね。不憫という言葉は、決して子どもの慰めにはなりませんから。
そんなことを今更知った私こそ不憫だと、運転手さんは思っているかもしれませんね。家に帰っても息子はいないし、あんな大きな花束を飾る花瓶も、家にはないのですから。
●記憶
「ああ、この人を乗せたことがある」と思うことがある。タクシーの運転手になって十五年が過ぎたが、予約ではなく「流し」で、同じお客様を乗せる確率というのは、いったいどれくらいのものだろう? もちろん同じお客様だったとしても、気づかないことのほうが多いはずだ。だから「同じお客様だ」と思うのは、話し方や声に特徴がある一握りの人に限られる。
この女性がそうだった。最初の一言が、僕に古い記憶を呼び起こさせた。しかし、それが間違いだということは、すぐにわかった。
その女性は、僕が思い出した人よりも、ずっと若かったからだ。
止めていただいて、ありがとうございます。雨の日は嫌ですね。T駅までお願いします。荷物が多いので、助かりました。ええ、ちょうど大学が夏休みだったので、長く実家に戻っていたんです。ちょうど母の葬儀がありまして。ああ、大丈夫です。ありがとうございます。もう、気持ちは落ち着きましたから。
ただ、父はひどく落ち込んでいて、さまざまな手続きができるような状態ではなくて。それで、もろもろ手はずを整えてきたのです。ええ、とても仲のいい夫婦だったんです。一人娘の私が、やきもちを焼きたくなるくらいに。
母が息を引き取ってからは、葬儀の準備やら何やらで、とにかく慌ただしくて。人が亡くなった後というのは、忙しいものですね。目の前にだされる課題を、次々と片付けていかなければならないのですから。お葬式の日取りをどうするか、誰に連絡をするか、喪主の挨拶の原稿はどうするか、お返しは何にするか、そして戒名はどうするか……。目の前のことに取り組むだけで、悲しむ時間も、考える時間もありませんでした。
母はある程度、死期を予想していたようです。ですから母の身の回りのものの整理は、お葬式の準備とは反対にあっけなく終わりました。何も残さないという意思が、隅々まで感じられるような片付け方でした。洋服もアクセサリーもパソコンも残っていませんでした。携帯も解約手続きが済んでいました。試しに検索ページに母の名前を入れてみましたが、出てきたSNSは同姓同名の別人のものでした。
そんな母が私に唯一残したものは、一つの「謎」でした。
亡くなる直前、私に血液型の話をしたのです。父も母もO型ですから、私はもちろんO型のはずです。でも本当は、B型だというのです。O型の夫婦からB型は生まれません。ほとんど話すことができなくなっていた母は、それだけは伝えておかねばと思ったのでしょう。詳しい事情は明かされないままになってしまいました。
もちろんすぐに、血液検査をしました。ええ、私は母の言った通りB型で間違いありませんでした。となると、次にすることはDNA検査です。ネットで調べると、父親との親子鑑定はすごく簡単にできることがわかりました。お年玉で払えるような金額でしたし、父親鑑定の値段は母親の半額でした。おかしいでしょ。しかも「セール中」と示されていました。「今セール中だから、親子鑑定しよう」と思う人が世の中にいるのかどうか、私にはわかりませんが。
父の古い歯ブラシを「新しいのに変えるね」と声をかけて手に入れて、シェーバーから剃ったヒゲのカスを取り出しました。結果は1週間もかからずに出ました。父と私に親子関係はありませんでした。
もちろん父は知りません。
父は私のことをすごく大切に育ててくれました。
私が生まれる少し前に、年の離れた父の妹が、いじめで自殺をしてしまったらしいのです。今でも家に、私にとっては叔母にあたる女の子の写真が飾ってあります。叔母の年を私はとっくに越してしまいましたけど。いじめの裁判にのめり込んでいた父が、普通の生活ができるようになったのは、私が生まれたからだと母から聞いたことがあります。父は私に亡くなった妹を重ねていたのかもしれません。もちろん私は、その叔母とは全く似ていないのですが。
ショックだったかといえば、そんなこともないのです。
長い間私は私で、違和感を覚えていたからです。中学生になると、周りの女の子は父親の悪口を言い出します。ウザいとか、臭いとか、消えてほしいとか。私が「そんな風に思ったことはない」と友人に言うと、「パパ、かっこいいもんね」と言われて話が終わります。ですから、そんなものかな、と思ったくらいです。高校生になると、父親の話をする子なんて一人もいません。生物の先生によれば、それは自然なことなのだそうです。近親相関を防ぐための、生物に備わった反応なのだと。
そんな話を聞きながら、私は不思議な思いにとらわれていました。なぜなら、父に対してそういった思いを抱いたことがなかったからです。中学生になっても、父にまとわりついていましたし、父の膝に頭を乗せて本を読んだりもしていました。それは大学生になって、家を出るまで続きました。母が倒れた後、悲しむ父の背中をなで、後ろからそっと抱きしめたりもしました。
そうすると私自身も落ち着くことができましたし、ひどく幸福な気持ちになれたからです。
ですから本当のことがわかって、腑に落ちたというのが今の気持ちです。さして遠くもない大学なのに私が家を出たのは、実家にいるのがつらかったからです。仲の良い父と母を見ているのが、ずっとつらかったんです。
一度下宿に帰って荷物をまとめて、実家に戻ろうと思います。落ち込んでいる父を、一人にはしておけません。ひとり娘の私がそばにいてあげないと、いけませんよね?
●荷物
人にあらかじめ備わった性質があるとすれば、僕のそれはあまり喜ぶことができないようなものだった。
中学三年生の頃、吹奏楽部の副部長だった僕の元には、ありとあらゆる苦情が持ち込まれた。顧問の不満、ソロを吹く部員の選び方、下級生との恋愛の悩みまで。「副」とうい役割はそもそも「不満の受け皿」なのだと言われればそれまでだが、それにしても疲れることには違いない。生徒会の会議の進行について、延々と不満を並べるクラスメイトに、「何で僕にそんなことを言うんだ?」と尋ねたことがある。彼の答えは明瞭だった。
「言いやすいから」
その答えに、かえって胸のすく思いがしたものだ。
どうやら僕は、人の心の中にある、できれば吐き出しておきたいものごとを、引き受けるタイプの人間らしかった。いや、「引き受けさせても構わない」と思われていたのかもしれない。
いずれにせよ、それが僕に備わったある種の特性だとするならば、なんらかの形で将来に活かすことができないだろうかと、考えたこともある。しかし、答えはでなかった。もし僕の中に、積極的に人と関わり、話を聞いてあげたいという強い思いがあったのなら、また違う道が拓けたのかもしれない。しかし、そこまでの気持ちは心の隅々まで丁寧にひっくり返してみても、見つかりはしなかった。
しかしこんな風に、車の運転をしながら人の話を聞いているうちに、やはりこれは僕の役割なのかもしれないと思うようになった。世の中の役に立っていると、胸を張って言えるようなものではないかもしれないが、世の中から僕のような存在が消えてしまったら、きっと困る人もいるだろう。駅のゴミ箱みたいなものかもしれない。新興宗教による地下鉄でのテロの後、ホームのゴミ箱が一斉に撤去されてから、その不在に気づいた人も多かったはずだ。
ああ、あれはなんて便利なものだったのだろうと。
またある側面においては、このタクシーという空間が、そうさせているのかもしれない。懺悔室というものを図鑑で見たことがあるが、電話ボックスくらいの大きさのものだった。そうであれば、車の内部とさして広さは変わらないだろう。
牧師はいないが、話す相手はいる。運転手の僕は前を向いているし、夜であれば顔はほとんど見えない。透明なアクリル板も、心理的な仕切りの役割を果たしているのだろう。そして静かに流れるクラシック。多くの場合、それはバッハの教会音楽だ。何らかの告白や改悛の念を吐き出す舞台として、僕のタクシーが機能しているとしてもおかしくはない。
もし僕が、他人の告白の中に唐突に放り込まれるのを避けたいなら、きっと音楽を変えればいいのだ。ボサノバなんかどうだろう? ハードロックは? 落語を流しておくという手もある。そうすれば誰も、僕に告白めいた話をする気にはならないはずだ。
でも、僕は今でも、人の物語を聞き続けている。
きっとこの仕事を辞めるまで、聞き続けることだろう。それは車を降りるときのお客さんの声の様子が、いくぶん明るくなっているように感じられるからかもしれない。重い荷物を下ろすことができた。それがたとえ一時のことであったとしても。
出版社を辞めた僕は、もう本という形で物語を形にする仕事はできないけれど、違う形で物語に関わっている。こんな風に形にならない物語を引き受ける仕事があっても、いいではないか。
表に出ていく物語があれば、だれかに渡すことで消えていく物語もある。
数年に一度、僕は遠くの街まで赴き、手をあげ、見知らぬ会社のタクシーをつかまえる。
それは荷物を下ろすためだ。
自分が抱えられるだけの荷物の数を超えたとき、僕はタクシーの運転手ではなく、客になる。もうシミがつき古びてしまって、誰のものだかわからなくなったようなものを引っぱり出して、自分が抱えている荷物から下ろしてゆく。これは、僕が新しい物語を引き受けるために、どうしてもしなくてはならないことなのだ。
「お客さん、どちらまで?」
「Y市まで向かってください」
「二時間ほどかかりますけど、いいですか?」
「構いません。お願いします」
そして僕は話を始める。
「兄がね、腎臓病になったんです。いろいろ治療をしましたが、とうとう移植というところにまできてしまいましてね……」
タクシーは僕の告白を包み込みながら、夜の舗装道路を走り出す。
−了−
