日本の心髄について語る(第1回)
東京五輪が終わりました。オリンピックのような国際試合を観ていると、日頃、スポーツ観戦にあまり熱心でない人も、つい日本のチームやアスリートの応援に熱が入るものです。
日本がメダルを取ると「日の丸」の国旗が掲げられ、金メダルだと国歌「君が代」が流れます。そのとき、私たちは日本人であることを再認識するとともに、日本人であることに誇りを感じるのではないでしょうか。
私自身、若い頃は、外国の文化・生活に憧れたり、何かと海外を志向する傾向にありましたが、長いこと日本や外国について考える仕事に携わるとともに、実際に海外で生活し、外国と日本を比べているうちに、段々と日本という国の素晴らしさ、その心髄が分かるようになってきて、次第にこの思いを記録として残しておくべきだと考えるようになりました。
やや壮大ですが、そういう訳で私が日本の心髄だと思う3つの重要なテーマについて、3部構成でお話していきたいと思います。
第1回では日本神話を中心に日本人が持つべき「歴史観」について、第2回では神社・仏閣を中心に世界の中での日本人の特異な「宗教観」について、そして第3回では日本の国体という側面から「天皇論」について述べたいと思います。
1 正しい歴史観を持つ
歴史観とは、歴史家などによって客観的事実に基づき解釈された歴史上の統一的な観念のことをいいます。その統一的な観念を書き記した書物の代表格が「歴史教科書」なのでしょう。
しかし、どういう訳か歴史の教科書というものは、何度読み返しても、なかなか頭に入ってこないものです。それは一体何故なのでしょうか。
その理由は、教科書が面白くないとかそういうことではなく、学び手のアプローチのやり方に問題があるんだと思います。
「一石三鳥の実用英語学習法(前編)」でも触れましたが、人が「物事を理解する」ということは、単に書いてあることを「そっくりそのまま覚える」ことではなく、具体的にその「状況をイメージできるようになる」ということです。
ですから、正しい歴史観を持つためには、教科書に書かれていることを鵜呑みにして丸暗記するのではなく、関連する書物や映画やネット情報、或いは実際にその歴史スポットを訪れるなどして、当時の時代背景を踏まえつつ、当時の人々の気持ちに寄り添い、ある特定の事象について「ひととおり、自分なりにあらすじが語れるようになる」ということが欠かせないと思います。
そして、正しい歴史観を持つために考慮すべきもう一つ重要なことがあります。それは、日本の歴史教科書では、建国の歴史ついて縄文時代の狩猟や石器、弥生時代の稲作や土器、そして地方豪族の台頭とそれらを平定した大和朝廷につながる話から始められ、日本神話の話は「非科学的」と切り捨てられていることです。
海外では、例えば「ノアの箱舟」や「モーセの海割り」など、神話的な話であってもその国民の歴史観に深く根付いているように見受けられます。つまり、本当に正しい歴史観を持つためには、考古学的な視点から淡々と事実をみていく歴史と、語り継がれてきた神話から始まる歴史と、両方の視点を併せもっておくことが大事だなんだということです(どちらか、ではなく、どちらも大事)。
2 神話に見る建国史
その神話から始まる歴史というのは奈良時代に編纂された古事記(こじき)と日本書紀(にほんしょき)に見ることが出来ます。
古事記は、天武天皇の命により稗田阿礼(ひえだのあれ)が暗誦した神代からの伝承を、太安万侶(おおのやすまろ)が書き上げ、712年に元明天皇に献ったもので、現存する日本最古の歴史書です。
全3巻のうち、上巻では天地創造、神々の出生、そしてこの日本を治められた皇室のはじまりまで記載されています。
一方、日本書紀(にほんしょき)は720年に成立した日本の歴史書で、天武天皇の皇子、舎人親王(とねりしんのう)らが編纂したものです。
全30巻で構成され、神代から持統紀まで年月順に歴代天皇の事蹟や歴史上の事件が記されています(古事記は漢字と万葉仮名で記載される一方、日本書紀は全て漢字で記載)。
両者合わせて「記紀」と呼ばれていますが、こうした伝承を通じて、私たちは、当時の日本人がどのような世界観や人生観を持っていたかをうかがい知ることが出来るのです。
では、さっそく日本創生の物語をみていきましょう。(注:私自身は歴史家ではないので、一個人の歴史観としてお楽しみください。)
3 日本創生の物語
(1) 国生み
昔々、空の上に高天原(たかあまはら)という神々が住む世界がありました。神々は下界に新しい国を造るため、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)と伊邪那美命(いざなみのみこと)に国作りを命じました。
二神は天浮橋(あまのうきはし)に立ち、神々から授けられた天逆鉾(あまのさかほこ)を海に下ろし、「こおろ、こおろ」といって海水を掻き回すと、於能凝呂島(おのごろじま)という島ができあがりました。
そして二神はその島に降り立って、目合ひ(まぐわい)によって多くの島々を生みました。はじめに淡路島、続いて四国、隠岐島、九州、壱岐島、対島、佐渡島を生み出し、最後に本州を生みました。
こうして八つの島が生まれたことから、これらの島々を大八島(おおやしま)と呼ぶようになりました。これが日本の国土の始まりです。

(小林永濯・明治時代)
(2) 黄泉の国
国生みを終えた二神は、今度はこの国に住む神生みにとりかかり、多くの神さまを生みました。最後に火の神を生んだとき、伊邪那美命は大火傷を負って亡くなってしまいます。
悲しさのあまり伊邪那岐命は、死者の国である黄泉の国(よみのくに)へ伊邪那美命を連れもどしに行くのですが、伊邪那美命は既に黄泉の国の住人になってしまったことを知り、逃げ帰ってしまいました。
そして黄泉の国で被った穢れ(けがれ)(注1) を祓うため、禊ぎ(みそぎ)(注2) をしている時に、天皇家の祖先である天照大御神(あまてらすおおみかみ)が生まれたのです。
(注1) 以来、日本人は肉体の死や腐敗、血にまみれた忌まわしく思われる不浄な状態を穢れと捉えるようになった(特に、平安時代)
(注2) 罪や穢れを自ら落として清らかなるための水浴行為
(3) 天の岩戸
高天原では、天照大御神が、力自慢でいたずら好きな弟・須佐之男命(すさのおのみこと)に手を焼いていました。ある時、須佐之男命が乱暴を働いたため天照大御神はお怒りになられ、天の岩戸(あまのいわと)という岩屋に隠れてしまい、地上は闇に包まれてしまいました。
そこで天宇受売命(あめのうずめのみこと)という踊りの上手い神が踊りだし、外が賑やかで不思議に思った天照大御神が岩戸を少し開いてみたその時、闇に包まれていた世界が再び明るくなり、高天原にも平和が戻ってきました。

(春斎年昌画、明治20年(1887年))
(4) 八俣の大蛇
高天原を追放された須佐之男命が出雲の国にくると、櫛名田比売(くしなだひめ)という名の娘が年老いた両親と泣いていました。
理由を聞くと、この山奥に八俣の大蛇(やまたのおろち)という八つの頭をもつ大蛇が住み、年に一度、里に出てきては娘を一人ずつ食べるというのです。
そのため、八人もいた娘は今では末っ子の櫛名田比売だけになってしまい、今年もまた大蛇が娘を食べにくる時期になっていました。
話を聞いた須佐之男命は、大蛇を退治することにしました。家の周囲に垣根を作り、入口に強い酒を入れた大きなカメを置きました。しばらくすると辺りが暗くなり大蛇がやってきました。
大蛇はカメを見るや、勢いよく酒をガブガブと飲みはじめたので、須佐之男命はそのすきに大蛇にそっと忍び寄り、剣で切りかかって大蛇を次々に倒していきました。

(月岡芳年・画)
最後に尻尾を切った時、後に草薙剣(くさなぎのつるぎ)(注3) とも呼ばれる天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)が出てきました。大蛇も退治され、出雲の国にまた平和が戻りました。
須佐之男命は天叢雲剣を天照大御神に献上し、末長く櫛名田比売とこの地で暮らしました。
(注3) 草薙剣は三種の神器のひとつ

(5) 稲羽の白兎
その後、須佐之男命の六代あとの子孫である大国主命(おおくにぬしのみこと)が兄弟の神々と稲羽の国に出かけた時のことです。気多の岬(けたのさき)まで来たとき、赤裸になった兎が泣いていました。
先に通りがかった大国主命の兄弟の神々は、海水を浴び、風にあたればすぐ直ると教えたため、兎は言われたとおりにすると、益々、痛みがひどくなってしまいました。
そこに遅れて、大国主命が大きな荷物を背負ってやってきました。大国主命は兎に泣いている理由を尋ねたところ、兎は淤岐之島(注:隠岐島ではない)に住んでいたが、この国に渡るために島から陸までワニザメをだまして一列に並べ、その背中を跳んで渡っていたのですが、もう一息のところで、だまされたことを知ったワニザメに皮をはがされ、赤裸になってしまったというのです。
理由を知った大国主命は、川の水で身体を洗い、ガマの穂を集めてその上をころげ回ると良いと、兎に優しく教えました。
すると不思議なことに、兎には元の白い毛が生えてきたのです。その後、人々はこの兎のことを「稲羽の白兎」と呼ぶようになりました。

大国主命は、その後、須佐之男命の娘の須勢理毘売命(すせりびめのみこと)と結ばれ、少名毘古那神(すくなびこなのかみ)と共に葦原中国(あしはらのなかつくに)、つまり高天原と黄泉の国との中間にある国の国造りを始めたのですが、高天原の神々は葦原中国をうしはける(領有する)者は、須佐之男命の子孫ではなく、天照大御神の子孫であるべきだと考えていました。
(6) 国譲り
天照大御神は、自身の孫である瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に葦原中国を治めさせようと考え、建御雷神(たけみかずちのかみ)に命じて、様子をうかがわせました。
建御雷神は、大国主命にこの国を譲るかどうかを問いただしたところ、大国主命は自分が隠れ住む宮殿を、天神の住む宮殿のように造ることを条件に、瓊瓊杵尊に国を譲ることを承諾したのでした(このとき、大国主命が移り住んだ宮殿が「出雲大社」であり、平安時代の書物には、当時日本一大きな建物と記されている)。

(島根県出雲市大社町)
(7) 天孫降臨
天照大御神は、瓊瓊杵尊に三種の神器を授け、葦原中国を高天原のように素晴らしい国にするため天降る(あもる)ように命じました。
このとき、天照大御神は、葦原中国の人々の食物とするようにと、瓊瓊杵尊に高天原の稲も授け(注4) ました。
その後、瓊瓊杵尊は天狗のように鼻が高くて奇怪な顔つきをした猿田彦神(さるたひこのかみ)の道案内で、日向の高千穂の地に天降られたのです。

(宮崎県西諸県郡高原町)
(注4) 稲は天照大御神から地上界にもたらされ、神武東征(後述)など後に天皇が勢力を拡大する中で日本中に広まり、やがて日本人の主食となっていった
瓊瓊杵尊は、大山津見神(おおやまつみのかみ)から娘をもらうことにしました。
大山津見神は磐長姫(いわながひめ)と木花咲耶比売(このはなさくやひめ)の二人の娘を送り出したのですが、瓊瓊杵尊は絶世の美女であった妹の木花咲耶比売を妃にし、あまり美しくはなかった姉の磐長姫を親元に返してしまいました(長寿の象徴であった磐長姫を娶らなかったため、瓊瓊杵尊に「寿命」が与えられたという)。
(8) 神武東征
瓊瓊杵尊の子は山幸彦(やまさちひこ)と海幸彦(うみさちひこ)で、山幸彦の孫が、のちに神武天皇(初代天皇)となる神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと)です。
神倭伊波礼毘古命は兄の五瀬命(いつせのみこと)と葦原中国を治めるにはどこへ行くのが適当か相談し、「大国主命が天照大御神に国譲りし、瓊瓊杵尊が高天原から日向国の高千穂に天孫降臨して久しいが、我々は未だ国の西の端に居る。美しい土地がある(注5) という東の方に移住しよう。」と話しあいました。
(注5) 神倭伊波礼毘古命は、塩土老翁(しおつちのおじ)から「東に美地(うましつち)有り、青山(あおやま)四周(よもにめぐ)れり」と聞いたとされる
いわゆる「神武東征」の始まりです。彼らは、日向を出発し、長い年月をかけて筑紫国(福岡)、安芸国(広島)、吉備国(岡山)を経由して河内国(大阪)に向かったのでした。

なお、東征には稲飯命(いないいのみこと)や三毛入野命(みけいりのみこと)など、他の2人の兄も同行しており、その名から、東征には「稲作の伝承」という目的もあったといわれています。
また、行く先々で伏(したが)わぬ荒ぶる神には先ず「言向(ことむ)け和(やわ)し」、つまり「言葉で説いて人の心を和らげること」を一義としていたようです(この精神は、歴代の天皇に受け継がれている)。
しかし、河内国ではこの地を支配する長髄彦(ながすねひこ)の抵抗にあい兄の五瀬命を失います。
五瀬命は、亡くなる前に「苦戦の原因は西から東に向かって、つまり太陽(天照大御神)に向かって攻めたからだ」と話していたことから、神倭伊波礼毘古命は、今度は南へ迂回して紀国(きのくに)の熊野に上陸します。
また、神武の東征が上手くいってないことを知った天照大神は、道案内として八咫烏(やたがらす)を送って熊野の山道を案内させました。
その導きで吉野に至った神倭伊波礼毘古命は、太陽を背に東から西に向かって攻め入り、やがて塩土老翁が美地と語っていた橿原(かしはら)に到着したのでした。
そして地元の神、大物主命(おおものぬしのみこと)の娘、伊須気余理比売(いすけよりひめ)を正妃として迎え、紀元前660年(皇紀元年)、グレゴリオ暦で2月11日(紀元節、現在の建国記念日)に、橿原宮(かしはらのみや)でハツクニ(初めて国を)シラス(治めた)スメラミコト(天皇)の位についたのでした。
ここに、16年(日本書紀では6年)という長い年月をかけてついに日本が平定されたのでした(大和朝廷の前進となる王権が成立)。
なお、神武天皇は伝説上の人物と言われたりしますが、日本各地に残る語り部の伝承を見ていくと、確かに実在したと考えられます(2代の綏靖天皇から9代目の開化天皇までは「欠史八代」といわれ、記紀には記されているものの、業績については何も語られていない)。
詳しくはこちら☟

(9) 熊襲征討・東国征討
神武東征から時は下って西暦90年頃、未だ王権下には従(まつろ)わぬ地方豪族が居ました。
日本武尊(たまとたけるのみこと)は、第12代天皇・景行天皇(けいこうてんのう)の皇子だったのですが、景行天皇は息子の猛々(たけだけ)しい性格を恐れ、大和政権にしたがわない西の部族、熊襲(くまそ)の征伐を命じます。
父の言いつけどおりに九州の熊曾建(くまそたける)を倒して戻ってきた日本武尊は、今度は東にある蝦夷(えみし)などの荒ぶる神と朝廷に服従しない者達の平定を命じられます。

日本武尊は伊勢に赴き、叔母の倭姫命(やまとひめのみこと)に、「父がこのように過酷な命令をするのは、自分に早く死んで欲しいからではないか」と泣きつきます。
伊勢の地に伊勢神宮を創建し祀ったとされる皇女の倭姫命は、嘆き悲しむ日本武尊に天叢雲剣と火打袋を授け、日本武尊は東征へと旅立ったのでした。
途中、焼津(やいづ)で賊の火攻めに遭いますが、倭姫命から授かった天叢雲剣で草を薙払い向火を放ち形勢を逆転させて賊を討伐します(これより天叢雲剣は「草薙剣」と呼ばれるようになる)。
その後、上総国に向けて浦賀水道を渡ろうとしたとき、暴風雨に遭い船が転覆の危機に陥ります。
このとき、日本武尊に付き添ってきた弟橘媛命(おとたちばなのひめ)が海へ身を投じたところ、たちどころに海は凪ぎ風は静まり日本武尊一行の船は「水の上を走る」ように上総国に渡ることが出来ました(以来、その土地は走水(はしりみず)と言われるようになった)。

それからさらに東へ向かい、遭遇する蝦夷や山河の荒ぶる神々をすべて平定した日本武尊は帰路に就きます。
尾張国に辿り着くと、尾張国造の娘である美夜受比売(みずやひめ)と結婚しましたが、その後、伊吹山(岐阜県と滋賀県の間にある山)の征伐に向かったとき、鈴鹿山脈付近で息絶えることになります。
日本武尊は、置いてきてた美夜受比売と草薙剣への想いを歌にして、そっと息を引き取ったといわれています。
美夜受比売の手元に遺された草薙剣は、彼女と尾張氏(天火明命と言う神の末裔)によって尾張の地に祀られることになり、熱田神宮(愛知県名古屋市熱田区)が建立されました(以来、草薙剣は熱田神宮のご神体として現在も祀られている(注6) )。
(注6) 平安末期の1183年、平家が壇ノ浦の戦いで源氏に破れたとき、敗北を悟った平家の二位尼(にいのあま)が、まだ8歳の安徳天皇(あんとくてんのう)を抱き、草薙剣と八尺瓊勾玉を身に付け入水、のちに八尺瓊勾玉は見つかったものの、草薙剣は見つからず失われてしまったともいわれている
ーーーーーーーーーーーー
いかがでしたか。これほど「ロマンに満ち溢れた国の創世の物語」はないのではないでしょうか。読めば読むほど、その世界に引き込まれていくようです。
日本の歴史教科書にみられる縄文時代の狩猟生活から弥生時代の農耕生活へと変化していく内容は、事実として知っておくべきことかもしれませんが、そこに生きた人の思いはほとんど伝わってきません。
そこを補うのが、日本創生の物語である日本神話なのです。日本中の至る所に「神話のかけら」は眠っています。まずは皆さんの近場から日本神話に接してみてはいかがでしょうか。
(第2部へ続く)
