【エッセイ】その暴投は人間の証。歓声の裏で崩れ落ちたメジャーリーガーの物語
喜劇が好きか、悲劇が好きか。
それはある映画の好みでわかるという。
オードリー・ペップバーンといえば、日本では『ローマの休日』。王妃がローマを訪問した際に宿泊先から抜け出し、ローマの街をお忍びで遊ぶ。それを嗅ぎつけた新聞記者と恋に落ちるという名作映画。最後は王妃は公務に戻り、個人の愛よりも慈愛を選択するというある種悲劇なラストだ。日本人はそういう死華を咲かす的なラストを好む。一方、アメリカではそうではなく、オードリー・ヘップバーンの代表作は『ティファニーで朝食を』だ。ニューヨークで自由気ままに生きる社交的な女性ホリーと、作家志望の青年ポールの出会いと心の変化を描く物語。最後は雨の中で2人が抱き合い、愛を見つけるハッピーエンドで締めくくられる。私はやはり、『ローマの休日』派らしい。

昨日、MLBで印象的な試合があった。ドジャースvsフィリーズの地区シリーズ第四戦だ。
MLBは10月にレギュラーシーズンで好成績を収めたチームだけが進めるトーナメント方式のポストシーズンに切り替わる。ここからは成績や数字は関係なく、ただ勝ちにこだわる戦いが繰り広げられる。試合もそうだが、メジャーリーガーたちの目の色が変わるのはここからで、このポストシーズンでの活躍は選手に金と名声をもたらす。それは無名から一気に城持ち大名に出世できるといえばわかりやすいだろうか。お客さんもレギュラーシーズンは観なくても、ポストシーズンは熱狂的なファンに変わるくらい空気が変わる。
地区シリーズは、先に3勝したチームが勝つ。勝利したチームは地区シリーズ優勝決定戦に進む。大谷翔平、山本由伸、佐々木朗希が所属するドジャースが第一戦、第二戦をとって2勝。第三戦はフィリーズが挽回。対戦成績はドジャースの2−1となっていた。第四戦負ければシリーズ敗退、今シーズンが終了するフィリーズに悲劇が訪れた。
試合はお互い譲らない白熱した投手戦で1つのミスも命取りとなる状況だった。7回終わった時点で1−1の同点。試合終盤の大事なイニング7、8、9回。ドジャースの投手は佐々木郎希。フィリーズの強力打線に対してパーフェクト投球でゼロを3つ並べ、球場は異常な熱気と狂気に包まれていた。フィリーズの投手も8〜10回を名手ヘスス・ルサルドが完璧に抑えていたが、11回裏、疲れが見え始め、連続単打を浴びて2アウト、ランナー2塁、3塁という状況となる。ドジャースが一打出ればさよなら勝ちという状況。ここでフィリーズ側がピッチャーを交代する。オリオン・カーカリングだ。
球場は1打さよならのチャンスに大歓声!地鳴りが振動となってカーカリングの身体を貫く。ドジャースのバッターはキケ・ヘルナンデス。彼はレギュラーシーズンはイマイチだが、ポストシーズンになると目の色を変えて勝負強さを発揮する仕事人で、この状況下では”厄介なバッター”と写っていただろう。カーカリングはなんと四球を献上し、満塁としてしまう。まだ数球しか投げていないはずのカーカリングの額からは冷たい汗が吹き出し、不安と恐怖を必死に押し殺そうとしているのは、その硬直した表情から見てとれた。

11回裏、2アウト、満塁。ピッチャーとしては、四球、死球、暴投、失投は即”さよなら”となってしまう状況。球場の数万の熱狂的な観客はボルテージアゲアゲで全員席を立って声を張り上げる。全ての視線がカーカリングの右腕に握りしめられたボールに集中している。瞬きもしない見開いた眼をただ一点、キャッチャーのミットだけに集中させるカーカリングを見ていると、こちらにもそのとてつもない緊張感が伝わってくる。その張り詰めた空気感は、映画『キューブ』のように見えない刃物となって少しでも動けば微塵に切り刻まれるような恐怖感を漂わせていた。
ドジャースのバッターはアンディ・パヘス。彼はホームランが打てるバッターで守備もよく、ドジャース若手の期待の選手でおまけに足が早いのも有名。
カーカリングは156キロの速球を投げ込んだ。パヘスのバットが反応し、猛烈な勢いで振り抜いた。

カーカリングは唖然呆然となり、ひざが崩れて地面を見つめるしかなかった。その背景で、劇的なサヨナラ勝ちしたドジャーズメンバーが歓喜の渦で大はしゃぎしている。この美しいまでの構図は勝負の残酷さを物語っていた。
カーカリングの”絶対にヒットを打たせない”と気合いの入った力強い速球と、ポストシーズンでまだヒットが1本しか打ててなかったパヘスの”この場面で打ちたい!チームを勝たせたい”という想いが宿った猛烈なバットスイングが交差した瞬間だった。
バットが粉砕して、異様なスピンのかかったボールがなんとカーカリングの目の前に転がって来たのだ。
ボールがカーカリングの足元に絡みつき、捕球できない。その状況を察したパヘスは猛烈に一塁へ駆け抜けようとした。そして三塁ランナーはホームへ目掛けて突進してくる。
”絶対に1点もやれない!ホームへランナーを返したら負けだ”
と一瞬頭をよぎったのだろう。交差するいくつもの時間と勝利への貪欲さが襲いかかった。カーカリングはパニックに陥り、慌ててボールを掴んで掴みきれない状況でなんとホームへ暴投。————フィリーズの今シーズンはこの瞬間終わった。

実はレギュラーシーズンなら、なんでもないただのピッチャーゴロ。通常なら捕球して2アウトだから、1塁へ送球すればなんでもないアウトでランナー残塁。カーカリングは未曾有の危機を乗り越えることができた。
ところが映像を見返すと、目の前に転がったボールを捕球しようとするカーカリングの足の動きを見ると、彼がどれほどパニクっていたかがわかる。
”早く処理しないと・・・”
”あ、パヘスが猛ダッシュ……、ヤバい!3塁ランナーがくる”
”さよならになる・・・”
そんな恐怖に飲まれていたのは一目瞭然だ。メジャーリーガーなら誰もがワールドシリーズ制覇に憧れる。そこは選ばれしものだけが上り詰めることができる神聖な場所。そのために日々努力して練習に励んでいるのはメジャーリーガーなら誰もが理解している。どんなスーパースターでも、10年以上プレーしてもたどり着けないメジャーリーガーは大勢いる。決して一人ではたどり着けない場所。それがワールドシリーズ制覇なのだ。
”ここで終わらせるわけにはいかない”
”絶対にミスはできない”
ポストシーズンは、ファンとチームが一体となって勝ちにこだわる特別なシーズン。
だからこそ、おぞましいほどのプレッシャーを選手は背負っているのだ。
ただのピッチャーゴロをそうさせなかったのは、球場に詰めかけた数万人の観客、ドジャーズの”10番目の選手”だった。その見えない力がカーカリングをパニックにさせて暴投を誘った。この日、ドジャーズは得点圏6回中、安打ゼロ。フィリーズの押し出し四球と、この暴投で2点を取って、2−1で勝利した。これだけでも、この日、この試合にどれだけの想いが交差したかがわかるだろう。
顔面蒼白となったカーカリングがベンチに引き上げた時、監督はそっと声をかけたと記者に明かす。
「顔を上げていこう。ちょっと球場に飲まれただけだ。今季、君はうちのためによく投げてくれた。勝つのもチーム、負けるのもチームだよ」
テクニックや力を持つ化け物の巣窟のようなメジャーリーグの中で、いつも強いチームが勝つわけではない。なぜなら、人間がプレイしているから。ポストシーズンはこんな人間ドラマがよく生まれる。それは誰もが”ただ勝つ”ためだけに邪念を振り払って勝負しているからだろう。また来シーズンにカーカリングが元気にドジャース戦で投げてくれることを願うばかりだ。
