『豊臣兄弟!』の復習(第26回「信長を笑わせろ!」)――その笑いの隣で本能寺の火はつく
第26回「信長を笑わせろ!」は、タイトルだけ見れば、いかにも秀吉らしいコミカル回のように思える。
信長(小栗旬)が、謀反の疑いを抱いた信澄(緒形敦)に蟄居を命じる。それを何とか翻させようと、秀吉(池松壮亮)が長浜城に信長を招き、文字どおり「笑わせる」ことで機嫌を直させようとする。信長を説得するのではない。理屈で押すのでもない。まず笑わせる。場を和ませる。感情をほぐす。いかにも秀吉である。
しかし、見終わってみると、これは決して単なる接待回ではなかった。
むしろ、笑いの向こう側が怖い。
信澄は、信長の弟・信勝の子である。信長にとっては甥であり、織田一門の一員であると同時に、かつて自分に背いた弟の子でもある。信長は信澄を重用しながらも、どこかで父・信勝の影を重ねていたのだろう。今回、信澄が長宗我部元親(磯部寛之)と通じていたことを知った信長は、そこに「また裏切られるのではないか」という恐怖を見てしまう。
この時期の信長は、権力の頂点に近づいているようでいて、むしろ孤独を深めている。敵は外にいるだけではない。内にもいるかもしれない。家臣も、一門も、親族も、完全には信じきれない。天下人に近づけば近づくほど、信長の視界には裏切りの影が濃くなっていく。
そこで秀吉が持ち出すのが「笑い」である。
ここが実に秀吉らしい。秀吉は、信長に正面から異を唱えるのではない。まず空気を変える。場を作る。信長の機嫌を直す。政治とは、制度や軍略だけではない。人間の感情、面子、機嫌、場の流れをどう動かすかでもある。秀吉はそのことを本能的に知っている。
長浜城での饗応は、羽柴家総出の一大作戦であった。信長を楽しませる。笑わせる。心をほぐす。そして信澄を許させる。見ようによっては、かなり無茶な作戦である。だが秀吉にとっては、これもまた戦であった。刀や鉄砲を使わない戦。笑いを武器にした戦である。
そして実際、信長は信澄を許す。
ここだけなら、実にいい話で終わったはずである。疑心暗鬼に陥った信長を、秀吉の機転と羽柴家の明るさが救う。信澄もまた救われる。信長もまだ人を信じることができる。秀吉の「笑い」は、権力者の孤独を一瞬だけ和らげた。
しかし、このドラマはそこで終わらせない。
実は、明智光秀(要潤)に信長討伐の密書を送っていたのは信澄だった。
ここで、回全体の見え方が一気に反転する。信長の疑いは、単なる被害妄想ではなかった。信澄は本当に裏切っていた。秀吉の作戦は成功したが、その成功によって救われたのは、実は謀反の当事者だったのである。
信長を笑わせる接待回だと思っていたら、裏では御内書偽造に信長討伐の密書である。羽柴家の余興と信澄の謀略が同時進行していたわけで、温度差で風邪をひく。
この落差が、今回の面白さであり、怖さでもあった。
史実に即していえば、信澄は本能寺の変に関与した人物として一時疑われた。信澄は信長の甥であり、しかも明智光秀の娘婿であった。本能寺の変後、信澄は信孝・丹羽長秀によって討たれる。つまり、史実上の信澄は、「本能寺の黒幕」と断定できる人物ではないが、光秀との近さゆえに疑われ、政変の直後に命を落とした人物であった。
このドラマは、その「疑われた」という史実上の痕跡を、物語の中で本当にしてしまった。
これはかなり大胆である。
もちろん、信澄黒幕説、あるいは信澄関与説は、歴史的には慎重に扱うべき話である。光秀の娘婿であったこと、四国問題をめぐる政治情勢の中にいたこと、本能寺の変直後に討たれたこと。これらはいずれも不穏な状況証拠ではある。しかし、それだけで信澄が本当に信長討伐計画に深く関与していたと断定することは難しい。
むしろ史実の信澄は、明智光秀の縁者であったために疑われ、急変する政治情勢のなかで消された人物と見るのが自然だろう。信長の甥であり、光秀の娘婿であり、織田一門でありながら明智にも近い。危機の時代には、こうした「つながり」そのものが命取りになる。
だが、ドラマとしてはそこに踏み込む。
信澄を単なる悲劇の巻き添えにしない。彼自身に意思を持たせる。父・信勝の記憶、信長への複雑な感情、光秀との関係、長宗我部問題をめぐる不満。そうしたものが重なり、信澄は信長を討つ側に回る。これは史実の確定ではなく、ドラマとしての解釈である。しかし、物語としてはなかなか強い。
しかも今回の信澄黒幕説は、単なる奇抜な思いつきではない。背景には四国問題がある。
長宗我部元親は、もともと明智光秀を取次として織田政権と結びついていた。信長も当初は、元親の四国進出を一定程度認める姿勢を示していたとされる。ところが、石山本願寺との戦いが終わると、信長にとって長宗我部の軍事的価値は低下する。むしろ四国において織田の支配秩序をどう作るかが問題となり、信長は長宗我部を抑え、三好康長を支援する方向へと舵を切っていく。
ここで重要なのが、三好康長の背後に羽柴秀吉の存在が見え隠れすることである。三好康長は阿波をめぐって長宗我部と対立しており、その康長を支援することは、結果として光秀―長宗我部ラインを後退させ、秀吉―三好ラインを浮上させることになる。つまり四国政策の転換は、単なる地方政策の変更ではなかった。織田政権内部における取次の主導権争いであり、光秀にとっては自分の面子と政治的立場を同時に潰される出来事でもあった。外交上の面子を潰されただけではない。織田政権内における自分の立場そのものが揺さぶられる。そこに、信長への不満や不信が積み重なっていく。
そして信澄は、その光秀の娘婿であり、同時に織田一門でもある。織田と明智。信長と光秀。四国政策と羽柴・三好ライン。そのすべてが、信澄という人物の上で交差する。だからこそ、ドラマが信澄を本能寺前夜の「黒幕候補」として置いたことには、物語上の説得力がある。
この構成が効いているのは、信長の「笑い」と信澄の「裏切り」が同じ回に置かれているからである。
信長は笑った。信澄を許した。だが、その許しは真実には届いていなかった。
人は笑えば和解できるのか。機嫌を直せば、政治の危機は回避できるのか。今回の答えは、残念ながら否である。笑いは人を救うことがある。しかし、すでに積み重なった不信や怨念を完全に消すことはできない。秀吉の人たらしの才は見事だった。だが、その才をもってしても、本能寺へ向かう流れを止めることはできなかった。
そしてここに、秀吉という人物の限界も見えてくる。
秀吉は信長を笑わせることができる。空気を変えることができる。人の心に入り込むことができる。しかし、すべてを見抜けるわけではない。信澄を救おうとした秀吉は、信澄の内側にある決定的なものを見落としていた。いや、見落としたというより、信じたかったのかもしれない。信長を中心にした「面白き世」は、まだ続くはずだと。
だが、視聴者はもう知っている。
本能寺は近い。
だからこそ、今回の「信長を笑わせろ!」というタイトルは残酷である。笑い声の先に、炎が見えている。信長が笑えば笑うほど、その後に来る破局が近づいているように感じられる。羽柴家の明るさも、信長の一瞬の安堵も、信澄の赦免も、すべてが本能寺前夜の光として見えてしまう。
信澄を黒幕にするという今回の仕掛けは、史実そのものとしてはもちろん議論の余地がある。むしろ史実に照らせば、かなり踏み込んだ創作である。しかし、ドラマとしては面白い。信長の疑心暗鬼、光秀の屈辱、秀吉の忠誠、そして信澄の秘めた反逆心。それらが「笑い」という一見軽いモチーフのもとで交差する。
笑いは人を救う。
だが、笑いだけでは歴史は止まらないのである。
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