いきあたりバッタリ東京都内シルバーパスの旅〈2〉第2回
2023年6月某日 三鷹で石のように転がる〈ライク・ア・ローリング・ストーン〉
定期検診で三鷹へ
「シルバーパスの旅」再開第1回は、いきあたりバッタリではない路線バスの旅。月に一度、定期検診のためにバスで出かけるからだ。
マンガの仕事でしばらく引き籠もっていたせいか、ちょっと血圧も高め。今日は血液検査もあるので、昼食は抜いていくことにする。
お世話になっている三鷹のクリニックでは、通常の血液検査のときは、食事は抜かなくてもいいことになっている。食後、何時間経っているかを伝えれば、それでOK。食事抜きでコレステロール値を下げたりするよりも、この方が生活実態がわかるのではなかろうか。でも、少しでも数値を下げたいという思惑もあって、食事を抜いたというわけ。
ま、そんなわけで、一緒に検診を受けるカミサンと連れ立って、最寄りの「天神山」バス停で、西武バス「(鷹21)三鷹駅(北口)」行きに乗る。
「天神山」バス停があるのは西東京市(旧・保谷市)。我が家は練馬区南大泉にあるのだが、200メートルほど歩くと西東京市になる。つまり我が家は東京都23区内のはじっこにあるということだ。
「天神山」を発車したバスは、西東京市~武蔵野市と都内をはずれたルートを走る。そのため終点の「三鷹駅」まで乗ると料金は250円になる。西東京市内のうちなら220円だ。スイカやパスモなら、乗るときに運転手さんに行き先を告げて、支払機の料金を設定してもらう必要がある。
でも、シルバーパスなら、そんな手続きは不要。運転手さんに見せるだけですむ。
シルバーパスを見せたときの運転手さんの反応は、もう、人それぞれ。「ありがとうございます」と笑顔で言ってくれる人もいれば、無表情の人もいる。シルバーパスを持つ高齢者に何か恨みでもあるのか、プイとそっぽを向く人もいる。
都内の路線バス乗り放題のサービスを受けている身としては、少し肩身が狭い思いもある。でも、シルバーパスの制度は、高齢者を家の外に出すことで健康を維持させ、医療や介護にかかる費用を減らすのが目的のはず。高齢者が健康ならば、医療費や介護費用も減って、現役世代にも恩恵があるはずだ。
というわけで、胸を張るようなことはしないが、ひがんだり低姿勢になったりする必要もないよな……と自分の胸に言い聞かせて、ひとりで納得する。ま、気が弱いんですね(笑)。
天神山を出発したバスは、いったん北上して西武池袋線の保谷駅ロータリーの降車場でストップ。停留所にして二つ目だが、ここで降車する乗客も多い。
降りる客が終わるとバスはロータリーを半周して、交番裏のバス乗り場に。ここで新たな乗客が増え、座席は半分ほど埋まる。
ロータリーを出たバスは、目の前の信号を右折し、保谷新道へ。南西方向に斜めに進み、ときどき水泳に行く西東京市スポーツセンターを左手に見て、その先、西東京市保谷庁舎の角を左折。あとは伏見通りを一直線だ。
このルートは『いきあたりバッタリ東京都内シルバーパスの旅〈1〉』でもたどっているので、途中は省略させていただく。
三鷹駅前で太宰治に会う
検診の予約時刻は午後3時だが、今日は1時間ほど早く三鷹駅に到着。その理由は、南口駅前の商業施設「CORAL」5Fにある三鷹市美術ギャラリーに立ち寄るためである。
https://mitaka-sportsandculture.or.jp/gallery/
このギャラリーには何度か来たことがある。谷岡ヤスジ、杉浦茂、川崎のぼる、諸星大二郎といったマンガ家の原画展が、しばしば開かれるからだ。
いまはマンガ家をやめてしまった西谷祥子さんが、ここで何度か日本画の個展を開いたことがあり、そのたびに展示のお手伝いをさせていただいたことも。カミサンは、展示期間中、受付の手伝いをして、ちゃっかりとアルバイト代までいただいていた。
そんなわけで、ここはたびたび立ち寄るギャラリーだが、今日は絵を見るわけではない。ここに併設されている「太宰治展示室 三鷹の此の小さい家」を見学するためだ。
https://mitaka-sportsandculture.or.jp/gallery/dazaihouse/
(休室中のことあり。訪問する前にチェックのこと)
この展示室がオープンしたのは知っていたが、立ち寄る気分になったのは、三鷹駅西方の中央線に架かる「三鷹跨線橋」が、2023年12月中旬で通行禁止になり、取り壊されるとのニュースを目にしたから。
三鷹跨線橋というと、かならずといっていいほどに、昭和23年(1948)に玉川上水で入水自殺した太宰治とセットで語られる。昭和4年(1929)に開通した三鷹跨線橋は、昭和14年(1939)から三鷹に住んだ太宰が、よく訪れていた場所でもあったからだ。
「太宰治展示室」では、4月から「『杏の実』から『オリムポスの果実』へ」という企画展を開催中で、これも見たくて立ち寄ることにしたもの。
田中英光は、太宰の弟子を自認し、太宰の死の翌年、太宰の墓前で自殺した無頼派に分類される作家だが、個人的には「SF作家・田中光二さんのお父上」という印象のほうが強い。田中さんとは、豊田有恒さんや石津嵐さんを通じて長年親しくさせていただいてきたが、それ以前にデビュー作以来のファンでもあったからだ。
田中英光の作品は『オリンポスの果実』しか読んだことがないが、太宰治の作品は高校生のときに、ほとんど読んでいる。
進学校に通いながら「大学には行かない」と宣言していたせいで、高3のときの担任教師には「他の生徒の邪魔をしなければ何をしてもいい」と言われていた。
それで授業時間は出席の返事をするとすぐに教室を抜け出し、図書室に籠もっていた。図書室でやることは、マンガ同人誌の原稿を描くか読書をするか。『井伏鱒二全集』『モーパッサン全集』『三島由紀夫短篇全集』『われらの文学』などを読破していったものだ。
さらに純文学雑誌の「文学界」や「群像」まで読んでいた。私が図書室で「群像」を開いているのを見つけた英語教師から、「そんな本も読むのか?」と驚かれたこともあった。その教師は、私がマンガを描いていることを知っていたからだ。
純文学でも娯楽小説でも、マンガを描くに役立たないものはない。でも、そんなことを教師に話しても、理解されるかどうか。面倒なので「ヒマなもので……」と答えたら、「そうだろうな」と納得してくれた。その教師は私が大学に進学しないことも知っていたからだ。
その「群像」で、新人賞受賞作の『三匹の蟹』(大庭みな子)を読んだこともおぼえている。アラスカに住む日本人主婦の鬱屈した生活を描いた小説で、その後、芥川賞も受賞した。あまり理解できなかったが、高校2年生だったからなあ。
(『三匹の蟹』については、最近、三田誠広氏が触れている文章を読んで、吹き出しそうになった)
https://shosetsu-maru.com/rensai/mita-masahiro-82
太宰治は、私の読書好きを知った文学少女の下級生が、「読んでください」と貸してくれたものを読んだ。『斜陽』や『人間失格』を読んだはずだが、内容はおぼろげにしか記憶していない。ただし、『富嶽百景』だけは、浮世絵に描かれた富士山の様子を綴った冒頭の書き出しをおぼえている。玄関を開くと正面に富士山が見えた静岡県富士市に生まれ育ったせいだろう。
(ちなみに最近になって、テキストマイニングのアプリをテストするため、「青空文庫」に入っていた太宰治の作品を解析用のデータに使う機会があった。数十年ぶりに太宰の小説を読み返したが、やはり、あまりおもしろくはなかった。おもしろいかどうかを文学の判断基準にするのは、自分でもどうかと思うが)

検診のあとは分厚いハンバーグサンド
太宰治と田中英光の関わりについて書かれた資料を読み終わると、「太宰治展示室」を出て、南口から5分ほど歩いたところにある循環器内科のクリニックへ移動。採尿、採血、心電図、胸部レントゲンの検査を終えて診察室へ。主治医は幼稚園から高校までの同級生とあって、ついリラックス。そのせいか、血圧が高めのときでも、ここにくると正常値になってしまう。血圧もメンタルの影響を受けてるんですね、やっぱり。
診察室は6Fで、晴れた日には西に開いた窓から富士山が見える。しかし、今日は霞がかかっていて見えなかった。残念。
検診のあとは、駅へもどる途中にある「茶房ふれーず」という昔ながらの喫茶店に寄る。昼食抜きで空腹感をおぼえながら歩いていたら、「ハンバーグサンド」という文字が見えてしまったからだ。店の前に出ていた看板に写真が貼られていて、実に美味しそう。ケーキセットが目に入っていたカミサンも寄りたいというので、ドアを開ける。
狭い店内には4人掛けのテーブル席が4卓。高齢の女性がひとりで切り盛りしているようだ。
ちょっと時間はかかったが、出てきたハンバーグサンドはジューシーで、食べるのに苦労する。でも美味い。しかもボリュームたっぷりだ。
コーヒーも1杯ずつ丁寧に淹れられていて、香りも味もいける。カミサンが注文したアップルパイも味見させてもらったが、こちらもおいしかった。
https://kanko.mitaka.ne.jp/docs/2015100500020/
銭湯で一風呂浴びて、あの三鷹跨線人道橋へ
満腹になったところで店を出ると、その先の交差点でカミサンと別れ、こちらはひとりで近くの銭湯「朝日湯」へ。前巻でも紹介した「アサヒトレンド21」の別名を持つ銭湯だ。

ここは脱衣場も浴室も広くてきれい。サウナもあるが、こちらは別料金だ。
銭湯で一風呂浴びたあとは、住宅街のなかを中央線方向に歩き、線路にぶつかったところで左折して武蔵境方向に。その先にあるのが前述の「三鷹跨線橋」だ。


中央線の線路の上にかかる狭い橋で、正式名称は「三鷹跨線人道橋」というらしい。この跨線橋は、かならずといっていいほど太宰治とセットで語られる。でも、古いマンガファンの立場からすれば、「三鷹跨線橋」で真っ先に思い出すのは宮谷一彦さんだ。
1967年、『眠りにつく時』を引っさげてマンガ雑誌「COM」(虫プロ商事)で颯爽とデビューした宮谷さんは、当時、三鷹在住で、作品の中にもしばしば三鷹の街が登場した。

「三鷹跨線橋」が出てきたのは、デビュー翌年の68年に「劇画コミックサンデー」という(一水社)という青年コミック誌に掲載された『風に吹かれて』という私小説風の作品。この作品が発表された直後に、私は生まれて初めて三鷹駅に降り立った。1年前から参加していたマンガ同人誌「墨汁三滴」を、会員の家に泊まり込みで編集するためだった。

石ノ森章太郎先生を名誉会長にあおぐ「墨汁三滴」は、三鷹市内の同じ中学校に通う同級生がはじめたもの。その誌名は、もちろん石ノ森章太郎先生が主宰していた肉筆回覧誌「墨汁一滴」にあやかったものだ。
ちなみに肉筆回覧誌とは、マンガのナマ原稿を綴じて会員の間を回覧させる同人誌のこと。同人誌メンバーの自宅に他の会員と一緒に泊まり込み、集まっていた原稿の端に錐で穴を開け、丈夫なタコ糸で綴じていく。厚さは、原稿が多いときには10センチほどもあった。

表紙は厚紙で、黒い布に「墨汁三滴」の文字が刺繍されている。この刺繍をしてくれたのは、千葉県在住の女子会員。彼女は、翌年、高校卒業の直前に「別冊マーガレット」の新人賞に応募した作品でデビューする。作品の名前は『サチコの仔犬』。作者名は「河あきら」となっていた。もちろんペンネームだ。
徹夜で完成させた「墨汁三滴」を持って出かけた先は池袋にあった虫プロ商事「COM」の編集部。目的は、編集者の批評をあおぐため。
「墨汁三滴」を見てくれたのは、鈴木清澄さんという目がギョロリとした編集者。私が描いた少年秘密戦隊みたいなマンガに対しては、「きみのマンガは若さがないね。青春の苦悩とかないの?」と言われてしまった。

「まんがマニアのための雑誌」を標榜していた「COM」には、『ジュン』(石ノ森章太郎)や『フーテン』(永島慎二)といった葛藤を抱える主人公の内面を描くマンガが連載されていて、投稿作品にも、そんな傾向のものが多かった。
これらの作品は私も好きだったが、私がマンガ家を目指した理由は、「マンガで食う」こと。つまりマンガを生活の糧にすることだった。めざす方向は商業マンガで、当然ながら描く作品も娯楽作品にかたよっていた。
高卒後、私は鈴木清澄さんがはじめたマンガ専門の編集プロダクション「鈴木プロ」で働くことになるのだが、1年前の夏休みの時点では、そんな運命になることなど知るはずもない。
鈴木プロに就職したあとも鈴木さんは私が見せたマンガのことをおぼえていて、「きみにマンガの才能はない。編集者の方が向いている。マンガ家になるのは諦めて、編集の仕事に骨を埋めなさい」と私に言ってばかり。その言葉に反発して鈴木プロは1年で退職した。
鈴木プロを辞める直前、私は「週刊女性自身」に連載された劇画『海を見ていたジョニー』(原作・五木寛之、劇画・宮谷一彦)の担当になり、毎週、三鷹に通っていた。いつも原稿はギリギリで、毎週、完成した原稿を市ヶ谷の大日本印刷に持ち込んでは、そこで校了させていた。
特別読み切りの『劇画・よど号ハイジャック事件』を宮谷さんに描いてもらったときは、原稿が完成したのが水曜日の深夜。市ヶ谷の大日本印刷までタクシーを飛ばし、写植を貼って入稿。「原稿校了」といってゲラ刷りも見ないまま、本番の印刷に取りかかるのだ。これでも土曜日の朝には駅の売店に「女性自身」が並んでいて、びっくりしたものだった。

すがやが編集を担当した。
そんなことを思い出しながら、またも近所の「朝日湯」に寄り、一風呂浴びてから、またバスに乗って帰宅したのだった。
※宮谷一彦氏の劇画『海を見ていたジョニー』の原画が見られるブログです。トレーシングペーパーに書かれている文字は、担当編集者だった私が書いたものです。たぶん。
https://www2s.biglobe.ne.jp/~FREE-MY/miyaya/mitaka/mitaka.html
〈本日の経路〉
西武バス〈(鷹21)天神山~三鷹駅〉(往復)
