「カウンターエリート」とは誰か?
政治・歴史上の重要概念として、カウンターエリート(=対抗エリート/反エリート)への関心が高まっている。
ピーター=ターチン『エリート過剰生産が国家を滅ぼす』、原題『End Times: Elites, Counter-Elites and the Path of Political Disintegration』が、これを取り上げ国内外でヒットしている。
自身の期待に見合った地位を得られず不満を強めた者が、カウンターエリートと化して社会を混乱させる様を、薔薇戦争やヴァイマル共和国の事例から分析するものだ。
一方、石田健『カウンターエリート』は、ターチンを引きつつも、より具体的に、現代の米国のいわゆるテック右翼(ピーター・ティールを代表とする)を取り上げ、新たな切り口を示している。
本noteでは、両名の議論を参照しつつ、カウンターエリートの定義論を検討する。
前提
当然、この語は「カウンター/エリート」に分解できる。
「エリート」は一般的な語だが、これを定義するのが案外に難しい。
20世紀前半には、「寡頭制の鉄則」を提唱したロベルト=ミヘルス、『大衆の反逆』で知られるホセ=オルテガが定義を試みたが、コンセンサスを得たとは言い難い。
「誰がエリートなのか」という単純な問いに、単純な答えは存在しない。
エリートを説明的な言葉で言い換えるとすれば、「権力の保持者」となる。
ターチンも厳密な定義は諦めている。
とはいえ、「権力の保持者」との言い換えには多数が同意するだろう。
ターチンは権力を以下の四つに分類している。
1.強制的執行力(≒軍・警察)
2.富
3.組織の命令(≒官僚機構)
4.説得力(≒イデオロギー)
エリート論の代表的古典、ライト=ミルズ『パワーエリート』は、20世紀半ばの米国の権力保持者を、軍事・経済・政治の三部門に分類した。ターチンの分類はミルズに近い。
本noteでは「エリート」の部分には深入りを避け、大雑把に「権力保持者」と置いて進めていく。
ターチンの定義
(※椅子取りゲームの比喩において)
権力の座ひとつに対する志望者の数が増えると、ルールを拡大解釈しようと企む者が必ず出てくるものだ。
たとえば、椅子の近くで歩調を緩める者もいるだろう。あるいは、対戦相手を突き飛ばし、音楽が終わるまで椅子の横でただ待機しようとする参加者まで出てくるかもしれない。
おめでとうございます、あなたはいまカウンターエリート(反エリート)になりました!
つまり、ゲームに勝つためならルールを破ることを厭わない人物だ。
平易な比喩で、カウンターエリートを積極的ルール違反者として定義する。
椅子取りゲームの経験を持つ読者も多かろうが、治安の悪い地域の出身者では、ヘッダ画像ほど牧歌的に終わるものでないことに想像が及ぶだろう。
「ルール」について、法がその代表格だが、不文律としての慣習も含まれることを(私から)補足しておく。
たとえば日本の首相の衆院解散は、制度上は全閣僚の署名を必要とし、閣僚の反対下では解散できない。三木武夫や海部俊樹は閣内の反対で解散できず、必ずしも低くない支持率にも関わらず退陣に追い込まれた。
しかし2005年の小泉純一郎は、解散に反対する大臣を罷免、賛成する者に入れ替える手法を採った。法的には問題ないにせよ、日本憲政上において空前絶後のことだ。
小泉は他の場面でも、しばしば慣習に反する手法で勝負を仕掛けてきた。これはカウンターエリート的な振る舞いと言える。
ターチンの定義に基づく場合、最高権力者であってもカウンターエリートに分類されうる点には留意が必要だ。これは、語感とは乖離したものであるが、たいへん重要なので後述する。
挫折したエリート志望者の一部は、急進的なカウンターエリートへと成り代わり、エリートを生み出した不公平な社会秩序を破壊しようとする。
ターチンの筆致からは、カウンターエリートへの否定的評価が見え隠れする。それは、具体例として挙げられる以下の面々からも明らかだ。
グラックス兄弟
ロベスピエール
洪秀全と部下たち(馮雲山などの科挙落第者)
ローザ=ルクセンブルク
レーニン
毛沢東
カストロ
マリーヌ=ル=ペン、メランション
トランプ、バノン、ヴァンス、タッカー=カールソン、スチュワート=ローズ、テイラー=グリーン
チェサ=ブーダン
最近のインタビュー(聞き手はターチンの訳者として知られる青野浩)では、日本にも言及している。
Q.ロースクールを卒業したが法曹資格を取得できず、排外主義とポピュリズムを煽っている参政党を率いる神谷宗幣は、カウンターエリートの典型に見える。彼はカウンターエリートなのだろうか?
A.たしかに、神谷宗幣は、カウンターエリートの定義に当てはめることができるだろう。
石田の定義
石田の定義は、ターチンに比べ価値中立的だ。
1.学歴や社会的地位、富の保有のみで定義されない。
2.現行システムへの問題意識を共有している。特に政府や官僚機構、メディア、学術界などを「既得権益化したエリート」とみなし、攻撃する。
3.右派あるいは保守思想と親和性が高いこともあるが、リベラル・保守といった政治的イデオロギーと無関係なことも多い。
石田の著書の主たる内容は米国のテックエリートの分析だが、そこからは石田自身が彼らへの評価を定めかねている様子、反発と理解との葛藤が伝わってくる。
ターチンはカウンターエリートが社会の不安定化をもたらす点を強調するが、石田は不安定性の裏返しとしての活力の提供(言い換えれば、安定の裏返しとしての停滞への危惧)に目を向ける点が、両者の根底の違いだろう。
なお、石田の定義について、包括的すぎるとの批判は考えられる。ターチンがルール違反という手法から定義した一方、石田は反・既存エリート(=反エスタブリッシュメント)という態度から定義したため、明瞭な現体制維持勢力を除くと多くがカウンターエリートに分類されうる。
もっとも、この問題はカウンター性の強弱を検討すれば解決されるだろう。多くの体制下において、サン=シモン主義者もマルクス主義者もカウンターエリートとなるが、前者のほうがカウンター性は弱い。
歴史的な定義
counter-eliteの初出は、OED/オックスフォード英語辞典がライト=ミルズ『パワーエリート』としているが誤りで、ちょうど20年先行するハロルド=ラスウェル『Politics: Who Gets what, When, How,』が初出のようだ。
ミルズのエリート論のブームと用例急増から、OEDが誤解したと推測される。日本にもミルズ後に流入し、『対抗エリート』の訳出で1958年の初出。
ラスウェルは既存エリートと対抗エリートが大衆の支持を奪い合う闘争モデルを示したが、当時の問題意識はプロパガンダ、つまり(既存・対抗を問わない)エリートと大衆のコミュニケーションにあったので、エリート間の差異を細かに記していない。よって、ここでは対抗エリートは対抗エリート以上の意味ではなかったとして良かろう。
一方でミルズのエリート論は、既存エリートの出自・凝集性に着目するものであったから、対抗エリートもその影響を受けて論じられるようになる。
特に日本での受容はそれが顕著で、一例として政治学者4名による専門書『平等をめぐるエリートと対抗エリート』は、自民党人・官僚・業界団体で形成される右派の既存エリートに対し、労組・市民団体・学術・メディアで形成される左派の対抗エリートという構図を示している。
ラスウェル(とパレート、遡ればイブン=ハルドゥーン)は既存エリートと対抗エリートの交代劇を前提とした。
一方でミルズ(と戦後日本政治の実情)は対抗エリートを「万年野党」としがちという差異があり、日本での受容は後者が中心的だった。
ただし、平明な例として歴史学者の坂野潤冶の評論にあるように、150年も遡れば「対抗エリートの権力奪取」は見られるわけだから、「対抗エリート=野党」との解釈は危うい。
まとめとしての私見
ベースとしてはターチンの定義が適当と考える。カウンターエリートを必ずしもネガティブな存在として考えない点では石田に共感する。
ターチンの定義が秀逸なのは、ある時点の最高指導者であってもカウンターエリートと分類できるからだ。グレゴリウス7世、武則天、ピョートル1世、ロイド=ジョージ、そしてドナルド=トランプの振る舞いを分析するとき、彼らが政権を握る以前と以後に一貫した基準を使用できる便益は大きい。
政権獲得の瞬間において、既存・対抗の立場が入れ替わるというナイーブな認識は役に立たない。絶対君主が歴史上一度も存在せず、始皇帝やスターリンが最期まで既存エリートとの闘争を続けていた点を踏まえておきたい。
ただし、基準としての「ルール違反」は、現実に紐づける上ではしばしば厄介な問題である。
卑近な例として、石破茂は「ルールを守る」のスローガンのもと、裏金問題に関与した候補者を非公認や比例重複取消としたが、これは自民党の慣習に反した処分であった。石破の言うルールが何を指しているのか不明瞭ということもあり、どう解釈するのが適正か分からない。
特に、権力構造が極めて複合的だった前近代では、ルールAへの忠誠が、ルールBへの違反という状況が頻繁に生じたわけで、一つの行為についてカウンターエリート的な振る舞いか否かを判定するのは難しいということだ。
求められるのは総合的判断であり、それゆえ時事的評価には危うさがある。カウンターエリートと目されていた政治家が、実際には穏健な運営を行う例(金大中、チプラス)もあれば、その逆(ロベスピエール、エルドアン)もあることは抑えておきたい。
属人的な要素より、椅子取りゲームの構造に目を向けるほうが有効だろう。構造の分析は難しいが、まさにターチンが取り組んでいる主題がこの問題。日本語の解説集としてはこちらのページがオススメだ(丸投げ)。
どれほど深堀りできるかはこれからの研究次第だが、現時点でも歴史解釈の補助線として有用な概念であるから、ぜひ活用してみて欲しい。ただし、あまりに活用しすぎるとターチンしぐさと皮肉られてしまうので注意。
