【長編恋愛小説】『凍る声、溶ける弦』(1章〜最終章 完結)#note創作大賞2026
*『凍る声、溶ける弦』あらすじ*
元中学教師の雨水四季は、還暦を機にボイストレーニングを始めた。ある日、実力派ギタリストの伊達颯太朗と出会い、彼の奏でる圧倒的な弦の響きに心を揺さぶられる。
共に音楽を紡ぐなかで、四季は幼少期から母のことばに縛られ、「人の顔色を必要以上に気にする」深い傷を抱えていることを告白。一方の颯太朗もまた、実母からの壮絶な虐待という過去に苦しんでいた。
愛されない存在だと思い込み、他者と深く関わることを恐れてきた二人。大晦日、因縁の町家を舞台に、運命のお披露目ライブが幕を開ける。
二人の傷ついた魂が音楽を通じて重なり合い、奇跡の共鳴(レゾナンス)を果たす大人の長編恋愛小説。
『凍る声、溶ける弦』
第1章
京都タワーと冬枯れの銀杏が見える窓を背に、
雨水四季(うすいしき)の歌声が、
小さなボイトレ室の空気を震わせた。
「四季ちゃんの高音は
クリスタルガラスを叩いたときの澄んだ高い音。
でも、喉だけの声と違う。
低音は地底から伝わってくる
地響きみたいな迫力があるし。
ホンマに声がええね」
ボイストレーナーの
田上(たがみ)はるかが
華やかで大きな目を細め、
四季は小さく微笑んだ。
四季は還暦をきっかけにボイトレを始めた。
そう、60歳から。
あれから2年、はるかが驚くほどの進歩だ。
でも、その進歩に
一番驚いているのは四季自身。
――プロに習ったら、
声が響くし高い声も出るようになった……。
四季は、ふふふっと笑った。
「なんやの~思い出し笑い?」
定年を迎えるまで、
四季は中学の英語教師だった。
教師時代、ボイトレに通うなど
想像もしなかった。
たまにカラオケに行っても、
人が歌うのを聞くばかり。
――昔から歌うのは好きやったのにな……。
四季は子どものころから
歌うのがとても好きで、
小学校の音楽の授業を楽しみにしていた。
あのころ流行っていた『瀬戸の花嫁』の替え歌
「瀬戸ワンタン
日暮れて チャーシューメン
ナルトに メンマに~」
と歌いながら小学校から帰ったときだ。
『また変な歌を歌ってたんか!
近所の人に聴こえたら笑われるやんか。
可愛い顔して歌ってるんやったらまだしも……。
いったい誰に似たんやろうな!』
今も母の頼子が皮肉をいう声が聴こえる。
四季は美人の母には似ず、
祖母の喜世栄(きよえ)にそっくりなのだ。
四季が鼻歌を歌ったときでさえ、
母は同じことを言った。
『人さんに笑われるやんか!』と。
四季は母の声を振り払おうと頭を振った。
「思い出し笑いしたかと思ったら、
どうしたん? 急に怖い顔して」
両親も見送り、
天涯孤独の四季が歌うことに
今は誰も反対しないが……。
「八神純子の『思い出は美しすぎて』の
一番高いところまで、
澄んだ綺麗な声がでるようになったね」
「はるか先生のおかげです」
――ほんまやろか……。
はるか先生は私をおだててはるだけかも。
「百恵ちゃんの『いい日旅立ち』は
情感たっぷりに歌ってた。
四季ちゃんは表現力もあるね。
次の曲は決めてるの?」
「英語の歌も歌えるようになりたいんです。
『If we hold on together』とか」
「ああ、ダイアナ・ロスの。
うちアホやし、
タイトルの意味がわからんわ。
どういう意味?」
「私たちが支え合ったら、
決して夢は死なないみたいな意味です」
「さすが英語の先生!
そのifなんたらも
四季ちゃんの声と表現力で歌えるわ。
次はその曲を練習して、
スクールのライブに出演するのが
ええと思うねんけど……」
「ライブですか……?
私はまだちょっと……」
「四季ちゃんは声がええし、
表現力もあるのに……」
「……ライブで思い出した。
うち、またライブするねん」
「いつ? 今度もソロですか?」
「ううん、2月にツーマン。
共演する伊達颯太朗(だてそうたろう)は
うちとタメでうちが初めて
ライブに出たときに、
ギター伴奏してくれた。
ホンマにええ音だすねん」
四季は身を乗り出してライブの話を聞いた。
「今度の相棒、
颯太朗はなかなかイケメンなんや。
根はいいヤツなんやけどな……
ちょっと女癖が悪くて、
アイツと関係がこじれた女の子の
フォローを何回したか……」
はるかは少し顔をしかめた。
梅が満開のたよりが聞かれるころ、
四季ははるかと伊達颯太朗の
ツーマンライブに出かけた。
ライブは大阪で開催された。
京都しか知らない四季は
ナビを頼りにやっとのことで
会場のライブハウスにたどり着いた。
ライブハウスのガラス戸には
シャープなロゴがゴールドで描かれている。
――ここから入ってええんやろうか?
そやけど他に入口は見えへんし……。
四季は戸惑い、立ち止まっていた。
「どうしたん?」
三十代くらいの男に声をかけられた。
「大阪は初めてで……。
私は田上はるかの生徒です。」
「田上はるか……京都から?
……ふぅん、そうなんや。
俺、共演する伊達颯太朗。
楽しんでいってな」
颯太朗が微笑んだ。
よく手入れされた鼻の下と顎のヒゲ、
クッキリ切れ長の涼しい目、
鼻筋が通った高い鼻。
はるかが噂していた通りのイケメンだ。
そのとき、歓声がした。
あっという間に颯太朗は
若い女性ファンに取り巻かれ、
四季ははじき出されてしまったのだ。
颯太朗から微笑みが消えて、
一瞬だが狂気じみた憤怒が目に光り
ふっと上を向くと
一転して目は虚ろに。
四季はその変化を見逃さなかった。
ライブは颯太朗のギター演奏で始まった。
颯太朗はアコースティックギターで
フィンガーピッキングスタイル。
――すごい! 響きが肌に伝わってくる。
ギターの音色が四季の胸に伝わり、
彼がギターの胴を打つたび、
四季の脈もドックンドックンと打つ。
颯太朗のギターの音色を一音も
聴き漏らすまいと、
誰もが息をこらす。
曲の最後の一音が終わった後も、
音は壁や床に反射して響く。
「いつまでも聴いていたい」
と観客は息をひそめる。
颯太朗が弦に手を置き
響きが止まると、
観客が一斉にフーと息をした。
田上はるかの歌声も圧巻だった。
はるかは「爬虫類のうた」という
変わったタイトルの新曲も披露した。
『変わったタイトルやろ?
爬虫類は脱皮して変容するやん。
つらいことに出会っても
再生しようって思いを込めて
この曲を作ったんや』
レッスンルームで
はるかが話してくれたとおり、
彼女の張りのある澄んだ声は
曲に乗り彼女のメッセージを
観客の胸に響かせた。
観客は颯太朗のギターの響き、
はるかの歌声に酔いしれる。
最後の曲の響きが消えると同時に、
ステージライトがすっと落ちた。
歓喜と熱狂のうねりの中で
ライブは終了!
ライブを終えたはるかが、
四季を見つけ、
颯太朗を連れてやってきた。
「颯太朗、紹介するわ。
こちらは雨水四季さん。
私の生徒さんやねん」
「さっき会ったやんな。
ライブどうやった?」
「私を抑えていた蓋みたいなのが、
ギターの響きが胸に伝わって来ると
ぽ~んと外れて
心が軽くなったんです!」
四季が声をつまらせながら言った。
「ライブ会場に入って来たとき、
ちょっとキョドってたけど、
今は明るい顔になった。
そっか……俺のギターの響きが……」
呟くように言った彼の目が閃いた。
「四季ちゃんは、
還暦から本格的に歌を習って
まだ二年やのに、
ホンマにええ声だすようになってん」
四季はもっといろいろ話したかったが、
颯太朗を待つ若い女性ファンが
恨めしげにこちらを見ている。
とりわけ、鮮やかなオレンジ色の
ワンピースの女の子が、
大きな黒目を上に寄せて、
眉間には太い筋を立てているのだ。
ただならぬ敵意を放っている。
――怖い顔!
颯太朗さんの熱烈なファンなんやろうな。
彼女は服の華やかな色に負けない
若々しい生命力を放っている。
四季を睨む大きな目は
キラキラ輝き魅力的だ。
――20歳くらいやろうか?
気が強そうやけど、
若い子独特の透明感があるな。
彼女の強い視線に落ち着かなくなり、
四季は颯太朗やはるかに挨拶をして
ライブ会場を去った。
帰宅しても興奮が冷めない。
喉がからからに乾いて、
冷蔵庫から
ミネラルウォーターを出して飲んだ。
颯太朗のギターの音色が
まだ耳の底で響いている。
――ギターの響き、
残響までみんなで聞き入った。
初めて会った人ばっかりやのに、
なんか仲間って感じやった。
ライブの感動や颯太朗のギターで
心が軽くなったことを伝えたくなり、
フライヤーのQRコードを読み取って
颯太朗のSNSにコメントした。
颯太朗から、すぐに返信が来た。
〈僕のギターが
四季さんの心を軽くしたなら、
こんなにうれしいことはありません。
もっともっといい曲、
創りたくなりました〉
ライブ以降、
颯太朗のSNSが更新されると
毎回コメントするようになった。
彼も四季のコメントに
感じるものがあるのか、
いつも丁寧な返事がきた。
彼は大学在学中からプロとして活動し、
37歳になった今も
ギターの講師をしながら、
ライブ活動を続けているのだ。
第2章
颯太朗のSNSにコメントを書くと、
四季はしみじみと
鏡に写った自分の顔を見た。
――颯太朗さんはギター一筋。
私はいつか歌の勉強をして、
歌の世界に行きたかったけど、
結局は何にもできひんまま、
62歳になってしもた……。
自分を嘲笑った顔が鏡に映り
父方の祖母喜世栄(きよえ)の顔と重なった。
不意に幼いころの夕食時の光景が蘇る。
喜世栄が笑顔で母の頼子(よりこ)に尋ねた。
「頼子はん、今日は断水どしたんか?」
「断水……?」
「頼子、おかあはんのお茶……」
父の昭夫(あきお)が目で頼子に合図した。
頼子が喜世栄のお茶を出し忘れたのを
喜世栄はやんわり皮肉ったのだ。
喜世栄は生粋の京女。
滋賀の農家出身の頼子を心の底で
「野暮天で気が利かない」
と見下していた。
敏感な頼子はそんな喜世栄を敬遠した。
その夜、母が父を非難する声で
四季は目が覚めた。
「私がおかあはんのお茶を入れ忘れたんを、
なんで先に言うてくれへんかったん!」
「知らんがな……」
母のことばに向き合わない父の背後で、
四季はじっと二人を見ていた。
「『おかあちゃんが、
おとうちゃんをいじめてはった』って、
またおばあちゃんに告げ口する気か!」
――告げ口なんか一回もしたことない。
心配やっただけやのに……。
事実ではないことを叱責されても
四季は何も言わなかった。
何か言えばよけいに母を怒らせるだけだ。
――おかあちゃんが可哀想やもん。
いつもおばあちゃんに何にも言えへんし。
あるとき、両親が経営する
菓子店の得意先に、
母が進物用の詰め合わせを届けに行った。
すると、にわかに空が暗くなり、
激しい雨が降り出したのだ。
――おかあちゃんが、雨に濡れてしまう!
四季は母の傘を持って、
母を迎えに行くことにした。
得意先に向かう途中、
貸してもらったのか、
母が傘をさして帰って来るのに出会った。
「おかあちゃん! 傘……」
言いかけて四季は黙った。
母の表情が険しい。
「子どもがなんで来るの!
傘なんかいらんのに!
あんたが雨に濡れるやんか!」
「おかあちゃんが濡れると思って……」
「あんたが濡れたら、
あんたの服を洗濯しなあかんやんか!」
「ごめん……」
「ホンマにいらんことして!
おかあちゃんを
怒らせることばっかりする子や!」
――おかあちゃんが心配やっただけやのに……。
一事が万事こんな調子だったのだ。
――私、おかあちゃんを
喜ばせたかったのに……。
四季は母の顔色ばかり見るようになり、
今も人の顔色を気にしてしまう。
――62歳になっても子どものころと同じ。
おかあちゃんは20年も前に亡くなったのに。
四季は虚しい気持ちを打ち消すように、
歌詞のノートを開いた。
そこには
『あなたの笑顔を見ていたい』
と題された歌詞が
整った字で書かれていた。
「一人になるのが怖いから
見せかけの笑顔を振りまいていた
一人になるのが怖いから
うわべの優しさ嘘つきだよね
友だちがいても私は寂しかった
群れていても心を満たせなかった
もうやめようこんなこと
自分に嘘はつかない
本当に好きな人の笑顔見ていたい
あなたの笑顔を見ていたい」
――今の私、そのまんまの歌詞やけど、
颯太朗さんのギターで歌いたいな……。
この歌詞に曲をつけてもらって。
そやけど、私なんか素人やし、
無理やんな……。
しかし、諦めきれず、
歌詞をダイレクトメールで颯太朗に送った。
返事はなかなか来ず、
ちりちり焦げるような時間が過ぎた。
やっと連絡が来たのは二週間後、
メッセージではなく電話だった。
〈一回、会わへんか?
ちゃんと顔を見て話したいし、
俺が京都に行くわ〉
まさか颯太朗が来るとは……。
四季は鏡に写った自分をまじまじと眺めた。
こまめに染めているが
髪の根元には白髪が伸び始めている。
色白だが、うっすらシミもある。
――何を期待してどきどきしてるん!
颯太朗さんは37歳、私は62歳、親子やん。
四季はあれこれ会わない口実を考えたが、
会いたい気持ちに勝てなかった。
颯太朗と待ち合わせの場所は
京都駅前のカラオケルーム。
作曲した『あなたの笑顔を見ていたい』を
弾き語りで歌ってくれるという。
待ち合わせの日は5月初旬、
街路樹のみずみずしい若葉が
初夏の日差しに輝いていた。
カラオケ店に着くと、
ギターを持った颯太朗が先に来ていた。
慌てて遅れたことを詫びた。
「俺が早く来すぎてただけやし、
謝らんでもええのに……。
さあ、受付しよか」
受付している颯太朗を見ると
受付の女性と目が合った。
――あの人に私と颯太朗さんは
どんな風に見えてるんやろ?
やっぱり親子かな……。
ガラスに丸くて小さな目と
ちょこんとした鼻が映っている。
――童顔やし、
いつも年齢よりは
若く見られるけど、
仮に10歳若く見えても
私は52歳なんや……。
エレベーターに乗ると、
自分の呼吸音が颯太朗に聞こえないか
心配になるほど息苦しい。
部屋のドアを開けて二人きりになると、
颯太朗の動作がぎこちなく、
彼も緊張しているのが伝わってくる。
四季の鼓動がますます激しくなった。
颯太朗は緊張をかき消すように、
ケースからギターを出して、
音の調整をしている。
――心臓が飛び出しそう!
どきどきの音が
颯太朗さんに聞こえたらどうしょ……。
颯太朗の指が弦に触れる。
形のいい指はしっとりしていて、
別の生き物のように敏捷に動く。
イントロが流れ、歌が始まる。
ギターの音色に乗り、
低くて響きがある歌声が
四季の胸を激しく揺さぶった。
――なんて素敵なんやろう……
私が書いた歌詞と思えへん。
それにいい声。
低いけど澄んでる。
細かな振動は
耳だけでなく、
胸にもお腹にも伝わってくる。
熱いものがこみ上げ、
目が潤みあたりが滲んで見えた。
「気に入ってくれたか?」
颯太朗は顔をあげた。
目を潤ませている四季を見ると、
「『四季ちゃんはええ声していて、
表現力もあるのにライブに出たがらへん』
ってはるかさんが……。
なんでライブに出たくないか
聴いてもええか?」
声を出そうとすると、
颯太朗の声に母の声が重なった。
『親子ほど年の違う男はんと
二人きりでなにしてるの!
人さんに笑われるえ!』
――おかあちゃん……
颯太朗はギターに手を置いて
四季を見ている。
ギターが彼の体の一部のようだ。
少し汗ばんだ額にかかった髪を
無造作にかき上げると
眼差しが優しい。
――ギターも声もいい颯太朗さん。
かっこよくて才能も人気もある人に
私の気持ちをわかってもらえるやろうか……。
そのとき、初めて会ったときの
颯太朗の翳りが蘇る。
狂気をはらんだ憤怒と
空を彷徨う目が……。
――颯太朗さんに話してみたい。
わかってもらえへんでも……。
四季は深く息を吸い込んだ。
母の冷たい声と、
颯太朗の温かい響きが、
胸の内で激しくぶつかり合っていた。
第3章
「一回会っただけの私に、
なんでそんなに
優しくしてくれはるんですか?」
四季の口から
自分でも驚くことばが飛び出し、
颯太朗もハッとしたようだ。
「ホンマやな。なんでやろな。
恋人でも、夫婦でもないのに……」
――親子とは言わはらへん。
恋人? 夫婦?
そのとき、四季は思い切って、
人の顔色ばかり見てしまう自分のことを
話そうと決意した。
「ものすごく長い話ですけど、
聞いてもらえますか?」
「僕が聞いてもええんやったら、
なんぼ長くても聞かせてもらう」
颯太朗がそう言っても、
四季はなかなか話せない。
握りしめた手のひらが汗ばんでくる。
乾いた喉から絞り出すように言った。
「私が生まれたとき、
両親は京菓子の小さい店をやってました。
母は店の手伝いが忙しいので、
祖母が私を育ててくれたんです。
でも、それは口実で、
母は体裁よく私を祖母に取られたんです」
思い出したくない光景が駆け巡る。
母の怒った顔、祖母の嫌味な表情、
そこから逃げる日和見な父の背中……。
「小さかったから、
私は母より祖母に懐いてました」
祖父母の部屋で
菓子を食べていたときのことだ。
母は四季が間食することを嫌っていたが、
祖母は始終、四季に菓子を与えたのだ。
そのとき、
母の足音が近づいて障子が開いた。
祖母は慌てて菓子の袋を隠し、
四季はこわごわ母を見た。
怯える四季を見ると
母の目がきつくなり、
彼女は荒々しく障子を閉め
黙って去った。
「母はいつも怖い顔をしていて、
私を見ると叱りました。
なんで叱られるのかわからへんので、
母の顔色ばかり伺っていました」
何をしても母に叱られる
怖さと悲しみが入り混じった感情が
どっと湧き上がった。
四季は颯太朗を見る余裕を失って、
自分の感情に飲み込まれた。
「母は目立つ美人だったんですが、
私はあまり器量がよくない祖母にそっくり。
『ほんまにこの子は
誰に似たんやろうな』って、
よく母に言われました。
憎々しげにそう言われると、
突き放されるようで本当に悲しかった……」
悲しくても出なくなっていた涙が
四季の目をにじませ
声が震えるのを懸命に抑えて
ことばを続けた。
「少しでも気に入られたいと
お手伝いをしたり、
お使いに行ったりしても、
『大人の機嫌をとって子どもらしくない』
と母はよけいに私を嫌いました……。
私が嫌な子やさかい母に嫌われる。
私はみんなに嫌われる子なんやと思うと
人さんの目が怖くて……」
やっと目を上げると、
颯太朗のまなざしは真剣で
激しい怒りの火が見えるようだった。
関節が白くなるほど強く
手を握りしめている。
「教師やったときも
他の先生と違うことして、
責められるのが怖いし、
いつも同僚がすることを見てから、
私も同じようにしてました。
髪型や服装の指導をするのが
ホンマにしんどくて……」
あまり思い出したくない
教師時代が蘇る。
数人の強面教師が
四季のクラスの茶髪女子を抑えている。
手に黒染めスプレーを持って……。
「茶髪の女の子を担任していたとき、
『雨水先生が甘いから
生徒が教師を舐めてつけあがるんです!』
そう言うてよく責められました」
四季は髪を染めている女の子の話を
よく聞いてやっていた。
彼女は中学生には
重すぎる家庭の事情を抱えていたのだ。
四季と信頼関係が少しずつできて、
自分から髪を黒くすると約束もしていた。
「私は、あの子が自分から
髪を黒くするのを待っていたんです」
卒業式の数日前、
黒染めしない女生徒にしびれをきらした
生活指導や補導担当の教師が、
担任の四季を飛び越えて、
茶髪女子を相談室に
連れていくのを目撃した。
四季は何も知らされていなかった。
「私が慌てて相談室に行くと、
生活指導の先生や補導担任の先生たちが、
あの子を押さえつけて、
スプレーで髪を黒にしていたんです」
黒染めスプレーの鼻を突く匂い、
「やめてよ~!」
と叫ぶ女子生徒の甲高い声、
「ええ加減にせえや!
いつまでも茶色い髪してあがって!」
野太い男性教師の声。
四季に向けられた女生徒の視線。
「あんまりなやり方やと思ったけれど、
何も言えへんかった……。
髪が黒くなったので、
あの子は下校することになったんです。
でも、あの子は私を見て、
『四季ちゃん、
何も言ってくれへんかったな……』
悲しそうに言ったんです。
自分がつくづく情けない……」
颯太朗は息を飲んで
四季をじっと見つめていた。
責めている目ではなかったが……。
思い出したくないことを思い出すと、
自分がますます情けなくなった。
「私、自分では何も決められません。
周囲の雰囲気や人の顔色を
いつも見てしまうんです」
『赤の他人さんに
ようそんな恥ずかしいこと言えるな……。
心の底で笑ろてはるで……』
母の声が耳の底で地鳴りのように響き、
背筋をぞくぞくさせ、
声が凍りついたようで出ない。
喉を絞ってやっと声になった。
「私、人の目が怖いんです。
人前で歌うなんてとってもできません!」
黙って聞いていた颯太朗が、
水の入ったグラスを取って四季に近づき、
グラスを彼女の手に持たせた。
颯太朗の手が温かい。
「四季さん、冷たい水、一口飲み」
四季は水を一口飲んだ。
からからの喉を冷たい水が潤す。
四季がグラスを置くと、
颯太朗はそれを見て言った。
「これは『あなたの笑顔を見ていたい』の
ギター伴奏と弾き語りの音源。
これで練習して」
颯太朗は音源を
四季の手を取って握らせた。
彼の手から温もりが伝わってくる。
「僕がギター伴奏するし、
スクールのライブで歌いいな」
彼の手の温もりも
優しいまなざしも心強い。
しかし、ライブに出演できると思えない。
「つらかったやろ……。
いろいろ言わせてしもて堪忍な。
僕でよかったらどんな話でもええし聞くよ。
それでちょっとでも四季さんの気持ちが
楽になるんやったら」
颯太朗が音源を握らせた四季の手を離し、
それぞれがソファーに黙って座った。
ことばは交わさなかったが、
部屋の空気は静かで穏やかだった。
その日から、
四季は弾き語りや伴奏の音源に合わせて
『あなたの笑顔を見ていたい』を練習した。
いつの間にか、
颯太朗とはチャットや通話で
毎日のように話し込むようになった。
京都中京で祇園囃子が聞かれ
蒸し暑いことで知られる
京都の夏がやってきた。
颯太朗のギター音源で練習を重ね、
『あなたの笑顔を見ていたい』に
少しずつ思いを込められるようになった。
ちょうどそのころ、
颯太朗が通話で言った。
『今からでもライブに十分に間に合う。
スクールのライブに出えへんか』と。
9月に開催されるスクールのライブに
出演することを再び四季に勧めた。
四季の心が揺れる。
――颯太朗さんのギター伴奏で歌う
『あなたの笑顔を見ていたい』を
人の前で歌ってみたい。
たくさんの人に聞いてほしい。
そのときだった。
『人さんに笑われるえ!
可愛い顔して
歌ってるんやったらまだしも……』
母のことばがまた蘇る。
ライブの会場は老舗ライブハウス。
系列校の講師や
プロを目指す生徒目当ての
耳の肥えた観客もたくさん来る。
――ステージライトを浴びて
美人のはるか先生は輝いてはった。
心に届く声で堂々と歌ってはった……。
私なんか還暦を2年も過ぎているし、
無理やわ……。
『四季さん、ライブに出ようや』
スマホから颯太朗の声が響く……。
第4章
颯太朗の応援に応えたい、
思いを込めた歌詞を
颯太朗の曲に乗せて歌いたい
そんな思いが四季の中を駆け巡ったが……。
「颯太朗さん……
こんなに一生懸命に応援してもらってるのに、
すいません……。
『出られそうにないか?
無理せんでもええけどな……』
颯太朗はそう言ったが、
落胆がスマホを通しても感じられた。
「颯太朗さん、堪忍して下さいね。
私、やっぱりまだ人さんの目が
怖いんです……」
――ほんまに情けない!
自分が恥ずかしい。
四季が颯太朗に誘われて
次に会ったのは、
晩秋の京都だった。
鈍色の甍屋根や渋みのある建物が、
色づいた木々と鮮やかな対比をなし、
深い趣を漂わせている。
二人は京都駅で待ち合わせた。
地下鉄の烏丸線に乗り、
御池駅で東西線に乗り換え、
東山駅で降りると地上は小雨だった。
紗のような薄雲が京都盆地に蓋をして、
京の町が柔らかく見える。
「お腹減ってきたな。
昼飯にしようか?
何か食べたいものある?」
「いえ、私は特に。
颯太朗さんは何が食べたいですか?」
「美味しい店があるんや。
まだあるやろか……そこでええか」
二人は白川沿いを歩き、
洒落た割烹に入った。
本店は老舗料亭で敷居が高いが、
ここの昼食は気軽に料理を楽しめる。
「季節の御膳でええか?
かぶら蒸しがあるし、
久しぶりで食べたいんや」
四季が頷くと
颯太朗は季節の御膳を二人分注文した。
運ばれてきたかぶら蒸しがうれしい。
白身魚に乗せられた海老の赤、
銀杏の黄緑、茸の茶色の彩りがいい。
「白身魚に具を乗せて、
その上にすり下ろした蕪をかけて蒸し、
葛あんをかけるなんて
こんな手間なことを考えつくのが、
京都なんやろうな」
颯太朗はかぶら蒸しを
美味しそうに食べながら言った。
かぶらの甘み、海老の旨味が口の中で広がる。
肌寒くなってきた晩秋には、
葛あんの温かさがうれしい。
「青蓮院さんが近いし、
昼ごはんを食べたら、ちょっと歩こうか」
二人が食事を終えて料理店を出ると、
小雨は止んでいて神宮道をぶらぶら歩いた。
「僕は京都で生まれて高校まで居たんや。
この近くに実家があってな、
実家は安政年間からつづく御香の店。
店の作りは『うなぎの寝床』で、
表からは大きく見えへんけど、
けっこう広いねん」
「京都なんですか?
安政年間って江戸時代……。
老舗なんですね」
四季が颯太朗の方を見ると、
颯太朗はツーマンライブで
女の子に囲まれたときのように
怒りを抑える表情で目が泳いでいる。
「うちの店の前を通るだけでも、
きつい御香の香りがしてたな。
今はどうか知らんけど……」
「今はどうか知らんって……」
「御香の店は廃業したって噂で聞いた。
僕は高校を卒業して以来、
一回も実家には帰ってへんねん。
連絡先も伝えてないしな……」
颯太朗の表情が暗く険しくなって
彼は喉から絞り出すように続けた。
「僕が実家にいたころから
店の経営は厳しいし借金もあったようや。
今は土地も建物も人手に渡ったらしい。
建物は典型的な京都の町家。
そやし、建物はそのまま残されている」
石畳が雨に濡れている。
苔むした楠の木の大木が見えてきた。
青蓮院のようだ。
どこからともなく品のいい香りが漂ってくる。
白檀だろうか……。
颯太朗は楠の木の大木を見ると
立ち止まり、ぽつんと言った。
「子どものころ、
暗くなるまで青蓮院さんで遊んだ。
家に帰るのが嫌で……」
かすかに颯太朗の声が震えている。
彼は四季から目をそらせた。
「家に鬼婆がいてな……」
「鬼婆……?」
「鬼婆が俺を殴る蹴るやったんや……」
颯太朗は四季を見た。
彼は懸命に何かを抑えるように肩を震わせ
しばらく黙っていたが、
やがて絞り出すような震える声で言った。
「おふくろのことや」
「お母さんが……」
四季はことばをつまらせた。
「俺が生まれてすぐおやじは愛人と逃げた。
家族も店も捨てて……」
ことばが出ない四季は立ち尽くした。
「俺が生まれたちょうどそのころ、
愛人との間にも子どもが生まれたらしい。
俺はおやじとそっくりみたいなんや……」
「そっくりやから颯太朗さんを……」
「そうや、俺をカスやクズやって罵る。
殴る蹴るなんて日常茶飯やったわ……」
「颯太朗さんは何も悪くないのに……」
「子どものころ、
なんでおふくろが俺をこんなに憎むのか
わからんとつらかった。
殴る蹴るもつらかったけどな、
何をしても拒まれるんが、
ほんまにつらくて悲しかった……」
――殴る蹴る……。
幼かった颯太朗さんはこの楠の木を
どんな気持ちで見てはったんやろう……
「『お前はクズや!
絶対に幸せになれへん!』
って鬼婆が俺に呪いをかけたんや!
俺は生きてる値打ちないんや!
生まれてきいひん方が良かった!」
颯太朗はしゃがみ込み背中を震わせ、
握りこぶしで石畳を激しく叩いた。
颯太朗の背中は激昂と絶望で
激しく震えている。
一瞬、四季は立ちすくんだが、
颯太朗の横にしゃがみ
彼の背中を撫でた。
ぶるぶる震えている背中に触れると、
手のひらに颯太朗の悲しみが伝わる。
――こんなことしかできひん。
ほんまにもどかしい……。
「四季さんの手は優しくな……
子どものころ、いくらつらくて泣いても、
だれも慰めてくれへんかった。
四季さん、お願いや
もうちょっと背中を撫でてて」
――私もそうやったな。
おかあちゃんに優しく
触れられたことなかった。
颯太朗さんが愛しい。
抱きしめてあげたいのに……。
彼の背中を撫でていると、
震えが次第に静かになり、
少し落ち着いた声で颯太朗が言った。
「避けていた京都……。
しかも実家のこんな近くまで……」
颯太朗は立ち上がり顔をそむけた。
泣いた顔を四季に見せまいと。
「カラオケで四季さんの話を聞いて、
『この人を心からのびのび歌わせてあげたい』
そう思って励ますつもりやったのに」
「そんなふうに思ってくれはったんや。
うれしいわ」
「なんで青蓮院さんに来てしもたんやろうな。
ほんまはつらかった時のことを
四季さんに聴いてほしかったのかもしれん……」
颯太朗の目から涙がこぼれ落ちた。
四季がハンカチを渡すと、
彼は目を拭って言った。
「ツーマンライブに来てくれたとき、
『ギターの響きで心が軽くなった』
四季さんが、そう言うてくれたやんか。
こんな俺でも人の心を
軽くできるねんなって思えた……」
颯太朗も四季も微笑んだ。
楠の木と色づいた楓のトンネルを
二人が歩いていると
石畳には色づいた楓の葉が
着物の模様のように散っている。
「なあ、四季さん。
ライブに出演するかしないかは別にして、
『あなたの笑顔を見ていたい』を
俺のギターで練習しいひんか?」
「ええ、ほんまですか!」
――うれしいけど緊張してしまう……。
「何にも気にせんと一緒に歌おう」
楠の木と楓のトンネルを抜けるころには、
四季も颯太朗も笑顔になっていた。
第5章
青蓮院から家に帰ると、
四季は今日あったことすべてが
夢だったように感じた。
バッグからハンカチを出すと、
いい香りがした。
四季はその香りを吸い込んだ。
ウッディな整髪料と男の匂いが
混じり合った香りだ。
――颯太朗さんの匂い……。
四季の胸がキュンとなり顔がほてる。
颯太朗の背中の震えや温もりが
まだ手に残っている。
青蓮院へ行った翌日、
さっそく颯太朗からメッセージがきた。
《この前会った京都駅前のカラオケルームで
『あなたの笑顔を見ていたい』
の練習をしよう。
次は◯月◯日午後8時からにしよう。
来られるか?》
メッセージを見ると四季の胸が波立つ。
――颯太朗さんは、
私に優しいお母さんを
求めてはるだけなんかもしれん……
『いい年して、
息子みたいな男はんと何してるの!
人さんに笑われるえ!』
母の声がまた蘇る。
――どうしよう……。
迷う心とは裏腹に指が勝手に動いた。
《はい、大丈夫です。
よろしくお願いします。》
約束の日、時間よりずっと早く
四季はカラオケ店に到着し、
ドアの方を振り返った。
リネン素材で色はアイスベージュ、
すとんと落ちるストレートシルエットの
ワンピース姿の女が立っていた。
シンプルだが洗練されたデザインで
アースカラーの服が
その女に落ち着き与えている。
痩せても太ってもいない。
ショートボブにしている髪は、
ヘナのような自然染料で染めているのか、
落ち着いた栗色だ。
肌には目立たないシミが少しあるが、
潤いがあってしっとりしている。
その女がまじまじと四季を見つめていた。
――なんや、私か……。
やっぱりおばさんやな……。
そやけど颯太朗さんのお母さんにだけは
絶対に見られたくない……。
「待った? 受付するわ。
ちょっと待っててな」
颯太朗の声がして振り返った。
彼が受付をしてくれた。
そのとき、
大学生風の若者数人が入ってきた。
女の子たちが着ている
パステルカラーのピチピチの服が
スタイルの良さを際立たせ、
艶つややかな長い黒髪が
残酷なほど若さを放っている。
予約していたのか
彼らが先に部屋に案内された。
彼らは颯太朗と四季には
何の関心も示さず自分たちの
カラオケルームに去った。
同時に受付の女性が大きな声で言った。
「このグループに60歳以上の方は、
いらっしゃいますか?」
「は、はい! 私です」
頭が真っ白になった。
シニア割引があるらしい。
聞こえたのか聞こえなかったのか、
颯太朗は無表情に受付を済ませると、
四季の肩に軽く手を触れて、
エレベーターのボタンを押した。
部屋に入りギターの調整をすると、
颯太朗は伴奏を始めたが、
いつまで経っても歌わない四季に、
彼の手が止まり、
怪訝そうに四季を見た。
――どこから歌いだしたらいいの?
ぜんぜんかわからへん……。
ボイトレでは歌い出しがハッキリわかる
練習用の音源を使っている。
ギター伴奏で歌うのが初めての四季には、
歌い出しがわからない。
もじもじしている四季に、
「ごめん、歌い出しがわからんかった?
次は、ワンツー、ハイって俺が言うわ」
四季は恥ずかしくて顔が熱くなった。
歌いやすいように
颯太朗が合図してくれたので、
次はなんとか歌い出せた。
少し歌って緊張がほぐれると、
颯太朗のギター音色が響きとともに
四季の体に伝わり、
お腹から出る張りのある声と
響き合うのか、
練習用音源では感じたことのない
快さが伝わって来る。
澄んだ高音も張りを保って
四季のお腹から響き渡った。
「四季ちゃん、張りのある声やね。
澄んだファルセットが綺麗や。
女性が高い声を出すと
金属的な声になる人が多いけど、
四季ちゃんは、
ぜんぜんそんなことないな」
――四季ちゃん……
「ちゃん」づけになってる。
「さあ、もう一回歌おう」
颯太朗が肩までの髪を器用に束ねると、
形の良い広い額があらわになった。
真一文字の濃い眉、
切れ長だが二重のくっきりした目、
颯太朗の美貌が際立つ。
響き合う時間はすぐに経ち、
気がつくと午後10時を過ぎている。
――2時間も経ってる!
颯太朗さんの大事な時間を
私の練習につきあわせてしもた。
作曲もしてもらったし、
音源も作ってもらった……。
ギターをケースに片づけている颯太朗に
四季はおずおずと言った。
「颯太朗さん、あの……。
レッスン料や作曲料、
それから音源を作ってもらった費用は、
いつお支払いしたらいいですか?」
颯太朗は一瞬キョトンとしたが、
笑って言った。
「ええよ、そんなん。
俺がしたくてしてることやし。
四季ちゃんは数回歌っただけで、
すごいうまなる。
それに、ええ顔して歌ってるんや。
ほんま幸せそうに。
その顔を見てるだけで、
俺まで幸せな気分になるんや」
颯太朗は少し照れたように笑って言った。
四季がまだもじもじしていると、
「俺、四季ちゃんの声自体が、
好きなんや」
颯太朗のことばは、
温かいハーブティーでも飲んだように
お腹がじんわり温かくなり、
次第にその温かさが、
全身に広がった。
――颯太朗さんはプロやもん。
生徒を褒めるのになれてはるんや……。
四季は懸命に高まる気持ちを抑えたが、
うれしさがそれをずっと上回った。
「次の練習はいつにする?
またメッセージ送るわ。
四季ちゃんの都合のいい日を教えてな。
夜に通話するときに決めようって
思うんやけど忘れてしまうんや。
話に熱中してて」
颯太朗は四季の肩を優しく押して、
カラオケルームを出た。
先を歩く颯太朗の
少し汗ばんだうなじが艶めかしい。
第6章
『俺、四季ちゃんの声自体が、
好きなんや』
あのときの颯太朗の声とまなざしが、
不意に胸の奥から押し寄せてくる。
スーパーのレジで支払をしているとき、
カフェで飲み物を待っているとき、
図書館で貸し出し手続きをしているとき、
思わず浮かぶ自分の微笑みを
誰かが見ていたのではないかと、
慌てて顔を引き締める。
――声よ声! それだけや……。
どんなに打ち消しても、
『颯太朗さんもちょっとは私が好き?』
そんな思いが湧き上がってくる。
目がカレンダーに印をつけた、
颯太朗との練習の日を見てしまう。
練習日が近づくと、
《ごめん、行けなくなった》
颯太朗からそんな連絡がくるのではないかと、
気持ちが落ち着かない。
――何を着て行こうか?
私の服っておばさん臭い色ばっかりやわ……。
当日になると、
クローゼットをかき回してしまう。
『ちょっと優しくされたから言うて
何を熱うなってるの!
男はんの心の底はわからんし。
それに、息子みたいな男はんに熱あげて、
人さんに笑われるえ』
沸かし忘れた冷たい湯船に入ったように
全身が凍りついた。
母の声が耳の奥で響いた。
四季はその場に座り込んで頭を抱えた。
『体調不良で急に行けなくなった』
そう颯太朗に連絡しようと思ったが、
ちりちりと足元から炙られているようで
クローゼットからワンピースを出すと
鏡も見ずに着替えた。
どのようにして京都駅前のカラオケ店に
たどり着いたのかわからない。
颯太朗と合流すると、
雲の上でも歩くようにおぼつかない足取りで、
カラオケルームに入った。
何もかもがぼやけて見える。
濃い霧の中のように。
いくら水を飲んでも、
喉が締めつけられてカスカスで
声が響かない。
「どうしたんや?
声にぜんぜん張りがないで。
いつもの四季ちゃんの声と違う……」
何も言えずに突っ立っている四季を
颯太朗が心配そうに見つめた。
「なんで私に優しくしてくれるん?
お母さんみたいやし?」
颯太朗はゆっくり四季に近づくと、
うつむいている四季をそっと抱き寄せ、
四季の肩に頭を乗せて言った。
「馬鹿やな、四季は。
お母さんなんかと違うで。
大切な人や」
四季の耳に颯太朗の息がかかり、
ウッディな整髪料の香りが強く香った。
「座ろう」
颯太朗は四季の肩に腕をかけたまま、
カラオケルームの細長い椅子に四季を座らせ、
自分も座るといきなり横になって言った。
「膝枕してえな」
「膝枕?」
四季が座ると、
彼女の膝に頭を乗せ颯太朗は目を閉じた。
四季は子どもをあやすように
颯太朗の背中をトントンと叩いた。
しばらくすると
颯太朗は寝息を立て始めた。
膝が颯太朗の頭の重みと体温を感じ、
彼の顔にかかった髪をかき上げた。
形のいい鼻きめ細な肌。
目を閉じた美しい横顔を見せて
颯太朗は無防備に眠っている。
――いつもはもっと厳しい顔してはる。
才能もあってかっこよくて
いつも若い女の子に囲まれてはっても、
目が遠いところを見てはったもんな……。
私はおかあさんでもかまへんし、
颯太朗さんには幸せになってほしい。
四季がしみじみと
颯太朗の顔を見つめていると、
いきなり颯太朗が目を開けた。
「ほんまに寝てた……。
俺、こんなに安心して眠ったんは
生まれて初めてや」
四季の膝に頭を乗せたまま
颯太朗が四季の目を見て言った。
「俺に言い寄ってくる女は
たくさんいるんや。
向こうから言い寄ってきたから
気楽につきあったけどな、
そんな女といるとよけいに寂しくてな。
そやし女からすぐに逃げたんや。
俺は女癖が悪いってみんな言うてるわ。
やっぱり俺はおふくろが言うように
クズなんやろうな……」
ツーマンライブで若い女性ファンに
囲まれていた颯太朗は
怒りを抑えて虚ろな目をしていた。
「四季の歌はうまいとか、
高い声が出るとか声が綺麗とかだけと違う。
聞いてる人が癒しを感じる声や。
なあ四季、お披露目ライブしような
『あなたの笑顔を見ていたい』の」
「ライブなあ……」
四季が言いかけると、
颯太朗はガバっと起き上がり
四季の唇を颯太朗の唇がふさいだ。
チクチクするヒゲと柔らかい唇の感触が
だんだん強くなる。
四季が体を固くしていると、
颯太朗はもっと腕に力を込めた。
四季もゆっくり両腕で颯太朗を抱いた。
それに応えるように
颯太朗の腕の力がさらに強くなり、
彼の息づかいや鼓動が伝わってくる。
四季の耳に颯太朗の声がこだまする。
『馬鹿やな、四季は。
お母さんなんかと違うで。
大切な人や』と。
颯太朗の声は四季の耳でこだまして、
彼女の体を熱くした。
颯太朗はなかなか腕の力を緩めず、
四季を離さなかった。
第7章
家に帰るとすぐに鏡を見て
自分の唇を撫でた。
まだ颯太朗の唇の温かさが残っている。
鼻の下が妙にチクチクする。
――颯太朗さんのヒゲ……
思わず四季は赤くなった。
鏡には柔らかい表情の女が映っている。
彼女の顔には人の視線を気にして、
神経を尖らせる硬さは微塵もない。
――こんなふうに誰かに
抱きしめられたのは初めて……
ところが、カラオケで唇を重ねてから、
颯太朗からの連絡がぷっつり途絶えた。
毎日のチャットや通話も
練習日時の連絡もない。
「忙しいのだ」と自分をなだめたが、
不安は日に日に大きくなる。
――やっぱり私が母親ほど年上やから……
昔のことを話して重かったん……
私が甘え過ぎたから……
二週間たっても何の連絡もない。
自分から連絡しようとしたが
それもできなかった
――颯太朗さんは仕事中かも
生徒さんに教えてはるかもしれんし
もしかしたらライブ中なんかも……
いつもスマホを持ち歩いて、
通知音が何もなくても
何度も何度もスマホ画面を確認した。
颯太朗から連絡がなくなって
3週間はたっただろうか。
そのとき、通知音がした。
慌ててスマホを見ると
送信者はボイストレーナーの
田上はるかだった。
《お元気ですか?
しばらくレッスンの予約がありません。
ご予約をお待ちしていますね。》
しばらくレッスンを休むと
送られてくる定型文のメールだ。
颯太朗と練習するのに夢中で
しばらくボイトレを休んでいた。
レッスンではるかに会うと
颯太朗のことを見抜かれるようで
怖かったが予約を入れ、
はるかのレッスンを受けた。
「声にぜんぜんハリがないよ。
どうしたん?」
ピアノに向かっていたはるかが
振り返り心配そうな表情で四季を見た。
四季が黙っていると、
「四季ちゃん、
最近、颯太朗と仲良くしてるんやろ?
颯太朗はええヤツやけど、
女の子を取っ替え引っ替えする
あぶないところもあるんや……」
ツーマンライブで
女の子に取り巻かれていた
颯太朗の姿が四季の目に浮かぶ。
ただならぬ敵意で四季を睨んでいた
若い女性が着ていたワンピースの
鮮やかなオレンジ色が蘇る。
「颯太朗はギター上手いしイケメンやし、
次々と女の子が言い寄ってくるんや」
はるかはピアノから四季に向き直ると、
肩をすくめて言った。
「今は杏里(あんり)って子が、
颯太朗を追いかけ回してるわ。
京都在住の子なんやけど、
大阪まで颯太朗にギターを習いに行ったり、
颯太朗のライブには
毎回、絶対に杏里がいるんよ。
うちと颯太朗のツーマンのときも
派手なオレンジ色のワンピ着て
開場前から押しかけて来てたわ」
――颯太朗さんと親しいのは
私だけやと思い込んでいたなんて
ほんまに滑稽やわ……。
『息子みたいな年の男はんに熱うなって
このざまや! 人さんに笑われるえ』
四季が耳をふさいで頭を振った。
「四季ちゃん、大丈夫か?
追い討ちをかけるみたいやけど……
颯太朗から別れ話をされた子から
聞いたんやけどな、
『別れたくない』って、
抱きついたら突き飛ばされて
脚にすがったら蹴飛ばされたらしい。
うちはそんな荒々しい颯太朗を
見たことないけどな……」
レッスン終了のチャイムが鳴り、
はるかが次のレッスンに去ると
四季はその場に崩れ込んだ。
第8章
やっとの思いで家に帰ると、
着替えもせずにベッドに倒れ込んだ。
――颯太朗さんが女の子を
取っ替え引っ替え……。
突き飛ばしたり足蹴にしたり……。
胸が苦しい。
息をすると胸に痛みが走る。
――颯太朗さんから連絡はもうないかも。
二度と会えへんかも……。
『私、別れたくない!』
嫌悪感をあらわにして、
颯太朗が四季を突き飛ばして
彼の脚にすがると、
煩わしそうに蹴飛ばされ、
四季は跳ね飛ばされた。
「颯太朗さん!」
自分の声で目が覚めた。
夢だったのだ。
起き上がるとさして広くない部屋を
ぐるぐる歩き回った。
居ても立っても居られない。
――ちょっとお水でも飲もう。
口に含んだ水を飲み込めない。
胸に何かが詰まっているようで。
グラスを置いてベッドに倒れ込むと、
天井がぐるぐる回ってる。
――3時か……。
ずっと夜が続くんかも……
もう朝は来うへんかも……
いつの間にか眠ったらしく、
カーテンのすき間から日が差している。
枕もとの時計を見ると午前10時だった。
そのとき、着信音がした。
四季は飛び起きてスマホを見た。
ときどき英会話を習っている
カトリック教会のメールだった。
スマホを手に持ったまま
仰向けにベッドに倒れると
涙が流れて耳にかかった。
涙を拭いてスマホに目をやると
教会の聖母子像の画像が目に入った。
――聖母さまの膝に顔をうずめ
大声で泣きたい……
起きて歩き回ってもベッドに横になっても
身の置きどころがない。
――何にもしたくない。
誰かこの苦しみを取り除いて!
どのくらい時間が経っただろうか。
四季はのろのろと起き上がり、
顔を洗って着替えるとバッグをもって
玄関の鍵を閉めた。
外に出るとあたりは暗くて寒かった
――聖母さまに祈ってみよう。
この苦しみから救ってくださいと。
屋根に大きな十字架を戴く教会に向かい
聖堂に入ると柔らかい明かりが
ステンドグラスを照らしている。
四季は大きく息を吸って吐いた。
――どうか愚かな私をお救いください。
四季は椅子に座って目を閉じた。
人の姿はあったが聖堂は静寂に満ちている。
四季が静けさに身を任せていると、
入口付近で人が移動する音がした。
――今、何時だろう?
小ホールの講座が終わったんやろうか?
時計を見ると8時半を過ぎている。
四季は立ち上がり正面玄関に向かうと、
来たときは気づかなかったが、
聖堂の入口には「プレセーペ」と呼ばれる
キリスト誕生を再現した人形が置かれていた。
教会は京都一番の繁華街に位置している。
一歩外にでるとそこは師走の喧騒に満ちていて、
二次会に向かう賑やかな人でいっぱいだった。
――聖と俗やね……。
そのとき、鮮やかなオレンジ色が目に入った。
そしてオレンジ色のそばの後ろ姿が……
四季を凍りつかせた。
――颯太朗さん!
オレンジ色のスタジャンを着た若い女性が
黒いジャケットの颯太朗にすがりつき
木屋町の方に向かって歩いている。
二人の顔は見えないが
オレンジ色の背中は悲壮感が漂い
黒い背中は逡巡している。
――オレンジ色……
杏里って言う子やろうか……。
この通りを木屋町に向かって歩くと……。
そこにあるのはラブホ街だ。
四季の目の奥で閃光が走った。
心が凍りつきしびれたような重さが
足先や指先から伝わってくる。
第9章
自宅に戻り部屋着に着替えると
四季はベッドで横になった。
目を閉じると颯太朗のジャケットの黒
杏里のスタジャンのオレンジ色が
万華鏡のように回っている。
防衛本能なのか痛みは感じない。
手術後、麻痺が切れると
じわじわと痛みが押し寄せるように
これからつらくなるのだろう。
美男子の颯太朗の横で
大きな目を輝かせた杏里が浮かぶ。
二人の若さが眩しい。
ゆっくり麻痺が去り
重い苦しみが四季の胸を圧迫する。
「ガタン!」と音がした。
四季は慌てて飛び起きたが、
自動製氷機が氷を落とす音だった。
時計を見ると0時前だった。
その時、通話の着信音が響き
「颯太朗さん」と表示が出ている。
四季の頭で黒とオレンジの万華鏡が
激しく回転している。
四季は伸ばしかけた手を引っ込めたが、
憑かれたようにスマホを取った。
〈……四季!
会いたいねん、今すぐ。
いつものカラオケルームに来て。
お願いや、今すぐ!〉
ドスンと鈍い音を立てて
何かが倒れた気配がする。
「わかった! すぐ行く!」
四季は部屋着の上に
ロングコートを羽織ると
財布とスマホをポケットに入れ
自宅を出た。
通りに出てタクシーを拾おうとしたが、
どれも人が乗っていて
空車がなかなか来ない。
四季の耳に「ドスン」という音が
こびりついている。
やっとタクシーを拾って
京都駅前に向かった。
0時近いがまだ街は明るく
忘年会の二次会帰りか、
三次会に向かうのか、
車中の四季の目には
誰もが明るい顔をしているように映る。
やっとタクシーで京都駅前に移動すると、
いつものカラオケ店に飛び込んだ。
受付を待つ人がたくさんいて
じりじりしながら順番を待った。
やっと四季の順番が来ると、
「伊達颯太朗に合流したいんです」
ポケットからスマホを出して、
若いスタッフに見せると、
颯太朗のルームナンバーを教えられた。
スタッフの目を気にする余裕もない。
エレベーターを待つのももどかしく、
階段を駆け足で3階まで上がった。
指示された部屋のドアを開けると、
颯太朗はスマホを片手に持ったまま
床に倒れていた。
「颯太朗さん!」
四季の姿を見ると颯太朗は起き上がり、
ボサボサになった髪を掻きむしった。
四季が駆け寄ると
うつ向いて聞き取れないほどの声で言った。
「やっぱり来てくれた……。
四季は来てくれたんや……」
涙が床にポトポト落ちた。
「連絡せんとごめん。
……怖くなったんや……
四季を真剣に好きになるのが……」
四季の頭をまた黒とオレンジ色の
万華鏡が回り始めた。
「俺は女癖が悪いって知ってるやろ?
四季がいるのに、
今日も言い寄ってくる子と
木屋町のラブホの前まで行ってしもた……
逃げて帰ってきたけど……」
いつからこの部屋にいるのか、
颯太朗は疲れ切っていて痛々しい。
「そいつは大阪まで通って
俺の個人レッスンまで受けてるんや。
ギターを習いたいのは本心みたいやけど。
『颯太朗先生はレッスンやライブでは
優しそうに見えるけど、
心は冷え切ってはる……』
そう言うようになってな」
「杏里さんのこと?」
「ああ、名前を知ってるんやな。
はるかに聞いたんか?
『うわべだけ優しい颯太朗先生なんか
私はイヤや!
本気で私を見て!
今すぐ京都のカトリック教会近くの
カラオケに来てくれへんかったら
私、生きていけへん!
死んでしまう!』
杏里にそう言われて行ったんや」
四季が椅子に腰掛けると、
颯太朗は四季の隣にすわって、
横向きに寝そべると
四季の膝に頭を乗せた。
「いつも格好つけてるのに
杏里はなりふり構わんと、
『颯太朗を今夜は帰さへん』
って殺気だって言うと、
俺を木屋町通の方に引っ張って
ラブホの前まで行った。
でも、杏里の手を振り払って、
『ごめん』って言うて逃げてきたんや。
四季にも杏里にも酷いことした……
ほんまに俺はクズなんや!」
颯太朗の目から涙が伝うのを、
四季は指で拭った。
「俺は、愛人と子ども作って
家族を捨てる父親と
ドメスティックバイオレンスの母親
この二人の間に生まれてんで……。
次々、女を変えて、
暴力ふるったこともあるクズや。
四季を真剣に好きになったら、
自分がどうなるのかが怖いんや」
「颯太朗さんはクズなんかと違う!
私の心を軽くしてくれた!」
颯太朗は体を起こして、
四季をじっと見つめた。
「俺は人と深く関わるのを避けてた。
そやけど、四季を心から楽しく
歌えるようにしてあげたい!
心を楽にしてあげたい!
その気持ちはホンマなんや!」
「私は颯太朗さんを信じてる!
颯太朗さんの子どものころの話を
青蓮院さんで聞いたとき、
何にもしてあげられへん
自分がもどかしかった」
四季は教師時代の苦い記憶を
手繰り寄せ颯太朗に言った。
「教師やったとき、
校区に児童養護施設があって、
そこから通学してる女子を担任してた。
あの子が三年生になって、
定時制高校も就職先も決まったんや。
ところが、卒業間際に
実の母親が現れてあの子を引き取った。
『おかあちゃんと一緒に暮らせる!』
あの子は大喜びした。
定時制高校も就職先も蹴って、
母親と暮らすことになったんや」
四季は苦いものがこみ上げてくるのを
飲み込むと、ことばを続けた。
「あの子は2か月ほどして、
髪をキンキラキンにして、
どぎつい化粧して、
私に会いに来た……。
母親の店で働き始めたらしかった」
情けない思いで四季が語ると、
颯太朗は四季の肩を優しく抱いた。
「親から暴力を受けてるんと違うかと
疑ってた子もいた。
そやけど、担任がどんなに頑張って
生徒を守ろうとしても、
『いくら担任の先生でも、
家庭のことに口を出してほしないです!』
と保護者に言われたら、
私は何も言えへんかったし、
何もできひんかった。
情けなかった悔しかった」
四季の声が震えたが
声を振り絞って宣言するように言った。
「でも、今は違う!
何もできひんかった昔の私とは違う!
お母さんとしてでもええし、
颯太朗さんを鬼婆の呪いから守って、
絶対に幸せにする!」
四季のことばを聞くと、
颯太朗は四季を両腕で抱きしめた。
颯太朗の涙で濡れた頬が四季の頬に触れ、
バサバサになった髪から
颯太朗の匂いがした。
四季を強く抱きながら
少しは落ち着いたのか
声は穏やかに言った。
「俺ら、なんか似てるな……」
「ほんまやね、
波動が一緒なんかもしれんな」
「知ってるか?
四季の歌声を世界で一番好きなんは
この俺やで!」
「颯太朗さんのギターを
宇宙で一番好きなんは私!」
「決まりやな。
『あなたの笑顔を見ていたい』の
お披露目ライブ!」
「しゃあないな。
お披露目ライブ、出演するわ。
押し切られてしもた」
二人は抱き合って声をあげて笑った。
第10章
自宅に帰ると午前3時を過ぎていた。
へとへとに疲れていて
四季は玄関に座り込んだ。
――ジェットコースターに乗ってる気分やった。
ジェットコースターが急降下する
全身を縛り付ける痛いような恐怖。
降りて地面についても
クラクラするように
四季もクラクラしていた。
――『あなたの笑顔を見ていたい』を
颯太朗さんのギターで
人前で歌うんや、私……。
颯太朗に出会う前には
想像すらできなかったことだ。
《四季、頑張って練習しよな!
二人のライブを成功させよな!》
さっきまで一緒にいた
颯太朗からメッセージが来た。
二人は練習の回数を増やした。
颯太朗のギターがイントロを奏で、
四季は息を整える。
「一人になるのが怖いから
見せかけの笑顔を振りまいていた
一人になるのが怖いから
うわべの優しさ嘘つきだよね
友だちがいても私は寂しかった
群れていても心を満たせなかった」
四季のお腹に響く低い声には
深い諦めが漂っている。
曲が転調すると
颯太朗がギターをかき鳴らす。
「もうやめようこんなこと
自分に嘘はつかない
本当に好きな人の笑顔見ていたい
あなたの笑顔を見ていたい」
サビは自分に宣言するように
ファルセットは澄んだ高い声になり
部屋中に響き渡った。
「……いいな……」
颯太朗の口からつぶやきがもれた。
――この歌詞を書いたとき、
まさか颯太朗さんのような人に
作曲してもらって歌えるなんて
夢にも思わへんかった……
「四季、これからお披露目ライブの
会場を下見に行かへんか?
東山、青蓮院さんの近くや」
「青蓮院さんの近く……」
「古い町家をマルチスペースに改装して
いろんなイベントに貸してるんや。
離れは防音対策してあって
ライブ会場としてもつかえるねん」
二人は京都駅から地下鉄烏丸線に乗り
東西線に乗り継いで東山駅で降りると
時雨れていた。
「あぁさぶぅ、時雨やな……」
「もう12月やもんね。
ライブハウスは空きがあるやろか……」
颯太朗は四季の手をとると、
大通りから渋い焦げ茶色になった
紅殻格子の町家が立ち並ぶ
小路に入った。
その中の一軒の町家の前で立ち止まった。
その町家は駒寄(こまよせ)と呼ばれる
木の低い柵が紅殻格子を囲んでいる。
駒寄も紅殻格子も渋い焦げ茶色だが、
入れ替えられたのか、
入口の格子戸は明るい木の色をしている。
颯太朗は格子戸を開けて
二人は中に入った。
――ええ匂い。何の匂いやろうか……
颯太朗はこの匂いが苦手なのか、
人差し指を曲げて鼻を押さえ、
内玄関の横にある通り庭を
すたすた歩いて奥へ行く。
玄関にはガラスケースが置かれていて、
漢方薬を連想させる薬研(やげん)などが
展示されているのがちらっと見えた。
――昔、うちの家にも三和土の通り庭や
おくどさんがあったな。
こんなに立派ではなかったけれど。
通り庭は庭まで続いていて、
表からは想像できないほど奥が深い。
庭は石塔や石灯籠があり
角が擦れた敷石が小道になっている。
植木も手入れされていて広い。
離れの入口を開けると、
さっきとは違う品の良い香りがする。
和洋折衷の室内は黒光りする板敷で
床と同じ色の椅子が置かれている。
壁は土壁で漆喰が塗ってあり、
むき出しになった柱も黒光りしている。
奥の部屋は灯籠が置かれている
小さな庭に面しているのが
ガラス戸から見えた。
「素敵なお部屋やね。
こんな古風なお家やのに、
ライブハウスにもなるねんね」
「畳の部屋は振動を吸収するさかい、
音が響かへんね。
木の床や漆喰の壁はよう反響するんや」
颯太朗は黒光りする太い柱に
触れながらしみじみ言った。
奥の小さな庭の方を見て、
「このあたりが四季と俺の場所。
椅子を二つとカポを置くテーブルがあったら、
それで完了や。
ここがライブ会場でかまへんか?」
「うん、もちろん!
胸がどきどきするわ」
颯太朗は黙って庭の石灯籠を見ていたが、
四季の声にはっとして言った。
「家に帰ったら、ネットで予約するわ。
こんな古くさい家やのに、
予約はネットなんや」
「ここでライブするんや、二人で」
颯太朗は四季の目を見て言った。
四季は颯太朗の目の奥に
怖れと悲しみの光があるのが不安だったが、
彼は四季の手をしっかり握って離れを出た。
最終章
お披露目ライブに向けて、
ライブハウスを正式に予約したことを
その夜、颯太朗は深夜の通話で告げた。
〈あのライブハウスは
ライブハウスとして使えるのは今年いっぱい。
持ち主が東京の大手になるらしい。
なんとか大晦日に予約入れられた。
ギリギリセーフで冷や汗もんや〉
〈大晦日なんやね。
でも、予約取れて良かった〉
次の練習日には、
カラオケルームのテーブルを前に
二人はお披露目ライブに向けて
セットリスト(曲目)や構成を決めた。
「俺はカバー曲2曲とオリジナル曲1曲、
四季もカバー曲2曲を歌って、
最後が『あなたの笑顔を見ていたい』、
これでどうや?」
「私が歌えるのは『いい日旅立ち』と
『If we hold on together』くらいやし、
それで決まりかな」
「なんか俺に演奏してほしい曲あるか?」
「教師やったとき、授業の前に
英語の歌を流してたんやけど、
『明日に架ける橋』は
生徒もみんなジーンとして聞いてたし、
私も好きな曲なんやけど」
「ええな、最初の曲にしよう」
「もう一曲のカバーは『素顔のままで』、
オリジナル曲は『レゾナンス』にするわ」
「レゾナンス、響き。いいね~」
「1曲目と2曲目はカバー曲の演奏、
『明日に架ける橋』
『素顔のままで』
3曲目は俺のオリジナルインストで
『Resonance(レゾナンス)』
ちょっとMCはさんで後半は四季。
後半最初は『いい日旅立ち』
『If we hold on together』
またちょっとMCで
最後が二人のオリジナル曲
『あなたの笑顔を見ていたい』
これでどうや?」
「ものすごええと思う。
いよいよやね。しっかり練習する」
颯太朗はSNSでお披露目ライブを告知し、
四季はその告知をシェアした。
また、自分のアカウントでも
颯太朗とのライブを告知して
親しい人にはメールを送った。
ライブまでの日は慌ただしく
あっという間に過ぎた。
ライブ当日、四季はお披露目ライブ用に
用意した真紅のドレスに着替えた。
――実際に60歳になったときは、
特別なんにもしいひんかった。
還暦は干支(えと)が生まれた年に戻る。
赤子に還って生まれ変わるという意味もある。
二年遅れたけれど、今日は私の還暦!
深紅のドレスで歌って生まれ変わる。
ロングドレスに着替えた四季が
緊張を隠せないでいると、
田上はるかが顔を出した。
「四季ちゃん、めっちゃ綺麗!
実力も十分あるし絶対に大丈夫!」
「はるか先生、
先生にそう言ってもらえたら心強いです」
「『If we hold on together』も歌うんやろ?
『私たちが支え合ったら、決して夢は死なない』
って意味やったやんな?
今日の二人にぴったりの曲やね」
はるかは緊張している四季の手を
しっかり握ってそう言った。
開場時間になると、
町家のライブ会場は満席になった。
「今日は僕らのために
暮れのお忙しいなか足を運んでもらって、
本当にありがとうございます。
まず、カバー曲を2曲と
僕のオリジナルインスト曲を1曲を
お聞き下さい」
颯太朗がギターを奏でると、
観客は体を揺らしながら聞き入った。
会場はライブの熱気が高まった。
「ありがとうございます。
後半は僕の伴奏でヴォーカルです。
まず、カバー曲2曲をお聞き下さい。
ヴォーカルは雨水四季です」
紹介された四季は立ち上がり、
真紅のロングドレスの裾を引いて
颯太朗の横に移動した。
不思議に緊張はしなかった。
四季の頭には旅立つ女性の姿や
雲を超えて輝く光が浮かび、
彼女の歌に情感を与えた。
こうしてライブは順調に進んだ。
「今日のラストは
『あなたの笑顔を見ていたい』です。
歌詞はヴォーカルの雨水四季、
曲は伊達颯太朗。
二人のオリジナル曲です」
MCを終えると、
颯太朗はイントロを弾き始めた。
四季が歌おうとした瞬間だった。
『何してるの!
親子ほど年の離れた男はんと
人前でいちゃいちゃして、
人さんに笑われるえ!』
――おかあちゃん!
凍りついて声がでない。
四季の異変を感じた颯太朗は、
四季を支えるように
何度もイントロを繰り返した。
棒立ちの四季に、
颯太朗の弦の響きが伝わる。
『四季はおかあさんと違うで、
俺の大切な人や』
颯太朗の弦の響きとことばが
四季の凍りついた声を静かに溶かした。
――おかあちゃんは、
いつも人さんが大事なんやね!
娘の私より!
おかあちゃんに愛されたくて一生懸命でも、
受け入れてくれへんかったやんか。
私のそんな気持ちを
一回でも感じてくれたことあったんか!
すうっと深く空気を吸い込むと
四季は息を整えた。
愛されない存在だと思い込んで、
ずっと蓋をして閉じ込めていた
四季の声が、響きがほとばしり出て、
颯太朗のギターと共鳴した。
四季は想いを込めて
『あなたの笑顔を見ていたい』を歌う。
――おかあちゃん、私、もう怖くない!
笑いたい人は笑わしといたらええやんか!
四季の心は解き放たれ心から響く声は
颯太朗の弦の響きと一つになって、
聴衆を魅了した。
演奏が終わると喝采が二人を包んだ。
ライブは大盛況だった。
「雨水先生! ハグさせて下さい。
元気もらいました。
あの大人しい雨水先生とは
別人みたいでした」
四季が親しくしていた数少ない同僚だ。
彼女にそっくりな高校生くらいの少女が言った。
「めっちゃカッコよかった。
60歳すぎてこんな素敵なライブできるなんて」
そこへ白髪の初老の男性が現れた。
「坊っちゃん、聞かしてもらいました。
ほんま感動どした。
小さいときは苦労しゃはったけど、
こんなに立派にならはって……」
「番頭さん、来てくれはったんですね」
「へぇ『マル京』の社長さんが、
知らせてくれはったんどっせ」
ライブ後、音響や照明を引き受けてくれた
颯太朗の友人やはるかが、
飲み物や簡単な食べ物を差し入れてくれて、
打ち上げになり、大にぎわいだった。
みんなが帰って、四季と二人になると、
颯太朗は目をうるませて言った。
「ここな、俺の実家やねん。
今の持ち主が離れをライブハウスに改装してるけどな。
そやけど、昔の面影はハッキリ残ってる。
ここでライブするのはホンマに怖かった」
「ええ! そうやったん!
いい香りがすると思ってたけど」
「いい香りか?
香りは脳を刺激するらしくて、
記憶をくっきり呼び起こすねん。
俺にとってはこの香りは
つらい記憶とセットなんや」
颯太朗は四季の手をとって庭下駄を履くと、
石灯籠の柔らかい明かりに照らされた坪庭に出た。
「私な、歌おうとしたら
『人さんに笑われるえ!』って母の声が聞こえて……」
「それで沈黙してたんやな。
『四季、おれはここにいるで!』
って何回イントロを繰り返して弾いたか」
「颯太朗さんのギターの響きを感じたら、
凍りついた私の声が溶けて響きだした。
昔、理科の時間に2つの音叉を使って、
共鳴の実験したのを、なんか今、思い出した」
「周波数が同じ音叉の片方を叩いたら、
叩いてへん音叉も鳴り出す実験か?」
「そう、颯太朗さんの響きで私も響けた。
そしたら、あんなに怖かった母に言い返せたんや。
『私、もう怖くない!
笑いたい人は笑わしといたらええやんか!』って!
颯太朗さんのギターの響きと一緒になって
心の底から声が響いた」
坪庭から見える四角い小さな空を見上げて、
颯太朗が言った。
「大手はここを大幅にリノベートして、
一泊数十万円の高級ホテルにするらしい。
嫌な思い出しかない実家やけど、
つらい記憶を封印したままは嫌やったんや。
おふくろの呪いが解けへんようで……」
四季はつないだ颯太朗の手を
もう片方の手で包み込んだ。
「それに俺のギターで心から気持ちよさそうに
歌う四季を見てたら、
『お前は幸せになれへん!』っていう
おふくろの呪いも吹っ飛んだわ!」
「私が絶対に颯太朗さんを幸せにする。
ずっと颯太朗さんのそばにいる!」
「四季と会えへんときがあったやろ?
あのとき、ほんまに『四季がいなくて寂しい』
って痛いくらいやった」
「私もほんまにつらかった」
「四季、ずっとそばにいてくれ」
「うん、ずっと一緒にいる!
私ら愛されへん存在やと思いこんでたやんな」
「そやな、そやけどもう子どものときとは違う。
今は四季も俺も恐れず人を愛せる。
拒絶を恐れて人を愛せへん人に
二人の共鳴を届けよう」
冴え冴えと美しい月のもとに、
二人の響きがまだ残っていた。
(完)
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【著者プロフィール】

村川 久夢(むらかわ くむ)
作家・セラピスト。京都生まれ、京都育ち。
「幼いころの心の傷が制限となって生きづらい人が、心の制限を外して、夢を叶える」をテーマに毎日のブログや書籍でメッセージを発信しています。
▶ 村川久夢 ホームページトップ
https://murakawakumu.com/
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