美味しいコーヒーの愉しみかた Acidity and Bitterness 第22話
コーヒーが持つ魔力については、その存在を歴史が証明している。
もともとイスラム教の飲み物だったトルコのコーヒーが、ヨーロッパに広まってキリスト教の飲み物になった。
異教の文化を受け入れる器のなかった当時の事情からして、コーヒーの魅力には敵わなかったのだろうという説がある。※諸説あり
日本はヨーロッパを経由してコーヒー文化を知り、いまや世界有数のコーヒー消費国になった。
人の味覚は年齢とともに衰えると言われているけれど、苦味に関して言えば年齢を重ねてからでも許容量が増える。
私たちは生きていく中でどんどんコーヒーを美味しく感じるようになるかもしれないし、魅力を再発見することだってできるかもしれない。
それは、つらいことが多い人生を、より楽しく生きるためにも必要なことだったりするんじゃないだろうかーー。
*
オープン前のお店の中。今はもうすぐ年度が変わる3月末。
外に出ると桜が満開で、桜の木の近くに花吹雪が舞っている。
ナツさんのお店は、あと1か月ちょっとで3年目に入るところだ。
「ナツさん、今日はネット販売だけでも春色ブレンド200gが30件の受注です」
「うわあ。利津さん、ロースター稼働行けそうですか??」
「やるしかないですね」
私は春色ブレンドの配合を考えて、なるべく効率的に焙煎機を回す計算をする。このブレンドは豆ごとに微妙に焙煎度合いを変えているから、一度に焙煎を終わらせることができない。
「利津さんの春色ブレンド、今年も人気ですね」
「春の華やかさと開放感を意識したんですけど、草餅とか桜餅なんかと相性がいいって言ってもらえます」
「さすがです」
ナツさんはそう言って私を褒めるけれど、お店のホームページが素敵なのとパッケージに貼られた桜色ステッカーのお陰なんじゃないかとも思う。
ギフトにぴったりの可愛らしいコーヒーを贈りたい人だっているだろう。春は別れや進展の季節だから。
いつも思う。
ナツさんはどうして当たり前のように素敵なものをどんどん生み出していくのだろう。ナツさんにかかるとすべてのものに魔法が掛かるみたい。
ホームページに載せたナツさんのコーヒームービーが商店街の人たちの目に留まり、「うちの商店街もああいうのを作ろう」ということになった。
ナツさんは、商店街の映像なら観光誘致になっていれば補助金の申請もできるかもと言って、文化庁と経産省の窓口に問い合わせをしている。申請が通らなくても、私たちはやるべきだと思っているけれど。
「真樹さんの勤める飲食店、コーヒーが評判だって聞きました?」
「はい。祥太くんには一生頭が上がりませんね」
真樹さんは、アパレル販売員から異動になって飲食店の本部で働いている。
最近アパレルショップが飲食店事業をやるケースが増えていて、真樹さんの会社はお洒落な飲食店を次々とオープンさせていた。
そこで提供するコーヒーを仕入れてもらえている。
なるべく安い豆を選んでコストを抑え、一般受けするブレンドコーヒー。メニューの構成を見ながら私が作ったものが採用された。
「それにしても、祥太くんがバイヤーさんと友達だなんて、一体どんなところに縁があるか分からないですね」
「祥太、人付き合い良いから……」
祥太の学生時代のバイト仲間らしいけれど、真樹さんの勤めるアパレル会社のバイヤーさんが仕入れを決めてくれた。
これがものすごく売上として大きくて、店舗の売上が霞むくらいの割合になっている。
ナツさんは最近、マドレーヌ以外にもクッキーを焼く。
クッキーは猫や犬など動物を模していて、動物の顔も手描きで仕上げる。
アラザンやアイシングを使って信じられないくらいメルヘンなクッキーを完成させていて、このクッキーだけで雑誌に取り上げられたこともあった。
「ナツさん……」
「はい?」
「もう、実家には帰らずに済みそうですか?」
「……お陰様で。実家は実家で、僕以外の人間に仕事を任せられるように動いています」
「良かった……」
これでもう、ナツさんは実家に帰って漁師をしなくてもいいんだ。
いくら実家の事業だとしても、ナツさんの適性とかけ離れた仕事に就かせてしまうのが心配だった。
もう、人生を諦めて過ごすナツさんを見たくなかったから、この1年、私はお店の売上づくりに奔走した。
ネット販売でどうやればコーヒー豆が売れるのかと考えて、コーヒーの淹れ方やコーヒー豆の選び方動画を投稿した。
ナツさんの作った動画がSNSで話題になり、ネット販売のリピーターがついている。
仕出し弁当屋では初回限定サービスでコーヒーを格安で提供している。近所のママさんサークルの集まりでポット提供が注文されたりするから、これも侮れない。
実は茜さんが宣伝してくれていて、色んなサークルから発注がもらえている。料理の専門家である茜さんの言葉は説得力があって、仕出し弁当もコーヒーも茜さんがいなかったらどうなっていたことか……と思うけれど。
「利津さんも、この商店街で育っただけあって本当にお節介ですね」
「まあ、否定はしません。黙ってるなんて性に合わないですし」
私は、ナツさんと働きたかったからここまで頑張れた。
確かにお節介な気質はあるけれど、何のためかというより誰のためかが大きい。
私はナツさんの傍が心地いい。
たったそれだけのことを失いたくなくて、この一年間必死に働いた。
オープン前のお店の時間。
ナツさんが焼き菓子を焼き、私は豆の焙煎で始まる。特に会話を交わさないことも多いけれど、この時間がすごく好きだ。
その時、扉に下がっているカウベルが鳴った。
「こんにちはー」
入口で声がしたので、まだオープン前ですと言おうと駆け付ける。
そこには商店街のお花屋さん、私にとっては近所の奥さんが大きな花束を持っていた。
「お届け物です。真鍋利津さんあてだって」
「えっ?」
私は驚いて、ピンクと白の花で彩られた華やかなブーケを受け取る。
花束を注文したこともなければ、私がお花をもらう理由もない。
驚いて、花束に刺さっていたカードを手に取る。
「じゃあ、届けましたので」
お花屋さんの奥さんがそう言って嬉しそうにお店を出て行った。
私は戸惑いながらカードに目を落とす。
『いつも、ありがとう』
いつも??
私はカードの裏を見た。
『夏木裕太郎』
「ナツさん??」
驚いてカウンターで仕込み中のナツさんを見ると、全然こっちを見てくれない。
「ちょっとこれ、どういう……」
「利津さん、そういうところありますよね……」
そういうところって、どういうところ??
私は混乱しながら、でも花束をもらったんだからきっとお礼を言わなければいけないんだと焦る。
「あ、ありがとうございます??」
「なんで疑問形……」
ナツさんは苦笑していた。私はナツさんからお花をもらうなんて思わなくて、とりあえずどうしたらいいのかわからない。
「今日も一日、頑張りますよ」
そう言ったナツさんは、やっぱり私の方を見てくれない。
こんなに豪華なお花をくれて、素っ気ないってどういうこと?
「はい、頑張ります、けど……」
ありがとうと書かれているから、日頃の感謝ってことなのかな。
お花をもらったことなんてなかったから、やっぱり嬉しい。
ブーケをほどいて、花瓶の代わりになりそうな大きさの缶に水を入れる。
「え? まさかそれにお花入れるんですか?」
「あ、ダメですか?」
「……それ、耐水性も怪しいし倒れやすそうなんで、せめてグラスとか空き瓶とか……」
ナツさんはキッチンの戸棚を開けて空き瓶を出すと、その中に水を入れ、私の持っていた缶と花を奪い取るようにした。
ナツさんが空き瓶に活けた春の花束。確かに、安定もしているしサイズ感もちょうどいい。もらった花すらちゃんと飾れないなんて、我ながらなんて情けないんだろう。
私たちは、シンクの前で並んで立っている。
「これからもよろしくお願いします」
ナツさんは、花の入った瓶をすっと私の前にスライドさせ、やっぱり私の方を見ずに小さな声で言った。
「いえ、いつも楽しくお仕事していますし」
私たちは、コーヒーの魅力を伝えるために働いている。
人生の酸いも苦いも、乗り越え切れてはいないけれど。
「コーヒーが好きですから」
きっと、今日より明日、私は毎日コーヒーが好きになる。
「あの……。利津さんが好きなのはコーヒーだけですか?」
「えっ……? もしかして分かってて聞いてます……?」
「いや、僕の自惚れでなければいいなと」
私は飾ろうとして持ちあげた花に顔を埋める。顔が熱くて仕方がない。
目の前のお花から、コーヒーでも嗅いだことのある系統の香りがした。
コーヒーチェリーは、いい香りのする花を咲かすのだろうか。
「利津さん、あの、僕は……」
「はい……」
「もう、利津さんがいないとダメかもしれません」
ナツさんが、今まで見たこともないような顔をしている。
固まっていて、ガチガチで、目線はこっちを見ているはずなのに目が合わない……。
この人でも緊張することがあるんだなと、「はい」を言いながら吹き出してしまった。
私が笑っていたらナツさんは悔しそうな表情を浮かべてから、「利津さんのその顔が好きです」とこっちを見て言った。
ナツさん。裕太郎さん。
ビターな人生を知っていて、それなのに甘くて、ほっとする優しさで、大人でーー。
今度、ナツさんをイメージしたブレンドコーヒーを作ってみよう。
次こそは、「Natsuブレンド」と名前を付けてお店で提供しないと。
私が初めて作った「Ritsuブレンド」は、ナツさん好みのケニアをメインにしたコーヒー。香りの王様と呼ばれるケニアの主張が強い特徴的なコーヒーになった。
私はこのコーヒーのような女の人になりたかった。
強い佇まいを感じる香り高いコーヒー。
「僕はもう、人を好きになるつもりはなかったんですけどね」
「……それって……」
ナツさんは、その童顔の顔を恥ずかしそうに歪めると、気まずそうに頷いた。
「利津さん、今度の日曜日……どこか行きませんか? その、市場調査とかじゃなく……」
「旅行とか?」
私が提案したら、ナツさんは今まで見たこともないほど真っ赤になっていた。首から耳までが赤い。
それに、なんでそこで言葉を失うんだろう。
これ、もしかして照れてるの? 私のこと誘えなくて……?
「じゃあ、土曜の夜から温泉連れて行ってくださいよ」
「あ、ああ……温泉、そうですね、確かに、癒されそうですよね」
「すでにガチガチじゃないですか!」
私が笑うと、真っ赤な顔のまま困った顔をしているナツさん。
ああどうしよう。ナツさんは年上の男の人なのに、かわいいって口に出してしまいそう。
実はもう好きなところは数えきれないほどあるけれど、このナツさんは初めて見た一番好きなナツさんかもしれない。
そう思ったらなんだかじっとしていられなくて、お花の瓶を置いてナツさんの腕にしがみつく。
ナツさんは、こちらを見ずに「週末、予定しておいてくださいね」と念押ししてくれた。「もちろんです」と返事をしたけれど、幸せでどうにかなってしまいそう。
片想いでいいと思いながら側にいたけれど。
叫びたいほど、この人が好き。
例えば、ハンドドリップは蒸らしの時間が大切で。
何もしていないように見えて、待っている時間に美味しいコーヒーが抽出できる。
動いているばかりが大切な時間じゃないって、その後の結果を知らなければ分からない。
同じように、何が自分の人生にとって大切かなんて後になってみないと分からないのかもしれない。
私が最初の就職で失敗したことも、今のこの状況に繋がっていると思えば人生の転機だったとも言える。
その時はただ苦いだけの出来事も、後になってみるとまた違った味わいになることもあるんだと知った。
今の私は、毎日に向き合っているだけで幸せだ。
大切な人のためにできることをしているだけで、どんな苦労も些細なことになってしまうから。
人生におけるacidityとbitternessは決して美味しくなんかないけれど、結果的に愉しめるよう、向き合っていくしかないのかもしれない。
生きていればその分、悲しいことも増えていくけれど。
出会える一杯のコーヒーの数も増えていく。
その一杯が、人生を変えることだってある。
今日も世界のどこかにあるはずの、好きな人と飲むコーヒーの風景、ひとりで飲むコーヒーの贅沢な時間。
私には、そんなコーヒーの魅力を教えてくれた人がいた。
その人と私は、一緒にいるとお互いに対して嫉妬してばかり。
だけどそれは認め合って尊敬し合う関係にも近くて、一緒に仕事をしているだけで毎日が発見の連続で。
この日常を、私は絶対に手放さないと決めた。
……なんて、今は隣の大好きな人を見ながら幸せを噛みめている。
ナツさんがこれからも私のコーヒーの、そして人生の中心にいてくれますように。
<The END>
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