多聞廃寺 4 「福原京」
*口絵は「彦火々出見尊絵巻」日本絵巻大成22巻:中央公論社
清盛は、1169年(仁安4)に太政大臣を辞してまもなくここ「雪見の御所」に隠居する。
しかし隠居とは名ばかり。1181年(治承5)年に没するまでの約10年間、ここから京で開かれる朝議の決定に影響を及ぼした。後白河院(法皇)とは時に結び、時に軍事的に介入した。
清盛に関してはいくつか良い伝記があるので、この後の話に関する部分だけをかいつまむ。
福原から行われた政治闘争は、外戚の藤原氏権門の権力を削ぎ、平氏を外戚とする「新しい王朝」を開くことにあったようだ。そのことは、経済体制の変革をもたらし、結果として文化も変化し始めていた。当然、旧体制からの反発は強く最終的には「一の谷の戦い」になだれ込んでゆく。
「福原京」は、この「新しい王朝」の都として企画されたと見て良い。
事業は清盛が居を移す7年前から始まっているので、約20年。清盛の後半生を費やして行われた。
まず、大輪田泊(おおわだとまり・現兵庫港)を大型船がつかえる形に修築。工事は四国と瀬戸内の平氏および平氏に近い人々によってなされた。工事のトピックだった経ノ島の完成以後、宋船は博多を飛ばして大輪田に入港するようになった。
つづいて、山の手にある会下山の北側「平野地区」「祇園地区」と湊川を挟んだ東側「荒田地区」に平家一門と高級官僚の屋敷と内裏が建てられる。内裏は現神戸大学付属病院のあたりにあったようだ。
下級官吏は、和田岬「和田神社」の南「和田の原」に土地をを与えられた。
和田岬の西から須磨へと続く「苅藻」「駒ヶ林」は庶民のエリアだったのではないか。
経ノ島の南側水面、現新川は当時は入海で須佐の入江。こちらには和船が入った。これは水深の関係だろう。数百隻が泊められたという。
「福原京」は山手と浜方の2つに分割された形になった。2つの間に何が在ったかというと、湊川と苅藻川(現・新湊川)の度重なる河道変更によって作られた氾濫原があった。ここは地盤が悪く水害の危険もあり居住に適さなかったので外されたのだろう。
私はこのことが後の悲劇に繋がったと考えている。

「福原京」の南北の関係を見たので、東西の位置関係を見たい。
神戸の町は海岸沿いは一繋がりだが、山の手は六甲山から伸びる尾根筋と付属する丘陵によって分割されている。
大きく分けて3つ。
・「福原京」のある中央部が兵庫。ここには古代から続く長田神社がある。
・「福原京」の東には諏訪山と大倉山があり、そのさらに東側が神戸。ここには同じく古代から続く生田神社がある。
・「福原京」の西には高取山がありそのさらに西側が須磨。一ノ谷はここにある。

須磨ー生田は直線で約10km離れている。街の雰囲気も異なっていて、自転車で走ると空気が移り変わっていくのを感じる。渋谷、新宿、池袋を移動する感じといえばわかりやすいかも知れない。
そして、上の図を見れば「一ノ谷の戦い」の決戦が須磨で行われるわけがないことが理解できると思う。
『彦火々出見尊(ひこほほでみのみこと)絵巻』(口絵画像)というものがある。
後白河院が制作したいくつかの絵巻の1つで古事記神話に取材している。いわゆる海彦山彦のお話だが、絵巻では微妙にアレンジされているようだ。彦火々出見尊(山彦)が、海神の娘・豊玉姫と結婚し子供が生まれる。
神話では、この生まれた子がウガヤフキアエズ。神武天皇の父である。
絵巻そのものの解釈は様々だが、彦火火出見=後白河院、海神=清盛、豊玉姫=平徳子であることは一致している。
画像の場面は、福原京で語らう後白河院と清盛であろう。
現実では、後白河院の子高倉天皇と平徳子が結婚した。子が生まれた。
「新しい王朝」を興すという、清盛の構想が実現しようとしている。
