初めて「学校が楽しい」と思った日
質問?を初めてもらいました。めちゃんこうれしい。
周りにやたら昔のことを覚えている人が多いので、自分では覚えてない方だと思ってましたが……。
楽しみとかそんな風に言ってもらえてうれしいです!
前向きな回答じゃなくて申し訳ないですが、うれしい楽しいことよりも、嫌なことの方が記憶に残りやすいというのが事実かなと思いました。
あとトラウマっぽい記憶(まだ出てきてないですが)は、解離を解除?したのが3年前くらいなので、子どもの頃のことでも最近体験したように鮮明に覚えてたりします。
小学校の記憶まとめ(3・4年生 担任編)
新しい担任
3年生に上がる時、クラス替えがあって、担任の先生も変わった。(基本、2学年ごとに担任やクラスが変わる学校だった)。
新しい担任は、先生になって3年目の、まだ若い男の先生だった。
24歳なんて、今の自分より若いと思うと驚きだ。
専門は音楽の先生で、ベランダでハバネロを育てていて、教卓の後ろの水槽ではピラニアを、その下にある棚の中ではエサ用の金魚を飼っていた。
ドラえもんのイラスト(昔のドラえもんじゃなくて、今のドラえもん。今というか当時の。)
が上手で、よく黒板や宿題の漢字ノートに描いてくれた。
若くてエネルギーがあって、学校の中でも割と人気の先生だったと思うし、私もすぐにこの担任の先生のことが好きになった。
「学校が楽しい」
担任の先生が変わったことや、クラスの雰囲気もそれなりに良かった(たまに物を隠したりとかあったけど)こともあり、
4年生ごろになって初めて、「学校が楽しい」という感覚を知った。
それまで、みんなつらい中、必死で笑顔を浮かべて毎日通っているのだと思っていた。
そんな中、笑顔もできない自分はなんてダメなんだろうと、半分本気で思っていた。
しかし、「学校が楽しい」という気持ちが浮かんだことで、今までの仮説は間違いで、本当はみんな、本当に学校が楽しかったんじゃないか、ということに気づいた。
これに気づいた時は、学校が楽しいということがうれしいと同時に、そんなことも分からないくらい、4年間、私はどれだけ惨めな時を送ってきたんだろう、と思って本当にショックだった。
転移
先生も、割と私のことを気にかけてくれて、
4年生の最後、離任する時には、一人一人先生からプレゼントというか記念品を受け取るときに、「先生、さかなさんと離れるの、さみしいなぁ」と言わしめた。
生活科か総合の探検で、川に行った時も、岩に座っている私をカメラで撮りながら「さかな人魚だ」と言ってきたりした。
先生が学校を離れることがわかって、最後にクラスのみんなで、近くの公園で鬼ごっこをした時も、学校から公園まで行く道中、手を繋いで行ってくれた。
保護者の人もいたので、ある男の子のお母さんは、怪訝な顔で「あらっ」と言ってきた。
さすがに4年生にもなって、まずかったかなと少し思ったりした。
今にして思うと、ロリコンだったのかもしれない。
でも、彼女いるの?と聞いた時には、300人いる、と言っていたし、(私達は、1人あたり1年に1回しか会えないじゃん、とゲラゲラしていた)年上の彼女と結婚していたので、普通にかわいかったか心配だったのだろう。
私の方はというと、恋愛感情かと思うくらい、16歳歳上のその先生のことが大好きだった。
何か反応してほしくて、椅子に画鋲を貼り付けたりしたくらいだった(普通に怒ってた)。
が、5年生くらいに同級生の男の子をなんか好きっぽくなったときに、あぁあれは「憧れ」だったんだなとうっすら思った。
憧れというか、父親代わりみたいな。
精神分析的に言うと、明らかな「転移」だと思う。
大人になって通った精神科の主治医にも、同じような気持ちで依存してたし。
父親が仕事で毎日遅かったり、帰ってきたと思ったら消防団の集まりに出かけたりしていたので、父性を求めていたのだろう。
別に恋愛関係になりたい訳ではなくて、おんぶしてもらいたいなーと思ったりしていた。
赤ちゃん返りですね。
学校の隣の家
平成の当時は、学校の隣というか敷地内、音楽室の向かいに、教員住宅があった。
その家に、その先生は住んでいた。
洗濯物も丸見えで、私生活なんて無かったんじゃないかと思う。今はどうなってるのか分からんけど。
担任をしてもらっている最中は、家に突撃したりはしなかったけど、4年生が終わって先生が引っ越しをする時、クラスの皆と保護者が、先生の家に集まって引っ越しの手伝いをした。
広い和室の古い部屋だったけど、お風呂とトイレは新しかった。
先生の家のお風呂の温度が42℃で、子どもだった私はちょっと熱いなと思ったり、押し入れに入って遊んだりした。
そして、家にあった電池で動く恐竜の化石のおもちゃ(おそらく理科の教材のサンプル)を、形見分けみたいな感じでもらった。
今だったら考えられないと思う。
先生とのその後
先生はその後、割と遠くの中学校に行って、相撲部の顧問になる、ちゃんこ鍋を作る係、と言っていた。
離任式の後、学童まで行く道では、もう先生に会えないんだと思って、心が痛くて、涙が止まらなかった。
途中で止まったけど。
5年生・6年生の間は、運動会に遊びに来てくれた(6年の時はともかく、異動した先生が次の年に来るみたいな伝統があった)。
徒競走の時もテントを飛びだして「走れ、走れ!」という感じで、必死で応援をしてくれた。
運動会の後、先生や保護者も含めて、みんなで友達の家に集まって焼肉をした。
先生にまた会えたことが嬉しかった。なぜかマッコリを飲んでいて、「これは牛乳だよ」とか言われた。
年賀状のやり取りも、中学か高校まで続いた。
その内、確か年賀状で、結婚したと聞いた。お相手は、お笑い芸人の大久保佳代子さんに似たような雰囲気の人だった。
6年生か中学生の頃、母が勤務していた学校の音楽の先生が、この先生とマブダチで、母の学校の職員の飲み会について行った時に、電話をかけてくれそうになった。
出なかったのかかけなかったのか、とにかく先生と話すことはできなかった。
話すことも思い浮かばなかったので、安心するような、少し残念なような、不思議な気持ちになった。
その後、私は高校生になって、中学生になった弟の吹奏楽のコンクールを観に行った。
会場の文化会館の前に車で停まっていた時、窓越しに、吹奏楽部の顧問になったらしい、かつての先生が通り過ぎて行った。
話すことは出来なかったけど、遠くの学校で元気でやっているんだなぁと思った。
そしてそれから何年か経って、確か大学生になった後。
成人式の翌日に、中学校の生徒会に立候補したメンバーで飲んでいた時だったと思う。
生徒会長だった男の子が、先生とメールかFacebookか何かでやり取りをしていて、うつ病になったことを聞いた。
あらららら。
まぁ音楽の先生だし、変わったところも多くてこだわりも強かったので、繊細な人だったのかもしれない。
その後、私もFacebookで繋がって、二言三言、DMで話したりした。
平成だったせいか、当然のように体罰があったりもしたのだけど、長くなったので、とりあえずこの辺で切ります。
また次回も読んでもらえたらうれしいです。
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