「日本語って難しいでしょ?」誇らしげに言う人。それは誇ることじゃなくて問題だと思う
「日本語って複雑でしょ?だから日本人は頭がいいんだよね」
こういうことを、嬉しそうに言う人がいる。テレビでも、YouTubeでも。母がよくそういう番組を見ていて、私はそのたびに居心地が悪くなる。
不思議なのは、こういうYouTubeが何百万回も再生されているという事実だ。怒りというより、困惑に近い感覚がある。日本語が世界最難言語に認定されていることを、なぜ誰も「問題だ」と言わないんだろう、と。
英語話者にとって、日本語は「最も習得が困難な言語」と評価されている
これは印象論ではなく、データに基づいた評価だ。
米国国務省の外交官養成機関(FSI)は、英語を母語とする外交官が各言語を職業レベルまで習得するのに必要な時間を調査し、難易度ランキングとして公表している。
日本語はその最高難度カテゴリーに分類されており、同カテゴリーの中国語・韓国語・アラビア語と比べても「さらに困難」というアスタリスク付きの注釈がつけられている。
習得に必要な時間は2,200時間。1日3時間休みなく続けて、約2年。しかもこれは、知的水準の高い外交官が集中的に訓練を受けた場合の話だ。
注意しておきたいのは、これが「英語話者から見た難易度」だということだ。韓国語話者や中国語話者にとっての日本語の難しさは、これとはまったく違う。
だからこのランキングをもって「日本語は世界一難しい」と言い切ることは、実は正確ではない。
だが、英語が事実上の国際共通語である以上、「英語話者にとって最もアクセスしにくい主要言語」という評価は、無視できない意味を持っている。
なぜ誰も「問題だ」と言わないのか
ここが私には理解できない。
2,200時間という数字は、参入障壁の話だ。日本語を学ぼうとする外国人に対して、日本語という言語そのものが「やめておけ」と言い続けている。それなのに、この事実がポジティブな文脈で語られる。「難しい=すごい」という謎の変換が、いつの間にか成立している。
こういった「日本すごい」コンテンツが量産される背景について、すでに指摘している人たちはいる。
あるブログ記事はこう書いている。
「海外を知らない人が作ったVTRに、海外を知らないゲストがコメントして、海外を知らない視聴者が喜ぶ」
また別の記事では、こうした番組が2012〜2014年にかけて各局で一斉にレギュラー化した背景に、東日本大震災後の「頑張ろうニッポン」ムードと、第二次安倍政権による「クールジャパン」戦略があったと指摘されている(参照:集英社オンライン)。つまり「日本すごい」コンテンツの流行は、自然発生ではなく、時代の空気と政治的な文脈に乗って増殖したものだ。
さらに、その心理的背景についてこんな分析もある。
「長引く経済の停滞や、変化する国際社会での立ち位置に対する漠然とした不安感。そうした中で、文化や社会の『素晴らしさ』を再確認し、外部からの承認を得ることで、自信を取り戻したい、安心したい、という集合的な心理が働いているのではないでしょうか」
なるほど、と思う。でも私が引っかかっているのは、その一歩先だ。
不安を埋めるためのコンテンツが存在すること自体は、まだわかる。問題は、誇るべきでないものまで誇りに変換してしまっていることだ。日本語の難しさは、その典型だと思っている。
こうした「日本すごい」コンテンツの歴史的な系譜に興味がある人には、早川タダノリ『「日本スゴイ」のディストピア 戦時下自画自賛の系譜』(朝日文庫)が参考になる。現代のテレビ番組と戦時下の自画自賛が、驚くほど似た構造を持っていることがわかる。
複雑さは「設計」ではなく「事故の堆積」だ
日本語の複雑さを「文化」と呼ぶ人がいる。でも少し考えてほしい。
漢字の音読みは、中国語の発音が日本に伝わる過程でなまったものだ。訓読みは、その漢字に日本語の発音を後から当てはめたものだ。「明日」を「あす」と読むのも、「一人」を「ひとり」と読むのも、意図して設計されたルールではなく、歴史的な経緯が積み重なった結果にすぎない。
「1日」を「ついたち」とも「いちにち」とも読む、あの複雑さも同じだ。誰かが「こうあるべき」と決めたのではなく、そうなってしまったのだ。
これを「文化の豊かさ」と呼ぶことはできる。でもそれは、誇ることとは別の話だ。手入れされないままのデコボコ道路を「味がある」と言い張るのと、構造は似ている。 もちろん、歴史的偶然の積み重ねで複雑になること自体は、どの言語にもある。英語のスペリングだって規則性を欠いているし、フランス語の文法性も「設計」されたものではない。
ただ、日本語の場合は程度が突出している。ひらがな・カタカナ・漢字の3種の文字体系を併用し、同じ漢字に音読み・訓読みが複数存在し、さらに文脈で読みが変わる。この多重構造は、他の主要言語と比べても類を見ない。 そして、こうした問題は日本人自身がずっと認識していた。明治時代から「漢字廃止論」「ローマ字論」が繰り返し議論されてきたのは、複雑さが誇らしかったからではなく、問題だったからだ(参照:漢字廃止論 - Wikipedia)。
この問題をもっと深く掘り下げたい人には、高島俊男『漢字と日本人』(文春新書)をおすすめしたい。日本語が漢字をどう受容し、どんな矛盾を抱え込んだのかを、読みやすい文体で解き明かしている
学習コストの高さは、実害を生んでいる
抽象的な話をしているのではない。
日本語の書き言葉が難しいせいで、日本語は経済規模に見合った国際的影響力を持てていない、という指摘がある。日本語ができればビジネスに有利だと思っている外国人も、書き言葉を学ぶコストを計算したら「割に合わない」と判断する、というのだ(参照:ローマ字運動)。
日本の経済規模、文化的な発信力は、世界水準だ。それなのに言語の複雑さが、国際的な影響力の上限を人工的に下げ続けている。これは損失だと思う。
誤解してほしくないのだが、私は日本語が嫌いなわけではないし、日本に誇れるものがないと言いたいわけでもない。ものづくりの精度でも、食文化でも、誇れる部分は確かにある。
ただ、言語の学習コストが高いことは、その中に含まれない。 ここだけははっきり言いたい。
「誇り」の正体
では、なぜ人は日本語の難しさを誇るのか。
一つの仮説として、サンクコストの正当化がある。漢字を何千字も覚え、複雑な読みをすべて習得してきた努力を、無駄だったとは認めたくない。だから「これは誇るべき複雑さだ」という物語を後から作る。
悪い人たちではないと思う。でも、それは立ち止まって考える機会を自ら手放している状態だ。
あるnote記事はこう書いている。
「いつまでも『日本すごい』と勘違いしていては、世界から大きく離されるだろうし、いつのまにかその勘違いが勘違いであることさえ気がつかなくなってしまうだろう」
私もそう思う。
正直でいることが、出発点だと思う
「誇るな」と言いたいのではない。
ただ、難しいものを難しいと言えること。問題を問題として認識できること。それが出発点だと思っている。
日本語が英語話者にとって最も習得困難な言語と評価されていることを、誇りではなく課題として受け取れる人が増えれば、何かが少し変わるかもしれない。
たとえば、公文書やWebコンテンツにふりがなをデフォルトでつけること。日本語教育の現場で、学習者の負荷を下げるための文字体系の整理を議論すること。
「日本語を学びたい」と思った外国人が、2,200時間という数字を見て諦めなくてすむ仕組みを考えること。
そういう具体的な議論が、「すごいでしょ」の先にあるべきだと思う。
少なくとも私は、あのYouTubeが何百万回再生されるたびに、そう思い続けている。
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