サイコスリラー短編小説『首すじの非常ボタン』
青年エフ氏は十六歳である。最近の彼は、すこぶる機嫌がよかった。
というのも、長年彼を悩ませてきた「悪夢」から逃れる確実な方法を手に入れたからだ。
エフ氏はこの頃、睡眠中に「あ、これは夢の中だ」と自覚できる明晰夢の技術を習得していた。そして夢だと気づいた状態のまま、自分の首筋をトントン、トンと三回叩く。すると、強制的に夢から醒めることができるのだ。
実際に何度も醒めた経験があり、このスイッチのおかげで、どんな恐ろしい悪夢も途中でキャンセルできるようになった。エフ氏はすっかり安堵し、夜眠る恐怖を克服していた。
その夜も、エフ氏は奇妙な夢を見た。
自宅の暗いリビングに立っていると、物音がした。エフ氏はとっさに、手元にあった護身用の銃を音のした方向へ構えた。夢の中とはいえ、妙にリアルな感触だった。
すると、姉の頭に銃を突きつけた強盗が、そっと物陰から出てきた。身長は百八十センチほどの長身、髪の毛はボサボサで、まったく見覚えのない顔の男だった。
強盗は低い声で言った。
「銃をこちらに捨てろ」
姉を人質にとられては、エフ氏は従うしかなかった。銃のセーフティロックをカチリとかけ、床を滑らせるようにして強盗のほうへ送った。
強盗はニヤニヤと笑った。そしてエフ氏の銃を拾い上げるため、わずかに視線を下げた。
エフ氏はその気を緩めた瞬間を見逃さなかった。素早く飛びかかって姉を引きはがし、強盗の手からもう一丁の銃を奪い取って、そのまま強盗に向けて構え直した。
見事な形勢逆転だ。
しかし、強盗はニヤニヤと笑うのをやめない。むしろ余裕の態度で、エフ氏に聞いてきた。
「撃つか?」
エフ氏はこの不快な強盗劇を終わらせるため、ためらわずに引き金を引いた。
しかし、鉛の弾が発射されることはなく、カチッという乾いた音だけが空しく響いた。
強盗は腹を抱えて高笑いした。最初から、強盗の持っていた銃は空砲だったのだ。
強盗は笑いながら、拾い上げたエフ氏の銃を構え、エフ氏の体に容赦なく銃弾を撃ち込んできた。
焼け付くような痛みに襲われ、エフ氏は外へ飛び出した。
男から、必死に逃げるエフ氏。
暗い夜道を走りながら、エフ氏は冷静さを取り戻しつつあった。
「そうだ、慌てることはない。これは夢の中だ」
背後から追ってきた男に追いつかれ、二人の目が合う。男はエフ氏を見下したような目で見ていた。
エフ氏は勝ち誇ったように笑い返し、いつものように自分の首筋を三回叩いた。
視界が歪み、エフ氏は自分の部屋の布団の中で目覚めた。
「成功だ。夢から醒めた」
冷や汗を拭い、安堵のため息をついた。
と思ったら、頭の上から声がした。
「逃げられると思ったのか?」
見上げると、さっきまで夢の中で追いかけてきたあのボサボサ髪の男が立っていた。
エフ氏はまだ夢の中にいたのだ。巧妙な二重夢の罠である。
男はニヤニヤ笑いながら、ベッドの上のエフ氏に激しい暴力をふるってきた。
現実と変わらない痛みに悶えながら、エフ氏は必死に首筋を叩いた。三回、四回、五回。
「起きろ、起きるんだ……!」
激しい頭痛とともに視界が弾け、エフ氏はガバッと上半身を起こした。
窓からは眩しい朝の光が差し込み、階下からは姉が朝食のベーコンを焼くいい匂いが漂ってきている。
今度こそ、間違いなく本物の現実だった。時計の針は朝の七時を指している。
エフ氏はベッドにへたり込み、大きく息を吐き出した。
「悪夢の奴も、二重構造に進化するとはな。だが、結局は私の勝ちだ。この『目覚めのテクニック』がある限り、私はどんな不条理からも必ず逃げ出せる」
エフ氏は自信を深め、鼻歌まじりに着替えを済ませて一階へと降りた。
「エフ!朝ごはんよ!」
キッチンから姉の声がした。エフ氏はほっと息をつき、ソファに深く身を沈めた。
ようやく、見慣れた安全な現実へと戻ってきたのだ。
姉が温かいお茶を運んできた。
「ひどく疲れた顔をしてるわ。何かあったの?」
エフ氏は苦笑しながら答えた。
「変な悪夢を見たんだ。家に強盗が入ってくる夢さ。背が高くて、髪の毛がボサボサの男でね。姉さんも出てきたよ」
「まあ、怖い。それで?」
「奴に銃を突きつけられて、撃ち合いになったんだ」
エフ氏がそう言うと、姉はクスクスと笑い始めた。
「それで?」
姉の声のトーンが、不自然なほど低く響いた。
「それで? 撃つか?」
エフ氏はハッとして姉を見た。
姉の顔の輪郭がぐにゃりと歪み、溶けるように変わっていく。
現れたのは、あの見覚えのないボサボサ髪の男の顔だった。
男はニヤニヤと笑いながら、テーブルの上にお茶ではなく「何か」を置いた。
それは、エフ氏が夢の中でセーフティロックをかけて滑らせた、あの銃だった。
「逃げられると思ったのか?」
男の声が部屋中に響く。
エフ氏は恐怖で凍りつき、急いで自分の首筋を叩こうとした。
しかし、腕は鉛のように重く、ピクリとも動かなかった。
男は銃を手に取り、その冷たい銃口をエフ氏の首筋に当てた。
そして、トントン、トンと三回、軽く叩いてからニヤリと笑った。
「さあ、これで目覚められるかな?」
(終)
この話は、SF・サイコホラー・ダークファンタジーを中心とした短編小説集『まどろみディストピア』のエピソードとして収録しています。他のエピソードもお読みいただけるとうれしいです。
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ここまで読んで頂きありがとうございます。チップを頂けたら娘に何か美味しいものでも食べさせようと思います。