美味しいコーヒーの愉しみかた Acidity and Bitterness 第19話
第3章 第3話
利津さんのお礼に耳を疑った。
下宿?? 僕が、利津さんの家に下宿??
「いやなんで、そうなるんですか……?」
全く理解ができない。利津さんのお父さんだって、年頃の女性がいる家に男を下宿させるなんて納得しないだろう。
「実はうち、このままだと定食屋の売上は下がる一方で……」
「家賃が必要になったんですか?」
「いえ、そうじゃなくて……父に食事を作る機会をあげたくて。朝食と夕食の食費だけ、1日2,000円いただいて、1ヶ月6万円とかでどうでしょうか? 高いですかね……」
「家賃と光熱費は……」
「ナツさん、いつもお店にいるので、それはいいですから」
利津さんは何を言っているのだろうか。
僕の小さな1DKの水道光熱費はひと月1万円を超えている。
それに、僕みたいな年上の男がひとつ屋根の下にいたら嫌だと思うんだけど。
「利津さんのお父さんはそんなの嫌だと思いますよ」
「ナツさんがいいなら、父の了承は私が取ります」
「いやでも……」
「『定食まなべ』を閉めることになったとしても、父に料理で売上を上げて欲しいんです」
僕はようやく意図が分かった。利津さんは、このままお店を続けることは難しいと思っていて、そんな中でお父さんの生き甲斐を残そうとしているらしい。
「そうなったら、利津さんは就職するんですか?」
「……はい」
「分かりました。検討します。就職前に色々と必要なものもあると思うので、僕の店で良ければ利津さんのアルバイトを用意しますので」
「あ、ありがとうございます……」
利津さんがしおらしく言うので、僕は困った。
「いいんですか? 日葵さん、私の家にナツさんが来て嫌がりませんか?」
「日葵が? いえ、確かに付き合っていたこともありますけど、全く関係ありませんよ?」
「でも、日葵さんはまだナツさんのことが好きだと思います……」
利津さんは斜め下の方を見ながら、気まずそうに言う。
女の勘ですとでも言いたげだから僕は参った。
「日葵とは、よりを戻したりはしません。お互い、私生活のパートナーとしては相性が悪いことを知っていますし」
「でも、私の家にいたらナツさん、私とのことを誤解されるかもですよね……」
「いや、それを心配しなきゃいけないのは僕ではなく利津さんでは?」
利津さんの理屈がおかしいのは置いておいて、お父さんが納得しないだろう。
*
「なんてことがありましてねー。僕には、利津さんの家に下宿するという選択肢が浮上しちゃったんですよ」
「マジっすか。利津がそんなことを言い出すとはなあ」
利津さんに下宿の話をされたので、またしても僕は祥太くんを頼った。
祥太くんは、すっかり僕の相談相手だ。
「交通費も掛からなくなるし光熱費も要らないと言われたから、僕の負担なんてたかだか3万円くらいなんです。それも、利津さんのお父さんの美味しいご飯が毎食出てくるわけで……。さすがに、そんな図々しく利津さんのお世話になるわけには行かないと思って」
「別に良いんじゃないですか? 利津はナツさんに来て欲しいと思ったわけだし」
思いのほか祥太くんはノリノリで、利津さんの家に僕を置こうとする。
もしかして、真樹ちゃんと一緒にいるために僕が邪魔になったんじゃ……。
「でも、女性の家に住むなんて」
僕の生きて来た価値観の中で、なんでもない男女が一緒に住むというのは健全ではない気がする。そこに父親がいたとしても。
「いや俺は、いっそのことナツさんに利津をもらっていただけたら……」
「なんでそれを祥太くんが言うんですか……利津さんの意思がどこにもないじゃないですか」
僕が呆れて祥太くんの冗談を流すと、祥太くんはすっかり黙ってしまった。
僕は利津さんより11歳も年上で、不安定な事業を始めている何の魅力もない男だ。
こんな男に幼馴染を勧めちゃダメだぞ、祥太くん。
「利津、日葵さんのことを気にしてませんでしたか?」
「ああ、してましたね。さすが幼馴染」
「で、何て言ったんですかナツさん」
「日葵とは何でもないと言いました」
そこで、祥太くんがニヤニヤし始める。
一体何を企んでいるのかと気持ち悪くなって、僕は「何考えてるか教えてもらっても良いですか?」と祥太くんに詰め寄った。
「いや、面白くなってきましたね」
「面白がらないでください」
日葵のことはもう何とも思っていないし、付き合っていた時だって仕事のパートナーの範疇をなかなか越えられなかったくらいだ。
「俺、利津に必要なのは誰かのために頑張りたいっていう前向きさだと思うんです」
「それなら、今だってお父さんのために頑張っているのでは……」
「利津は……ナツさんのために何かをするのが楽しいんです」
うーん、確かに積極的にメニュー作りに協力してくれようとするし、市場調査の時はすごく楽しそうだったけど……。
「僕が家に下宿するのは、そんなに楽しくないんじゃないかなあ……」
「何言ってんですか。俺、ナツさんが来てくれるのこんなに楽しいのに」
「えっ? あっ、ありがとうございます」
照れるな、これ。
そうなんだね、祥太くんって僕がここに来るのを楽しんでくれていたのか。
僕だって下宿させてもらえたら楽だし、利津さんの条件で暮らせるのであれば、今の家をそのままにしておくことだってできる。
引っ越し作業を発生させずに、時々家に帰ればプライバシーも守れるし……。
考えれば考えるほど、悪いところはない。
それに、利津さんの就職活動を手助けできたら恩返しくらいにはなるかもしれない。
でも、利津さんにとって、僕がひとつ屋根の下でってのは……。
祥太くんみたいに優しくて気の利く幼馴染がいるせいで、男性に対するイメージが良い意味で歪んでいる気がする。
いや、僕は利津さんに危害を加えようという気なんて1ミリもないけど、その気が無くてもストレスを与えてしまうんじゃないだろうか。
「やっぱり、独身の男が若い女性のいる家に居候なんて、良くないですよ」
「俺は、ナツさんだったら良いと思うんですよね」
「いや、何でですか」
「俺が一緒に過ごしてきた勘です。利津にとって前向きになれる同居人になってくれそうだなと」
「ええええーー?」
祥太くんは、分かっていない。僕が若い女性を殺しかけた人物だということを。
無意識に追い込んで、自殺を選ばせてしまったパワハラ上司だ。
利津さんだって、いつ僕の悪い影響を受けるか分からない。
「僕は、祥太くんが思っているほど人間できていませんよ」
「俺がナツさんをどう思っているか、説明できるんですか?」
「これまで僕が作ってきた世界が、どれだけ祥太くんにとって良いものだったのかは分かりません。でも、それを作っていた裏側で僕はひとりの人生を滅茶苦茶にした」
一生かかっても償えない罪を、僕は背負って生きていくしかない。
こんな犯罪者同然の人間に対して、祥太くんも利津さんも寛容すぎる。
「俺、ナツさんと利津はどこか似ている気がするんですよ」
「ええ? 僕は全然感じませんけど」
僕と利津さんが似てるなんて。利津とナツの呼び名くらいしか似ていない。
「ナツさんも利津も天才肌で、それを自分が理解していない」
「いやいや、僕は天才肌では……」
「恐らくナツさんは自分にできることは周りも当たり前にできると思っていて、それが原因で後輩は追い込まれてしまったし、利津は自分に思いつくことは誰にでも思いつくと信じているから人間関係が上手くいかない」
「……」
絶句だ。心当たりがありすぎる。
利津さんの「なんでそんなことも思いつかないんですか」的な態度と、僕のこれまでの仕事の「それが当たり前だろ」という態度……。
似ているというか、ほぼ一致。完全に一致。
「そんな2人が一緒に暮らしたら、余計にうまくいかないと思うんですが」
「2人が頑張れば大丈夫ですよ」
「……」
下宿という名の修行……。言われてみれば、悟りが開けそうな気も……。
「っていうか悟り開いてどうするんですか、僕?」
「それは俺にも分かりません。つーか悟り開かなくて良くないですか?」
「確かに」
どうしよう、なんだか頭の中がぐちゃぐちゃになってきたぞ。
言われてみると、利津さんは天才肌だ。
度々そういうものを感じることがあった。
利津さんのことを「神の舌」だとお父さんが言っていたらしいけど、この世に神の舌というものがあるのなら利津さんがそれだというのは分かる。
一方僕は……。クリエイティブディレクターをやっていた時に周りが「神クリエイティブ」だと褒める度に、誰もが思いつくことを形にしているだけだと本気で思っていた。
「もしかして、僕って才能があったんですかね?」
「えっ?! そこからですか?? ナツさんに才能が無かったら誰に才能があるんですか??」
いやそんなまさか。だって僕なんて、大したことない。
「僕はずっと、なんでこんな普通のクリエイティブをみんなもてはやすんだろうと思って生きてきましたが」
「普通のレベルたっけえな……。そういうことですよ。そういうところですよ」
「ええっ?!」
どうしよう。祥太くんの言葉がどうも信じられない。
こういう時は、僕に対して一番冷静な評価を下す日葵に意見を聞きたいところだ。
「ちょっと、日葵に電話しても良いですか?」
「はあ?? 急にどうしたんですか?」
僕は日葵と電話で微妙な話をしたことなど、もはやどうでもよくなっていて、とにかくこの謎を解くことだけに必死になる。
『どうしたの? なんかあった?』
「ごめん、日葵。率直な意見が欲しくて電話した」
『はあ? なに?』
「僕って天才肌だって言われたんだけど、どう思う?」
『はあ?? いまさらそこ??』
「僕は凡人……」
『あーうるっさい。ナツが天才肌じゃなかったら誰が天才肌なの? 喧嘩売ってる??』
「売ってない」
『いっちいちそんなことで電話してこないでよ天才。じゃーね』
そこで電話が切れた。日葵らしい切れ方だ。
「どうしよう、祥太くん。僕は天才肌だったようです」
「つーか、日葵さんってそういう感じなんですね」
あ、日葵の本性を祥太くんにバラしてしまった。まあいいか。
*
マドレーヌの試食を出した2日後に、利津さんが店に現れた。
「いらっしゃいませ」
僕がいつも通りに迎えると、気まずそうな顔をしている利津さん。
そういえば、下宿の提案をもらって返事をしていなかった。
利津さんはカウンター席に着いて、「ブレンドを」と小さな声で注文する。
「はい、ブレンドですね。ハンドドリップで良いですか?」
「お願いします」
利津さんの視線が色々なところに移っていて、緊張しているようだ。
「あの」
「はっ、はい!」
うん、挙動不審だ。ちょっと面白い。このままの利津さんを見ていたい気もする。
「下宿の件なんですが、利津さんのお父さんが歓迎して下さるなら、お願いしても良いですか?」
「えっ?! ホントに?? あ、あの、父はもう了承していて」
「は?? そうなんですか??」
利津さん、根回しが早いなあ。というか、本当に良いのだろうか?
「定食屋は、やれるところまで続けるという話になっていますが……」
そうか、すぐにお店を閉めるというわけではないのか。それは良かった。
僕は利津さんの家でたまにメニューになるという絶品アジフライを食べてみたかったんだよ。
「じゃあ、定食屋がなくなるまで、就職活動や社会に出るために僕にできることはさせてもらいますね」
「そ、そんな……」
「一応これでも、社会人歴は長いですから」
まあちょっと前科者みたいな僕が威張ることではないんだけど……。
利津さんがほとんど社会人を経験しないで家の手伝いをしていたことを思えば、僕はこれでも10年以上社会人をやっているし。少しは役に立てることがあるかもしれない。
「うちはいつからでも良いので。下見も含めて都合が良いところで来ていただければ。歓迎します」
「ホントに、ありがとうございます」
お湯がふつふつと沸騰する。やかんのお湯で器具を温めてペーパーを濡らし、ドリッパーに豆をセットした。
「お父さん、ナツさんが来て下さるのを楽しみにしていますよ」
「えっ?! ホントですか??」
この町の人たちは、どうしてこんな簡単に僕を受け入れてくれるんだろうか。
会社で例の事件があった時、仕事関係の知人は一気に僕から距離を取った。
僕をこれでもかという位に持ち上げてくれた人であっても、「いわくが付いた」と判断した途端の掌の返し方は見事だった。
世間の冷たさは、とっくに身に染みていたはずなのに。
もう、社会で僕は必要とされていないのだと諦めていたのに。
コーヒー豆にお湯を落とすと、豆が空気を含んで香りが広がる。
利津さんがブレンドを決めてくれたこのコーヒーは、香りが華やかで甘い香りがした。スイーツとの相性がいいはずだ。
「祥太くんといい、利津さんといい……。なんで、こんな僕に優しくして下さるんですか?」
「えっ? なんで、ですか??」
「いや、ただのコーヒーショップの店長に対してそこまでしなくても」
別に祥太くんや利津さんを疑っているわけではない。
だけど、僕は2人に何も返せない。こんなに良くしてもらえても、迷惑しかかけられないだろう。
「私、別に優しくしているつもりはないですよ。多分、祥太はもともと優しいタイプなんだと思いますけど」
「いや、優しくなかったら下宿なんて受け入れてくれないですよ、こんな他人を」
僕が本当の悪人だったらとか、そういうことまで考えたりしないのだろうか。
利津さんも祥太くんも、そして利津さんのお父さんも。
「ナツさんは、この町を選んでくれた人です」
「この町を……はい」
利津さんは、どこかはにかんだような顔で席に置かれた水を飲んだ。
コーヒーを抽出している間は、普段よりも穏やかに時間が流れるような気がする。
「一緒にこの商店街で働いているんですから、他人じゃありませんよ」
利津さんは僕と目を合わせずに、普段よりも小さな声で言った。
僕は、他人ではないと言われたのは人生で初めてで、そんなことを利津さんから言われるなんて思ってもみなかった。
コーヒーにお湯を注ごうと、やかんを握ると手が震える。
お湯を注ぐ時に危うく手元が狂いそうになって、そこで初めて力の加減が出来ていないことに気付いた。
「ありがとう、ございます……」
こんな風に、無条件で人に受け入れられたのはいつ振りだろう。
僕は『クリエイティブディレクターの夏木ユウタロウ』を捨ててから、全てを失ったのだと疑っていなかった。
「その代わり、この商店街は距離が近いしお節介だし、噂が広まるのも早いです」
利津さんが釘をさすように言う。
「じゃあ、僕の悪評が広まるのも早いってことですか」
きっと前職のことでこの町の人に嫌われるのも時間の問題なのだろう。
「違いますよ、そういう意味じゃなくて……」
「?」
「もう、みんなナツさんを頼っているじゃないですか。看板とかデザインとか、お祭りとか……。あっという間に噂が広がってしまって」
ああ、なるほど、そっちも確かに広がるのは早かったかもしれない。
僕はデザイナーだと思われて色々と頼まれるようになった。
クリエイティブディレクターとデザイナーは違うんだけど。
「この町で出来ることがあるのなら、役に立ちたいですからね」
何気ない本音だけど、利津さんは釈然としない顔をする。
「そんな風に考えているナツさんを、私やこの町のみんなが放っておくわけないじゃないですか」
危うく、僕は手元が狂ってドリッパーの中のコーヒーを散乱させてしまうところだった。
きっと僕は、一生利津さんに頭が上がらない。
そして、何があっても祥太くんのことを嫌いになれないだろう。
この人たちがいる、この町を選んでよかったと心から思うから。
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