ブルーイは貧困ではない
トムとジェリーを見せる事は、差別意識を育てる事になるのだろうか。
先日、妻と二人で、近所のホームセンターに買い物をしに行った。
すると、ワゴンセールで古いDVDが投げ売りされていたので、
『次の遠出とかで子供達が退屈しないように、DVDでも買って、車で流しながら行こっか。』
…という話になった。
そして、私が手に取ったのがトムとジェリー。
とても有名なアニメだ。
知らない人は滅多にいないんじゃないかな、と思う。
(見た事がない人はいるかもしれないが)
私は何の気なしに、そのDVDを買った。
数日後、私は娘たちとお出かけをする用事があった。
目的地まで1時間くらいかかる距離で、きっと子供は退屈するだろうと思った。
私は、
(そういえば、トムとジェリーのDVDがあったな。)
と思って、
『4才ちゃん、目的地少し遠いから、なんかDVD見よっか。』
と声をかけ、カーオーディオでDVDの再生を開始したのだ。
トムとジェリーがどのようなアニメなのかを簡単に説明すると、
トム(猫)が、ジェリー(ネズミ)を追いかけ回して、叩いたり蹴ったり、食べようとしたり、意地悪をしたりする話だ。
あれ?
こんなアニメだったっけな…?
いや、でも、よくよく思い返してみると、確かにこんなアニメだった。
何となく私は、長い年月の中で、トムとジェリーという作品を、
『子供に安心して見せる事ができるアニメ』
と認識していた事に思い至った。
こんなに乱暴だったっけ?
もちろんコミカルで、悪意がない事は分かる。
実際、娘の反応も良くて、楽しそうにケラケラ笑ってる。
そこまでは、許容範囲だった。
しかし話数が進む事に、
時折、
戦争の絨毯爆撃を連想させるシーンとか、
駆逐艦のミサイル発射を連想させるシーンとか、
ジェリーの顔を真っ黒に塗りたくって、
分厚い唇と花のような被り物を被せ、
熱した皿に乗せてダンスを踊らせ、
それを見たトムの恋人が喜んでいるシーンとか、
そういうシーンがどんどん出てくる。
私は思った。
(しくじった!)
これは現代的な表現としては間違いなくアウトである。
もちろん、この作品が描かれた当時の歴史的背景や、当時のその国の文化というものが前提にある。
作品を作る人も、悪意、憎しみなどを、意図的に描こうとした訳ではないと思う。
けれど現代に生きる我々として、このような表現を娯楽や養育として消費するという姿勢は、果たして親として良い事なのか。
そこに葛藤が発生した。
ただし見せてしまった以上、
今更これを禁止する訳にはいかなくなった。
なぜなら娘は、
爆撃も、ミサイルも、奴隷貿易も、何一つ知らずに笑っているからだ。
もしも今から、これを禁じた場合?
『何でダメなの?』
がくる。
そうしたら私は、
『これは、
人を殺す兵器や、
人種差別というものをジョークに使った、
現代では忌避されるべき表現を用いた映像作品だからだ。』
という説明をせねばならなくなる。
私が思うに、
差別とは、差別という認識を知るところから始まる。
何も知らなければ、
それはただ、
そういう表現を用いた面白い作品、
という認識で止まるはずだ。
そう思っているからである。
ただ、どんなに親が気を使ったり、社会的な意識を持ったとしても、子供たちはいつも世界に触れて、新しい事を覚えて帰ってくる。
きっと私もそうだった。
この子たちは、生きている一人の人間だ。
私が完全に守り切る事は出来ないし、一切離れる事をせずに側にいる事もできない。
また、そうやって過保護に守りすぎるべきでもない。
どうするべきか、少し悩んだ。
でも今の私は、この映像作品を見て、
『これはアウトでは?』
と判断できる大人になっている。
だから、娘だっていつか、
『あれって実はひどい事だったんじゃないかな?』
と気がつく時が来るだろうと信じた。
だから、禁止もせず、何も言わず、教えず、この子たちが選択していく未来を、ただ見守ろうと思った。
そういう点において、私が娘に安心して見せているアニメは、ブルーイだ。
ワンちゃんがモチーフのアニメで、ブルーイというお姉ちゃん、ビンゴという妹、そしてパパがいて、ママがいる、家族のアニメだ。
危険な描写もなく、パパはいつも積極的に子育てに参加している。
パパと子ども達とのふれあいはいつも微笑ましくて、教育的で、現代的なアニメだと思っている。
ふと、私は妻に述べた。
『ブルーイの家庭って、割と富裕層な感じだよね。
良いお家の出身なんだと思う。』
すると妻は、
『別にこのくらい普通じゃない?』
と言ったのだった。
ああ、きっと私たちは、
差別という概念から逃げ切る事など出来ないのだ。
そう思った。
