近鉄が榛原を通り、大宇陀を通らなくなった経緯(AIによるまとめ)
結論
大宇陀にも、はっきりと鉄道計画がありました。
しかも単なる地元の希望ではなく、榛原から大宇陀の中心街だった宇陀松山へ至る路線には、1926年(大正15年)に正式な地方鉄道免許が交付されています。
ただし、実際に開業した大阪―伊勢方面の幹線は、桜井―長谷寺―榛原―名張を東西に抜けました。大宇陀方面は、この幹線から榛原で分岐する支線、通称松山線として整理されましたが、資金難、用地・設計協議、戦時統制などが重なり、結局一度も着工されないまま終わりました。
なお、榛原駅の開業は明治時代ではなく、1930年(昭和5年)2月21日です。「明治に鉄道が榛原を通った」という説明を見かけることがありますが、正確には、明治期から構想・請願が始まり、昭和初年に開業した、ということになります。
まず押さえたい地名
当時の名称と現在地を対応させると、経緯が分かりやすくなります。
当時の名称 おおむね現在の場所・名称 榛原町・榛原停車場 宇陀市榛原萩原付近・近鉄榛原駅 松山町 のちの大宇陀町、現在の宇陀市大宇陀地区 宇陀松山 大宇陀の歴史的市街地。旧松山城下の商業町 神戸村 松山町に隣接した村。1942年に合併して大宇陀町の一部となる 吉野・古市場方面 現在の宇陀市菟田野、吉野郡方面 桜井 現在の桜井市。大阪側の鉄道と宇陀を結ぶ入口 名張 現在の三重県名張市。伊賀・伊勢方面への結節地
大宇陀は当時、宇陀郡だけでなく東吉野方面も含めた商業・行政上の中心地でした。対して榛原は、東西方向の交通路である初瀬街道・伊勢本街道と、宇陀川沿いの南北交通が接続しやすい位置にありました。
時系列――榛原を通る幹線と大宇陀鉄道計画
1 1894年(明治27年)
最初期の構想「勢和鉄道」は、榛原と宇陀郡を横断する計画だった
1894年3月、勢和鉄道と呼ばれる鉄道会社の創立申請が行われました。
その計画は、おおむね
桜井―初瀬―榛原―宇陀郡内―名張―松阪方面
を結ぶものでした。つまり、最初期から榛原は、奈良盆地側から宇陀を越えて三重県へ抜ける経路上に置かれていました。
勢和鉄道は1896年に敷設免許を得て工事にも着手しましたが、会社内部の混乱や資金調達難から建設が進まず、1898年に解散しました。
この段階では、現在の近鉄大阪線そのものではありません。しかし、
桜井から宇陀郡へ入り、榛原を通って名張・伊勢方面へ抜ける
という基本構想は、後の参宮急行電鉄と非常によく似ています。
2 1919年(大正8年)
宇陀郡側で鉄道誘致運動が再燃
1919年11月、宇陀郡役所で郡内町村長会が開かれ、鉄道建設について各町村の意思をまとめる動きが始まりました。
中心となったのは、宇陀郡内の有志による宇陀郡期成同盟会です。目的は、宇陀の林産物・鉱産物・農産物を市場へ運びやすくし、伊勢参宮交通も改善することでした。
このとき示された構想は、
桜井―榛原―松阪方面を結ぶ幹線
榛原から松山・吉野方面へ向かう支線
という組合せでした。すでにこの時点で、榛原を東西幹線の結節点とし、大宇陀方面は榛原から分岐させる考え方が現れています。
3 1919~1920年
「宇陀郡経由」対「名張郡経由」の誘致競争
同じ時期、三重県名張側も鉄道誘致に動きました。
名張側の中心人物として確認できるのが、当時の名張町長安倍多計志です。名張側は、
桜井―榛原―名張―松阪
という経路を求めました。
一方、宇陀郡側は、榛原から宇陀松山・古市場方面をより深く通る路線を求めました。両者の違いは、榛原まではかなり共通していたものの、その先を
名張へ直接向かうか
宇陀松山・吉野方面へ寄せるか
という点にありました。
名張側は、宇陀郡内を大きく南へ回る経路は、高低差が大きく、トンネルも増え、建設費が高くなると主張しました。また、宇陀地方の物資は当時すでに名張を経由して集散する部分があり、経済的結節点として名張経由が有利だと訴えています。
この地形・建設費の問題は、最終的に幹線が榛原から東へ名張へ向かう大きな理由となりました。
4 1920年(大正9年)
帝国議会に二つの鉄道請願
宇陀側の請願を進めた人物として、当時の松山町長松尾七郎が確認できます。
松尾らの請願は、
奈良県桜井―宇陀郡―三重県名張―伊勢方面
を結ぶ鉄道を国の予定線にすることを求めるもので、1920年1月28日に衆議院へ提出され、2月21日に採択されました。
一方、名張側からも安倍多計志らによる請願が提出され、こちらも同年7月に議会で採択されています。
両方の請願が採択されたことからも分かるように、この段階では「大宇陀案が完全に敗れ、榛原案だけが選ばれた」という単純な関係ではありませんでした。
政府側は、両構想を組み合わせて、
桜井―榛原―名張を幹線とする
榛原から松山・吉野方面への支線を設ける
という整理へ進んでいきます。
5 1922年(大正11年)
国の予定鉄道線に「榛原経由の幹線」と「松山支線」が併記される
1922年4月公布の改正鉄道敷設法では、奈良・三重県境地域の予定線として、おおむね次の二つが掲載されました。
桜井から榛原を経て名張へ至る線
榛原から分岐し、松山を経て吉野方面へ至る線
つまり国の制度上も、
榛原を東西幹線の分岐点とし、大宇陀・宇陀松山は支線で結ぶ
という構造が正式に位置づけられました。
ここが、「なぜ榛原を通ることになったのか」を考えるうえで最も重要な転換点です。
榛原は単なる一集落ではなく、
桜井・長谷寺方面から宇陀盆地へ入る自然な経路上にある
名張へ向かう東西ルートと、大宇陀・吉野へ向かう南北ルートが分岐できる
宇陀川沿いに比較的連続した経路を取れる
大阪―伊勢間の幹線を大きく迂回させずに済む
という、鉄道の結節点として有利な場所だったのです。
6 1922年3月
大和鉄道が「榛原―松山町」支線を申請
新王寺―田原本間を営業していた大和鉄道株式会社は、桜井から名張への延伸を計画していました。
同社は1922年3月8日、桜井―名張線の途中に設ける榛原停車場を起点として、
榛原町―神戸村・松山町方面
へ至る支線の免許を申請しました。申請書上の終点は神戸村でしたが、実質的には宇陀松山の市街地を目指す路線でした。
計画概要は次のとおりです。
距離:約4里、後の整理では約6.4~7.1キロ
軌間:3フィート6インチ、約1,067ミリ
動力:蒸気
建設費:約30万円
旅客需要:桜井・名張方面との乗換客を含め、年間約23万7,000人
貨物:米、木材、雑貨など
大和鉄道は、松山線を単独のローカル線ではなく、桜井―名張幹線と一体的に運用する計画でした。
7 1922年6月
大和鉄道が桜井―名張間の免許を取得
大阪電気軌道、略称大軌も大阪から伊勢へ延びる路線を構想していましたが、競願の結果、桜井―名張間の免許は大和鉄道が取得しました。
しかし、大和鉄道は中小規模の会社であり、山間部を貫く長大な新線を自力で建設する資金力が不足していました。
そこで大軌は、大和鉄道の株式を大量に取得して経営権を握ります。大和鉄道の経営は、社長森本の退任後、大槻龍治や、大軌の中心人物金森又一郎らが関与する体制へ移りました。金森又一郎は後に大軌社長となり、参宮急行電鉄設立の中心人物になります。
8 1926年(大正15年)2月18日
榛原―松山間に正式免許
大和鉄道が申請していた松山線は、1926年2月18日、正式に地方鉄道免許を受けました。
免許内容は、
起点:榛原町
終点:神戸村、実質的には松山町・宇陀松山方面
距離:約4里、後に約7.1キロとして整理
軌間:1,067ミリ
動力:蒸気
というものでした。
したがって、「大宇陀にも鉄道の噂があった」という程度ではなく、行政上は建設する権利が正式に成立していたと言えます。
9 1927年(昭和2年)
金森又一郎が参宮急行電鉄を設立
大和鉄道単独では、桜井―名張―宇治山田方面の建設費を賄えませんでした。
大軌社長となった金森又一郎は、新会社参宮急行電鉄株式会社、略称・参急を設立し、大和鉄道から次の免許を引き継がせました。
桜井―名張間
榛原―松山間
名張―宇治山田間
大和鉄道の株主総会は1927年5月30日に免許譲渡を承認し、奈良・三重両県知事の連署を経て、6月14日に鉄道大臣の許可が下りました。
このため、松山線は参急本線とは別会社の計画ではなく、参急が建設する大阪―伊勢幹線の付属支線として位置づけられました。
10 1928~1930年
参急本線の工事が優先され、榛原駅が開業
参宮急行電鉄は1928年に桜井―宇治山田間の建設に着手しました。
開業は段階的に進みました。
1929年10月27日 桜井―長谷寺間開業
1930年2月21日 長谷寺―榛原間開業、榛原駅開業
1930年10月10日 榛原―伊賀神戸間開業
1930年11月19日 伊賀神戸―阿保、佐田―参急中川間開業
1930年12月20日 阿保―佐田間開業、桜井―伊勢方面の本線が全通
こうして榛原は、いったん終着駅として開業し、約8か月後には名張・伊勢方面へ続く幹線の中間駅となりました。
なぜ大宇陀ではなく、榛原を本線が通ったのか
正確には、「大宇陀か榛原かの二者択一で、榛原が勝った」というより、次のような整理でした。
1 大阪―伊勢間の幹線としては榛原―名張が自然だった
参宮急行電鉄の最大の目的は、宇陀地域内だけの輸送ではなく、
大阪上本町―桜井―名張―伊勢中川―宇治山田
を高速で結ぶことでした。
宇陀松山へ南下してから名張方面へ戻る経路は、距離が長くなり、急勾配やトンネルが増える可能性がありました。これに対して、初瀬から榛原へ入り、宇陀川・名張川方面へ東進する経路は、伊勢への幹線として比較的直線的でした。名張側も建設費と距離の面から、この経路の優位性を強く主張していました。
2 榛原は「分岐点」として使えた
榛原からは、
東へ名張・伊勢
南へ大宇陀・菟田野・吉野
北へ室生・奥宇陀方面
へ交通を分けられます。
そのため、幹線を榛原に置き、大宇陀へは支線を出すという構造が合理的だと判断されました。
3 大宇陀を無視したわけではなかった
大宇陀・宇陀松山は当時の地域中心地であり、鉄道需要も相当にあると見込まれていました。
実際に、
国の予定線に松山方面支線が掲載された
大和鉄道に免許が与えられた
参宮急行電鉄が免許を引き継いだ
工事施行認可も一部区間で得た
という事実があります。
したがって、大宇陀は「最初から鉄道建設の対象外だった」のではなく、本線ではなく榛原接続の支線として実現を目指したが、建設されなかったというのが正確です。
松山線が開業できなかった経緯
1931~1932年
蒸気鉄道からガソリンカー式へ変更
当初の松山線は蒸気鉄道として申請されましたが、参急は建設費と運転費を抑えるため、動力をガソリンに変更し、軌道自動車、いわゆるガソリンカーを走らせる計画に改めました。
また、榛原駅で本線と接続させるための設計変更が必要になりました。
参急は全線を一度に建設せず、まず榛原駅から約5.4キロを先行させ、終点側約1.7キロを後回しにする方針を立てました。1932年2月9日、榛原側5.4キロについて工事施行認可を得ています。
1932~1937年
用地問題と地元協議で着工できず
認可を得たにもかかわらず、工事は始まりませんでした。
主な問題は、
松山町付近が人家や田畑の密集地だった
終点駅位置をめぐって地元との協議がまとまらなかった
学校付近を通るため安全上の調整が必要だった
残る約1.7キロの設計・認可が完了しなかった
昭和恐慌下で資金調達が難しかった
というものでした。
1935~37年の期限延長申請でも、参急は「地元関係者との交渉が未解決」であることを理由に挙げています。
1938~1945年
戦時体制で事実上建設不能に
1938年以降は、鉄材・燃料・資金が戦争目的に統制され、新規地方鉄道を建設する余裕がなくなりました。
参急は1941年に大阪電気軌道と合併して関西急行鉄道となり、1944年には近畿日本鉄道へ再編されましたが、松山線の免許は引き継がれました。しかし、着工期限の延長を繰り返すだけで、工事は行われませんでした。
戦後、大宇陀鉄道として再び動く
1948年(昭和23年)
大宇陀町長を中心に建設促進
戦後、大宇陀町では、町長を中心に建設促進期成同盟会が組織されました。
1948年12月25日、近鉄取締役社長村上義一と、大宇陀町長巽龍太郎、榛原町長高野隆雄ら関係者との間で、鉄道建設に必要な用地取得について契約が結ばれました。
契約では、
大宇陀町・榛原町側が地主との買収交渉を進める
近鉄が法的手続きと代金支払いを担当する
買収価格には一定の上限を設ける
農地転用等の手続完了後に免許・工事手続きを進める
という役割分担が定められました。
しかし、終戦直後の食糧事情と農地改革、インフレーションのため、用地買収は容易に進みませんでした。
1955~1957年
「大宇陀鉄道株式会社」を設立する計画
大宇陀町側は、近鉄自身に建設してもらう方式から、地元会社を設立し、近鉄から免許と設備面の支援を受ける方式へ転換しました。
発起人は59名。会社名は大宇陀鉄道株式会社とされました。
主な計画は次のとおりです。
榛原―大宇陀間:約6.2~7.1キロ
方式:レールバス
駅・停車場:約4か所
車両:レールバス3両
建設費:約8,000万円
資本金:4,000万円以上を想定
近鉄出資:約3,000万円
近鉄が技術・資材面でも協力
大宇陀町が必要に応じ赤字補助
近鉄取締役会は1956年9月8日、松山線免許を発起人会へ譲渡する方針を決定しました。
1957年4~5月
免許譲渡契約と申請
1957年4月30日、近鉄と大宇陀鉄道株式会社設立発起人会との間で、敷設権譲渡契約が締結されました。
同年5月14日、近鉄社長佐伯勇と、発起人総代都司太右衛門が連名で、運輸大臣へ鉄道敷設権譲渡許可申請書を提出しました。
申請資料では、大宇陀町を宇陀郡の政治・経済・教育の中心と位置づけ、既存バスは混雑・待ち時間・積み残しなどの問題があり、鉄道が必要だと主張しています。
1957年12月
奈良交通は鉄道建設に反対
審査で争点になったのが、並行してバスを運行する奈良交通との競合でした。
奈良交通側は、
榛原―大宇陀間には一日24往復のバスがある
新たな鉄道は自社バス事業に打撃を与える
全国的には地方鉄道をバスへ転換する時代である
多額の資金を投じて短距離鉄道を造るのは不合理
と反対しました。
一方、運輸審議会は、近鉄から地元会社への免許譲渡を「許可することが適当」と答申しました。ただし、地形条件や輸送需要から、経営には相当な困難が予想されるとも指摘しています。
1958年2月17日
近鉄から大宇陀鉄道発起人へ敷設権譲渡
近鉄の社史年表には、1958年2月17日、
奈良県宇陀郡榛原町・大宇陀町間7.1キロの鉄道敷設権を、大宇陀鉄道株式会社発起人に譲渡
と記録されています。
行政上は、ここまで手続きが進んでいました。
1959年(昭和34年)
資金が集まらず、計画断念・免許失効
最終的には、地元会社の資本金や建設費を十分に集められませんでした。
大宇陀鉄道発起人会は会社設立を断念し、免許線の起業廃止を申請。1959年11月16日、榛原―大宇陀間の鉄道計画は正式に未成線として終わりました。
関係した主な人物
松尾七郎
大正期の松山町長。宇陀郡側の鉄道誘致運動を進め、桜井―宇陀郡―名張・伊勢方面の鉄道建設請願に関与しました。
安倍多計志
当時の名張町長。名張側から桜井―榛原―名張―松阪方面の路線を請願し、宇陀郡内を大きく迂回する案に対して、距離・勾配・建設費の面から名張経由の優位を主張しました。
金森又一郎
1873~1937年。大阪電気軌道の経営者で、1927年に大軌社長となり、参宮急行電鉄を設立。大和鉄道の免許を引き継ぎ、大阪―伊勢間の幹線建設を主導しました。
大槻龍治
大軌側の役員として大和鉄道の経営に関与し、同社の免許を参宮急行電鉄へ移す過程に携わりました。
村上義一
戦後の近鉄社長。1948年、大宇陀・榛原側との間で、松山線建設用地の買収・取りまとめに関する契約を締結しました。
巽龍太郎
戦後の大宇陀町長。松山線・大宇陀鉄道の建設促進運動を主導した地元側代表者の一人です。
高野隆雄
当時の榛原町長。大宇陀町側とともに、榛原―大宇陀間の用地取得・建設促進に関与しました。
佐伯勇
戦後の近鉄社長。1957年、近鉄が保有していた松山線免許を大宇陀鉄道発起人会へ譲渡する申請を行いました。
都司太右衛門
大宇陀鉄道株式会社設立発起人会の総代。佐伯勇と連名で敷設権譲渡許可を申請しました。
要点を一本の流れにすると
明治期
桜井―榛原―宇陀郡―名張・伊勢方面の鉄道構想が出るが、資金難で失敗。大正期
宇陀郡と名張側で鉄道誘致が再燃。大宇陀中心部を重視する案と、名張へ直進する案が競合。1922年
国は、桜井―榛原―名張を幹線、榛原―松山・吉野方面を支線として整理。1926年
大和鉄道が榛原―宇陀松山間の正式免許を取得。1927年
金森又一郎が設立した参宮急行電鉄へ、幹線・松山支線の免許を譲渡。1930年
幹線の長谷寺―榛原間が開業。榛原駅が宇陀地方の鉄道玄関となる。1930年代~戦時期
大宇陀支線は一部工事認可を得るが、資金、用地、設計、戦時統制により着工不能。戦後
大宇陀町・榛原町が再び建設運動。大宇陀鉄道株式会社によるレールバス構想へ発展。1958~1959年
免許譲渡までは実現したが、資金を集められず会社設立を断念。計画廃止。
したがって、現在の地域構造を決定したのは、榛原に鉄道を通し、大宇陀をバス接続にした意図的な一回の選択というより、
大阪―伊勢を直結する幹線が榛原―名張を通って先に完成し、大宇陀支線が約30年間実現できなかった
という時間差です。
この結果、鉄道駅と各地へのバス路線が集中した榛原が、次第に宇陀地域の交通・行政上の中心として成長し、かつて商業・行政の中心だった宇陀松山・大宇陀との立場が逆転していった、と見るのが適切です。現在も榛原駅から大宇陀、菟田野、曽爾・御杖方面へバス交通が広がる構造には、この未成線の歴史が色濃く残っています。
