#10 厨房の向こう側



「おいっ!!デブ!!、
どいてやれよ!通れねーだろうが!!」

厨房の奥から突然大きな声が響いた。

私は思わず顔を上げ、その声の主を探す。
すると——

厨房の奥。
熱気と湯気の中で一人の男性が巨大な鍋を振っていた。

細く鋭い眉。
意志の強さを感じさせる、切れ長の目。
一見すると若く見える。

しかし、その立ち姿には、
長年この場所で戦ってきた人間だけが持つ独特の貫禄があった。

大きな鍋を振るう腕。
料理人特有の厚みのある手。
忙しく動く厨房の中でも、
その人の周りだけ空気が違って見えた。

「……あの人?」

私が見ていると周囲の厨房スタッフが笑いながら声をかける。

「御影さ〜ん!」
「やっさしー!」
「痺れるねぇ!」

その男性は少し笑った。

「いやいや、だって来て早々、
可愛いお嬢さんが困っとる姿見たら、
そら助けるのが義理ってもんやろ。」

……。


「って、おい!!
デブ!!はよ、どかんかい!!」

さっきまで道を塞いでいたスタッフは、
少し面倒そうな顔をしながら横へ移動した。

「……。」
私は呆然としていた。

怖い人ばかりだと思っていた厨房。
でも——

もしかしたら、そうじゃないのかもしれない。

「あ、ありがとうございます……!」
「おう。」

御影さんは軽く笑った。

その一瞬だけ、張り詰めていた空気が少し和らいだ気がした。


そこからも私は、必死だった。
慣れないスピード。
聞き慣れない指示。
大量の下げ膳。

何度も心が折れそうになりながら、
それでも必死についていった。


そして時刻は20時、
ディナーは二回転目へ突入する。

店内では回転準備が始まり、
デザートの提供も始まる時間だった。

相変わらず私は下げ膳に追われていた、
その時。

前方から厨房側のスタッフが
大量のデザートグラスを運んでくる。

危ない——

そう思った瞬間。
「わっ……!」

グラスが大きく揺れた。
私は反射的に手を伸ばした。

ガラガラッ——!!!

倒れかけたグラスを、間一髪で支える。

危なかった…っ!
でも、割れなかった。

「あ、ありがとうございます!!」
厨房スタッフが慌てて頭を下げる。

その言葉を聞いた瞬間。
ふと、昔の記憶がよみがえった。

厨房にいた頃、後輩たちや部下から、
「ありがとうございます!」

そう言われていた日々…。

あの頃の私は誰かに助けてもらう側ではなかった。

自分が教える側だった、自分が支える側だった。
でも今は——

何もできない新人、迷惑をかける側。

「いえ……!」
頑張って笑顔を作る。

けれど胸の奥には
少しだけ複雑な感情が残っていた。

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