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己のみで"高い"レベルを保つ方法⑤:「面白いね」「なるほど」で終わる問題

過去に、非同期で越境的な問いかけをやってみたことがある。

異なる分野の人に、「この探究、あなたの分野から見るとどう見える?」と聞く。たとえば、馬の運動を数理モデルに落とし込む研究をしている人の話を、西洋美術史の研究者に見せた。そしたら、そもそも絵を描く行為自体がサイエンティフィックな営みだったとか、馬は昔からいろんな文脈で絵にされてきたとか、そういう話が出てきた。面白かった。

でも、「面白いね」で終わった。

同期的にワークショップをやったこともある。参加者は「非日常感がある」「知らない分野の人と話せて勉強になった」と言ってくれた。でも、やっぱり「面白いね」で終わった。(もしくは、なるほど、だけ)


「面白いね」で終わることは、本当に問題なのか。

異分野交流の意義について聞かれると、学際研究や内閣府の総合知の流れとか、複雑な社会問題の解決には異なるセクターの協働が必要だとか、その共同プロジェクトの中でコミュニケーション障害があるとか、そういう話を持ち出していた。でも正直、自分自身にとっては、後付けだった。

最終的にたどり着いたのは、もっとシンプルなことだ。個々人の探究がテーマが発展すること。異分野に触れた結果、その人が自分の探究に戻ったときに、何かが変わっていること。それが、この場の価値だと思う。

そう考えると、「面白いね」で終わること自体は問題じゃないのかもしれない。問題は、その「面白いね」が、各自の探究に還元されたかどうかがわからないことだ。あの馬と西洋美術史の話の後、研究者が自分の研究に戻ったとき、何か変わったのか。追えていない。


じゃあ、追う仕組みを作ればいいのか。深く伴走すればいいのか。

たぶん、それは自分にはできない。できないから諦めている、というのもあるけど、それだけじゃない。

最近、京都水族館や大阪市立科学館に行った。京都水族館では、いろんな生き物が同じ水槽で悠々自適に泳いでいた。干渉しあわず、それぞれ勝手に生きている。その多様さに、ただ見惚れた。京都文化博物館では、この街の歴史が幾層にも積み重なっていた。右京には右京の、左京には左京の歴史がある。知らなかっただけで、ずっとそこにあった。大阪市立科学館では、こんなところにどうやって人々は興味を持ったんだ、こんな飛躍的に発展するなんて、と驚いた。探究の接続の宝庫だったというかなんというか。

いろんな領域のいろんな人が、それぞれいろんなことをやって、世の中ができている。いちいちコラボしたり干渉したりしなくても。でも、その多様さを目の当たりにしたとき、自分の探究もこの大きな営みの中にあるんだという感覚が湧く。ワンダーとしか言いようがない感覚だ。

深く伴走して一つの成果を生み出すことではなく、このワンダーを届けること。自分の探究が、世界のどこかとつながっている。自分からの応答可能性がある。それを感じる瞬間を作ること。そっちのほうが、自分がやりたいことに近い。

ワンダーは、狙って起こせるものじゃない。水族館でも科学館でも、何に心を動かされるかはその人次第である気もする。だからこそ、多様な接点を数多く用意して、どこかで誰かのワンダーが起きるのを待つしかない。


数を打つしかない気がしている。

深い伴走で一つの共同研究を生み出そうとすると、調整が膨大になる。しかも、そもそも深い伴走が成立する手前には、軽い出会いの蓄積があるはずだ。飲み会で話す、面白いなと思う、また会う。そうした蓄積の中から、いつか「これは一緒にやる価値がある」と思えるものが見つかる。

つまり、数を打つというのは、深い伴走の代わりではなくて、深い伴走が自然発生する土壌を作ることだ。「面白いね」は終わりじゃなくて、種だ。何十回、何百回と撒いていく中で、どこかで誰かの探究に刺さる。追わなくても、効いた人は勝手に持ち帰る。

一発で深い越境を起こそうとするから大変になる。一発で成果を出そうとするから、「面白いね」で終わったことが失敗に見える。でも、そうじゃない。

まだ確信はない。が、今はそう思っている。


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