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人権など、「存在しない」ということが証明された

 いま、世界や社会で起きていることというのはすべて「ひとつのことば」で表現することができ、実はその大半は「共通した現象」として起きている。

 それは何かというと、端的に言えば「人権は存在しない」ということである。

 これまで、西洋リベラル社会は「人権というものが存在するので、それを大切に守り維持するように頑張りましょう」というお題目をずっと唱え続けてきた。

 ところが、お題目は唱えるのだけれど、唱えるだけであまりたいしたことはしなかったり、逆にお題目を唱えれば唱えるほど、不都合な真実が露呈したりしてくることが明らかになった。

 2026年というのは、世界中でそうした「人権の不存在」「人権という誤り」が明白になってきた大転換期だと言えよう。

 世界情勢で言えば、

「移民の人権を尊重すれば、自国民の人権が毀損されるので、移民の人権を剥奪しよう」

ということであるし、トランプ大統領で言えば

「中南米の主権を尊重すれば、アメリカの主権が脅かされるので、中南米の主権は無視しよう」

ということでもある。

 それ以前に

「ウクライナの主権は、プーチン大統領の前には存在しない」

という事例もある。

 そして国内では

「人権が毀損されても、政府や行政、司法は助けてくれないので、自力救済に走ろう」

ということが次々に起きている。SNSにいじめ被害を晒したり、統一教会への恨みを山上被告が実力で復讐しようとするのもまったく同じ構図である。


 ちなみに、山上事件・安倍元首相銃撃事件については、一審判決が「無期懲役」になったが、その判決そのものについては、「そこしか落とし所がない」と思っている。

 これは、丁寧に解説すると、

■ 山上被告が困難な人生を強いられたのは宗教環境、つまり統一教会のせいである

■ そのために統一教会の幹部を殺害したり、統一教会の本部を爆破したりするのであれば筋が通っている

■ しかし、実際には統一教会の「影響力の強い、協力者であった安倍氏」を殺害した

■ この部分が一段階ズレているので、裁判所は「論理の飛躍がある」と解釈した

■ なおかつ、殺害のために用意周到に準備をしており、殺意や計画性について明白で、銃砲を作成するなど悪質である

■ 影響力が強い人物を狙ったという点は、個人的な恨みではなく「テロ」性を帯びている

ということである。

 となると、死刑ではないが、有期刑では軽すぎるので無期懲役、という落とし所になるのは、理解できるだろう。


 つまり、山上徹也が唯一、判断を誤った点があるとすれば、統一教会の直接の仇を撃たなかったことになる。ここにズレがあるので、どうしても山上被告が全面的に被害者になることがないのだ。

 そして、「大政治家である安倍氏」が「統一教会の協力者」であったことをその理由の主として挙げるのであれば、今度はその「もたらされる結果」に対して「テロ性を帯びた効果を期待した」ことになるから、よけいに山上氏にとっては情状酌量の余地がなくなることになる。

 この自己矛盾を起こしてしまったのは、ターゲットが「仇本体ではなかった」ことに起因する。


 たとえば今(2026年1月)現在、立憲民主党が公明党と「合体」したが、

■ 創価学会に恨みがある宗教2世がいたとして、立憲民主党党首を殺害することは理解されるか?

という問いを立ててみよう。

 こう考えれば論理の飛躍性が、多くの人に理解されるのではないだろうか?

 仮に創価学会にほんとうにひどい目に遭わされた2世がいたとして、それに協力する立憲民主党の党首は、(同じ穴のむじなではあるかもしれないけれど、)殺害のターゲットとしては「論理の飛躍」を指摘されても、仕方がないだろう。

 仮にそれが2026年の1月現在ではなく「立憲民主とは、実は何年も前からすり寄っていた」としても、殺害のターゲットに選ぶ理由としては「それはさすがに厳しい」と言わざるを得ないのではないだろうか。


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 さて、この記事の本来の骨子は、実はそこではない。

 山上事件の裁判で、着目すべきは「量刑」の部分や、「その判断」の部分ではない。

 そこではなくて、ポイントは判決の骨子に見られる、

「被告の生い立ちが事件の背景や遠因になったことは否定できないが、大きな飛躍があり、生い立ちの影響を大きく認めることはできない」

という部分である。

 これは、たとえば

「児童虐待や、宗教環境や、ネグレクトのような人権侵害があったようなことはあったかもしれないが、その影響は関係ないぐらい知ったこっちゃない」

と言っているのに等しいのである。

 この裁判においては、報道等でもかなり明らかにされているような「山上轍也に対しての人権侵害が、それ以前に積み重なっていたとしても、裁判所はその影響を無視する」ということなのだ。

 この点については、さらっと流してしまいそうだが、実はものすごいことを言っているのである。

■ 何かの事件を通じて、それまでの人権侵害が起きていた様子を裁判所が知ったとしても、そのことについては触れない

ということが、裁判では起きている、ということである。つまり、

■ 裁判レベルでは、人権侵害は無視される

ということだ。

 これまた恐ろしいことなのだが、実はこれまで連続殺人や大量殺人を犯した犯人というのは、かなりの部分で「児童期から虐待などの人権侵害の被害者」であることが多い。これはちょっと調べてみればすぐわかることで、逐一挙げないが、これらの犯人はあまりにも多くの人間を殺傷しているので、かりに被告自身が人権侵害を受けていても「差し引きしたらほとんど残らない」事態になるのは理解できる。

 ところが、今回の山上事件については

「殺害対象が一人であり、十分に差し引きを検討する余地があり、なおかつどういう生育歴であったかが裁判内でかなりの部分明らかにされたにもかかわらず、

”それは全部無視する”

という結論が出た」

という非常にエポックメイキング的な事例なのである。

 これは非常に画期的な判決で

「加害者の人権は存在しない」

ということなのだ。


 これは、社会において、これから両面の意味を持つ。それは

■ 裁判所はそもそも人権が毀損されても、それを認めてくれることすらしない

という意味でもあるし

■ 加害者には、その人がそれまでどれほど人権が毀損されていても、人権は存在しない

という意味でもある。


 この2点をよーく理解しながら、これから私達は生きていかねばならない。

 そう、「人権が存在しない世界」が始まったのである。



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