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「芙蓉部隊」と本物のプロフェッショナリズム

「戦後80年の夏」に考える。

シリーズ第3段は、「特攻」を公然と拒み、唯一、終戦まで通常戦法を貫いた芙蓉部隊(ふようぶたい)と呼ばれた異色の海軍航空隊に関するお話です。

鹿児島県鹿屋市から北東におよそ30kmほど進んだところに、「芙蓉之塔」と呼ばれる慰霊塔が建っています。

芙蓉之塔
《鹿児島県曽於市大隅町》
(Google Earth)

日本の敗戦が濃厚となってきた太平洋戦争末期、ここには海軍が秘密基地としていた飛行場がありました。

芙蓉之塔
《鹿児島県曽於市大隅町》
(Photo by ISSA)

芙蓉部隊とは
芙蓉部隊は、大東亜戦争末期の日本海軍において、当時としては未だ珍しかった夜間爆撃(夜間の対艦・対地攻撃)を専門とした飛行隊で、

「零戦」「彗星」を爆撃機に転用し、大きな戦果を挙げたことで知られています。

ヤップ島のジャングルで発見された「彗星」
《靖国神社・遊就館1F大展示室》
(Photo by ISSA)

芙蓉の名の由来
芙蓉という名は、元々の部隊の本拠地があった静岡県の藤枝基地(現・航空自衛隊静浜基地)から富士山(注1) がよく見えたことに因んで、部隊長の美濃部少佐(後述)が命名したものです。

(注1) 富士山は、古くから「咲き誇る芙蓉の花のように優雅で気高い」という思いを込めて、「芙蓉峰」(ふようほう)とも呼ばれてきた

左:芙蓉の花(「ラクハナ」より)
右:富士山と新幹線(Photo by ISSA)

芙蓉の花は、一日のうちに花の色が白から赤へと変化することから、芙蓉部隊の搭乗員は、薄紅色で染められたマフラーを着用していたそうです。

美濃部少佐について
この航空隊を率いた指揮官は、美濃部正・海軍少佐(当時29歳)です。

大東亜戦争末期、「特攻」作戦が主流となっていく中、未熟なパイロットを特攻に使うよりも、夜間爆撃を仕掛ける方が戦果が上がると主張した、当時としては稀有の将校でした。

芙蓉部隊指揮官 美濃部正・海軍少佐
《鹿屋航空基地史料館》
(Photo by ISSA)

芙蓉部隊が生まれた背景
海軍航空隊は、1943年8月に、夜間に飛来する敵機を迎撃(注2) する「月光」(後述)を開発し、夜間における空戦の先駆けとなりました。

(注2) 迎撃とは、飛来する敵機を迎え撃つ対空戦闘のことである

しかし、夜間爆撃(夜間の対艦・対地攻撃)の技術は未開発だったため、開戦当初から前線で戦い続けてきた美濃部少佐は、早い段階からそのことに着目し、

1944年2月に航空参謀の源田実・海軍大佐に、発艦前の敵空母を夜間爆撃するアイデアを直訴しています。

同年10月に特攻作戦が始まったあとも、その都度、機体も搭乗員も失われる特攻を続けていたら勝ち目はないと考え、何とかして夜間爆撃という新たな戦術に活路を見出そうとしたのです。

芙蓉部隊 通信司令部壕跡
《鹿児島県志布志市松山町新橋》
(Photo by ISSA)

芙蓉部隊の新編
そのような中、大東亜戦争末期の1945年1月、先述の富士山が見える藤枝基地において芙蓉部隊は新編されました。

静浜基地内にある芙蓉部隊記念碑
《曽於市埋蔵文化財センター》
(Photo by ISSA)

鹿屋基地に前進
1945年3月末、沖縄攻防戦が始まると、藤枝基地から鹿児島県の大隅半島にある鹿屋基地に芙蓉部隊の主力を前進させ、

鹿屋基地に前進した1次隊, 1945年4月
《鹿屋航空基地史料館》
(Photo by ISSA)

1945年4月の菊水作戦(注3) の発動と同時に、芙蓉部隊も沖縄及び近海にある米軍の艦艇及び地上施設に対する夜間爆撃を開始しました。

(注3) 楠木正成公の旗印に由来する菊水作戦とは、いわゆる「特攻作戦」のことで、大東亜戦争末期に沖縄に来攻する連合国軍に対し敢行された

すると、直後から、鹿屋基地は米軍のB-29による空爆を受けるようになります。

鹿児島湾と B-29 爆撃機
《鹿屋航空基地史料館》
(Photo by ISSA)

秘密基地・岩川飛行場へ
米軍からの激しい攻撃を回避するため、かねてより鹿屋基地の北東部に建設中だった秘密基地・岩川飛行場(注4) に部隊を移駐させ、

岩川海軍航空基地施設配置図
(Photo by ISSA)

(注4) 戦後の資料から、米軍は岩川飛行場の存在の認識していたようであるが、徹底したカモフラージュや灯火管制により、終戦まで空襲を受けることはなかった

岩川飛行場を拠点として、1945年5月から終戦までの3か月間、夜間爆撃を行い続けました。

この間、搭乗員たちは、昼間は防風林に囲まれた三角兵舎で過ごし、

芙蓉部隊搭乗員宿舎跡
《鹿児島県曽於市大隅町月野》
(Photo by ISSA)

湿気がひどい梅雨期は、飛行服がカビで真っ白になることもあったそうです。

芙蓉部隊搭乗員宿舎跡
《鹿児島県曽於市大隅町月野》
(Photo by ISSA)

また、「猫日課」と称された、昼夜を逆転させた生活を送り、午前0時に起床して夜間視力を研ぎ澄ますとともに、

当時は夜間視力だけが頼りだった

暗闇でも夜間爆撃を遂行できるようにするため、連日、次のようなイメージ訓練に明け暮れていたと考えられます。

岬の灯台を3,000フィートで通過
針路240度・速力180ノットで直進
2分15秒後、右旋回
針路330度・速力150ノットで直進
3分後、正面に敵基地が見えてくる
急降下爆撃後、右旋回で反転離脱

夜間爆撃のイメージ訓練(ISSAの憶測)

実戦では、暗闇の中、沖縄までの往復1,700km、5時間に及ぶ夜間飛行をこなし、

夜間爆撃を成功させるには
創意工夫と緻密な準備が必要だった
《鹿屋航空基地史料館》
(Photo by ISSA)

終戦までの81回の出撃(延べ786機)で、大きな戦果(注5) を収めました。

(注5) 戦艦1隻、巡洋艦1隻、大型輸送船1隻を撃滅、複数の敵機を迎撃し、米軍飛行場6か所、揚陸された戦闘機600機、駐機中のB-29爆撃機などを破壊したほか、特攻機の突入路を開くための先兵としても活動した

一方、整備員の士気も高く、岩川飛行場の近くに地下整備工場を造り、

地下整備工場のイメージ図
(Photo by ISSA)

「彗星」については、他部隊のおよそ2倍となる80%を超える可動率を保持(注6) していました。

(注6) 「彗星」は、独ダイムラー・ベンツ製水冷エンジンのライセンス生産である「アツタ」を搭載していたが、高性能である反面、整備に手間がかかり、他機種に比べて可動率が低かった

焼津沖で回収された「アツタ」の一部
《曽於市埋蔵文化財センター》
(Photo by ISSA)

芙蓉部隊は、終戦時、大戦末期としては部隊の士気も生存率も高く(1,000人中900人が生存)、戦闘機も彗星85機と零戦55機を有する等、まだまだ戦える十分な交戦能力を有していたのです。

坂東隊, 終戦1か月前の1945年7月
《曽於市埋蔵文化財センター》
(Photo by ISSA)

美濃部少佐の生い立ちや人柄
美濃部少佐は、1915年に愛知県高岡村(現・豊田市)に生まれ、1933年に海軍兵学校に入校して予科練の飛行学生となりました。

大東亜戦争時、開戦時の真珠湾作戦から、アッツ島、ラバウル、ダバオ、フィリピンなどの各地で戦い続け、終戦直前まで最前線で戦いました。

(曽於市教育委員会パンフレットより)

部下だった坪井晴隆さんは、美濃部少佐はとにかく「異彩を放っていた」といいます。

1945年2月、木更津の第3航空艦隊司令部で、連合艦隊主催の作戦会議が開かれた時、並み居る指揮官や高級将校が集まり、「特攻」に異を唱えることなどままならぬ空気感の中、

末席に居た美濃部少佐は、主席参謀からの叱責にひるむことなく、こう言い放ちました。

今の若い搭乗員の中に死を恐れる者はおりません。ただ、一命を賭して国に殉ずるには、それだけの成算と意義が要ります。・・・(中略)・・・同じ死ぬなら、確算ある手段を立てていただきたい。

主席参謀から「ならば、君に具体策があるのか !?」と問われると、

搭乗員の練度不足を特攻の理由に挙げているが、(そもそも)軍令部の創意工夫が足りないのではないか。私の所では総飛行時間300時間の零戦パイロットでも皆、夜間洋上進撃可能です。

こうして、軍令部に芙蓉部隊を特攻から除外することを認めさせた美濃部少佐は、

部隊に戻ったあと、開口一番「俺は貴様らを特攻では絶対に殺さん!」と言ったそうです。

芙蓉之塔に刻まれた美濃部少佐の碑文
《曽於市埋蔵文化財センター》
(Photo by ISSA)

特攻を免れたことで、美濃部少佐のことを「臆病者」呼ばわりする者も現れたそうですが、

特攻の方針を出していた軍令部の方針に真っ向から反旗を翻すことは、軍法会議で抗命罪、最悪の場合、極刑に処せられてもおかしくない発言でしたので、

むしろ、臆病者とは真逆の大変勇気のある指揮官だったのです。

美濃部少佐は、百田尚樹氏の小説「永遠の0」に、主人公・宮部久蔵の戦友として登場し、彼の人物像を語る重要な証言者の一人として描かれています。

戦後は航空自衛官に
戦後は、航空自衛隊の創設に尽力し、要職を歴任したあと、1970年7月に空将で退官され、

空将時代の美濃部氏
《曽於市埋蔵文化財センター》
(Photo by ISSA)

日本電装株式会社 (現・デンソー)などで勤め、1997年6月、81歳で死去しました。著書に「大正っ子の太平洋戦記」があります。

美濃部少佐の真意は
ただ、美濃部少佐が「大変、部下思いだったから特攻を拒否した」という話は、左翼が作り出した美談に過ぎません。

実際、美濃部少佐は、特攻の是非について次のように語っています。

平成時代の人々の中には、特攻でなくってよかったとか、特攻隊員はかわいそうであったと片付ける人が多い。特攻の是非は単純には決し難いものだ。

また、次のようにも話しています。

戦後よく特攻戦法を批判する人がいるが、・・・(中略)・・・不可能を可能とすべき代案なきかぎり特攻もまたやむをえないと今でも思う。戦いの厳しさはヒューマニズムで批判できるほど生易しいものではない。

戦後、岩川基地に残された「彗星」の残骸
《曽於市埋蔵文化財センター》
(Photo by ISSA)

そして、戦後の日本人の在り方について、次のように苦言を呈しています。

平和、非戦を叫ぶのみで、経済繁栄飽食を求め、30億余の貧困飢餓民族への配慮、対策、思いやりに具体策不十分。

独善的に願望を唱えるだけなら、「撃滅せよ、必勝を期す」という(無責任で他力本願的だった)戦時中の軍部の命令と同じだ。

戦後、グローバリズムとともに浸透した個人主義は、ややもすると美濃部少佐が指摘するような独善的で思いやりに欠いた生き方になっていないだろうか。

私たちは、個人主義に飼いならされる前に、時々、そうしたことに思いを巡らす必要があるのかもしれません。

本物のプロフェッショナリズムとは
芙蓉部隊からうかがわれる本物のプロフェッショナリズムをまとめると、次のとおりです。

(Created by ISSA)

特攻を拒んだ芙蓉部隊については、しばしば、左翼メディアによって①③⑤が歪められ、②④ばかりがクローズアップされがちになるのですが、

この記事を書いている最中にも、某左翼系TV局が戦後80年の特番で芙蓉部隊をテーマとした噺家をクローズアップしており、やはり所々で印象操作が確認されました。

その最たる部分がこちらのテロップなのですが、

自己の存在意義に忠実で勇猛果敢だった彼らが、何もせず漫然と「帰って来るのが第一の任務」のはずがありません。

命がけで敵地に乗り込み、「戦果を挙げて国を守ることが第一の任務」なのです。

本物のプロフェッショナルは、たとえ部下の命を危険にさらすことになったとしても、「国の守り」という根幹を踏み外すことはありません。

安易に特攻を選ぶのではなく、安易に平和主義を唱えるのでもなく、戦中・戦後、ただひたすらに国を守るための最善策を具体的に考え、実践し続けた、国防における本物のプロフェッショナルだった

これこそが、美濃部少佐の真実の姿なのです。

「死を求めづ、死を恐れづ」は、
芙蓉部隊の考え方を示す端的な言葉だ
《曽於市埋蔵文化財センター》
(Photo by ISSA)

芙蓉之塔の近くには、一面の茶畑が広がっていました。

こういう人が当時の日本に多く居たなら、もう少し違った結末があったのかもしれません🍀

《鹿児島県曽於市大隅町月野》
(Photo by ISSA)

曽於市は「弥五郎どん伝説」でも有名です。

《岩川八幡宮》
(Photo by ISSA)

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【参考】 夜間戦闘機「月光」について
「月光」は、芙蓉部隊の前身となった部隊で、夜間の迎撃に使われていました。このノウハウが、芙蓉部隊の活躍に活かされたといいます。

元々、海軍の陸上攻撃機(陸攻)を援護するための長距離双発戦闘機として、1938年に開発が始まり、

左:96式陸上攻撃機
右:一式陸上攻撃機
《鹿屋航空基地史料館》
(Photo by ISSA)

最終的に陸上偵察機として採用されたのですが、大戦後期、ラバウル方面で米軍爆撃機による夜間爆撃が激化したことを機に、

後部座席に、斜め銃(注7) を装備した機体が、夜間に飛来する敵の爆撃機に対して予想以上の戦果を挙げたことから、1943年8月、夜間戦闘機「月光」として採用されました。

夜間戦闘機「月光」
《鹿屋航空基地史料館》
(Photo by ISSA)

(注7) 30度前後の仰角を付けて固定された20mm機関砲を、操縦席後方(上向き)や機体下部(下向き)に固定した機関銃

特に、B-29による日本本土空襲の迎撃任務で活躍しました。夜間、サーチライトに照らされたB-29に対し、「月光」は夜の闇から接近し、斜め銃で攻撃を仕掛けました。

残念ながら、日本国内にはレプリカも含めて「月光」の展示機はありませんが、スミソニアン国立航空宇宙博物館で見ることが出来ます。

National Air and Space Museum